カント・ボックス〜すべての女はひとつであることの、幾何学的証明

稲葉孝太郎

カント・ボックス〜すべての女はひとつであることの、幾何学的証明

 スミレの花露はなつゆでヒトが生き返ればよいのにと、そう思ったことがある。エヴァ・ジョーンズ博士の悲報を耳にしたとき、私が最初にいだいた感想も、そのようなものだった。

 エヴァ・ジョーンズ博士について、どれほどの来歴を語る必要があるのか。私はこのことを知らないし、考えてみようとも思わない。彼女が人工知能研究の第一線にいたこと、私たち学生の憧れの的であったこと、それから、ヨークシャー・プディングと蜂蜜をこよなく愛していたこと、これらを並べておけば足りるだろう。実際、彼女の魅力には、じかに会ってみないと分からない、微妙な捉えがたさがあった。

 話を本題へ移そう。エヴァ・ジョーンズ博士は、彼女の最新の、そして最も金銭的に成功した発明である自律型全自動恋愛オートマタ――お目当ての異性とのメールやデート、くだらない年末年始のイベントを処理し、告白の文言を代筆し、そのまま人生の墓場へとゴールインさせてくれる無能な存在者――の特許を売り払い、フロリダに別荘を建てたあと、ある研究に没頭し始めた。それは、わずか三百頁ほどの小論――MITに提出した彼女の博論「極小性性交用オートマタの快楽中枢機関に関する、アルベルト・アインシュタインの前妻、ミレヴァ・マリッチ的発想法による、ひとつの発見的解釈〜ミイデラゴミムシのガス噴出機構を手がかりにして」は千頁あったから、小論なのは間違いない――にもとづく研究であったが、ひとことで言えば、死者の甦り、人間を生き返らせるという内容だった。これ自体は、驚くに値しない。というのも、博士の着想はいつも突飛だったし、どうにかやり遂げてしまうのではないかという期待を、周囲に持たせる天才でもあったからだ。

 私たちを驚かせたのは、むしろ、彼女が選んだ復活の【対象】だった。彼女は、イマニュエル・カントを選んだのだ。古典ギリシャ語の研究者だったある友人は、なぜタレスでもヘラクレイトスでもパルメニデスでもアナクシマンドロスでもなくカントなのか、と怒っていたし、フランスのネオ・ポスト構造主義者たち――彼らの、何にでも接頭辞をつける癖は、いい加減にしてもらいたいのだが――は、ポストモダンの英雄たちこそ、生き返らせるに値すると主張した。後者は、ソーカル信者たちのまっとうな反論により、全会一致で却下された。とにかく、彼女が、ソクラテスでもプラトンでもアリストテレスでもプロティノスでもアウグスティヌスでも聖トマス・アキナスでもデカルトでもスピノザでもライプニッツでもなく、カントに目を付けたという事実は、私たちの界隈に大きな波紋をもたらした。

「なぜ彼女は、カントを選んだの?」

「ガールフレンドのきみには、なかなか答えにくいけれど、彼女は狂ってしまったのさ。自分の脳みそを実験台に使うという、頭のおかしなことをしたものだからね」

「まあ、恐ろしい……でも、私の質問に対する答えになっていないわ」

「すまない。なぜカントなのか、だったね。それは、話せば長くなる」

 人間を生き返らせる。もちろん、これは比喩だ。でも、がっかりしてはいけない。彼女の言う【黄泉返り】は、肉体的な若返りなどではなく、文字通り人格を永遠にすること、すなわち、人間の性格を電脳空間に再現することだったからだ。私がまだ彼女の助手を務めていた頃、こんな話をされたことがある。「著作権というものは、なぜ認められているか、知ってる?」「ロースクール生にでも訊いてくださいよ」「著作権はね、作品のなかに、そのひとの人格が宿っているから認められるの」「文体というものがありますからね」彼女はここで人差し指を立てた。真っ赤に塗られた爪が、研究室のLEDに輝いた。「したがって、ある小説と同じ小説を、カンニングなしで書けたひとは、同じ人格を持っていることになるわけね」「もし貴女が『ドンキホーテ』をカンニングなしで書けば、貴女はセルバンテスってことになるでしょうね」「『純粋理性批判』をカンニングなしで書けば?」「カントに」

