玖の弐

「壊す」

「どう言う事ですか」


 僕と奥方の声が重なった。


「どうって、このままで良い訳が無いではないですか。そうしたら、怪異の起こる場をぶち壊してしまうのが一番だ。幸い、大人しいだけの物であるようだし」

「でも」


 奥方は目を伏せ、名残惜しげに影を眺める。


「そのままにしておく訳には行きませんか。そう、大人しい物ですし。何も害は及ぼしませんとも。私の思い出のひとつとして、残しておきたいの」

「害は及ぼさないだなどと、どうして言えます……。いえ、もう及ぼしているでしょうに。よく考えてくださいよ、奥様」


 関は立ち上がった。背の高い男ではないが、こうするとどこか威圧的に見える。


「あなたの今の御主人についてはどう考えてらっしゃるんです」


 奥方が袖口で口元を押さえた。


「思い出に浸るのは結構。ただ、俺らは御主人に頼まれてここに来ているのですよ」


 そう。そうだ。僕らの本当の仕事は今回、怪談を聞き取るばかりではないのだ。


「あなたがどうも上の空で毎日いて、何かと部屋に引き篭もりたがる。なんだか食事の量も減ったようだ。そう伺いました」

「俺らは拝み屋じゃないんで、怪談を餌に呼ばれてはそういう依頼をされるのは心外ですが、来てしまったのは確かですからね。物のついでだ、破壊活動くらいは致しますよ」


 奥方はぶるりと震えたようだった。


「あなた方、それじゃあ、初めからその心算つもりで」

「まあ、そうですな。大久保、とりあえず外すか、障子を」


 僕は懐かしい影を見た。影は何も語らず、静かにそこに佇んでいた。いつだって、泣きたい気持ちが心のどこかにある。泣けば、もしや雨と勘違いしてあの人が帰って来はしないかと。


 だが、影は影だ。


 僕は立ち上がり、頷いた。奥方が脚にすがり付いて来る。


「待って。待って頂戴ちょうだい。お願い。あの方を連れ去ってしまわないで」

「『あの方』なんて初めから居やしないんですって。あれは……」

「わかっています。私の心を映しただけの物でしょう。でも、それでも私には必要なんです。私、この家でずっと幸せで、長く忘れてしまっていたの。何より大事だったはずの方の事を!」


 僕らは目を見交わした。奥方は続ける。


「幸せなだけでは駄目なのよ。私には、後悔だとか、切ない気持ちだとか、哀愁だとか、そういう物がずっと欠けていたの。この影がやっとそれを教えてくれた。それを、持って行ってしまわないで」

「そんな物は奥様。外に見出さず、自分で勝手に抱えてらしてくださいよ」


 関がため息まじりに言い、そうして障子をガタン、と音を立てて外した。影はすると、するりと薄まって消えた。


「奥様」


 僕は脚を引っ張る手をどうにか外し、震える奥方に向けて語りかけた。


「良いんですよ。あなたは、幸せでいて下さい。過去ではなく、現在を見ていてください、と……許嫁殿は兎も角、御主人はそう仰るのではないでしょうか」


 僕はつかつかとふすまの方に歩み寄り、勢い良く引き開けた。その向こうには白髪のちらほら見え始めた、初老の男が……この家の主人が耳をそばだてて立っていた。


「あなた」


 主人は困ったような顔で、それでも一歩前に進む。


「お前が最近様子がおかしいようだから……どうにも気になった。それで、関さん達に様子を見て貰うよう頼んでいたのだが……そうか」


 奥方は綺麗に結った髪を少し乱し、今にも泣き出しそうな顔で夫を見た。


「幸福だけでは足りないか。私が、お前に何かしてやれる事は無いのか」


 ゆるゆると首を振る。


「違うのです」


 関が障子の薄紙を勢い良く拳で破く。子供の頃に、ああやっては怒られたものだな、と思った。


「私は、贅沢を言いました」

「何だって構わん。言いなさい。私は聞こう。話してくれ」


 奥方が泣き崩れるのを、僕は少し複雑な気持ちで見ていた。後悔と切なさと哀愁とを常に人生の友として来た僕には、この夫妻は少しばかりまぶしすぎるようだった。


 ともあれ、これもひとつの愛であり、時間をかけた恋愛譚ロマンスである。読者には今ひとつ受けづらいかも知れないが……。


「大久保」


 関が、すっかり穴の空いた障子越しに声を掛けて来た。


「なあ、さんは壊した方が良いと思うか?」

「知るか!」


 僕は端的にそう返した。


----


 僕らはすっかり暗くなった寒い道を、ふたりで帰った。あの夫妻に必要なのはきっと話し合いで、まあ、今日の様子なら大丈夫だろうよ。関はそう気楽に言う。


「久々に風情のある怪異じゃないか。いいネタになった。総合的にはいい訪問だったとは思わんか」

「まあ、そうだな」


 僕は少し上の空で返す。


「……なあ、関。あの障子に映った影は、君には……」

「おっと」


 関は街灯の下、少し眉根を寄せた。


「止めろよ。そこは言わぬが花だ」

「僕の見た物の話は勝手にやり出す癖にか」

「君はわかりやすいんだ」

「君だって十分わかりやすいさ」


 言い合いを、通りすがりの自動車のやかましいエンジン音が一時止めた。


「なあ、大久保、さっさと新しい恋愛でもしろよ。妙に引きずっていないでさ」


 この男は、他人にはそう言う事をあっさりと言ってのけるのだ。自分の事は棚に上げて、だ。


「そう簡単に済む物か」

「君はあの奥方に何だか偉そうな事を言っていたな。過去でなく現在を、だとか。以前の古書店のときだってそうだった。俺はそれを君にこそ言いたい。情けない顔して障子を見やがって」


 関の説教とは珍しい物だ。僕は立ち止まって後ろを振り返った。闇の中にぼんやりと浮かび上がる、眼鏡を掛けた顔がある。


「そんな顔をしていたか」

「それはもう、大した見ものだったぜ。なあ、そういちいち過去だの、怪異だの、見聞きした物事だのに引き摺られる物じゃないよ。そうしているといずれ——」


 自動車の灯りが、関を背後から照らした。表情は逆光で見えなくなった。僕は立ちすくむ。


「君は、酷い目に遭うぞ」


 その言葉が現実の物となるまでに、そう時間は掛からなかった、とだけここでは言って置こう。


 次は、僕の話だ。

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