捌の参

 僕は自分の家の近所のどこにどのような人間が暮らしているかなど大して知らずに生活しているので、菱田君に先導されて行くという妙な事になった。駅から自宅への道を三人でゴチャゴチャと話しながら歩く。


「君、この道は遠回りだよ」

「はい。ただ、庭先に薔薇ばらの花が咲いている家があったので、そちらを通りたくていつも回って来ていたんです。今が盛りなんですよ」

「乙女か」


 菱田君は存外周辺の景色に気を払う方らしく、あちらの庭は何か蜜柑みかんの仲間の実が生っているだとか、ここは遠くの山が見えて景色が良いだとか、僕の知らない事を解説してくれた。成る程、僕は決まりきった道を下を向いて歩いている間に、沢山の色彩を見過ごしていた物らしい。


「君の様だと人生楽しかろうなあ」

「よくわかりませんが、褒め言葉と思っておきます。でも、先生の内に向いた感性も僕はとても尊敬していますよ」

「こいつは放って置くと自分の中ばかり見ているから、少しは外向きになるがいいんだ」


 関が笑う。その声に被さるようにどこかでからすが高らかに鳴き、群れのように集まった黒い塊が茜色の空に向け飛び去った。


「鴉も多少なら風情ですが、多いとどうも……」


 顔をしかめる。聞き込みをした家の辺りに僕らは近づきつつあった。


「この辺りの道にいつも立っていたんですが、もう家に帰ったのかな。そうしたら——」

「おい」


 関が道の先を指差した。おかっぱの後ろ頭、白い服を着た小さな子供の背中がふいと角を曲がって消えた。


「あの子だ」

「追うか」


 僕らは頷き合い、急ぎ足で道を行く。なだらかな坂を下り、角を曲がると果たして子供の後ろ姿があった。そして、隣には黒い背の高い男の影が。


「……父親ではないよな」

「まだ重傷の筈だぜ」

「隣家の人か親戚なら良いんですが……なんだか妙だな」


 菱田君が不審げに言う。妙と言えば男三人で子供を追いかけ回している僕らもそうなのだが、どうもこの子供、チラチラと周りを気にしている。男は男で、人の少ない方へ少ない方へと向かって歩いている様に思えた。


勾引かどわかしじゃないだろうな」

「この道は、真っ直ぐ行ったら神社だぞ」


 顔を見合わせる。果たして、ふたりは神社の境内へと繋がる狭い階段を上り始めた。


「神主か何かか?」

「そんな大きな社じゃない。神主なんて見たことがないよ」

まずいです、急ぎましょう!」


 木々に囲まれたやや長い階段を、息急き切って上る。ふたりの背中が近づいた。


「あの、すみません! 失礼ですがその子は……」


 菱田君が声を掛けた瞬間、周囲の木の上から鴉が突然急降下してきた。


「!」


 菱田君は咄嗟とっさに顔を庇う。正確に彼の露出した右目を狙ったくちばしは、腕にかすって無力に終わった。辺りからざわ、と音がする。羽ばたきの音だ。くちばしを鳴らす音もする。口々に鳴く声も。僕らの周りで、無数の鴉がうごめいている。


「急げ!」


 僕らは、遠ざかり鳥居を潜ろうとする男の背を追いかけ、飛び掛かってくる鴉の邪魔を振り切って坂の天辺てっぺんまで辿り着いた。


 鳥居を潜った瞬間、周囲の音が急にすとんと聞こえなくなった。あれほど騒がしかった鴉の声すらも。夕暮れの西日が木々の間から差し、僕らの足元に長い影を落とす。男は子供に向かい合い、何やら話し掛けていた。


「ここでその鴉に話し掛けられたんだ。この神社は八咫烏やたがらすまつっているから、きっと神様が力を貸してくれたんだね」

「おい、お前はその子の何だ?」


 関がずいと前に出る。


「こっちもその子に用があるのだがね」

「保護者だよ」


 初めて男がこちらを見た。黒い、艶やかな、丸い、白目のない目をしていた。まるで鳥の瞳だ。表情が読めない。


「これからずっと明美を守ってあげるのさ」

「怯えている様に見えますが」


 菱田君も果敢に言い返す。明美さんと言うらしい子供は小さく震え、白い顔をして唇をぎゅっと噛んでいた。こちらは無表情に見えても感情がよくわかる。


「そんな事はないよな。ちゃんと付いてきてくれたんだ」

「おじちゃん、逃げて」


 辛うじて絞り出したような、か細い声。同時に、こちらを嘲弄ちょうろうするような羽ばたきの音がどこかからばさばさばさばさと響いてきた。心底逃げたい、と思ったが菱田君は強気に返す。


「大丈夫。こっちにおいで。ちゃんとお家に返してあげるから」

「この子のお家なんてもうどこにもないぞ。父親は病院。預かり先でも寂しそうにしてるから、だから俺がお家を作ってあげる事にしたんだ」


 駆け出そうとした明美さんの手をぐいと強く掴んで引き戻す。もはや、僕らは確信をしていた。怪異の中心はこの子供ではない。


「お前、お前がやったのか。鴉をどうにかして、その子の父親を」


 声がかすれた。


「この子が『助けて』と言っていたからね」

「い、言ってない」

「言っただろう。毎日毎日酷い目に遭って、服の下があざだらけになって、辛くて辛くて、それで助けてって言っただろう。俺には聞こえた。聞こえたんだ。そうしてここの鴉に力を貰った。だから」