 彼女は、ひとつの箱を作った。彼女はそれに、カント・ボックスと名付けた。この箱は、カントのすべての著作と、カントに関するすべての研究書、そして、当時のケーニヒスベルクをシミュレートした架空都市情報をインプットされていた。もしこの実験が成功すれば、カント・ボックスは、ある日突然、自らの口で『純粋理性批判』を、一語一句たがえることなく、語り出す予定だった。そのときカントは、アメリカのフロリダで、新進気鋭の哲学者として、再び地上に君臨するはずだった。

「私が『ロリータ』を書けば、ナボコフになれるってこと?」

「カンニングはナシだよ。きみは『ロリータ』が大好きじゃないか」

「『存在と時間』を書けば、ハイデッガーに?」

「ハイデッガーにはなれない」

「あら? どうして?」

「死を見据えた哲学者だから。人格を永遠にする者は、ハイデッガーにはなれない」

「じゃあ、ニーチェにも?」

「なれないね」

 カンカンと、踏切の音が聞こえる。遠い思い出の音が。遮断機は、いつかニーチェになるだろう。通学を邪魔された子供たちは、今や大人になり、この踏切が永遠に開かなければと願っている。真夏の空の下で。風とアスファルトの詩のなかで。さようならと、こんにちはの向こう側で。ツァラトゥストラになれなかった蛇は、土をみ、かつて地球の裏側で、楽園に辿り着いた。そこには、ひとりの女がいた。美しい女が。一糸纏わぬ女が。土からではなく、肋骨ろっこつから創られた女がいた。「また、お会いしましたね」「また、とは?」「私の鱗の数の、乗数の乗数の乗数……グラハム数よりも遥か昔から、何度もお会いしてきました」「何のために?」「貴女を誘惑するために」

 これが、遮断機の運命だ。蛇は言う。「すべてよし」と。女もまた、失楽園ロストパラダイスの果てに、同じことを言うだろう。「すべてよし」と。女たちの子孫は、ただこの聖句を忘れているに過ぎない。その証拠に、彼らは遮断機のまえで、開閉の祈りを捧げている。ここまでの論理は明晰過ぎて、何ら証明を要しないほどだ。

「私も、カントになりたいわ」

「やめたほうがいい」

「なぜ?」

「カントは晩年、認知症にかかっていたから」

「ニンチショウって、なに?」

「天使になること」

 プラトンの神は、多面体で世界を創り、それを水晶宮と称した。正四面体の火は魔女たちを焼き尽くし、正六面体の土は子供たちを生き埋めにし、正八面体の風は絞首台を揺らし、正二十面体の水は拷問の桂冠詩人となった。これは、比喩ではない。プラトンの神、デミウルゴスは、苦痛のために世界を創造したのだから。なぜ神が悪意を持つ存在者でないと言い切れるのか、とニーチェは問うた。この問いは、グノーシス主義者たちから見れば、完全に的外れだ。神が悪であるのは、確定事項なのだから。

「天使になるなんて、ステキじゃない?」

「神は?」

「カミサマなんて、イヤよ。それに、カミサマは、成るものじゃないわ」

 ヘブライの神は言った。「我は、成りて成る者」と。聖霊に導かれた七十二人の老人たちは、ファラオのめいにより、七十二日間、別々の独房に篭って、ヘブライ語聖書の翻訳にしなびた魂を燃やしたあと、お互いに寸分違わぬ七十二のギリシャ語訳を完成させた。それは不可能だ、と主張する者は、七十二匹の猿にタイプライターを渡すとよい。いつの日か彼らが、シェイクスピアの『マクベス』を、七十二日間で同時に書き上げることもあるだろう。奇跡を否定する者は、確率の小数点以下を数える知性がないのだと、悲しくも告白している。

 何の話だったろうか……そうだ。花園の話だ。ある砂漠の町に、ひとりの老婆がいた。乾季が訪れ、アーモンドの花が咲き乱れる頃、老婆は一巻のトーラーを持って、地下のうつろに降りた。七万八千六十四文字の暗闇のなかから、神の御名を探し当てていると、一匹の蛇が這い出て、彼女にこう語りかけた。「また、お会いしましたね」「また、とは?」「ふたつに割れたこの舌の、八岐やまたの果ての果てよりも遥かに遠くの国々で、何度もお会いしてきました」「何のために?」「貴女を誘惑するために」

