漆の参
僕らが外に駆け出た辺りから火の勢いは強くなり、二階にまでぱちぱちと炎が回った様だった。女将が客と従業員を点呼する声が響く。人の被害は幸い無さそうだ。
三日月の空にボウッと大きな灯りが点ったようだった。半鐘の喧しい音が響き、遠くから聞こえる大型のエンジン音は、あれは消防組だろうか。何だか現実ではない様な、博覧会の最後の大出し物の様な趣すらあった。
「少し遅れていたら、煙に巻かれていたかも知れんな」
関は僕の言葉に対して首を縦に振ると、口をきっと結んで二階の窓を見つめていた。欄干から、茶色の羽織の袖がひらひらと、煙の合間に覗いて見えた。
「まだ上に人が?」
「いえ。あれは人じゃあありません」
焦って走り出そうとした店員を、関が止める。
「炎に巻かれて死んだ女が、もう一度炎の中に帰るだけの事です」
「しかし……」
「本当に良いのか、関」
僕は何とも、僕らを助けてくれた芳枝さんに申し訳ない気がしていた。だが、関は冷たく言い捨てる。
「じゃあ、君はあの火の中に飛び込んで行くか? どうせ幽霊だ。放っておけよ」
白い手がチラリと見えた。僕は飛び込む勇気もなく、只じっとその様を見ていた。
「あいつ、死んだ時もああだった。殆ど炭の燃え
ぽつりと彼は呟いた。火に照らされたその表情には、あの何ともつかぬ
「あれが本当の姿なんだろうよ。人前に出る時は取り繕っていた様だが。今日みたいな事をするには、変化を解かねばならなかったのかな。わからん」
腕を組む。そうして、思い切った様に二階に向けて大声で呼び掛けた。
「おい、もう良いだろう。さっさと姿を現して逃げて来いよ。どうせ葬式の時に皆に見られてるんだ」
ぱちぱちと炎は上がる。その中で白い手はゆらゆらと揺れ続けている。奥の姿は見えない。
「それとも、火なんぞお前には効かんのか? どっちでも良い、紛らわしい真似をする前に……」
「関!」
僕は堪らなくなって、つい声を遮った。
「君、良い加減に察しろよ」
「察する? また同情したな。あの死んだ女の何をそんなに……」
関は厭そうな顔をして何やら言いかけた。僕は上ずった声で遮った。
「芳枝さんは、君の前では生きた頃の綺麗な姿で居たいんだろうが。わかれ!」
辺りの人間は、呆気に取られた顔で言い合う僕らを見ている。消防ポンプ車が大通りから滑り込んで来た。
「何……」
「君の話じゃ、遺体は痛ましい有様だった様じゃないか。だとしたら、君にそんな姿で会いたくはないんだろう」
「俺はもう、何度も見たさ! 真っ黒の
「そう言う問題じゃあないんだ。そう言う問題じゃ」
どうすればこの冷血漢に伝わるだろう。好いた相手に、死後も誰よりも心配する相手に、醜い姿を見られたくないと願う心が。僕には、とても出来そうになかった。だから、八つ当たりの様に別の事を言い募る。
「大体君はあいつだの何だのと、名前も呼ばずに……」
「ああ、わかったわかった」
関は邪険に、僕が肩を掴もうとした手を払いのけた。彼はすう、と煙混じりの息を吸い込み、少し咳をした。
「芳枝。来い」
「俺はお前が何だって良いんだよ。何だって同じだ」
欄干の手摺りを、手が掴んだ。風に煽られ、袖が靡いた。
「長い事、顔ばかりチラチラと見せやがって。少しは話をしに来い」
炎が揺れ、手の元が見えた。真っ黒な顔に、目ばかり白く輝いた、不吉な姿が。僕は目を細める。関はお構い無しだった。周囲が悲鳴を上げる。
「俺は、お前をずっと待っていたんだよ」
半分焼け焦げた着物を羽織った、髪も何も無い人型の真っ黒な生き物が、欄干から身を乗り出した。
「来い! 芳枝!」
関は絶叫した。初めて聞いた、怒号ではない、微かに
芳枝さんらしき物は、跳んだ。二階から真っ直ぐに、関の腕を目掛けて。
途端に、落ちながらぼろぼろと身体が崩れていくのが、僕にも良く見えた。炎は放水されながらも、未だ明るく燃え盛っていたから。脚を、胴を
優しく抱きしめるには、彼女はあまりに
関は、
泣いてはいなかった。
「行くか。大久保」
いつもの
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酔い覚ましも兼ねて(僕はまだ何杯でもいけたのだが)、途中の喫茶に入った。直に閉店という事だが、
「芳枝さんは……」
「居なくなったんじゃないのか。どこかに行けたのかどうかは知らん。あの世に関しては、俺の知識の範疇には無いからな」
あっさりとそんな風に片付ける。
「恐らくだが、霊にも寿命の様な物があるんだろう」
「寿命?」
「そうでなきゃあ、あちこち交通渋滞になっちまう。震災の後には幾らでもあの日死んだ奴の話があったが、もう大分無くなってしまってるだろう。化けて出た奴らは力を失ってどんどん消えて行ってるのさ、きっとな」
芳枝も、寿命だったんだろうよ、と彼は呟いた。頰を擦ると、余計に煤の被害が拡大した。
「最後に恩を着せて行ったなあ。全く、どうしようもない女だ」
「君はいちいち辛辣だな」
もう、僕は関に腹を立ててはいなかった。ただ、そうやって普段通りに扱って欲しかろうと、茶々を入れてやる。
女給が珈琲を二杯、無愛想に机に置いて行った。清々しい匂いが、火事場の煙を吸った肺腑に心地良かった。
「そうだよ。死者なんぞ精々、偶に思い出してはこき下ろしてやるくらいが丁度良いんだ」
「君の持論だな」
「そうでなきゃ身が保たんよ。そうだろう? 延々あいつらの死に囚われていたんじゃあ、好きに生きる事も出来んさ」
関。君は、それでも、ずっとあの人を想っていたのだな。僕は目を閉じた。
忘却に任せる方がどれだけ楽かを知っていながら、忘れられなかった。いや、彼女が忘れさせてくれなかった、と言うべきか。確かに怪異はその辺りに潜んでいて、僕らの心を
「これで名実共に、晴れて本物の独り身だ。女を抱くのにも遠慮が要らん」
関は愉快そうに笑う。だが、僕は身体は兎も角、彼が他の女に心を移すには、もう少し時間が要るだろうな、と睨んでいた。あれ程儚く美しい抱擁を交わした相手を忘れられる筈がないのだ。
「君の事をずっと冷血の人だと思っていた」
「ご挨拶だな」
「訂正する。今日わかったよ。君にも火が点く事があるのだな。君はどうやら只の察しの悪い偏屈野郎と言うだけの事らしい」
そりゃいいや、と関は笑みを浮かべた。
「偏屈野郎で結構。君に下手に褒められるより安心するさ」
そうして、熱い珈琲をずいと一気に啜る。
関信二は涙は流さなかった。この出来事の最初から最後まで、ずっとそうだった。
僕は、その点に関しては、この男に少しだけ感服をしている。
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