第参話 あまやどりのひと

参の壱

 僕の手元には、少し前の新聞の切り抜きがある。ありがちな痴話喧嘩と、そこからの刃傷沙汰、そして殺人。少々猟奇的ではあるが、短い囲み記事である。

 あのひとの名残りは、この薄い紙切れ一枚きりだ。


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「怪談を集めていらっしゃるのですか」


 その日もバー『アトラス』のカウンター席でで呑んだくれていた僕らは、会話の合間に突然に中の店主に話しかけられた。この店はそこまで酒が美味い訳では無いが、やかましくないのとツケが利くところが気に入っている。普段は店の者は基本的には客の会話に深入りはしないものと思っていたが——。


「そうですよ。何かご存知の話があれば是非聞かせて頂きたい」


 関が愛想良く対応する。『帝都つくもがたり』の連載も好調に続いたところで、流石にそろそろ人脈も尽きて来たらしい。君の周りには誰か居らんのかだの、そもそも僕に知り合いがそれ程居るものかだの、そういう話をしていたところだったのだ。


「ええ、丁度この間、奇妙な事に出会いまして。誰かに聞いて頂きたかったところなのです」

「ほう。それじゃ、今伺いましょう。どんな話かな」


 関が身を乗り出すと、軽く髭をたくわえた店主はあくまで柔らかな物腰で語り始める。それは、こんな話だった。


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 三日ほど前の夕方の事、店主はいつものように律儀に、決まった時間に店を開ける準備をしていたと言う。店内の掃除だの備品の用意だの食物の仕込みだのがつつがなく終わり、さて表の鍵を開けるかと扉を開けた、その時だった。


 いつの間にか外はしとしとと泣くような夕立で、店先には少し困ったような顔で雨をしのいでいる女が立っていた。若くはないが年増とも言い難い、年齢のわかりづらい様子の女で、髪を軽く結い上げ、縞の着物を着ていたと言う。


「あら、御免なさいね。急に降られてしまって」


 女は眉尻を下げて謝った。髪や衣服はしっとりと軽く水を含み、履物は少し汚れていて、暫く雨の中を歩いていた様子が伺えた。そうして、雨足が強くなってきた辺りで堪らずに軒先に飛び込んだのだろう、と店主は推察した。


「構いませんよ。何なら今店を開けますから、中で少し座っていかれては如何です」

「でも私、お酒を飲むお店なんて入った事ありませんし……」

「うちは騒々しい店じゃあありませんし、今はお客さんはひとりきりです。珈琲でも淹れますから、どうぞお気兼ねなく」


 女は暗い空を見上げ、思い切ったように頷いた。


「それじゃあ、失礼します」


 そうして、女は店に招き入れられた。


 中では、特に話などはしなかったそうだ。店主は無口な性質だし、女は少々緊張した面持ちで珈琲をちびちびと飲んでいただけだったと。やがて窓の向こうで雨音が止んだ。後ろを向いてグラスを拭いていた店主は、扉の開く音にふと振り向いた。


 カウンターの向こうはがらんとして、誰も掛けて居なかった。黙って出て行ったのか、珈琲代も払わずに、と戸惑った店主は、ふと鼻腔に嫌な臭いを感じた。彼は急ぎカウンターを出て、女が座っていた椅子に近寄った。


 椅子からはぽたぽたと何か液体がこぼれ落ち、床に溜まりを作っていた。雨水かとも思ったが、全く違う。どす赤い色をした、それは血液だった。


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 ひっ、と喉から音を立てて仰け反った僕は、隣の席に掛けていた婦人に軽くぶつかった。ばつの悪い思いで謝ると、相手はくすくすと笑って勘弁してくれた。


