第拾話 かがみのむこう

拾の壱

 僕の怪談を語ろう。


 『大久保の冬籠り』と学生時代から揶揄からかわれている僕の癖がある。元来鬱々としがちな気質である僕は、秋を通り越し冬になるともう朝起きて通常の日常を送るという事が困難になってくる。悲観や絶望に囚われる事もあるがそれ以上に、とにかく只管ひたすらに頭が重く眠たくなり、布団に入ったままになってしまうのだ。

 それでも学生の頃はまだ責任感で這いずって生きていたものの、卒業してしまってからはもういけない。運良く文筆という自由業を営む事ができたのをいい事に、僕は努力を諦めた。


 だから、僕は冬には籠る。腹が減るまで布団に入って眠り、起きれば枕元の保存食を酒で流し込み、ごく稀に気力がある時には銭湯と買い物に行き、仕事は入れず、時計は見ず、暖かな風が吹き、自然に起きる事が出来る時期までただただ耐えるのだ。

 羨ましいと言われる向きもあるが、それは僕の重たい頭の中と、年々磨り減っていく貯金残高を見てからにして欲しいと思う。


 さて、この冬籠りを行うに当たり、最も重要かつ面倒な作業が、直前の準備である。買い出し等は勿論の事であるが、万が一にも飢えて死にやしないように、友人知人に時折様子を観察しに来て貰わねばならない。もっともこれは皆慣れた事のようで、仕方がない奴だと言いつつ毎年折に触れ、雨戸を閉めて閉じ籠る僕を訪ねてくれる。

 とは言え、礼儀と確認は肝要である。僕は今にも眠りたい気持ちを堪えながら、各々に向け一筆を記していた。頭が働かないので、書き損じてはぐしゃりと握り潰し、また書き損じては屑籠くずかごに放り込む。


 そうして、僕が苦心しながら粛々と準備を整えようとしている時の事だった。


 狭い、枯れ草だらけの庭先に、何かぼんやりとした物が揺らめいている様に見えた。


 陽炎、というには季節も状況もおかしい。手を止めて僕はその様をボウッと見つめていた。揺らめきはやがて靄のようになり、色を増し、こごり、そうして人影の形を取り出した。健常の時であれば僕は怪しみ、その場を逃げたかも知れない。だが、頭の回転の鈍った僕はどうにも現実感が感じられないまま、ただその様を眺めていた。


 やがて人影はさらに具象を取る。少し色のせた墨色の着流しに適当な綿入れを羽織った、ひょろりと上背のある痩せた男。


 僕の姿がそこにあった。


 庭先の僕は部屋の僕と目が合うと、そのまままたもやのようになってぼんやりと消えてしまった。僕の回らない頭は恐怖よりは飲み込めない気持ちで一杯で、ただ何となくその姿の消えた一角の辺りを見つめ、そうして暫くするとそれにも飽き、まあ何も無いのであれば仔細無かろう、と判断をするとまた手紙を書く作業に戻ろうとした。


 そうして一通を無事書き終え、伸びをし、ふと横にある半ば曇った古い鏡の方にチラリと目をやった時。その時だ。異変が起こったのは。


 初めは何かよくわからなかった。鏡の中には何か、それまで部屋には無かった筈の物が映っているようだった。僕は目を細め、袖で鏡を軽く拭った。少しだけ鏡面が鮮やかになる。


 かなり大きな物が部屋の真ん中辺りに、重たくゆらゆらと揺れているようだった。良く見れば、上からぶら下がっているものらしい。僕は実際の部屋に目をやる。そんなものは無い。


 もう一度、目を凝らした。今度は直ぐに何かわかった。


 はりから紐か何かでぶら下がり、気怠げに揺れ、床からほんの僅かに浮いている。


 それは僕自身の縊死体いしたいだった。


 僕は流石さすがに心臓が飛び跳ねるかと思った。もう一度怖々部屋を眺める。当然、何も無い。僕は床に居て、鏡を見つめている。首を吊ってなどいないのだ。当たり前だ。


 僕はぶるりと一度震えると、辺りを少しだけ探した。良さそうな紐はどこにも無かった。仕方がないので帯を解く。

 台所から踏み台を持って来て、梁の下に置いた。帯の先を放って梁に引っ掛け、上手く結びつけ、反対側の端を輪にし……初めてやったにしては、なかなか上出来なのでは無かろうか。


 さて、と僕は鏡をもう一度見つめる。縊死体はもう消えていたが、もうじきまた同じ光景が映る事だろう。僕は帯をそっと手に持ち。


 ガタン、と大きな音がした。庭先に関が立っていた。先のはかばんを取り落とした音らしい。


「ああ、しばらく振り。一寸ちょっと待っていてくれよ。すぐ終わる……」

「馬鹿か。馬鹿かお前は!」


 関が血相を変えてずかずかと、土足のままで上がってくる。そうして、僕の手から帯を奪い取った。


「何をやってる」

「何ってこれは……」


 僕は梁を見上げた。きつく結ばれた帯と、そして足元の踏み台を見た。自分の手を見た。関の、怒ったような顔を見た。


「…………」


 頭の中が少しだけ冷めていくのを感じた。僕は、足を踏み外して畳の上に尻餅をつく。顔はきっと、関から見れば青ざめていたろう。そして、ガタガタと震え出した。寒さのせいではない。


「その様子じゃ、自分で……本当に自分で思いついてやらかした訳じゃないんだな。そうだな!?」


 関がしゃがんで僕に目を合わせる。やけに真剣な光があった。


「そうと言え。そうだな。そうであってくれ」

「僕は……違う。こんな事がしたかった訳じゃない。気がついたら……」

「良し。取り敢えず水でも飲め。落ち着いたら話せ。何があった」


 僕は震える手でそこにあったグラスを取ると、転がっていた瓶から酒をなみなみと注ぎ、一気に飲み干した。


「水を飲めと言ったろうが。君は本当に、この、大久保!」


 呆れ果てた様子の声がするが、こればかりは勘弁して欲しい。僕は心底追い詰められていたのだ。

 焼ける様なアルコールの味が喉を通り過ぎると、僕は口を開いた。


「そこにだ。そこに、妙な物が居た」


 庭先を指差す。


「見ていると直に僕の形になって、そうして消えてしまった。何だかわからないので放っておいたら、今度は鏡の中に……その、僕の死体が」


 下手な説明だが、関は兎も角聞いてくれた。この男の存在がこれ程有り難かった事は今までに無かった。


「死体が、ゆらゆらと揺れていて」

「妙な怪異が起こったと、そう言う事だな」

「そうだ。それで、僕はなんだか自然に、その通りにしなければならないような気がして……」


 吐き気がして来た。折角せっかくの酒を戻さないよう、僕はどうにかこらえる。


「君、取り憑かれたな。何だか訳のわからん物に。まずいな……」


 視界に再び鏡が入る。鏡の中の僕は、今と同じ場所にいて、ただ、万年筆を喉に力一杯突き立てようとしていた。僕は再びふらふらと手を伸ばし、愛用の万年筆を握って同じようにしようとし……関にしたたかに手を叩かれた。


「拙いぞ。どうにかしないと……いや、どうにかする」


 関は僕を睨みつけるようにして、こう宣言した。


「俺がどうにかする。大久保。だから君も気をしっかり持ちたまえ」


 僕はまだ軽く震えていたのだが、兎に角すがる相手が他に居なかった。この腐れ縁の、情を解さぬ、胡散臭い新聞記者の男しか頼れる者が無かったのだ。


「君を助ける。助けさせろ。良いな」


 僕は、泣きたい気分でただ何度も頷いた。

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