弐の参

 二度目は流石に溺れなかった。直ぐさま立ち上がると、ざぶざぶと歩いて水飛沫の元に向かう。足場が悪い中、勇作君が必死に僕にしがみ付いて来るのには閉口したが、どうにか顔を水面に出してやることに成功した。引っ張って岸へと連れて行く。太郎君は忌々しげに僕を見る。


「溺れれば良かったのに」

「この子は、君を弔おうとしたんじゃないのか」


 僕は消えかけた太郎君に、震える声を掛ける。後ろの木が透けた姿のまま、彼はこう答えた。


「助けてくれなかった癖に。もう遅いよ」


 それはそうだろうな、と思った。彼の怒りはもっともだ。僕はこの気持ちを知っている。見ているだけの周りに対する、諦念と怒りの入り混じった感情を。だが。


「だからと言って……」


 僕は口を噤む。何を言っても上から目線の説教にしかならない。もう遅い。彼は既に命という何よりの救いを失っているのだ。それに、先程から過去視フラッシュバックが続いて、気分は最悪だった。


「だからと言って、お前のやってる事は只の八つ当たりだよ」


 それまで黙っていた関が、突如右手を太郎君に突きつけた。手には護符のような物が握られている。それを押し当てられた太郎君が、大きく痙攣した。

 僕はその隙に急いで勇作君を岸に押し上げた。彼はふらふらとし、水を吐きながらもどうにか二本の足で立っていた。


「南無……ええ、何だか知らんが偉い仏様! この悪餓鬼をどうにかしやがれ!」


 太郎君は目と口を裂けそうな程大きく開け、あちらこちらからぼたぼたと水をこぼしながら声にならない声で叫んだ。見ているこちらも内臓が縮みそうになる程の眺めだった。


「俺は大久保とは違うから、言い含めなぞせんし、同情もしてやらん。ただ、ただなあ! お前らの了見が気に食わん」


 太郎君は歪んだ形相のまま、関に掴みかかろうとし、見えない壁でもあるようにばたばたと藻搔く。


「化けて出るほど嫌な事を、人にも同じく押し付けようってのはどういう腹だよ!」


 ばち、と音がして、太郎君は姿を消した。


「……成仏、したのか?」

「いや、こいつにそこまでの力はないよ」


 手元の護符のような物を関は見る。それは黒く焦げて、書かれた文字がよく読めなくなっていた。


「退散されただけだ。性根が入れ替わってでもいればいいが、どうかな……」


 勇作君がわっと泣き出した。無理もない。僕は背中を叩いてやりながら、関に尋ねる。


「本当にそんな便利な道具を持っているとは思わなかった」

「伝手があると言ったろう。訪ねて用意して貰った。……ああ」


 ふと気づいたような顔になる。


「そういやさっき念仏紛いの事を唱えたが、こいつは神社で貰ったんだっけ」

「いい加減だな」

「……僕」


 勇作君がしゃくり上げながら呟いた。


「僕、ずっと止めようって言いたくて、でも言えなかったんです。それで、せめて花を」

「聞いたろ。花なんてやっても恨まれるばかりだ」


 こくりと頷く。先の太郎君の有様がかなり堪えているようだった。


「生きた人間が死んだ奴に近寄りすぎても碌な事が無い。精々、たまに思い出してやるくらいがいいんだよ」


 関は、先の友人の事でも考えているのだろうか。遠い目で言った。


「そういう訳だ、大久保。君も変に思い入れるのは止し給えよ」

「……留意しておく」


 僕はそう答えるのが精一杯だった。


----


 行きつけのバー『アトラス』のカウンター席に陣取り、僕らはぽつぽつと会話を続けていた。薄暗い照明が仄かにグラスの中身を照らす。


「矢っ張りな」


 僕が酒の勢いで虐められっ子の過去を語ると、関は面白くもなさそうに鼻で笑った。恐らくだが、太郎君が僕の方を狙った理由は想像がついていた。僕の方が彼よりも弱いからだ。


「そういう顔をしている。反応が面白いからと言って、余計に手を出されるタイプだ」

「君はさぞかし上手く立ち回ったんだろうな」


 皮肉を込めてそう言ってやったら、意外にも首を振られた。


「俺も散々虐められてた方だよ。片親だったんで、それがいい材料にされた」

「そうだったのか」

「同情したな?」


 にっと関は笑う。


「俺が只でやられると思うか。相手の大将の柔術をやってる兄貴と仲良くなって、無理矢理に終わらせた。他の奴は学級に悪い噂をばら撒いてやった」

「……矢っ張り上手くやっているじゃないか」

「死ぬ気で頭を働かせたからな」


 とんとん、と短く刈った頭を指で叩く。僕はなんだか憂鬱な気分になった。


「それじゃ、僕だの太郎君だのは、さぞかし馬鹿らしく見えているだろうね」

「いいや」


 関は酒に弱い。カクテールを二杯も飲めば顔が赤くなる。幾ら飲んでも大して変われない僕とは正反対と言える。


「そんな事はないさ。俺と君とは違うのだからな。君の気持ちは俺にはさっぱりわからん。だから同情もしない。わからないままで付き合っていて支障が無ければ、それで良いんじゃないのか?」

「僕は、人と人とは互いにわかるところがあって欲しいと考えているよ。だから、大いに同情をしたいと思うよ」


 噛み合わんなあ、と関はグラスを持ち上げた。僕もそれに応える。

 僕らは今夜二度目の、あまり意味の無い乾杯をした。


----


 関はどうやら上手くやった様で、『帝都つくもがたり』の欄にはボンヤリと、微かに人だとわかる様な写真が載せられ、恐怖を煽りすぎると苦情の手紙が十通程、好評の意見がその倍寄せられたらしい。


 役所も流石に動き、ドブ川沿いには木の柵が巡らされることとなった。それからは幸い、水の事故は殆ど起きていないと言う。

 代わりに子供達の間で柵の上に立つ遊びが流行り、そこから落下して怪我をする事故が増えたとも言う。


 太郎君の噂も、それからぱたりと立ち消えになった。今どのような状態で居るのかも定かでは無い。

 只、柵の近くをフラフラと歩いていると、勢い良く押され、柵に叩きつけられるという現象が何件か起こったと聞いている。


 彼はまだ、あの辺りに居るのだろう。消えない怒りと、持て余す程の力を持って、川沿いに、独りきりで。

 僕はそれに思うところが無いではないが、現在のところ、関の忠告に従う事にしている。


 すなわち、時折あの腐った臭いの水の流れと共にふと思い出す、ただそれだけにしているのだ。

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