「怪我人という風ではなかったんですかね」


 関は眼鏡の奥の細い目を輝かせ、手帳にざらざらと書き留めている。


「元気そうに見えましたがねえ。結構な量の血でしたし。何より不思議な事に、片付けようと雑巾を持ってきた時にはもうその血溜まり、消えていたんですよ」

「そりゃ明らかに幽霊の類だ。因みにその女が座っていたのはどの席だったんです」

「それがねえ。丁度そちらの文士さんが掛けてらっしゃるところで……」

「うわあ!?」


 僕は慌てて立ち上がった。脚まで血に濡れているような気がしたのだ。勿論それは錯覚であったが。


「どうも気味が悪いので、椅子は替えてありますよ。ご安心下さい」

「ご安心出来ませんよ。止めて欲しいな、全く……」


 隣の婦人が笑いを堪え切れない、と言った声でくくくと喉を鳴らした。僕の無様は、どうも女性受けが良いようだ。


「そう、もうひとつ奇妙な事がありましてね。その女性の顔を後から思い返そうとすると、ぼんやりとしてよくわからなくなってしまうのですよ。綺麗な方だったのはよく覚えているのですが……」

「ますます良いや。その話、次回使わせてくれますか。大久保、お前の反応も良かったぞ」

「店の名は伏せて頂けると」

「承知」


 それから、大して飲んでもいない癖に酔った関は、その女の幽霊の来歴について滔々と予想を語った。雨に縁があるのだから、雨の日に殺されたに違いないだの何だの。僕は何だか嫌になって、酎ハイをぐいと飲み干すと窓の外を見た。いつの間にかぽつぽつと、細い水の筋が幾つも流れ落ちている。


「雨だ」

「先程から降っていましたよ。私が入って来た頃から」


 隣の婦人が教えてくれると、関がニヤニヤと笑いながら絡んで来た。


「ははあ、それならあなたがその幽霊に違いないや」

「関、君のは悪い酒だぞ」

「君の酒こそ、悪くなかった事があるか?」


 婦人は冗談が通じる方らしく、口元を隠して笑いながら答えた。


「ふふ、それじゃ、そういう事に致しましょうか」



 その辺りから、僕の記憶はどうにも曖昧だ。気が付けばいつの間にか家に帰っていて、布団に包まって寝ていた。頭がガンガンと響くように痛いので、飲み過ぎたのだろう。僕はこれで前後不覚になる事などそうそうない体質だから相当だ。一先ず、迎え酒でもして宿酔いを抑えようと枕元に手を伸ばした。


 手は空を切る。寝酒用の酒瓶が無い。


 僕は薄い布団からもそもそと這い出る。面倒で床に並べていた瓶の類が綺麗さっぱりと無くなっていた。

 夢かも知れないな、視界もぼうっとするし。もう一度寝るかと思った時、何だか良い匂いが漂ってくるのを感じた。味噌の匂いだ。台所だろうか。


 時計を見ると、いつもならばまだまだ夢の中、といった時間だった。どうも様子がおかしい。やはり夢だろうか、と台所に向かうと、そこには人影があった。小鍋から何かの味見をしている。匂いからして味噌汁だろうか。


「あら、お早うございます」


 相手はこちらに気づいて微笑む。昨日の、隣の席の婦人だった。


「お早うございます……」


 僕は呆けた声でそう返すと、どうにか記憶を呼び起こそうと頭を捻る。無理だ。あのバーで僕が何か妙な事を言って、この女が弾けるように笑った、それくらいしか掘り起こす事は叶わなかった。

 昨夜何がどうしてこうなったのか、僕は何をしたのか、その重要なところが抜け落ちている。僕のそんな様子に、婦人は面白そうな顔をする。


「随分飲んでらしたから無理もないわ。取り敢えず朝ご飯を作りましたから、召し上がって落ち着かれるといいわよ」

「ええと……はい」

「あと、酒瓶はまとめて勝手口に置いておきました。いけないわよ、あんなに溜めて」


 卓袱台の方に追いやられる。


「冷や飯があったから、お茶漬けでよろしい?」

「うん……」


 僕は曖昧な返事しか返せず、腕を組んだ。何年かぶりに朝に食べた朝食は、涙が出る程美味かった。外は昨夜からずっと、しとしとと雨が降り続いているようだった。

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