漆の弐
元々親戚に勧められて、特に乗り気でもなく、だが断る理由も無し、と言った具合のよくある縁談話だったのだと言う。あれよあれよと言う間に話が進み、関信二と芳枝さん夫妻は何度も言葉を交わさぬうちに、狭い長屋で夫婦として暮らすことになった。
そうして暮らす内にわかった事がひとつ。この夫婦はそれ程相性の良い方の組み合わせではなかったと言う事だった。
「あいつ、大人しいと言うよりは弱々しい性分の女でな。よくこの俺と
関はそう語った。それでも家事やら所帯の切り盛りやらはなかなかで、嫌な事ばかりではなかった、ともぽつりと言っていた。僕は少しだけその言葉にホッとした。
なかなか互いに馴染めない生活でもあったが、それでもそのうち情が湧く事もあろう、とあの関が歩み寄りを始めた頃、まだ籍を入れて半年かそこらの頃に、震災が来た。
「君の家も小火が出たんだっけか」
「ああ、煙草の吸殻を
家その物は無事だった。新しい家でもないが、それが反対に良かったのかも知れない。僕が独り者で、しかも暇な仕事で家に居たのも幸いした。兎も角、僕は震災をどうにか乗り切り、物資の不足に閉口する事はあっても、暫く後にはまた日常に戻る事が出来た。だが、関は。
「俺の家は長屋ごと焼けた。まず建屋が崩れてな。あいつは折れた梁の下敷きになっていたらしい。火が回っても逃げ出せず、そのまま焼け死んだ、と言うのが検分だ。職場から必死で歩いて来て、
他にも、隣人が大勢命を落としたと言う。僕はこの手の話を聞く度、どこか所在無い気持ちになる。運の良かった者は、そうでなかった者の前では無力だ。
「で、だ。そこで終われば良くある話だが。それから、俺や俺の知り合いの前にあいつがちょくちょく顔を出すって事が起こった。君と同じだ」
家や職場に出るわけではない。駅や雑踏の中で不意にすれ違ったり、じっとこちらを見ていたり。そんな風な出方をするのだと言う。
「あのこっちの顔色をジッと見る様な顔でな。見つめて来るのさ。意味がわからん。恨みつらみで出て来たなら襲ってでも来れば良いんだ。返り討ちだがな。何だか未練があるんなら、言ってくれれば供養でも何でもするさ。五年以上経って、まだジロジロだ。それこそ堪らんよ」
関は畳の上で行儀悪く脚を組んだ。
「関、それは……」
「何だか感傷的な事を言う
手を伸ばし、残っていた肉を一気に浚って口に放り込む。乱暴にがしゃがしゃと噛みながら、関は少しだけ遠い目になった。
「そんな筈は無いさ。言っちゃ何だが、俺は大していい亭主でも無かった。その内あいつに手を上げていたかも知れん。いつも地味な詰まらん着物ばかり着ていやがるなとは思っても、いい反物のひとつも買ってやった事なぞ無いんだ」
ハンケチを取り出して鼻をかむ。泣いている様子はなかった。
「だから、その、何だ。俺を好いているだとか、そう言うのは、無い。あったらあんなに探る様な顔をするかよ。間違いだ。第一、そんなに好きな奴のところに出たいなら親兄弟の家に行けと言うんだ。あいつら、葬式の時もわんわん泣いていた。ひとつも泣きもせず、半年暮らしただけの俺なんぞより、よっぽどその方が」
なあ、関。僕はこう言ってやりたかった。それでも、矢っ張り芳枝さんは君の事が好きで……少なくとも五年以上気に掛ける程度には好きだったのだと思うよ、と。そうしてそれは、君も同じなのだろう、とも。
以前の古書店で出された
(人の感情のわからぬ人でなしは)
僕は銚子から酒を注ぎ、ぐいと一飲みにする。
(自分の中の気持ちも見事にわからんと見える)
「……何かまた嫌な事を考えているな。お見通しだ」
関が少し赤くなった顔でこちらを詰った。こいつは酔いが回ると余計に気が荒くなる。黙っているのが良かろう、と笑って済ませた。
「どいつもこいつも。そんなに愛だの情だのが大事か。いちいちこちらに押し付けやがって。クソッ」
少々悪い酒になっているようだった。僕は少し止めようと、関の前の銚子を拝借するため手を伸ばし……。そうして、目を瞬かせた。
目の前の襖が半分ほど開いて、そこから茶色い羽織の袖と、白い手がこちらを招くように揺れている。
「おい、関。あれは……」
「あいつだ。何だ、話をしていたからやって来たのか? やり辛いな」
ひそひそと喋る間にも、手はそっと何度も振られる。
「何か、言いたい事があるんじゃないのか」
「だから直接言えと言ってる。俺はあの手の出方は嫌いだ。こちらに読め読めと
「まあ、待てよ」
関を押し留め、僕は手にそっと声を掛ける事にした。
「あのう、芳枝さんですか」
ぴたりと手の動きが止まった。一度話した相手であるからか、不思議と恐怖はなかった。
「何か、僕らに……もしくは関に、伝えたい事があるのでは」
「おい、止せよ。飯が不味くなるようなことは」
手は少し困ったようにゆらゆらと動くと、スッと前を指し示した。前、即ち廊下だ。直ぐ行けば一階に降りる階段がある。
「ここを出ろと?」
「まだ葱が残ってるし、
意地の汚い事を言う男は放って置く。手は頷くように縦に揺れた。
「関、そろそろ店を出よう」
「お前はあいつの何だ。俺は半年とはいえあの女の亭主だったんだぞ」
「良いから」
酔っ払いを押し留める。嫌な予感がした。僕は立ち上がり、関の荷物を纏めてやる。ついでに銚子から全部酒を飲み干した。
「全く、仕方がないな。折角の奢りだと言うのに……」
関がフラフラと立ち上がる。袖と手はいつの間にか姿を消していた。僕らは廊下に出る。
ふと、下階から焦げ臭い匂いが漂ってくるのに気づいた。
「……火事だ!」
誰かが叫ぶ声がした。それから悲鳴と、パチパチと弾ける様な音、水をかけている音。逃げ惑う足音。
僕らは顔を見合わせた。そうして、女将が慌てて知らせに走ってくるところをすれ違うように、バタバタと階下へと駆け下りて行った。
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