第捌話 からすとやみよ

捌の壱

 秋風社の編集者である菱田君がうちに来て、近くで不思議な子供に会った、と言う話をしてくれた。



 僕の家に向かう途中、道端で何やらひとり遊びをしている女の子供を見つけたのだと言う。元々子供好きな菱田君なので、あまり道に出ては危ないよなどと話しかけると、素直にこくりと頷いた。

 おかっぱにした黒髪が少し伸びて、ぼさぼさとした様子の子供だったそうだ。その子供がこんな事を言った。


「おじちゃん、その目はどうしたの」


 菱田君は以前怪異に出会った際、片目を少し弱くしていて、それで大抵白い眼帯をしている。子供には珍しかろうと彼は簡単に説明をした。


「おじちゃんは目が少し悪くてね。だからこうして覆っているんだよ」


 すると子供は少し意外そうな顔をして言ったと言う。


からすに突かれたのじゃないの」

「鴉? いや、そんな痛い目には遭っていないよ。ほら」


 眼帯の下の、少し色素の薄い目を見せてやると、子供はようやく得心したように頷いた。


「良かった。間違えて鴉が持って行ってしまったのじゃないかと思ったの。変な色だけど、ちゃんとあるのね」

「勿論さ。ここらは鴉は多いのかい」

「うん。多いし、とても大きいのがいるのよ。おじちゃんも気をつけてね」


 ああ、気をつけるよ、と声を掛けて、それでその場を辞したと言う。

 秋半ば、灰色の雲が重たく垂れ込める、陰鬱な日の事だった。



「そんなに不思議かね、それは」


 僕は曇りには弱い。頭はぼんやりして回りにくいし、過去視フラッシュバックが時折起きるし、それでふらふらとしながらも今日はどうにか起きた。菱田君が訪ねて来る予定であったからである。努力は買って欲しい。例え肝心の仕事の進行がいまひとつだったとしてもだ。


「なんと言うか、雰囲気が一寸ちょっと変わっていたのですよね。目が据わっていたと言うか。ひとりで居るのに慣れている子供の目をしていました」

「僕だって昔はそんな物だったさ」

「大久保先生はいつお会いしても不思議ですね。何で毎回アルコールの匂いがしているのでしょう」

「そりゃあ君、昼に引っ掛けたからだよ」

「だからあれ程控えて下さいと!」


 菱田君は困った物だと言いたげにかぶりを振る。


「良いだろう。別に、酔って話が出来なくなる型ではないんだから」

「だから怖いんですよ。知らぬ間に倒れていそうで……」

「それで、子供がどうかしたのかい」


 ああ、と彼は少し出鼻を挫かれたような顔をし、そうしてまた話を戻した。


「鴉に突かれた、って言うのが何だか気になって。発想が変に猟奇的ではないですか。この辺りは多いんですか、鴉」

「多いよ。それに、最近人が襲われているんだそうだ。その子も噂を聞いたんだろうね」


 へえ、と菱田君は僕が出した茶をごくりと飲み干す。


「じゃあ、突飛な事を言い出したわけじゃあなかったんですね。僕も帰りは気をつけよう」

「そうし給え」


 内心では鴉に目を突かれる想像で恐怖が胸一杯に広がっていたが、僕は出来る限り堂々たる態度を保つことにした。菱田君に見抜かれていたかどうかは定かではない。それにしても目は、嫌だ。


「それじゃ、僕はここで。次回はもう少し詰めた事を話せると良いですが」

「進めておくよ」

「お願いしますよ。先日の短編は社内でも評判だったんですから。社長が先生の愛読者だって話はしましたっけ」

「以前一度」

「編集部にも遊びに来て下さいよ。ご気分が辛くない時でいいですから」


 僕は曖昧な返事をし、菱田君の小柄な背中が去っていくのを見送った。そうして、ふう、と壁にもたれる。疲れた。


 秋はいけない。涼しい曇りの日はもっといけない。人に会うのは尚更だ。僕の気鬱は気候に左右される。酒でも飲んで暫く休もうか、と仕事部屋に戻った時の事だ。


 カア、と何度か声がした。庭からだ。


 鴉か。話をすれば、と思うも、見にいくのが億劫おっくうで、そのまま放っておく。人を襲うと言うのが本当ならば、僕だって危険なのだ。


 辺りを片付け、さて大の字になって休むか、と寝転んだその時。ぽす、と軽い音が聞こえた。

 障子のごく低い位置に黒い穴が空いていた。違う。穴から何か黒い物が突き出ているのだ。くちばしだ。そして、その元の顔と目だ。鴉の頭が障子を突き破り、こちらを窺っている。


