伍の弐

 二日後。結論から言うが、菱田君に聞いた場所を幾ら汗水垂らしてうろついても、古書店は見つからなかった。


「胡乱な情報教えやがって」

「どこにも見つからなかったと言っていたじゃないか。むしろこの方が理に適っている」


 僕と関は諦めて僕の家に戻り、昼から麦酒と洒落込んでいた。関は行儀悪く足を伸ばして座っている。


「何だ、やけに諦めが良いな」

「そりゃ、怪異になんて出会わないに越したことは無い」

「君はそうやって怖がっている癖に、出会うと変に入れ込むんだ」

「君は面白がって近づく癖に、態度は冷たいよな」


 黙って二人でグラスを啜る。互いに言いたい事はあったようだが、言わない事にした。


「目玉が代償か。妙だよな。目が無けりゃ本なんぞ読めんだろう」

「それが不思議だったんだ。そう簡単に目なんぞ手放すだろうか」

「俺にはわからんが、蒐集家気質ならひょっとして、何を手放しても、という奴が居るかもな」


 背筋にぞわぞわと厭な物を感じながら、そんな話をした。自分が突然何も見えなくなるなぞ、恐怖以外の何物でもない。大抵の人間はそうだろう。読書家なら尚更の事だが、読むよりも蒐める事を重点に置いている人間ならばあり得るのだろうか。何を質に入れてでも、それを手に入れたいと願う事が。


 りん、と音がした。


「おい、呼んでるぜ」

「うん。まあ、用事ならこちらに来るだろう」

「……呼び鈴が用を為さんのは、君自身の所為せいだな」


 果たして、さくさくと草を踏みしだいて、現れたのは一昨日に引き続き菱田君だった。が。僕らは彼の様子を見てぎょっとする。


「今日は。またお酒ですか」


 彼のやや幼い様子の顔には、左の目に痛々しい白い眼帯が掛けられていた。


「どうしたんだ、その目は」

「ああ、これ。皆言うんですよね」


 菱田君は少し面映そうにする。物貰いで腫れてしまって、などという長閑のどかな答えを僕らは期待した。だが。


「取り替えたんです、本と。丁度目玉がひとつ分でしたよ」


 目の話に神経が反応したのか、あまりにさらりとそんな事を言う菱田君に恐怖を感じたのか、その両方か。僕は顔を引きつらせてガタン、と後ろに下がった。


「と言う事は、つまり、また行ったんだな。例の店に」


 関は逆に身を乗り出していた。


「はい。この間とは全然違う場所で。聞いて下さいよ。あの歌集に巾木雨舟の画集の美品までついてきたんです。お買い得だと思いませんか!」

「……君、それで一生左目は見えないのか」

「そうですよ。仕方ないですよね。一期一会です。ほら」


 左目の眼帯をめくると、黒目が薄い灰色に変わっているのが見えた。眼球その物は無事であるらしいが、僕は何だかもう、折角麦酒を飲んだと言うのに気分が悪くなってしまった。


「それで、書店の場所なんだが……」

「そうそう。あれは尋常の店じゃありませんからね。同じ場所を探しても無駄なんだそうです。あの店の本に重々縁のある人間が居て、初めて見つかるのだそうですよ」

御伽噺おとぎばなしだな」

「だから、関さん達が行って辿り着けるかどうかは……」


 縮み上がっていた僕は、情けない声を上げる。限界であった。


「もういいよ、止めだ。今回は他を当たろう、関」

「何を言ってる。折角面白そうな話が転がってるんだぞ」

「僕は稀覯きこう本に興味はないよ。つまりその店に行く事は出来ないってことだろうが」

「いいえ」


 割り込んだのは菱田君だった。思慮深げな顔で、こんな事を言う。


「お二人なら難しいかも知れませんが、ひとつ方法が」

「何?」


 関は訝しげな顔で彼を見る。僕はふとひとつ思い当たり、もうガタガタ震えそうになっていた。


「僕が一緒に行くと言うのは如何です。僕なら縁に関しては……」

「君は幾つ目玉を支払う気だ」

「もうひとつありますね」

「馬鹿か!」


 流石に関が目を剥いた。もう駄目だ、仕事ではそれなりの付き合いだが、この青年がここまで常軌を逸しているとは思いもよらなかった。


「冗談ですよ。見えなくなっちゃ仕方がない。行っても何も買いません」


 本当だろうか。実に怪しいと僕は思ったが、菱田君は乗り気である。


「さ、行きましょうよ」

「今からか」

「善は急げです。ああそうだ先生、出来ている分の原稿は頂いていきますね」


 僕の努力の結晶をサッと鞄に入れると、そのまま門の方へと行ってしまう。僕らは顔を見合わせた。


「おい、あれ、気をつけてろよ。何をやらかすかわからん。帰りは手を引いてやらなけりゃならん、なんてのは俺は御免だし、目玉だけでなく手足まで置いてくる、なんて事もあり得る」

「僕は正直関わり合いになりたくない」

「君の筋の人間だろうが」

「なんだか様子がおかしいよ。あそこまでとは思っていなかったんだ」


 僕らはひそひそと話し合った。菱田君がヒョイと顔を出して手招きする。


「とにかく俺は行くよ。取材のためだ」

「僕はここで待……いや」


 ハタと気付いた。菱田君は僕の原稿を一部持って行った。もし彼がさらわれるか何かで消失したら、僕の作品はどうなる。闇に消えてしまうのではないか。僕は二回同じ文を書けるほど記憶力も根気も無い。