 にい、と口元が吊り上がる。無感情な目にその口は不釣り合いでとても不気味に見えた。


「だから俺らはこれから幸せに暮らすんだ。邪魔をしなきゃ無傷で返してあげるよ」

「なあ、そう言ってるし帰……」

「そうは行きませんよ。あなたがやってるのは児童誘拐でしかないんだから。見逃す訳にいかないでしょう!」


 僕の小声は菱田君の啖呵たんかにかき消される。わかっていた。この青年は妙に正義感が強く、この子供に入れ込んでいる。そして、一度思い込むとなかなか聞かない事も、以前の怪異の際に実感していた。


 だが、鴉だ。一羽でも面倒なのに、群れになられては……。


「何かおかしいな」


 関が首を傾げ、呟く。


「何か……何か変じゃないか? あの男」

「どこもかしこもおかしいよ。特に頭が」

「いや、そうでなく……」

「その子を返して下さい」


 男が目を細めた。明美さんが暴れるが、直ぐに取り押さえられる。黒い袖がサッと振られた。木々の上から鴉の群れが一斉に——。


「わかった」


 カッ、と一瞬強い光が放たれた。僕は目が眩む。それはその場の皆が同じだったろう。焼き付いた視界の中、耳は捉えていた。鴉の羽音が、鳴き声が消えた。男の悲鳴が聞こえた。


 やがてぼんやりと戻りつつある視野では、関が男に掴み掛かっていた。僕はハッとする。首元で重たげに揺れている写真機カメラ、その閃光電球フラッシュバルブを関は動作させたのだ。だが、何故鴉まで消えたろうか。明美さんがこちらにふらふらと走ってくる。菱田君は強い光に涙目になりながらも、彼女を保護した。足元には長い影。影。


 関に押さえつけられた黒い男の足元には、影が無かった。


 僕はゾッとしながら救援に向かう。格闘は不得手だが、ふたり掛かりで押さえつけるくらいならできる。明美さんの泣き声を背後に、僕らはとうとう男を取り押さえた。


「さあ年貢を払え、鴉野郎」


 暴れる男の脚を身体で押さえつけながら、関が不敵に笑う。


「それともあれか? 人攫ひとさらい野郎の方がいいか? 手間を掛けさせやがって」

うるさい、明美には行き場がないんだ! ならお家を作ってあげるしかないだろう!」

「行き場くらい、この子に選ばせてあげたらどうです」


 菱田君がつかつかと歩いて来て、男の頰を張り飛ばした。男はうめき声を上げる。


「言っていろ。俺が居なけりゃその子はどうなる。父親を半ば失い、行く先も……」

「お、お父さんの事、私、嫌いじゃなかった」


 しゃくり上げながら明美さんが言う。


「ぶったり、色々酷い事されて、一緒に居たくなかったけど、でも、あんな風にはなって欲しくなかった」

「何を言ってるんだ。あの男は君を汚らわしい目で見てた。酷い罵り方をした。殴る蹴るも」


 父親は、目と舌を主についばまれていたと言う。僕はごくりと唾を飲んだ。


「だけど、あんなのは酷いもの」

「大体お前、父親が目当てなら、何で近所にまで鴉をけしかけた」


 関が合点がいかぬ顔をしている。僕は、何となくわかるような気がして、つい口を挟んでしまった。


「……もしかするとだ、この子に近づいた人間を攻撃した?」

「…………」


 男の沈黙は、はいと言っているような物だった。関が不思議そうに言う。


「大久保、お前も襲われたんだろう。この餓鬼がきと何か繋がりがあったのか?」

「無い。だけど、そうだ。多分、わかる」


 彼は……恐らく、気が大きくなっていた。


「尋常でない力を手にして、それに溺れたんだ」


 そして、成果が欲しくなったのだろう。即ち、目に見える形で誰かを傷つけたくなった。それで、関係のない者にまで力を振るった。そんなところではないだろうか。


 僕には、わかるような気がした。力を手にした弱い者の末路だ。ドブ川のあの幽霊を僕は過去視フラッシュバックする。


「尋常でない力ね。閃光フラッシュで消えちまったようだが」

「あれはどう言うからくりなんだ?」


 僕が聞くと、関は写真機カメラを持ち上げ得意顔になる。


「影だよ。よくわからんが、そいつには影が無い。何か鴉と繋がりがあるんじゃないかと思ったのさ。案の定、光で消し飛んだ」

「……八咫烏は太陽の化身なんですよ。光で消えるなんておかしい」


 菱田君は、明美さんの頭を撫でてあげながら博識なところを見せる。多分、彼が出会ったのはもっと、ずっと悪い、鴉の形をした何者かだったのだろう。男は軽く笑った。


「何だっていい……何だっていいのさ。明美を守る力があれば何だって良かったんだ。ずっと焦がれていた。だが、それが無意味なら……」


 ごぼ、と嫌な音が喉から聞こえた。男の口から鴉の頭が覗いていた。鳥はキョロキョロと辺りを見回し、そして外へと出て行く。後から、後から。何羽も、ぞろぞろと。


「終わりだ」


 ばさ、と羽ばたきの音。鴉は飛び立つ。後には、奇妙に萎れた様子の、動かない男の身体だけが残った。

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