参の参

 彼女が再び僕の前に訪れたのは、次の週の、やはり夕立がしとしとと降る日の事だった。

 僕はぼんやりと寝転びながら、雨戸を閉めるべきか否か、迷っているうちに降り止まぬものかと考えていると、ことことと戸を叩く音がする。出ると外には雨に濡れた婦人が立っていた。

 最初はわからなかった。記憶の中の消えてしまった顔と、目の前の婦人の顔とが一致しなかったのだ。


「ご機嫌よう。近くに来たらまた降られてしまって。思い出して来てみたの」


 声音でようやくそれと気づく。よく考えれば妙齢の婦人が我が家を訪れるなど、良くて何かの訪問販売で、悪ければ布教活動だ。彼女はそのごく希少な例外だった。


「またお酒を飲んでいないか気になって」


 僕は、またもや葛藤の中に居た。関の言葉を思い出す。彼女が本当に幽霊なのならば、何を置いてでも追い出すべきだろう。だが、目の前の上品な婦人は、どこまでも普通に生きた人の様にも見えた。何より、僕は彼女に既に愛着を覚えていたのだ。


「それ程は飲んでいませんよ」

「本当かしら」


 僕は頭を抱えたくなる程悩み、そして、屈した。


「……まあ、中へどうぞ」


 僕は、悪友の忠告よりも目の前の据え膳を取ったのである。



 瓶は処分したし、掃除は先週した。布団は断ってから慌てて畳んだ。畳んでから、もしかしたら片付ける必要は無かったのではないかと思ったがもう遅い。兎も角、少なくとも以前の来訪時よりは片付いた部屋に通す事が出来た。婦人は浮ついた様子の僕を面白そうに見ていた。