「わかったよ、行くよ。行く。必ず三人で帰ってくるからな!」


 その意気だ、大久保先生、と関は僕の背中を打ち、庭へと下りて行った。誰も彼も、表玄関から出入りしてくれない。


----


 空は青く、高く、白い雲が眩しく浮かんでいた。蝉の声は夏の盛りに比べると随分と落ち着いている。金色の陽に照らされた道を、僕らは歩いていた。


「どこまで歩くんだい」

「店が現れるまでですね」

「そりゃいつだよ」

「僕にはわからないですよ。店に聞いてください」

「だから店はいつ出てくると……」

「あ」


 菱田君が立ち止まり、僕は勢いを止められずにつんのめった。彼はすぐ先を指差す。


「ありました。ありました。矢っ張り僕とは縁があるんだ」


 すると指の先には、おどろおどろしいまでに古い、一軒の店屋の軒先が見て取れた。

 成る程、あちこちボロボロと崩れ、なんだか建物自体が危うげに見える。外には何も置いておらず、看板文字は消えかけ、周囲の建物からは完全に浮いている筈なのに、何故か溶け込んでいる、そういった店だった。


「……入るか」


 関がごくりと唾を飲む。菱田君はさっさと前に進んで入店しようとする。僕は慌てて声を掛けた。


「菱田君。気をつけ給えよ。もう片方の目は手放すな」

「何を当たり前の事を言っているんですか、先生」


 がらり、と引き戸が開いた。中からは古書店特有の、くすんだ匂いが漂ってくる。


「あっ」


 中に入った菱田君は早速感嘆の声を上げる。


「柊慮外の初版本が! こちらは同人誌『瞬き』の超美品」

「君、人の話を聞いていたか?」


 僕もおずおずと入店する。店の中はひんやりとした空気が漂い、変に静かだ。僕は古書の類にはあまり興味は無いが、どこか惹かれる雰囲気が漂っているのは確かだった。


「だって、こんなの目玉のふたつみっつ支払ってもお釣りが来ますよ!」

「よく考え給え、読めなくなるんだぞ」

「そしたら抱いて寝ます!」

「大久保、そいつかなりの倒錯者だぞ。もう放って置いた方がいいんじゃないのか」


 関が呆れた声を出すと、奥からがさり、と音がした。背の低い老人がのそのそと出てくる。


「いらっしゃいまし」


 老人はにいっ、と変な笑いを浮かべた。


「おや、この間の。御本はお気に召しましたか」

「はい、とても。今日はこちらの……」

「菱田君。駄目だ」


 僕はそろそろ無力感を覚えながら彼を引き止める。矢張り来るべきではなかったのではなかろうか。


「そちらのお二方は初めてですね。目と引き換えに出来る程の品が見つかりますよう」

「いや、そうは言っても、俺らは蒐集家じゃあないのでね。一寸ちょっと変わった店と聞いて見に来ただけなのですよ」


 僕も頷いた。老人も心得ておりますよ、とばかりに何度も首を縦に振る。


「まあ、ごゆっくりご覧下さい」


 僕は何とは無しに目を棚に落とした。ふと、紺色の地に白い文字で『喝采』と書かれた背表紙が飛び込んで来る。


 心臓が高鳴った。


 僕はそれを取り出して頁をめくる。間違いない。確かだ。


「大久保、どうした?」

「これは……」


 わなわなと震えながら答える。


「僕の本だ」


 初めて自費で作った本だ。全く売れなかったが出版社の目には止まり、お陰で今日の通り文筆で糊口をしのぐことが出来るようになった、その切欠の本だった。震災で小火を出し、家にあった在庫と原稿は全て駄目になってしまった。だからもう何冊もこの世には残っていない筈の本だった。


 本から指先を通して僕に流れ込む様に、当時の思い出が、あの頃の若く鮮烈な気持ちが蘇る様だった。僕は久しぶりに、酒よりも芳しく快い思いに浸っていた。読み返せば若書きだろうが、確かに僕は、僕の作品を愛していた。


「何故ここに……いや、それよりもこれを買い戻したいのですが、矢張り対価は目になるのですか」

「おい、大久保」

「その通りでございますね。当店では金銭での売買は行っておりませんので」

「おい!」


 腕を強く掴まれた。


「何だ何だ君まで。君こそ目をやっちまったら商売に障るだろうが」

「あなた様でしたら、そう……」


 老人がその辺りの本を探り、一枚の大判の冊子を取り出した。それは、写真帖アルバムの様に見えた。


 関の顔色が変わった。ぶるりとひとつ震える。


「こちらなど如何でしょう?」


 関は手を差し出し、その冊子を受け取る。そうして、表紙を懐かしげにさっと撫でた。


 僕はその様子を見、同時に見てはいなかった。只、この懐かしい思い出の品をどうにかして手に入れたいとそれだけを願っていた。菱田君の気持ちが今は、痛い程わかった。目など問題では無いのだ。欲しい物は、欲しい。


 菱田君が何事か言い出す前に、関が写真帖アルバムを手に一歩前に出た。

 そうして、冊子の角で思い切り、老人の頭を殴りつけた。

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