壱の肆
そうだ。そうだったのか。それならば。
「と」
息を吸って、吐き出すように、声を絞り出した。尋常でない力が必要だった。先程ジンを飲んでおいて良かった。
「透子さん」
僕は震える声で名を呼んだ。青ざめた顔の透子嬢がこちらを向く。そして、清潔な寝台によじ登りかけた赤ん坊が、ぐりん、と首を回す様にして僕を見た。
微かに瞼が下りる。お前では無いと言いたげに。そうして、またじわじわと松代に近づくことを続けた。
「今のは……?」
「透子さん。わかった」
僕には勇気が無い。今にも気絶しそうになりながら立っている。関の様にいざという時に機敏に動く事は出来ない。賢く立ち回ることも出来ない。只の酒浸りだ。だが、ひとつだけ出来ることがあったことに、
「あの赤ん坊は君の子供ではない。君の子供はどこにも居なかった。あれは、君自身なんじゃないのか」
横に立って、じっと黙って、人の心を観察することだけは、関には出来ない、僕のなけなしの得意だ。
「松代に、先生に名前を呼ばれたかったのは、君だろう。先生を憎んでいたのも、大好きだったのも君だろう!」
「止めてください、あんなの私じゃない」
松代が声にならない悲鳴を上げる。ゆっくり、ゆっくりと赤ん坊の小さな手が近づく。関が引き剥がそうと飛びついた。だが、出来る筈もない。
「止めろ。そうだ、名前、名前を呼べば良いのか。幾らでも呼んでやるよ。透——」
「松代! お前じゃない!」
懐の酒瓶の事を思う。今は飲んでいる暇はない。酔いの魔法が解けないうちに、どうにかしなければならなかった。僕は叫ぶ。
「違う。本当にあれの名前を呼ばなきゃならないのは、透子さん、あなた自身だろう」
「嫌だ」
赤ん坊が、じわじわと松代の首を絞めようとしていた。あの力だ。やがて頚椎は砕けて彼は死ぬ。
「自分の始末は自分でしなさい」
「嫌だ、けど、でも、先生、先生!」
透子嬢は目に涙を溜めて叫ぶ。
「止めて、透子、私!」
彼女は、自分自身を受け入れた。
赤ん坊ははっとした顔で手を止め、初めて本物の嬰児のような、無邪気な笑みを浮かべる。そうして、透子嬢に向け手を伸ばし、虚空に溶けるようにして消えた。
「…………」
暫し、病室に沈黙が下りる。松代は恐怖でか半分意識を失っていた。関は行き場を失った手を、ゆるゆると引き戻す。透子嬢は、しゃくり上げるようにして泣き出した。自分を抱き締めるように、己の身体に腕を回して。
僕はというと、ジンの瓶を取り出して、漸く人心地を取り戻す事が出来た。叫んだ分喉がからからなのだから、これは必要経費。
「何事ですか。一体……」
看護婦が血相を変えて入って来た。関は適当に誤魔化しながらまた何がしか握らせると、僕らを促して外へと出た。
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黄昏の時間は終わり、とっぷりと闇が世界を覆っていた。ふつふつとガス燈や建物の光が闇から僕らを救ってくれている。
「前田さんの名前、呼んでたんです。あの時。下の名前を。『セツ』って。呼び捨てで」
半分泣きながら、透子嬢はそれでも、しっかりとした口調で話してくれた。強い娘なのだろう。今回のように、その強さがおかしな形になることもあるのだろうが。
「悔しかった。私も透子って呼んで貰ってたんです。学校とは違って、名字じゃなくて。それがとても嬉しかった。先生に名前を呼んで貰っていた時間が、何より幸せだったんです」
街灯に寄りかかる関の顔は、少し苦笑いだった。奴はこういう心動かす類の話を受け付ける様には出来ていない。
「だから、もう一度呼んで欲しかったんですね、私」
涙の跡が残る顔で、彼女はしんみりと呟いた。
「少しは落ち着いたかい」
「わからない。まだざわざわしているみたいです。でも、もうお
それが良かろうと思う。いや、何かと酒に逃げる僕には耳の痛い言葉ではあったが。兎も角である。
「先生のことはまだ整理が付きません。大好きだし、大嫌い。でも、助けられて良かったと思う。酷いことをしてしまったから、きちんと謝ります」