 そうして、僕は大事な事を思い出した。この女が生きた人間であるならば、それはそれで重大な問題があったのだと言う事を。


「……あの、旦那さんは平気なのですか」

「ああ、覚えてらしたんですね」


 彼女は目を伏せ、それから決然と顔を上げた。


「何も問題などありませんとも。お友達のところを私が訪問して、悪い事などある物ですか」


 お友達、と来た。僕はやはり布団は畳んで良かったのかも知れないと思いながら、それはそうですともと相槌を打つ。


「ただ、厳しいと聞いたので……」

「あれはもう病気よ。ほとほと愛想が尽きました。もう好きにする事にしたの」


 好きにした結果が、バーで夜更かしに外泊に朝帰り、と言う訳か。僕は得心したが、不安は残る。


「本当に大丈夫なんでしょうね」

「そうね、もしかしたらここを突き止めて殴り込みに来るかもしれない」

「そこまで」

「そうしたら私達、どう見ても逢い引きだもの。刺されてしまうかも」


 婦人は真剣な顔で僕の顔を見上げた。


「一緒に死んで下さる?」


 僕はごくりと唾を飲み込んだ。何と返事をして良い物か。すると婦人はくすくすと笑った。


「冗談よ。私の行き先なんて誰にも伝えずに来たのだから、ここがわかる筈がないわ。安心なさって」


 僕は途端にはいと答えなかった事を後悔し出した。いつもの癖で、もぐもぐと口を動かしながら一言も口を利かずにいる。婦人はそんな僕を不思議そうに見ていた。


「冗談と言うのは」


 漸く僕は声を絞り出した。


「どこまでが冗談ですか」


 頭の中でおい馬鹿深入りするなと関の声がした。追い出してやる。


「これが逢い引きだと言うのも冗談ですか」


 言ってしまってから、顔を伏せる。何を言っているのだと思う。相手は死人かも知れず、嫉妬深い夫がおり、何よりまだ二度しか会った事のない女性だと言うのに。


 しん、と沈黙が降り、雨の音だけがぱらぱらと聞こえて来た。外を誰かが走って行く。傘を忘れたのだろう。


「僕は」


 婦人は己の口の前で人差し指を立てた。次の言葉が行き止まる。告げようとした言葉は、彼女にとっては禁忌であるのかもしれなかった。では、僕はどうすればいいのか。


「ああほら、新聞が落ちていますよ」


 他愛の無い言葉で沈黙を破ったのは、彼女の方だった。僕の気持ちは中空で無かったことにされ、バラバラと散りかかる。白い手が伸びて、床の新聞を拾った。


「古い号じゃないの。ちゃんと捨てないと……」


 声が止まった。彼女は新聞の日付を見つめていた。帝都読報。八月一日。そうして、ガサガサと焦るように中をめくる。


 しまった、と思った。


 婦人の手は、三面で止まる。囲み記事に目を落とす。あの殺人事件の報道だった。そうして、僕を振り仰ぐ。最悪の想像が、当たってしまった。


「知っていたの」

「何の話ですか」


 僕は一縷の望みを賭けて、知らぬふりをした。婦人はかぶりを振る。


「読んでいたのでしょう、この記事。記者さんが居たものね。あの人が教えたのかしら」

「どう言う事かわからない」

「だって、私は」

「いいですか」


 僕は必死にまくし立てた。


「あなたとその記事の関係なぞ僕は知らないし、知りたくもないんだ。何も言わないで下さい。そうすれば無かった事になる。そうでしょう」


 彼女は何度も首を横に振った。


「あなたは、束縛の激しい旦那に厭気が差して、少し遊んでみたくなった、只の御婦人でしょう!」

「違うの」


 彼女の目には薄く涙が浮かんでいた。囁く様に彼女は言った。


「違うわ」

「何も違わない」


 僕は叫んだ。婦人は膝をきちんと揃え、滔々と語り始めた。


「もう厭になったから、あの日荷物を纏めて出て行くつもりだったのよ。雨だったけど、気にしないで行こうと思った。そうしたら、勘付かれて、道を先回りされていたの」


 薄暗い部屋に、重苦しい空気が漂う。


「最初は逃げようとした後ろから、背中を刺されたわ。気が遠くなる程痛かった。振り向いたところで、今度は胸を何回も。お気に入りの着物を着ていたの。逃げ出す勇気が出る様に。血で滅茶苦茶になったわ」

「止めて下さい」

「それから、立っていられなくなってしゃがんだら、蹴り倒されて、地面に転びました。雨がずうっと降っていて、だから泥でまた汚れてしまった。見上げたら、目の前に包丁が」

「止めて下さい」

「あの人、私の顔が好きだって昔は言ってくれたのよ。こんなにぐちゃぐちゃに出来るくらいに変わってしまったのねって思ったわ。もうその頃にはほとんど痛みも感じなかった。雨と血と、どんどん混じっていって。頭が痺れる様で、真っ白になって」

「止めて下さい!!」


 雨音が強くなった。僕は耳を塞いで、蹲っていた。怪談話の時と同じだ。僕には勇気が無い。婦人の顔はいつの間にか切り傷だらけの血みどろになっていた。そんな顔をじっと見つめている勇気など無い。


「それで、気が付いたら濡れたまま道を歩いていて、それであのお店に辿り着いたの」


 彼女の声は静かだった。先に泣いたのは僕の方だった。声を立てずに泣くのは得意だ。子供の頃からずっと布団の中でそうしてきたから。


「雨が降っている間しか居られないのは不便だったけど、嬉しかったんです。どこに行こうが、誰も追いかけて来ないのは久しぶりだったから。着物も元通り汚れていなかったし」


 だから、泣く事はないのよ。優しい手が、僕の髪を撫でた。


「私、やりたい事を何でも出来たわ。夜遊びも、遠出も、どこにだって行けたわ。男の方の家にだって」


 顔を上げると、流れ出る雨のような血の中で、彼女は口の端を上げて笑っていた。最初に会った時と同じ様に。


可笑おかしいわね。最初は誰でも良かったんです。ちょっとご縁が出来たからって、誘ったのは本当は私の方なの。そしたら、こんな風に泣いてくれる方だったなんて、思いもしなかった」

「僕は」


 袖で涙を拭った。室内と言うのに、袖はぐしゃぐしゃに濡れていた。時計が突然大きな音を立てて時を告げた。


「そんなに大した人間じゃないです。あなたより自分が哀れで泣いているような奴です」

「それでいいんです。哀れまれるのは嫌だもの」


 あなたで良かったわ。婦人が言う。僕は今度こそ真っ直ぐに、紅に染まった顔を見つめた。もう、先程までの顔がどんなだったか、まるで思い出すことが出来ない。いつの間にか畳の上にも血溜まりが広がっていた。


「もうすぐ雨が上がる。ねえ、無理なお願いをするわ」


 笑顔の似合う人だった。それだけは、どんな姿になっても確かだ。


「もう一度、抱き締めて」


 僕は、腕を差し伸べた。着物が血で濡れる感触がした。何も、構わなかった。



 しばらく目を閉じてジッとしていた。ふと気づくと、腕の中には誰も居なかった。すっかり暗くなった外では雨の音が消え、時を間違えた蝉がじりじりと調子外れに鳴いている。僕はゆるゆると動いて明かりを点け、辺りを見渡した。


 酷い有様だった。どろどろに血塗れの着物に畳。鏡を覗くと、口に紅を塗ったような可笑しな顔の僕が居た。空虚に笑う。


 もう、彼女はここに現れないだろう。その事だけは確かで、それが悲しかった。

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