肆の弐
「何……何なんです、あれは」
僕は震えながら素早く扉を閉める。秀樹殿が鍵を掛けた。
「それを伺いたくてお呼びしたのですよ」
「存じませんよ! 俺達は拝み屋だとかじゃないんですよ!」
「またまた、ご謙遜を」
関は天井を振り仰いだ。駄目だ。何と言おうか、秀樹殿には——危機感が決定的に足りない。
扉の向こうで、ガタガタと音がした。人形が出たがっているのだろう。
「逃げますよ」
「え、いやしかし扉はもう……」
「今迄も、扉を閉めているのに部屋に現れたんでしょうに。あの手の物に障害は無意味です」
関は苛々と返す。いつかの赤ん坊と同じか。物理的な障りはすり抜ける事ができると関は考えている。
ぬ、とひび割れた小さな手が扉の中から突然突き出した。関は正しかった。
「逃げますよ。部屋が目当てなんだか人が目当てなんだか知らんが、兎に角危ない!」
「あっ、おい、関!」
言うなり関は廊下を駆け出す。僕も慌てて続いた。そして——秀樹殿も。関は叫ぶ。
「待って下さい、中小路さん。何故こっちに来るんです!」
「いけませんか」
「人形はあなたを狙っているかも知れんのですよ! 僕らとは逆方向に行って下さいよ!」
「関、君、それはあまりに薄情だろう」
「危険性の分散だよ。三人纏めて死ぬか、ふたり生き残るか!」
それは結局どちらでも秀樹殿は死んでいないか、と言う暇もあらばこそ。人形が這うずず、と軽い音が聞こえた。速い。
ちらりと横目で見る。人形は、糸が切れた様に床に崩折れた姿勢のまま、両手足を全部使って不気味な姿勢でがさがさと這っているのだ。まるで人間の写し身とは思えぬ奇怪さ、気味悪さであった。
「護符は持っていないのか」
僕は関に尋ねる。
「無いよ。あれは相当高いんだぜ。そうそう持ち歩ける物かよ」
「おや、残念ですな。退散させるところが見たかったのですが」
「あのですねえ……」
走りながら、関は心底呆れた顔になる。
「まあいい、そこの階段を降りて外に出ましょう」
「外まで追って来たらどうするんだ?」
「流石にそれは無いと思いたいが。……!」
関は足を止める。何をどう動いたのか、人形が目の前で、複雑骨折をした様な姿勢で蠢いていた。
「
我々はくるりと後ろを向き、来た道を引き返した。階段が遠ざかる。
「何か、あっちからこっちに跳べるのか、あれは」
「そんな物に追われたら逃げ場なんぞ無い……!」
だんだん息が切れて来た。秀樹殿もその様だった。このままではどちらかが脱落するのも時間の問題だ。
「大体、何故あの人形は突然あんな風になったのですかね」
「大体想像がつきますよ。嫌になったんじゃ無いですかね、身代わりが。折角頑張っても痛いだけ、おまけに供養に連れて行って貰えすらしない」
関の口調の化けの皮がどんどんと剥げていく。良く今
「警告のつもりか、それとも本気で主を殺してしまおうとしてるのかはわからんが、こりゃきちんと然るべきところに持って行かないと拙いですよ」
「そんな……」
次の瞬間だった。追いかけて来た人形の姿が不意に掻き消えたと思うと、僕の足に鋭い痛みが走った。
見ると、雪駄履きの
「おい、関! 何が齧り付きゃしないだ」
「知るか! それよりも心配事があるだろう! 攻撃の相手は華族様に限らんと言うことだ。俺らも巻き込もうとしている」
関はブツブツと何やら頭を働かせているのか、走りながら独り言を始める。秀樹殿は遂に情けなく喘いだ。
「ああ、もう駄目です。走れません」
「
「関、繕え!」
もはや華族も平民もない、平等の世の中であるとばかりに、関は慇懃な態度をかなぐり捨てていた。そして、はた、と何かを心得た顔になる。
「眠ると人形は消えたんですね?」
「え? ええ、いつもそうでしたが」
「念の為聞きますが、今ここで眠る事は」
「無理を言うなよ」
「そうですよ、出来る訳がない」
人形が再び消えた。今田は秀樹殿の首に、だらりとボロボロの小さな手が巻きつく。首を絞められ、彼は仰け反った。
「もうひとつ! こいつを止めるためなら、何をしても構いませんね!」
