第弐話 みなものこども

弐の壱

 その川は、元々は栄川と呼ばれていたのだと言う。今では単にドブ川と呼称されている。

 僕らが訪ねた田中という老人は、そのドブ川にまつわる怪異について語ってくれた。


 元々畑だったところを潰して住宅街になったその区域は、人が増えるにつれ生活排水が多く川に流れ込むようになった。元は釣りが出来る程の清流だったというが、今ではぷんぷんと嫌な臭いが漂い、蝿が飛ぶような汚染された濁り川である。ことに、こんな夏の日は酷く臭い、傍の道には通行人も少なくなる。好奇心旺盛な子供達を除いては。


 その近所の子供達の間では、度胸試しが流行っていたのだと言う。出来る限りドブ川の端近くに立てた者が勝ち、ただし靴が濡れれば負け、という単純な遊戯だ。ドブ川の周りには並木はあるが柵は無く、川岸もそのまま土がむき出しになっている。大人は何度も禁止をしたそうだが、子供達は聞く耳を持たなかった。


 そして、事故が起きた。ひとりの子供が足を踏み外し、川の中に落下したのだ。折悪く雨の翌日で、水嵩は増していた。そして、水は濁って中の様子はとても覗けなかった。


 子供は、結局見つからなかったと言う。


 さて、ここから先が怪談だ。それからと言うもの、その川、殊に子供が落ちた辺りでの水の事故が大いに増えた。子供は数人溺れて死に、大人も死亡事故こそないものの、水面目がけて落下する者、すんでのところで落ちかける者が増えた。無事だった者は口を揃えて言う。


「突然誰かに背中を押されたのだ」と。


 田中氏も押された者のひとりだった。老人は倒れかけて踏み止まり、後ろを振り返ることに成功した。

 そこには、腐った泥水で頭からびしょ濡れの、十ばかりの男の子が、厭なニヤニヤ笑いを浮かべて立っていたのだと言う。


「落ちれば良かったのに」


 その一言を残して、子供はふと老人の視界から消え去ったのだそうだ。


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「なあ関、本当に行くのか?」

「当たり前だ。取材は脚だぞ」


 僕は及び腰になりながら、後ろなぞ御構い無しに早足で歩く関の背中を見つめていた。


「あの話だと、画が一枚欲しい。明るいうちに撮って来てしまおう」

「それに何故僕が付き合わないといけないんだ」

「怪異が起きた時、ふたり居れば俺が落ちる確率は半分になる」

「帰る」


 まあ待てよ、嘘だよ、と関は眼鏡の奥で笑う。嘘と言うのが嘘だと思う。この男は平気で友人を生贄に捧げるくらいの事はやってのける。顔が薄ければ情も薄い男だ。


「流石に俺もあんな話のあるところに独りで行くのは気が重い。助けると思って付いて来てくれよ。な、大久保」

「川岸には近寄らないからな」


 七月の始まり、日光は明るく、少しばかり残っていた梅雨の名残りの空気もどこかへ飛んで行ってしまったようだ。道はきらきらと輝いていた。


「ああ、こちらだ。ここで右に曲がる」


 それが、ひとつ道を逸れた瞬間に変わった。影の中に踏み込むような感覚。肌に感じる温度がひやりとする。単純に並木道に差し掛かったという理由もあったが、同時になんとも言えない厭な予感が僕を捉えていた。


「いいな、涼しくなった」


 関などは鈍感だからこの感じに気づかず呑気な事を言っている。そうして、鼻を動かした。


「何か臭うな。川はあっちか」


 それは初めは微かに風に漂う、不快な感覚に過ぎなかった。だがそれが、川に近づくごとに強くなる。日向に放置したゴミ袋のような臭いが辺りに漂い出した時、そのドブ川に僕らは到着した。


