第伍話 とおいほんだな

伍の壱

 残暑と一言に言うが、あまりに残し過ぎではないか、と僕はじわじわとした暑さに滅入っていた。

 朝から睨み合いを続けている原稿用紙の升はなかなか埋まらない。ぽとりと汗が落ちてインクが滲んだ時、僕は遂に万年筆を放り投げる事を決めた。比喩である。実際は文机の上にごろりと転がるに任せ、勢いがつき過ぎたかそのままごろりと反対側の畳にまで転がり落ちた。立ち上がるのも面倒なので寝転がり、腕を伸ばしてどうにか指が届いたところで。


「何をやってらっしゃるんですか、大久保先生」


 庭先から呆れた声が聞こえた。庭と言っても名ばかりで、面積もごく狭ければ草も雑草しか生えてはいない。ただ、玄関先から直ぐ横に入れば縁側に出るので、たまに訪れる友人はこちらから来る事も多い。


 それは良いのだが、今回の声の主は友人ではなかった。


「ああ、丁度良かった、菱田君。そこの万年筆を取ってはくれないか」

「立って回り込めば良いではないですか。不精にも程があります」


 ぶつぶつと言いながらも、その背の低い童顔の青年は靴を脱ぎ、中に上がると転がった万年筆を拾ってくれた。


「有難う。様子見かい」

「そろそろ行って激励しろと言いつかりました。呼び鈴は鳴らしましたがお返事が無かったので、こちらから。進行は如何です」


 僕が世話になっている小さな出版社、秋風社の編集者、菱田明彦君は慣れた顔で畳に座った。零細文筆家たる僕は一先ず原稿用紙の束を見せる。


「こちらが今日までに書き終えた文だ」

「はい」

「こちらがこれから書き終える分だ」

「はい。どう見てもこれからの方が分厚い様ですが」

「それはそうだよ、君。いつだって白紙の未来は過去よりもずっと価値がある」

「先生は未来派でいらっしゃる。感動しました。早く書いて下さいね」


 どうもこの青年には阿りや誤魔化しが通用しない。編集者として有能であるのは確かなのだが。


「それから、お酒は止めましょうよ。せめて執筆中は」

「飲んでないよ」

「『それ程は』ですよね。いい加減わかっていますよ。先生はお酒で感性が研ぎ澄まされる型ではないと思いますし、何より健康に悪いです」


 ぐうの音も出ないが、酒を断つ訳にはいかない。執筆にいい影響が無いことはわかってはいるが、そもそも生きていく上での精神の平衡の為には必要なのだから。


「こちら、差し入れです。お酒に合わない物を選びました。どうぞ召し上がって、良い物を書いて下さいね」

「……どうも」


 最中を頂戴した。口が渇くのでそれ程好きではない。


「ところで、噂で伺ったのですが、何やら怪談を探していらっしゃるとか」


 僕は少し嫌な顔をした。『「帝都つくもがたり」のO氏』が僕であるとの噂は、それなりに広まっているらしい。驚き役の道化として名が売れるのは心外だ。


「僕がじゃないよ。関って性格の悪い記者の担当だ。僕は只の付き添い」

「何でも良いですが、締切には響かせないで下さいね。……探してらっしゃるならひとつ用意があったのですが、それじゃあ必要無さそうですね」

「必要あるともさ」


 また庭先から声がした。カンカン帽に眼鏡の怪しい記者、関がそこに立っていた。


「君はこちらから回って来るなと言ったろう。図々しい」


 嫌な顔をしてやったが、関はどこ吹く風だ。


「呼び鈴に出ない癖して何を言うよ」

「今鳴らしたか?」

「鳴らさんよ。こちらから声がしたからな」

「先生、呼び鈴の意味が何も無くなっていますよ」


 僕は少し目眩がして頭を抱えた。関と菱田君は初対面だが、何だか妙に噛み合っている様子がある。


「あー、こちらが今話した帝都読報の関。僕の元学友だ。で、こちらが秋風社の菱田君。酒が嫌いらしい」

「先生が飲む酒が嫌いです。自分で飲む分には全く」

「こいつの酒は酷いですからな。わかるわかる」


 関は靴も脱がずに縁側に腰掛けた。そして熱心に言う。


「それで、何か怪談の用意があるとか聞きましたが」

「ありますが、今話して先生のお仕事に障りはしないかと……」


 菱田君は心配そうにチラリと僕の方を見たが、関はお構い無しだ。


「俺が来たんだから、いずれにせよ執筆は中断さ。何、邪魔にはならんよ。こいつ、うちでの仕事のお陰でいい発想が湯水のように湧くと言っていた」

「言ってない」

「言ってないが、そのうち言うよ」

「関さんも未来派ですか。まあいいや、そもそも中断させたのは僕ですしね」


 ふう、とため息をつく。その前に汗のせいで中断していた事は言わないようにしようと思った。


「実は、先日こんな事がありまして——」


----


 菱田君が仕事帰りの夕暮れ、長く伸びた影を連れて道を歩いていると、一軒の店が目に入った。

 古びて、なんだかあちらこちらが茶色く萎びていて、看板など「××堂」とどうやら最後の文字だけが読める程度になっていた。こんな店が近所にあったか知らんと眺めていると、白茶けた文字でどうやら『古書店』との表記が見受けられる。

