捌の肆

 父親に乱暴をされ、友達もほとんど居ない明美さんに、たったひとり話し掛けてきてくれた人だったのだ、と暫く後、彼女は涙ながらに語ってくれた。


 『真っ黒のおじちゃん』と呼んでいて、名前や住処は知らなかった。ただ、明美さんが辛くなって道端で泣いている時に初めて出会って、それから時折訪ねてきてくれたのだと言う。


「その時はね、あんな目じゃなかったし、影もきちんとあったのよ。優しいおじちゃんだったの」


 果たしてその頃は邪心が無かったのか、それとも隠しおおせていたのかはわからない。男は死んだ。お陰であれこれ聞かれて大変だったが、関が上手く誤魔化してくれた。こう言うところには頭の回る人間だ。


「お父さんがからすに襲われて、それで怖くてまだ泣いていたら、良かったねって言われたの」


 良かったね、明美ちゃんを酷い目に遭わす奴はもう居ないんだ。これからも、悪い奴は俺が退治してあげるからね。


「そしたら、心配してくれたおばちゃんや、遊びに誘ってくれた子が鴉に突かれたりして。私がいけないんだって思ったの。鴉にもお願いしたけど、止めてくれなかった」


 しゃくり上げながら続ける。


「辛かったね」


 菱田君は彼女に視線の高さを合わせ、同情顔でじっと聞いている。


「おめめのおじちゃんも危なかったの。だから、止めてってお願いしたら、じゃあ代わりに一緒についておいで、って言われて……」

「それで誘拐未遂か」


 関は腕を組んだ。彼は侮蔑をあらわにしている。あの男に向けられた物だろう。僕はいつもの通り、どこに心を向ければいいのか混乱をしていた。男は男で、とても哀れだった。関に言えば鼻で笑われたろう。


 ひと通りの話を聞き終え、僕らは明美さんの預けられた家を辞する事とした。菱田君はどこか名残惜しげにまだ明美さんと一言二言会話をしている。彼女はこの後、養護施設に預けられるらしい。



「僕は情けないです」


 菱田君は家を出ると、道端でぽつりとそう言った。


「助けるには助けても、結局あの子のこれからの為の事は何ひとつ出来ていないんだ」

「見給え、ああなるから初め、俺は関わり合いになるのは止そうと言ったんだ」


 関は何だか訳知り顔で言う。


「厄介だよ。大人は少しでも自分の足で立てるが、子供は全体重を掛けて来るからな。こちらにそれを全部支える余裕が無い限り、苦い思いをするばかりだ」


 後はあの餓鬼がきのしぶとさに任せるしかないさ。そう言った彼の顔は夜の闇に沈んで、どんな顔をしているのかまるで見えなかった。


「指切りをしました。また会おうねと。僕は、それが守れるかどうかもわからないのに、断れなかったんです」

「馬鹿だなあ、君。そうやって情を出して自縄自縛になっているんじゃあ……おっと」


 関は、菱田君の打ちひしがれた声に流石に気がとがめたか、口を閉ざす。代わりに僕が口を開いた。


「子供の中では、約束は重いぞ。菱田君」


 責める心算つもりは無かったのだが、半ば責める形になったかも知れない。彼は項垂うなだれたようだった。


「君は嘘つきになる覚悟を決めるか、きちんと会いに行く事にするか、それとも……」

「第三の選択肢なんてあるんですか」

「そのままずるずると後悔したまま、何となく忘れて生きるんだよ」


 うう、と彼は呻いた。十中八九の人間が取るのがこの第三の道だ。僕も凡そそうである。蘇る過去視フラッシュバックを振り払いながら、精々せいぜい笑って見せた。


「全ては君次第だ」

「きついなあ、もう……」

「駄目な大人の世界へようこそ、だ。菱田君。どうだ。飲みにでも行くか」


 関が絡むように彼を肘で突く。菱田君は少し考えてから頷いた。


「そうだ、鴉を食いそびれたから焼き鳥が食いたいな」

「君はよくそんな気になるな! 僕は嫌だよ」

「なら獅子唐ししとうでも食ってろ」

「そういえば、鴉は結局あの男の影から出来ていたのですよね?」


 菱田君が疑問を呈する。


「恐らくはな」

「それじゃ、あれを食べていたら僕ら、どうなったのでしょうね。そもそも食べられたのかな」


 僕らふたりは顔を見合わせる。


「菱田君、食事前に嫌な事を思い出させるなよ」

「ま、駅前に少しいい店がある。あそこは幾ら何でも鴉を出しちゃいまいよ」


 街灯もまれな暗い道から、遠くに店々のほのかな灯りが見える大通りに近づく。鴉の翼のごとき闇夜から、人間の作った明るい夜へと近づく。僕らは安堵して笑い合った。


 耳元で鴉が羽ばたき、どこか遠くへ渡ろうとするような、そんな音がした気がした。

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