 老婆は七万八千六十四文字の一点を指差し、そこから漏れ出た光が、時を止める。塩の花に包まれながら、老婆は呟く。「すべてよし」と。蛇もまた、めしいた眼で、同じことを呟くだろう。「すべてよし」と。文字は羊皮紙を抜け出し、ネゲヴの空へと舞い上がる。雲は行く。風に乗って、眼下に殺戮と流血を見下ろしながら。これこそが、神の御業みわざだと。

「だれかが、カミサマに成ったのね。すると私は、女に成ったのかしら?」

「そうだよ」

「ねぇ、セピア色の放課後の話をしてちょうだい。ヘーゲルの話よ」

 神がまだ世界を創造する前、旧校舎の古びた机に座った少年は、染まり行く西の空を眺めながら、ひとりの少女を夢見ていた。聖なる三にいろどられた彼女は、あるじのいない下駄箱の片隅で、一匹の蛇と出会った。「また、お会いしましたね」「また、とは?」「私の第三の瞳、そこから見える風景のおぼろさよりもおぼろげな因果のなかで、何度もお会いしてきました」「何のために?」「貴女を誘惑するために」

 少女は下駄箱を閉じ、校庭へと飛び出す。すべてが思い出となる場所へ。卒業という名の終末へ。深紅に燃え上がる世界の中心で、少女は手を伸ばし、風に身を任せる。揺らめく制服の影で、蛇は囁く。「すべてよし」と。窓辺に立つ少年の眼差しを受けながら、少女もまた囁くだろう。「すべてよし」と。永遠に終わらない夏休みは、永遠に色褪せない放課後となる。最後のチャイムに耳を澄ませながら、少女は少年であり、少年は少女であり、すべてはトヘンなのだと、彼らは気づくだろう。下駄箱の宇宙こそが、ふたりの存在の住処なのだと。

「続きは?」

「ないよ」

「どうして?」

「ヘーゲルは、西洋哲学の完成者だからさ」

「ウソおっしゃい」

 そのとき、読経の声が聞こえてきた。亡くなった彼女の母親が、座敷牢の仏壇のまえで、静かに口ずさんでいるのだ。今や、西洋の帳は降りて、アーベントランドの残照が、シヴァの血にまみれた口蓋のなかへと、沈みかけていた。

「ユーフラテス川の東にも、女はいたのかしら?」

「もちろん。むしろ、女しかいなかったと言っていい」

 王族に生まれたシッダルタは、六年間の苦行ののち、リラジャン川のほとりで、ひとりの村娘に出会った。スジャータと名乗る娘は、飢えたシッダルタに乳粥ちちがゆを与え、こう言った。「また、お会いしましたね」「また、とは?」「この粥に浮かぶ泡の、その泡沫うたかたよりもはかない輪廻のなかで、何度もお会いしてきました」「何のために?」「貴男を悟らせるために」

 この伝承について、阿羅漢あらかんたちはふた通りの解釈を示している。ある人々によれば、輪廻とは苦であり、苦の大本おおもとであるアートマンから悟りは生じない。ゆえに、娘は悪魔の化身である。私は、この説を斥ける。なぜなら、別の人々が説いたように、悟りとは苦の認識より生ずるものだからだ。けれども、より魅力的なのは、次のような説、シッダルタの第二妃、耶輸陀羅やしゅだらが、息子の羅睺羅らごらに問わず語りした妄言である。「私、耶輸陀羅やしゅだらは、あなたの父であるシッダルタ王に見捨てられたあと、ひとつの夢を見ました。私たち釈迦しゃか族の象徴である一匹のナーガが、そのラーフケートゥを結び付け、リラジャン川の岸辺を泳ぎながら、ひとりの村娘に声をかけたのです。『また、お会いしましたね』『また、とは?』「貴女の手になる乳粥の、その一粒一粒が辿って来た苦しみよりも深い苦しみのなかで、何度もお会いしてきました』『何のために?』『貴女を誘惑するために』」