 人一倍書物が好きで、それで出版社に入社した菱田君だ。喜び勇んでその店に入って行った。酷い有様ではあるが、何か稀覯きこう本の類がありはしないかと望みを賭けたのである。


 結果として、彼の目論見は当たり以上に当たった。


「凄いんですよ。琴田英明の手稿だの、永塚寒山の署名入り本だの、秋桜寺三郎の私家版だの。宝の山でした」


 顔を紅潮させながら語る菱田君であったが、関は首を捻るばかりであった。


「ああ、琴田英明と言うのは明治期の……」

「いや、解説は良いから、先進めてくれ」

「そうですか。兎に角凄い本ばかりを置いていた、と思って下さい」


 そんな本の数々を目を輝かせて見ていると、店主らしき老人がよろよろと歩いて近寄ってくるのが見えた。老人は彼の横に立つとこんな風に話しかけてきたと言う。


「あなた、本がお好きかね」

「はい、とても。ここは凄いですね、桃源郷の様だ」


 うっとりしながら菱田君は答えた。


「それは良かった。ゆっくりご覧下さい。だが、うちは普通の方法で支払いはやっていませんからね。そこをひとつ宜しくお願いしますよ」


 それを聞いて、菱田君はヒヤッとしたと言う。これ程の稀覯本だ。現金では取り引き出来ないのかも知れない。何にせよ、自分に手が出せる物では無さそうだと慌てて本を棚に戻そうとする。


 老人はそれを見て皺だらけの顔で笑った。


「何、大丈夫ですよ。払えない様な要求は致しません。代償はね……」


 すっ、と老人が背筋を伸ばし、彼の耳元で囁いた。


「あなたの、目玉だ」


 菱田君は今度こそ心から恐怖を感じ、そのまま戸を開け、逃げる様にその店から立ち去ったのだそうだ。


 さて、そこで終われば良かったのだが、菱田君にはどうしても忘れられない本があった。


「安野梅雀の歌集があったんですよ」

「誰だねそれは」

「夭折の歌人と言われていて、二十歳過ぎくらいで亡くなった人です。古典的な題材を取りながらも表現はあくまで大胆な」

「長い。短く」

「……一冊だけ歌集を残しているんですが、その初版は三十部しか刷られていない上に、大部分は倉庫の火事で焼失しているんです。で、初版にしか収録されていない歌もあるそうなんですよ」

「要するに、お宝本の極みって訳だな」


 関は無理矢理に納得をしたようだ。文学なぞこの男に理解できる筈もない。


「それが忘れられなくて、何度か書店のあった辺りを探したんです。でも見つからなかったし、周りの店でもそんなところは知らないと言われるばかりだ」


 ふうむ。関は顎に手をやる。


「消えた得体の知れぬ店か。いいね。恐怖感はそこそこだが、雰囲気と謎がある。なあ大久保」

「目は止めてくれ」


 僕は耳を塞いで蹲っていた。目は商売道具でもある大事な器官だが、中の眼球のことを考えるとぞっと鳥肌が立つように出来ている。


「目は……」

「あいつ駄目だな。菱田君だったね。その店のあった場所を教えてくれはしないか」

「構いませんけど……」

「その安野某の本を見つけて、上手い事出来たら持って帰ろうじゃないか」

「本当ですか」


 ぱっと菱田君の顔が明るくなる。彼はまだ若い。世の荒波を知らぬ。可哀想に。


 地図で場所を示すと、菱田君は上機嫌で帰って行った。関は手帳に書き込み頷く。


「それじゃあ、行くか」

「どうしたんだ、さっきのは。やけに優しい事を言う」

「ああ、本の話か? なあに」


 意地悪い笑みを浮かべ、関は縁側から庭へと飛び降りた。


「持って帰るとは言ったが、あの坊やにやるとは言ってないからな。高く売れるんだろう? 一儲けだ」


 この男を野放しにする事は、社会にとって果たして良い事なのかどうか、僕は測りかねていた。

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