 鴉は一度僕を見てカア、と鳴き、向こうで軽く羽ばたいた様だった。僕は呆気に取られてその様を見ていたが、やがて鴉は諦めたのか頭を抜き、姿を消す。

 障子の丸い穴だけが残されていた。なんとなく這いつくばってそこから庭をのぞくが、もう鳥の姿は無い。飛んで行ったろうか。とにかく穴をふさぐ必要があるな、と顔を引っ込めた、次の瞬間だった。


 物凄い勢いで、鴉が再びくちばしを同じ障子の穴に突き刺した。


 僕はやや驚き、その驚きは徐々に恐怖へと変わっていった。僕は最前何をしていたか。穴に顔を近づけ外を覗いていた。そのままのんびりと眺めていたら何が起こったか。恐らくは、このくちばしに目を攻撃されていたのだ。


 鴉は羽ばたきの音をさせながら、くちばしをぐりぐりと抉るように穴に差し込む。僕はただゾッとしながらその動きを見ていた。思い切って起き上がり障子を跳ね開ける。鴉が舞い上がり、庭から出て行った。僕は荒い息を吐きながら、鴉除けには何が効くのだったか思い出そうとしていた。頭が重い。泣きたい気持ちだったが、抑えた。そんな折に、庭先に関がやって来た。


「よう。なんだかやけに鴉が多いな」


 秋になり、彼の格好はくたびれた背広にソフト帽と変わっている。分厚い眼鏡とその奥の細い目は相変わらずだ。僕は少しだけホッとしながら、彼を迎えた。玄関から入らない事はこの際、不問に処す。


「聞いてくれ。さっき酷い事があった」


 菱田君が先程まで座っていた座布団を示すと、関は遠慮無しに腰を下ろす。手短に鴉の害を語った。関は眉をひそめた。


「そりゃあどうも妙だな」

「ああ。人を襲うと言ったって、普通あんな器用な真似までするとは思わないよ」

「何か怪異の匂いがする、そうは思わんか?」

「ええ?」


 途端に厭な気持ちになった。物理的な恐怖から、得体の知れない物への恐怖へとざわざわ心は移り変わる。


「君、相当ネタが切れてきたんじゃないのか」

「まあ、そうだな。これを元に何かデッチ上げられないかと考えているところさ」

「デッチ上げる」


 僕は益々ますます厭な顔をする。事実から物語をひねり出すのは僕ら文士の仕事であって、彼ら記者のやる事ではないのではないか。


「そうにらむなよ。何か、この鳥害について知っている事があったら聞かせてくれ」

「たいした事は知らんよ。ただ、先日近所に鴉の群れに全身を啄ばまれて病院に運ばれたという男が居るのと、その後も何人か、突かれて怪我をした者が居るという話を聞いたくらいだ」

「ほう。最初の被害者が一番酷いのか。興味深いなあ」


 手帳に万年筆を走らす。


「病院に行ってみたい」

「行っても良いが……いや、僕は御免だが……、話は聞けないと思うよ」

「何故?」


 僕は話しながら背筋がぞくぞくと震えるのを感じていた。厭な話なのだ、これは。


「その男、目と舌を殊更突かれていたらしい。……だから、多分、その、喋れない」

「ますます猟奇だ。気に入ったね」


 ぱたん、と関の手帳が音を立てて閉じた。彼は立ち上がる。


「そいつの家は何処だ? 本人が喋れないなら、周辺で聞き込むさ」

「本当にやるのか? 僕は嫌だよ」

「君の身辺の危険を減らせるかも知れんのだぞ。また目をやられるのは嫌だろうに」


 はあ、とため息を吐いた。多分、僕は、結局乗せられて外に出る羽目になる。


 外は変わらず重たげに曇っていた。一羽の鴉が声を立てながら空を横切った。

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