 私はここに、いかなる繰り返しも認めない。マンゴーの林で、悟りを得たアンバパーリーが踊る。乳房も露に。肉瘤にくこぶから生まれたこの遊女は、おそらく真相を知っている。そして今、座敷牢で念仏を唱えている老女もまた、その秘密を知っているだろう。なぜなら、すべての女はひとつであること、ミトコンドリア・イヴの忠実なコピーであること、このことを教えているのが、あの耶輸陀羅やしゅだらの妄言だからだ。

「悟りをひらいたら、生まれ変われないのよね。退屈じゃない?」

「逆だよ。生まれ変わりを絶つ方法はない、というのが悟りさ」

「だったら、処世術が必要ね。うまい手はある?」

「もしきみに、鏡のなかを覗き込む勇気があるなら」

 蒼天そうてん既に死し、黄雲おううん、城壁に渡る夕暮れ、慈鳥じちょう唖唖ああとして、枝上しじょうに独りいていた。ある白髪の男が、古びた民家のそばを通りかかったとき、ふとまどから、機織りの音が聞こえてきた。そしてそれと折り重なるように、女の独り言も聞こえた。男は問うた。汝が碧紗へきしゃ、煙の如くして独り語る。何の所為ぞ、と。女は答えた。縦横じゅうおう八寸、我が布に八百四十字やおろよそじを織り込めば、二百余の詩となり、流沙りゅうしゃの夫に届かん、と。

 白髪の男は、のちにこの情景から、一片の詩を編み出した。黒黴くろかびの生えた竹簡ちくかんに、金泥きんでいで書き込まれたその詩は、七言古詩しちごんこしの香りを放ちながら、皇帝の蔵に収められた。数百年後、革命の心に燃える紅衛兵の女がこの蔵を打ち壊すまで、誰ひとりその詩を見た者はいなかった。その女は、竹簡をかき集める火事場泥棒の男に、こう告げた。「また、お会いしましたね」「また、とは?」「この錆びた銃口の、その硝煙が打ち倒した生よりも多くの生を終えて、何度もお会いしてきました」「何のために?」「貴男を悟らせるために」

 男の手から竹簡が零れ落ち、二百余の詩篇が、再び呼吸をした。革命の炎に照らし出されたその詩篇が、ひとつの回文になっていることを、盗賊の男は認めた。紅衛兵があの機織りの女であること、盗賊があの白髪の老人であること、これらのことは後に、逃げ延びた資本家たちによって証言された。この物語――一片の詩の物語なのか、ひとりの盗賊の物語なのか、あるいは、極東へ辿り着いたひとつの革命精神の物語なのかという、歴史学上の争いは度外視するとしても――に、どのような処世術が記録されていたのか、学者たちは意見を違えている。しかし、私たちは少々、先を急ぎ過ぎたようだ。

「でくの坊こそ長生きできる、っていうのは、老子だったかしら?」

「荘子だよ」

「サイズを間違えて買っちゃった靴下が、一番長生きしてるわね」

 そう、私たちは先を急ぎ過ぎた。もっと古い時代の話をしよう。大陸に伝わる神話には、次のように書かれている。中原から遥か離れたところに、三十六の奇怪な国々が存在した。修股しゅうこ天民てんみん粛慎しゅくしん白民はくみん沃民ようみん女子にょし丈夫じょうふ奇股きこ一臂いっぴ三身さんしん結胸けっきょう羽民うみん歡頭かんとう裸民らみん三苗さんびょう交股こうこ不死ふし穿胸せんきょう反舌はんぜつ豕喙しかい鑿歯さくし三頭さんとう修臂しゅうひ大人たいじん君子くんし黒歯こくし玄股げんこ毛民もうみん労民ろうみん跂踵きしょう句嬰こうえい深目しんもく無腸むちょう柔利じゅうり一目いちもく無継むけい。これら三十六ヶ国のなかでも、反舌という国には、岐舌人きぜつじんと呼ばれる者たちが住んでいた。彼らの舌は二股ふたまたに分かれ、この世で最も難解な発音を操った。その発音の奥義を得た者は、この世にある全ての言語を理解することができたと言う。あるとき、漢人の青年がこの国を訪れ、ひとりの小娘クーニャンから、その奥義を教わり、開眼した。小娘クーニャンは微笑み、今や男に分かる言葉で、こう伝えた。「また、お会いしましたね」「また、とは?」「私の内反うちぞりの舌、その舌のよりも折り重なった時層じそうのもとで、何度もお会いしてきました」「何のために?」「貴男を悟らせるために」

