参の弐

「ええと、大変申し訳ないのですが」


 朝食を平らげると、僕は正座のまま婦人に向き合った。


「僕には昨夜の記憶がさっぱり無いのです」

「あら嫌だ、そちらから誘って下さったのに」


 婦人(もしかすると名前を聞いたのかも知れないが、覚えていない以上婦人と呼ぶ以外にあるまい)はあっけらかんとそんな事を言う。


「誘った!?」

「電車がなくなってしまったと言ったら、お宅に泊めて下さるって」

「あ、ああ。そういう……」


 駄目だ。それに全く覚えが無いのは兎も角、重要なのは『その後何をしたのか』、だ。端的に言ってしまえば、昨夜布団に入ったのはひとりだったのかふたりだったのかとそう言う話だ。これは何よりの重大事である。

 僕は普段の通り、意気地なく寝転がっていただけなのか、それとも。


 そんな葛藤を知ってか知らずか、婦人は実に愉快そうな顔をする。


「電車を逃すまで遊んだのも初めてなら、初対面の男の方のお家で夜を明かしたのも初めて。とても楽しかったわ」


 僕はその『楽しかった』に何らかの含みがあるのか無いのかを知りたいのだ、行きずりの女よ。あるのなら、何か意味ありげに頰を染めるとか、そういうわかりやすい反応を見せて頂きたい。


「でも、そろそろお暇をしないと」

「もう、ですか」

「ええ。雨も小降りになって来ましたし」


 婦人は立ち上がる。僕もつられて立ち上がった。並んでみると、小柄な人だった。僕の方が無駄に縦に長いのだと、関ならきっと言うだろう。


「そこまで送りましょう。傘もあるし、滑りやすい道がある」

「ご親切。嬉しいわ」


 僕が少し古い蝙蝠を持ち上げると、驚くべき事が起こった。婦人はそっと僕の手に手を重ねてきたのだ。柔らかな手触りに、年甲斐もなく心臓が跳ねるのを感じる。僕は、一世一代の勇気を出した。いや、もしかすると昨日の夜に既に出していたのかも知れないが、兎も角、兎も角だ。

 僕は、二本目の傘を出さずに、重たい蝙蝠一本きりを手に外へと飛び出した。婦人がすっと目を細めるのが見えた。


 そうして、僕と婦人はふたり、駅舎迄の道を、黒い傘の下に並んでゆっくり、ゆっくりと歩いた。蒸し暑い空気の中、小雨がはらはらと、傘からはみ出た肩を濡らす。僕は少し吃りながら仕事の話などをした。婦人は楽しそうにそれに相槌を打ってくれた。

 駅舎はごく近く、そうこうしているうちに直ぐに到着してしまった。それでは、と婦人が手を振る。


 楽しかったな。遠ざかる彼女に背を向けながら、僕は珍しく鬱の気を起こさずそう思った。そう言えばあのひとの名前を聞いていない、と思い至ったのは直ぐだったが、まあ、あちらも今日が楽しかったのならまた『アトラス』に現れるだろう。そうでなければそれきりだ。そんな物でいいのかもしれない、と思った。


 それから、今度は愕然とした。今しがた別れたばかりと言うのに、僕は婦人の顔をまるきり覚えていない、と言う事に気付いたのだ。

 これは流石に衝撃的で、よもや酒毒がそこまで回ったかと青ざめるばかりだった。それにしてもおかしい。つり目だったか、垂れ目だったか、頰はふくよかだったか、ほっそりしていたか。眉は。鼻は。口は。何も思い出せないのだ。


「よう、大久保。よもやの出迎えか」


 駅舎の方から、あまり今は聞きたくなかった声がした。関だ。学生時代でもあるまいし、何でまた昨日の今日やって来るのか。


「面白い物を見つけたんだ。君にも見せてやる……と」


 どうした、宿ふつか酔いが酷いのか、と少し声を潜める。余程酷い顔をしていたらしい。


「……僕は少し酒を控える」

「何事だ!?」


 えらい驚き方をされた。

 関を連れてまた来た道を戻ったが、なんだか先程とはまるで違う、死刑台に上るような気持ちで僕は足を運んだ。関は酒瓶の片付けられた部屋にまた目を見張って、今度は熱病か何かを疑われ、感染すなよと言われた。


