弐の弐

 少年は本間勇作君と言い、この辺りに住んでいるという事だった。

 僕が銭湯でひと風呂浴びて着替え、どうにか心地を取り戻している内に、関は餡蜜一杯で無事懐柔に成功し、彼から話を聞き取っていた。あの関が子供相手に猫撫で声で話しているところなぞ見たくも聞きたくもないので、それは良かったと思う。



 結論から言うとこの勇作君、先の子供が川に落ちて溺れた事件の際、その場に居て一部始終を目撃していた。

 少年達、この地域の子ども達の中には一団グループが作られており、その中では厳然たる位階ヒエラルキーがあったのだと言う。勇作君は中くらいの、一番人数が多い辺りで、落ちた子供、毛利太郎君は一番下の地位にいた。


 「所謂いわゆる虐められっ子だな」と喫茶の机を挟んで関は言う。


 太郎君は、それまでも何度も餓鬼大将からドブ川の度胸試しを強要されていたという。そして、酷い時にはわざと川に突き飛ばされ、濡れて泣きながら帰る事もあったと言う。勇作君達はそれに心を痛めながらも、只見ているだけだった。


 事件のあったその日は大雨の翌日で、水嵩が目に見えて増えていた。川岸もぬかるんでおり、滑りやすかった。とても度胸試しに向く状況では無かったが、餓鬼大将は無慈悲にそれを命じ、太郎君は従った。周りは止めなかった。餓鬼大将の取り巻きが、いつもより強く太郎君の背中を押して、太郎君の小さな身体が水の中にばしゃりと倒れ込んでも。


 藻搔く水飛沫がだんだん弱まり、流され、やがて水面が完全に静かになるに至ってようやく、彼らは自分達のやった事に気付く。強張った表情の餓鬼大将は言った。「いいかお前ら、あいつは勝手に落ちたんだからな」と。



「おい、どうした大久保。悪い水に当たったか」

 話を聞かせてくれていた関が手帳を閉じ、こちらを見た。僕は少しばかり震えていたように思う。

 僕には過去視フラッシュバックの癖がある。字面は大仰だが別段特殊な能力でも無く、ある意味での病気だ。過去の嫌な思い出が不意にまざまざと眼前に蘇る。そうして、精神を責め苛む。今回は、太郎君の話を切欠にした、個人的な記憶……子供時代の弱い者虐めの記憶を思い出していた。


「いや、何でもない。何でもないんだ」


 手を振る。石を投げられた事も、背嚢の中身を隠された事も今回の話には何の関係も無いのだ。


「まあいいや。それでだ。何人か子供が死んだと聞いていただろう。あの被害者、どうもその餓鬼大将やら取り巻きだったらしい」

「死後復讐を遂げたというわけか?」

「そういう事になるな」


 僕はその時、過去視から派生して太郎君に勝手な同情と共振を覚えていた。よって、自分が被害に遭った事を一瞬にしろ忘れ、こんな事を考えたとしても無理は無いと思って頂けると幸いだ。則ち、「よくやったじゃないか」と。


「何を感心したような顔をしてるんだ。赤穂の討ち入りじゃないんだぞ」


 関は呆れ顔だ。こいつは多分、虐められっ子など要領の悪い奴としか考えてはいない。


「君もやられた癖にな。いいか、筋がいささかでも通っていたのは最初の数件だけで、後は無関係の人間が何度も押されているんだぞ。酒が頭に回りすぎていないか?」


 そうだった、と肩を落とす。太郎君は決して、虐められっ子の英雄などでは無いのだ。寧ろ力を持って慢心し、調子に乗っているのかも知れん。そこの気持ちも僕は何だか手に取るようにわかるようで、それが切なかった。


「なあ大久保。人間なら兎も角、幽霊の類に同情だの何だのは止しておけよ。あいつら、どう捻じ曲がっているんだか知れた物じゃない」


 妙に実感の篭った声で関は言う。


「何だ、また体験談か」

「そうだよ。餓鬼の頃、山で墜落死した友達にばったり会って、楽しく遊んだ事がある。帰り際、そいつは俺を崖から突き落とそうとした。自分と同じにな。そういう奴らだよ」


 死が奴らの中心になっちまっているんだ、と関は重々しく言う。僕はまだ少し飲み込めずにいた。


「わからんな。そこまで嫌な目に遭って、なんでまだ怪談なんぞ追ってるんだ」

「ひとつは上からの指示だ。ひとつはこの手の話は売れるから。もうひとつは、俺にもよくわからん。面白いからかな」


 呆れた事だと思う。あんな話をした後に、関はにっと口の端を吊り上げて笑っている。


「さっぱりだ」

「俺もお前の浮かれた神経はよくわからん。お互い様だろ」


 関は背もたれに寄り掛かった。椅子がギシリと音を立てた。気まずい沈黙が流れた。


「兎も角、もう一回行きたいな」

「何?」


 僕は耳を疑う。


「もう一度あそこで、出来れば太郎君本人がこう、ボンヤリ撮れると良いと思わないか」

「思わないよ!」

「先ずは撮った分を現像してからだが、また呼ぶぞ。なんならまた突き落とされて来い」

「君が落ちろよ! 今日ので赤痢にでもなったら祟るのは僕の方だぞ」


 おう、出て来い。返り討ちにしてくれる。関は憎々しくも笑ってそう返した。


----


 僕は赤痢にもコレラにもならず、無事に二日程が過ぎた。念入りに中身をアルコール消毒したのが功を奏したと考えている。


 関は予告通りにまた姿を現した。これ見よがしに原稿の書き損じを床に散らばせておいたが、「不調みたいだな、気分転換はどうだ」とこの調子だ。どのみち仕事が入っていた訳でもない僕は、引きずられるようにまたドブ川に連れて行かれた。


 外は薄曇りで、並木の道は先日よりもさらに暗く、ざわざわと風が葉を揺らしていた。


「写真は駄目だったのか」

「太郎君は居なかったな。よって撮り直しだ」


 太郎君もこんなに熱心な参拝者が居るのだから、少しくらいは前に出てきてくれれば良いと思う。出来れば僕の視界外でだ。嫌々引っ張られて行くと、遠くで何か、水音がした気がした。


「なあ、今……」

まずい。行くぞ」


 関が突然駆け出した。僕もそれを追いかける。幾ら年中酒が頭に回っている僕でも、流石に事態はよくわかった。誰かが、また落ちたのだ。


 息急き切って駆けつけると、そこにはバシャバシャと音を立てて暴れる勇作君の姿があった。岸辺には頭から水を垂らした太郎君が立ち、愉快そうな表情を浮かべている。地面に何か落ちている。それは、小さな野の花を輪ゴムでくくった花束だった。恐らく、勇作君は鎮魂の為にここを訪れ、そして、当の太郎君に落とされた。


「落ちた、あはは、落ちた」


 無邪気な声を聞いた瞬間、僕は頭の中がかっと熱で満たされるのを感じた。太郎君の幽霊に詰め寄ろうと大股で近づく。関が叫んだ。


「馬鹿、その前にする事があるだろうが!」


 背中を思い切り蹴られた。僕はまたも平衡を失い、そして、ずるりと滑ると二度目の落水を味わう羽目になった。

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