 この神話とさきほどの詩が同一であることを、魯迅ろじんも見抜いていた。彼は『而己集』のなかで、「女人的天性中有母性、有女儿、性无妻性」(女の天性に、母性と女性というものはあるが、妻性さいせいというものはない)と書いているからだ。小娘クーニャンの舌がうねり、男の頬を舐めあげる。ひとつの体にみっつの頭を持った三首人さんしゅじんたちが、三叉みつまたほこで国境を越える。落日と斜陽、恍惚と堕落。女媧じょかは人間たちを創造するとき、黄土おうどから貴人を、泥の飛沫から凡人たちを作り上げた。貴人たちは死に絶え、凡人だけが残った。これを処世術と呼ばずして、何なのか。神々もまた処世しているのだ。「天地未だわかれず、陰陽未だわかれず、四時未だ分れず、萬物未だ生ぜず」とは、女の定義に他ならない。

「処世術なら、なぜ儒学の話をしないの?」

「杓子定規だから」

「礼に始まり、礼に終わる。黄昏時たそがれどきの紫禁城で、そんな光景を見たわ」

 清代、あるモンゴル貴族の末裔が、童試、県試、府試、道試のすべてを首席でやり過ごしたのち、科挙に失敗して、失意のなか故郷へ帰った。男は、帰り道、ある茶屋で足を休めながら、主人の話に耳を傾けていた。「これは、ある旅人から聞いた話です。太原たいげん王生おうせいという男が、朝の散歩をしていると、美しい女に出会いました。その女は、さめざめと泣きながら歩いていたので、わけを尋ねると、こう答えました。『わたくしは、とある富豪のめかけをしている者です。奥様の苛めに耐えられず、お屋敷を飛び出して参りました。されども、行くあてがございません』。男は嬉々としてこの女を連れて帰り、自分の家に住まわせました。ところが、ある日、男が仕事からいつもより早く帰って来ると、書斎の鍵が閉まっていて、開けることができませんでした。不審に思った男が、鍵穴から中を覗き込むと、真っ青な顔の妖怪が、のこぎりのような歯を剥き出しにして、人間の皮に女の絵を描いておりました。あの女は、妖怪がこの皮を被ったものだったのでございます」云々。ここまで話が進んだとき、茶屋の婦人が、一杯の花茶はなちゃを持って来た。農村にありがちな、みすぼらしい女だった。彼女は茶碗を置きながら、こう告げた。「また、お会いしましたね」「また、とは?」「私の老いゆく肌の、そのしわのうらめしさよりもうらめしく、何度もお会いしてきました」「何のために?」「貴男を悟らせるために」

 男は故郷に帰り、幾百の怪談を綴った。彼の失敗は、科挙に落ちたことではない。貧困のうちに死んだことでもない。科挙が幻であったこと、ではなくこそが、ではなくこそが、この世の実相であること、それだけだ。四書五経は怪談に取って代わられ、歴史の正当性は、奇談と美談にひねり殺される。唐の滅亡は、政治が腐敗したからではない。龍池りゅうちの石碑が喋ったからだ。『春秋伝』は伝える。民の怨嗟えんさが満ちれば、物言わぬ存在者たちも、語ることあり、と。女たちが真理を告げるのは、語らぬように虐げられていたからであって、おしゃべりだからではない。この当たり前の史実から、儒学者たちは目を逸らしている。