----


「昨日店主は三日前と言ってたろう。八月一日だ」


 関は鞄から新聞を取り出して来た。彼の勤め先の発行物、『帝都読報』の過去号である。


「この辺りで人死にが無かったか調べたんだよ」


 そしてあった、と言う事らしい。


「二つ先の駅の辺りだ。夫婦の殺人事件があって、夫の方が逮捕。今取り調べられている」


 僕はいつも以上にぼんやり顔で、関の話を半分聞き流していた。


「これがまた酷くてな。滅多刺しの上に顔を滅茶滅茶に切り刻んだ。知り合いですら遺体が妻本人だと暫く断定出来なかったと言う」


 関は顔を上げる。


「な、わかるだろ」

「何が」

「昨日の怪談だよ。この被害者の妻の方があの幽霊だったのだとしたら? 店主は顔を覚えていないと言った。それが、遺体の顔が切り刻まれていたせいだったとしたら。どうだい。推理という感じだろう」


 僕は眉をひそめる。何ともぞっとしない話ではある、が。


「何もあの幽霊がまさにその日死んだ人間とは限らないだろう」

「しかし、他にここらであの女の幽霊の話なんぞ聞いた事がないぜ」

「半年前三年前十年前、似たような事件があったかも知れん。それを全部当たらないと推理とは言えないんじゃないのか」

「ふむ……」


 関は暫し考える。僕は何だかそわそわとして来た。顔の無い幽霊。顔を覚えていないあの婦人。妙な符丁だ。


「そうかも知れんな。やれやれ、焦りすぎたか」


 がさ、と新聞を畳んだ。


「記事にはバーでの事だけを書くことにするよ。慎重第一だ」

「それが良い」


 僕は頷いた。頷きついでに、思い立って恥をかいてみることにした。


「ところで昨日の晩なんだが、僕は隣の婦人と何をどう話してた?」

「覚えていないのか?」

「全く」

「それで酒を控えるなんて言い出したんだな。まあ、俺も大して覚えちゃいないが、大体旦那の愚痴を聞いてやってたな」

「旦那?」


 心が芯から冷えるとはこの事か。僕は文字通り固まっていた。


「待て、あのひとは所帯持ちか?」

「その様だったな。面倒になるから止したがいいと思ったんだが、君が親身になっていたからな」

「その愚痴と言うのは」

「何でもなかなか外に出してくれないだとか、酷い折檻をするだとか。あまり気分のいい話じゃあなかったな」


 僕は些か混乱していた。そんな夫を持つ女性が、見知らぬ男の家に泊まったりする物だろうか? そもそもが、真夜中までバーで飲んだりするか? 僕の中の彼女の印象と、今聞いた話はあまりにかけ離れている。


「なあ、じゃあ、あのひとの顔は覚えているか? どんな風な様子だった?」

「そりゃ覚えてるさ。結構な美女で……」


 関はそれから首を捻り、間抜けに口を開ける。矢張りだ。


「……どんなだったっけか? あれ? おかしいな……」


 僕は、軽くわなわなと震えていた。厭な予感がぞわぞわと身体を包んでいた。関もそうだったらしい。


「おい。もしかすると、もしかするとだ」

「止してくれ」

「いや、はっきりさせないと拙い。あの女は——」

「聞かない」

「例の幽霊なのかも知れん」


 ああ、言うなと言ったのに。僕は強く目を瞑った。着物の柄は覚えているのに、声音も覚えているのに、少しも思い出せない顔。


「惚れたのか」

「わからない」

「止しとけ。普通に血の通った女にしろ」

「血の通った女と思ったんだよ。少なくとも一緒に居る時は、ごく普通の様子だった」

「寝たのか?」

「し、知らん」


 こいつ、あまりに直截に過ぎる。情緒と言う物をわかっていない。僕は関を憎んだ。


「覚えていないんだ。朝飯を作ってもらって、それで、一緒に駅まで歩いた。それだけだ」


 僕は口を押さえて息を吸い、また吐いた。関は胡乱な顔で僕をじっと見ていた。


「それだけで……」

「惚れたか」

「もう君は黙ってくれ」


 酒が飲みたいな、と思った。酒があればこんな細やかで邪魔な気持ちは全部押し流してやれる。図太く生きていけるのだ。例えば関の様に。だが、瓶は片付けられてしまった。


「何でもいいが、本気で忠告する。幽霊なんぞに焦がれても碌な事は無い。牡丹灯籠になるぞ」


 関はいつに無く真面目な顔でそう言った。僕は項垂れながらそれを聞いていた。

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