第玖話 おとずれるかげ

玖の壱

「そろそろ来ると思うのだけれど、先にお話の方を済ませてしまいましょうか」


 夕暮れ時、僕と関はある素封家そほうかの邸宅に招かれていた。豪奢ではあるが品のある部屋の佇まいは、部屋の主である初老の奥方の空気から発するものかと推察される。婦人は穏やかな声音で畳に座し、僕らを招いた理由、すなわち怪談を語り始めようとしていた。


「先の大陸での戦争の頃ですから、もう随分になります」


 まずは思い出話を、という事らしい。僕らは出された茶(残念ながら酒ではない)をすすりながら、奥方の声に耳を傾けていた。


 奥方は当時花も恥じらう海老茶式部の乙女。彼女には親の定めた許嫁があった。とは言え、親しく行き来をし、互いに淡く想い合うような、全く理想的な婚約関係であったと言う。


「五つ年上の、陸軍の士官の方でした。小娘の私からすれば、大層素敵なお兄様に見えたものだわ。私はその方にずっと夢中で、嫁ぐ日を今か今かと待っていたの」


 恋愛譚ロマンスである。煌びやかではないが、慎しみ深い良さがある。僕は心の中の手帳に聞いた話を記録した。


「戦が始まって、その方も出征することになって。私はせめて何か形見の品をお渡ししていきたかった。でも、叶わなかったのね。急な召集で、無事に帰ってきてとすら伝えられずに行ってしまった。そうして、次に来た連絡は、彼が若い命を敵地で散らしたという報せでした」


 ふう、と奥方は息を吐く。数十年の時を経た出来事とは言え、身近な人の死には堪える物があるのであろう。関は全く素知らぬ風な顔をしていたが、彼にも何か思うところがあって欲しいと思う。


「結局私は今の夫と結ばれて、まあ幸福にしておりますけれど、時折思うのよ。あの方がもし生きていたらどうだったかしら、なんてことをね」

「失礼ですが奥様、その美しい思い出話はどう怪談になるので?」


 僕は思わず後ろから関の背中を叩いた。何という情のわからん男だ。痛いぞ、と細い目が睨む。知るか。


「まあまあ、これからですとも」


 奥方は出来た女性で、関の茶々にも動じず、続きを語り始めた。


「そうやって私がこの部屋で、ひとり昔を偲んでいた時です。この障子に、ふと薄ぼんやりとした影が映ったの。主人か使用人かしら、と最初は気にしていなかったのだけど、何も言わぬまま動かないから妙ねと思って。それで、がらりと開けてみたら、私、ハッとして」


 奥方は実際に開けて見せてくれた。


「おかしいわね。どうして気づかなかったのか。まともな人間であるはずがなかったのよ」


 障子は窓に設けられたものだったのだ。即ち、その向こうは外の空気であり、さらに言えばこの部屋は二階だ。誰かが立てる筈も無いのだ。


「それで心底ギョッとして障子を閉めると、まだ影があるの。もう、どうしようかと思ったのだけれど、ジッと見ているとね。なんだか懐かしい気持ちになったのよ」


 その影は日が暮れるのにつれ、直に輪郭がハッキリとしてきたのだと言う。軍帽を被り、サーベルを佩いた、姿勢良く立つ背の高い姿。


「ああ、懐かしい筈だわ。あの方ですもの、としみじみと理解しました。あの方が影だけこの世に現れたのねと。話しかけても返事はもちろん、動きすらしませんでしたけれど、私はそれでも満足だったわ」


 ますます恋愛譚ロマンスである。しかも、涙と怪奇がある。これは良い、次はこの手の話で行くか、などと勝手な事を思った。関の興味は尋常の程度、と言ったところか。猟奇性が足りんなどと思っているのかも知れない。


「それで、終わりですか?」

「ええ。話はそこまで。後は、実際に見て頂こうと思ってこの時間にお呼びしました」


 夕暮れ、陽の光が徐々に弱まって行く時間。黄昏、逢魔ヶ刻などとも言い習わす。僕らはこの時間帯の怪奇にどうやら縁が深い。場にしんと沈黙が降り、障子に視線が集まった。


 初めは薄く淡い、見間違えかと思う程の影だった。淡墨を水に垂らしたような色の。それが、外が暗くなるにつれて見る見る内に形を得、濃く色を増して行く。僕は目を見張った。そこにあったのは、小柄な婦人の影だった。


「違う人間の影が映る事は、あったのですか」

「え?」


 奥方は障子を眺める。


「いいえ、いつもあの方でしたよ。ほら、この通り」


 だが、そこにあるのはやはり婦人である。それも、どこか立ち姿に見覚えがある。僕に縁のある女性などそう数は無い。母が居て、嫁いだ姉が居て、それから数名程度だ。中でも、一番最後に出会ったのは。


 胸をギュウと掴まれる様な、切ない気持ちが僕を満たした。そうだ。これは、あの雨の日にやって来た婦人ではないか。


「僕には……僕には、ご婦人の影に見えます」


 関が僕を見た。


「大久保君と奥様とで見えている姿が違うと?」


 関はこの場ではよそ行きの呼び方で僕を呼ぶのが、何とも気色が悪い。


「関、君には何に見える」

「……あまり言いたくは無いな」


 妙に答えを渋る。おや、と思った。


「ですが奥様。これは恐らくですが、この障子、『それぞれの会いたいと望む者』を映しているのじゃないかと俺は思いますね。あなたは初恋の君、大久保君は親しくしたご婦人、そうではないですか?」

「自分は答えないでおいて良く言う……」


 ぼやきかけたが、本心からではない。関が会いたい相手なぞ、端から決まっているのだ。何を見たか口にしたがらないと言う事は、きっとそう言う事だ。


 芳枝よしえさんだ。震災の火に巻き込まれて命を失ったと言う、彼の細君に違いないのだ。


 僕は事情により、彼女の事を思うと自分の事の次の次くらいには物憂くなるようになっている。


「つまり、どう言う事ですか。この方は……」

「残念ですが、奥様の想うその人ではないですね。影がそう言う風に見せているだけだ」

「何の為にだ」

「わからんよ。影に聞いてくれ。揶揄からかう為だけかも知れんし、向こうなりの切実があるのかも知れん。何もかもわからん」


 奥方はまさか、と言う顔で頰を押さえていた。気持ちは察する。想う相手と信じていたものがただの怪しい現象と知れば辛かろう。


「私、てっきり……そう、そうでしたか」

「幽霊の訪いなら美しいですがね、どうもそう上手くは行かないようだ」


 関の目は、チラチラと障子に行く。見ているのだろうか、心残りの影を。


「さて——」


 彼は我々に向き直り、手を広げた。


「我々に出来る事をやっちまいましょう」

「出来る事ってのは何だ」

「うむ。何、簡単な事だよ」


 関は訳知り顔で頷く。


「壊すのさ、この障子を、滅茶苦茶にな」

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