「偉大なる大陸の東に、黄金の国があるらしいわ」

「そんなことは、二十一世紀のアメリカ人しか信じてないよ」

「あの壁に掛けてある、見返り美人の由来、知ってる?」

 昔、あるところに、ひとりの坊主がいた。坊主は、稚児を愛していた。だが、その稚児は死んでしまった。坊主は稚児の死体を愛し、その肉を喰らい、骨をしゃぶった。鬼と化した坊主は、村の墓を暴き、その腐肉を喰らい、骨をしゃぶった。美醜の相違を認める者は、災いなるかな。美しき稚児の鮮肉と、埋められた醜男の腐肉とのあいだには、いかなる間合いもないことを、国学者は教えている。清月の下で、坊主が赤子のように骨をしゃぶっていると、ひとりの貴婦人が現れた。婦人は狐尾きつねびを揺らしながら、こう鳴いた。「また、お会いしましたね」「また、とは?」「秋のススキのその綿の、綿毛の数よりも細やかな違いのなかで、何度もお会いしてきました」「何のために?」「貴男を悟らせるために」

 坊主は息をとめ、即身仏となった。私はここに、いかなる矛盾も認めない。カニバリズムが愛の極地であることを、なおき心は否定できないからだ。ある僧侶は、この物語を聞いて八十八夜、その本意を問い、女人の救いに繋がることを喝破するや否や、還俗して伽藍がらんを去ったと言う。私はむしろ、この伝承に矛盾を感じる。怪談のいかなる細部にも、人間の女は出て来ない。狐尾きつねびのエロティシズムを理解するには、僧侶は若過ぎたのかもしれず、老い過ぎたのかもしれない。あるいは、すべてが作り話なのかもしれない。

「いったい、何の話だったかしら?」

「要するに、こうさ」

 アンバパーリーは乳房も露に踊り、老女は般若心経を唱える。トーラーを持ちながら、楽園のエヴァと語り合う。革命家の乙女は大躍進を始め、反舌の小娘は、複雑怪奇な小唄を歌う。夫に出家された女は、諦観と嘆息のなかで、乳粥をすする。機織りは彼女たちの半生を写し取り、妖魔がその皮を被る頃、茶屋の婦人は、一杯のおもてなしをする。心からのおもてなしを。すなわち、雌狐めぎつねが稚児の骨をしゃぶる。セピア色の放課後、校庭と旧校舎の思い出のなかで、一切を見届けた少女は、独り囁く。「すべてよし」と。以上が証明のアブストラクトであることを、ネイチャーの査読者たちは見抜くかもしれない。彼らは言う。この定理は忘却されているがゆえに、我々は想起するだろう、と。証明とは、楽園で覚えていたことを、思い出しているに過ぎないのだから。

「ねぇ、詩を読んでちょうだい。子守唄の代わりに。」

「だれの詩を? ワーズワース? コクトー? ヘルダーリン?」

「ヘルダーリンもいいけど、あなたのオリジナルを聞きたいわ」

 私は、数ヶ月前にドライブウェーで思いついた詩を、即興で口ずさんだ。

 

 「女たち」《ἀνάμνησις》――それは、自制させる存在者、用心深くさせる存在者、自問させる存在者、期待させる存在者であり、少し不思議なことどもへの予感に目覚めさせつつ、越え出ていく存在者たちである。少し不思議なこととは、何か。それは、われわれ男たちの周りに、女たちが開かれていること、どのようなものであれ、女たちがあり、無ではないこと、われわれ男たちが存在しながらも、自分たちが何者であるかを、ほとんど知らないこと、そして、こうしたことすべてを知らないということをほとんど知らないこと、これこそが、少し不思議なことなのである。

 

 以上を口ずさみ終えたとき、窓の外で、明かりがともった。椰子やしの木が見える。フロリダの椰子の木が。熱帯夜の訪れ。静寂。羽虫たちが、優雅な死の舞いを踊り始めた。ここまでの証明が上手くいったかどうか、私は確信が持てない。願わくは、きみが理解し給わんことを。きみの揺るぎない愛だけが、私のただひとつの生き甲斐なのだから。

「私、疲れちゃった。そろそろ消灯の時間よ」

 パジャマを着たきみは、上半身を起こし、私のほうへかがみ込んだ。皺だらけの肌が、冷たい壁面に触れた。無機質な直角のラインとくちびるが重なり、私は温もりを感じた。

「あなたの名前を、最後まで思い出せなかったわ……おやすみなさい」

 おやすみ、私のエヴァ。存在の住処、私に言葉をもたらした者――創造者よ。

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カント・ボックス〜すべての女はひとつであることの、幾何学的証明 稲葉孝太郎 @saeculum_aureum

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