関がヤケを起こした様な声を上げた。秀樹殿は藻搔きながら、何度も頷く。関も頷き返した。
「よぉし。では、だ。歯ァ食い縛れ」
刹那、関の握り拳は、人形ではなく、秀樹殿の頰を思い切り殴り飛ばした。
「何やってるんだ!?」
「大久保! お前もやれ!」
秀樹殿は声を上げられずにたたらを踏み、痛みと混乱と苦しみで酷い顔になっていた。
「良いか、中小路さんの意識が途切れると人形は居なくなる。と言う事は、この人の意識と人形は繋がっているんだ。身代わりになるくらいだ、強い縁があっておかしくない」
言いながら関は振りかぶり、何発も拳を叩き込む。
「彼が沈めば、怪異は治まると言う事だ!」
よく見れば、人形の力は弱まり、ずるずると手を放しつつある。関の行動は単なる恨みの発散ではなく、根拠はあったらしい。
「だから意識が飛ぶまでこっちを殴る。人形の方はどこまで丈夫かわからんからな」
「関」
僕は一言だけ言った。
「顎を狙え」
彼は頷き、放った右の拳は見事、秀樹殿の下顎を打ち据えた。華族の三男坊は喧嘩などした事が無かったろう。ふらふらと後退り、そのまま崩折れ、がくりと頭を垂れた。
人形は、と言うと、カタカタと揺れたかと思うと同じく力尽きた様にずるずると力を失い、やがて床に転がった。
「やった……」
「今のうちに紐か何かで縛っておくぞ。それで、寺に持ち込んで住職を叩き起こす」
傍迷惑な事を言いながら、関は人形を蹴飛ばす。
「やれやれ、本当に迷惑な華族様だよ」
関は伸びをした。少しスッキリした顔をしていなくもなかった。無理もない。僕も同じ気持ちだった。
「しかし紐なんぞどこにあるか」
「君の帯を寄越せ」
「嫌だよ!」
結局、一階から登って来た小間使い(先ほどは外にいたらしく、騒ぎが聞こえなかったのだ)に頼み、紐の件はどうにかなった。ぐるぐるに縛られ、風呂敷で包まれた人形は実に無念といった顔をしていたが、これできちんと供養されるのだから根に持たずにいて欲しい。特に僕は、何もしていないのであるし。
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関が懇意にしているという住職は、叩き起こされ不機嫌そうながらも、どこか慣れた様子だった。こういった駆け込みがしばしばあるのだろう。顔を見るなり頭から塩を撒かれたのには閉口したが。
「結局、人形の狙いは何だったんです?」
供養が済んだ後、座敷のぼんやりとした明かりの下で関が聞くと、住職は重々しく頷いた。
「予想に過ぎんが、心中……と言うよりは、その男を殺せば自分も消える事ができる、と考えたのでは無いかな。人は自殺が出来るが、ああいった物は自分から消える事が難しいからのう」
「しかし、何故今頃」
「わかる気がする。あの部屋だよ」
僕は関に答えた。
「あの部屋の人形は全て、綺麗に大事にされていたろう。ところが、件の人形のようだけはボロボロで繕っても直らぬまま放っておかれた。それは、嫌にもなるさ」
「お前の悪い癖だぞ、そうやってわかった様にして入れ込むのは」
関は出された茶を飲み干す。住職も軽く頷いていた。
「あまり気持ちを重ねん方が良い」
「はあ……」
それ程同情していたろうか。僕はよくわからない気持ちで、茶を啜った。境内でなければ、酒瓶を取り出して呷るのだが。
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翌日、我々は改めて中小路家に謝罪に行った。秀樹殿は寛大にも僕らの所業を許してくれ、記事化の暁にはぜひ二十部程送って欲しいとまで言われた。やはりこの華族様、どこか螺子が緩んでいる。
秀樹殿の人形道楽はその後も歯止めが利いていないようで、収納の小部屋をもうひとつ増やしたらしいと関から聞いた。
ただ、あの人形が置いてあった場所だけは、空けて残して置いてあるらしい。
秀樹殿の心情は正確にはわからないが、彼もどうやら僕と同じく、細かな物事に気持ちを重ねてしまうたちであると推察される。
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