参の肆
『アトラス』のカウンターに陣取り、穏やかな照明の下で吸いつけない煙草を吸っていたら、仕事帰りの関に珍しいな、と声を掛けられた。
「何だ、不健康のデパートか」
「たまにはそう言う気分の時もある」
関は少し変な顔をして、鞄から何か取り出す。低俗な三文雑誌だ。
「この間の事件、悔しいがこっちにだいぶ載ってたぞ。まあうちは速報が売りだからいいとして……」
「いや、いい。見ない」
僕は関の声を遮った。
「どうした。また気鬱か? あの婦人の顔でも……」
「見ないと言ったろ!」
強い語気に、周囲の客が皆振り向いた。関は曖昧に頭を下げる。僕は煙草を揉み消す。煙が白く上がり、やがて溶けた。
「君が忠言を無視してのめり込んでる様なのは呆れるが、尚更わからんな。顔と実名が載ってるんだぞ。知りたくはないのか?」
「いいんだ」
普段なら、僕は君程下衆な興味に支配なぞされては居らん、とか何とか言い返して、それで結局自分も好奇心に負けて中を見て、死ぬ程後悔をしていたろう。だが、今の僕は本当に見る気がしていなかった。彼女はもう居ない。それだけだった。
血塗れの部屋と着物は、そのうち不思議に全てが綺麗に消えて元に戻った。そうすると、彼女の残していった物はもう何も無い。乱暴にめくった新聞だけが床に落とされていた。
妙な物を残していった関を恨まないでもなかったが、これで良かったのかもしれない、とも思った。僕が
僕は台所から酒を引っ張り出してきて浴びる程飲んだ。細やかで邪魔な感情を全て押し流したら、何もかもがどうでも良くなって、暫く昼も夜も寝ていた。どうにか起きる気になったのが今日で、独りでまたひたすらに飲酒を続けていたのだ。
「彼女、もう消えてしまったようだ」
「消えた……と言う事は、矢っ張り幽霊だった訳か?」
頷く。関の無遠慮で無神経な言葉が、いっそ心地良かった。
「何も害悪はなかったよ」
「何がだよ。君、今酷い有様だぞ。ピシッとし給え」
「嫌だね」
肘をつき、思う。束の間の、恋とも呼べぬようなあの想いは、害悪だったろうか。確かに今の僕はボロボロではあるが。
「あれだ、吉原にでも行って来い。生身の女と会えば少しはマシになるだろ」
「君は本当に……何だ。俗だな。恥を知れよ」
「お、跳ね返って来たな。いいぞ」
無視をする。彼の提案はひとつの解決法ではあるかも知れないが、恐らく逆効果だろう。今の僕は多分、どんな女にも顔の無い彼女を重ねてしまう。
そう、今の僕は。
「関」
「何だ」
「僕は多分、暫くしたら彼女を忘れるよ」
「何?」
甘いカクテールを口にしながら、関が怪訝そうな顔をする。
「一生忘れないだの言い出すかと思ったら」
「顔も名前も知らないんだ。きっと忘れる。それで、時々思い出す。雨が降った日とかにな。そう言うのが良いんだろう、死んだ人間ってのは」
「まあ、そんな事も言った気もするが」
半ば夢心地になりながら、僕は取り止めのない言葉を紡ぎ続けた。
「あの
「大久保、涎を溢すな」
「そういう……そういう風に」
「寝るな寝るな。すいませんね、こいつ長々と居座って……」
関の声が遠くなって行く。僕は遠くに雨の音を聞く。閉じ込められていた小鳥は、どこまで高く羽ばたいたろうか。
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僕の手元には、少し前の新聞の切り抜きがある。僕は、雨が降ると時々それを取り出しては眺める。
そうして、僕の家でほんのひと時雨宿りをして行った、名も知らぬ、顔も覚えていないあの婦人の事を頭の片隅で思い出すのだ。
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