「ははあ、意外と大きい。人が溺れるくらいだものな」


 川岸には大きな楠が張り出し、どんよりと濁った水面に暗い影を落としている。水の勢いはさほどでもない。ただひたすらに淀んでいる、といった印象だった。


「怪談がどう以前に臭いぞ、ここ。早く撮って早く帰ろう」

一寸ちょっと待てよ、暗いから絞りを変えなきゃならん……」


 関が写真機カメラを何やら弄っているのを、僕は横で木にもたれて待った。川に近寄らねば何も起こるまい。


 目を閉じて蝉の声に耳を傾けていると、不意に関が僕を肘で突いた。


「何だよ」

「何だって、そっちこそ何だ」


 見ると、関は少し離れたところで写真機を覗き込んでいる。肘鉄が来るには少々遠い距離だ。


 さっと血の気が引いた。川を覗き込む関の背後に、男の子供が立っている。まるで今しがた川から上がってきたかのように頭からびしょ濡れで——。


「関! 後ろ! 後ろだ!」


 僕は声を上げ、駆け寄った。奴は訝しげな顔できょろきょろと辺りを見る。子供はすい、と溶けるように姿を消した。確かに、尋常の人間ではない。


「今、居た! ここに居た! 例の子供が!」

「君は文筆家の割に語彙が少ないよな」


 僕が慌てて空間を手で指し示していると言うのに、関はどうでもいいことを気にする。そして、ぱちりと今は何も無いその空間を撮影した。


「何も名残りは無いな」

「びしょ濡れだったが……確かに水跡だのは無いな」


 岸の雑草は我々が踏みしだいた辺りだけが倒れている。臭いと怪異の二本立てで、立ち寄る人間も少ないのだろう。


「危うく俺は突き落とされるところだったんだな」

「そうだよ、僕が言わなきゃ危ないところだった——」


 その時だった。僕が川の方を振り仰いだ瞬間、どん、と凄い力で押された。僕は数歩たたらを踏んだ。踏み止まろうとしたが、勢いは殺せなかった。ずるり、と足が滑った。身体が一瞬宙に浮いた。関が間抜けな顔でこちらを振り返って見ていた。


 僕は、物の見事に川の中へと落下した。


 視界が濁った水の色でいっぱいになった。鼻から口から耳から汚水が流れ込んで来る。僕は滅茶苦茶に藻搔こうとするが、着物がやたらに重く、四肢がなかなか動かせない。どちらが上だか下だか、感覚を失う。ごぼごぼと泡だけを吐いて、ああ、これはもう終わりではないか、と思った瞬間、足が底の泥を蹴った。

 ぬるぬるとした滑る泥ではあったが、底がある。僕はどうにか感覚を取り戻し、足を泥につけ、息苦しさで気を失いそうになりながら精一杯蹴りつけた。


 顔が水上に出た。僕は口を大きく開けて息をする。落ち着いて見れば、足がつく深さだ。岸に関の姿を見つける。僕はそちらに向けてざぶざぶと歩き、岸辺近くで水の中に手足をつくと、たまらずにぐちゃぐちゃに腐った臭いのする汚水を吐き出した。


「おいおい、大丈夫か」


 関が流石に顔色を失った様子で言うが、川に入るのを躊躇っているのは明らかだ。絶対にこの事は忘れてやらんぞ、と思った。


「押された……見たか?」

「いや。丁度後ろを向いていたからな」


 思えば、肘鉄といい態々わざわざ姿を現したことといい、元来の目的は関ではなく僕の方だったのかも知れない。そこに理由があるのかどうかは知らないが。


 僕はゼイゼイと苦しみながらも、息ができる事に喜んだ。どうにか川を上がる。関は手を掴んで引っ張り上げてはくれたが、掴んだ手を直ぐにハンケチでごしごしと拭いていた。


 道の方から軽い足音がした。見ると、十ばかりの年の少年がこちらを見ている。


「落ちたんですか!」

「ああ、落ちた。君、良かったらこの辺の銭湯と古着屋を教えてくれないかね」


 こくり、と子供は頷く。こちらは生きている人間のようだ。僕は懐からジンの酒瓶を取り出す。どうやら瓶も中身も無事のようだ。有難く頂こう。


「それから、だ」


 関はつかつかと歩いて行って、少年の肩を掴んだ。少年は後ずさろうとするが、関の力は強い。


「この川の怪異について、知っている事を聞かせてくれ給えよ、な。菓子でも買ってやるから」


 僕は臆病だし、生きている人間よりも幽的の類の方が怖いと感じている。だが、関のあの手の執念については並みの怪談よりもしつこい分恐ろしいな、とそう思う。

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