ぺこりと頭を下げる。お下げ髪が揺れた。
「有難うございました」
そうして、彼女は僕らに背を向け、闇に溶ける様に帰って行った。
「……いや、しかし先は君に助けられたな」
関が言う。
「珍しいぞ、怖がりがあんな声を出して」
「僕も夢中で、何が何だか」
「自分の始末は自分で、なんて良く言うよ。酒瓶の始末も自分でやれ」
「
そう、僕はと言えば疲弊したまま建物の壁にもたれて立っていた。格好良く透子嬢を見送りたかった物だが、もうこれは性分で仕方がない。
「珍しいと言えば、君もだろう。あんなに松代を助ける助けると。何か恩義でもあったか」
「無いよ。第一、俺が助けたかったのは松代じゃない、透子さん……というか、怪異の本体だ。人殺しをさせたくなかった」
奇妙に陰翳のある表情で、関はそんな事を言った。らしくないぞ、と言うのも何だか勝手な気もして、僕は口を噤んだ。
「先に、呪いで人を殺した女学生の話をしたろう。俺は何も事件の目鼻が掴めなかった時、その子と少し親しくなった。彼女は自分のせいで周りに被害が出たなぞ少しも思っていなかったよ。そうして全てが明らかになった時、当然の様に酷く衝撃を受けて——」
とんとん、と爪先で地面をつつく。まるで鶏の様だ。
「俺の目の前で首を搔き切って自殺した」
自動車がごとごとと通り過ぎる。その明かりが関を照らした。泣いてはいなかった。笑っても。少し怒った様な顔で、関はただとんとん、と爪先を動かしていた。
「いい記事になったよ。だが、俺はもう二度とごめんだと思ったね、そう言うのは。人は人を、少なくとも何も知らずに殺すもんじゃない」
「君もそう言うことを思うのだな」
「思うさ。まあ、五年に一度くらいね。あとは忘れている。今日はたまたま思い出しちまった。もう忘れた」
空を見上げる。街の明かりで星が少なくなったと言われてはいるが、それでも大三角は綺麗に瞬いていた。
「あとは、いい具合に誤魔化して恐怖記事に仕立て上げるだけさね。いや、熱血漢の真似事をした甲斐もあった。君の文のいい素材にもなったんじゃないのか」
「そのまま書いても赤本にしかならんだろう。もっと上品にいきたい」
「そうやって選り好みをするから君はいつまでも……まあいい」
関は身を起こし、帽子のつばを上げた。
「行こうか」
僕らは街のネオンの光に引き寄せられる様に、ゆっくりと歩いて行った。夏の始まりの、じっとりした空気の中を、ゆっくりと。
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僕は関の勤める帝都読報なんぞという低俗な新聞は取らないので、関は態々家まで掲載紙を持って来た。
「なあ、見ろよ俺の苦心の作を。きちんと皆のことがばれないように継ぎ接ぎして、どうにかなったろう?」
『帝都つくもがたり』と題されたその紙面四分の一程を埋めた欄には、先の事件について記されていた——いや、これが先の事件の事とわかるのは、僕と関くらいではなかろうか。
『都内某法律事務所に勤めるM氏は、日頃黄昏時に姿を現わす赤子の霊に悩まされていた。(中略)M氏は近くの主婦T夫人と不倫の関係にあり、その痴情の縺れからT夫人は黒魔術の秘儀に手を染めたのだ。(後略)』
「職業から年齢から何もかもが違うじゃないか」
「そこが味噌だろうに」
「君は職業倫理があるのか無いのかさっぱりわからんな。いっそ僕の同業になれよ」
関は呵々大笑すると、麦湯をごくりと飲み干した。
「大体、ここの文は何だよ」
「おお、そこが一番事実に即したところだ。俺のジャーナリスト精神の精髄とも言える」
僕は『O氏絶叫し恐慌のため、取材は一時中止の危機にあったものの』と記された活字をかりかりと引っ掻く。
「そこまではやっていない」
「何を。もう帰りたいと嘆いていた癖に。まあ、次もせいぜいいい悲鳴を頼むよ」
本当にどうしようもない奴だ。僕は呆れながら水割りを呷り。
「次?」
「次だよ。連載だもの。また心当たりがあるから、一緒に来てくれよ」
「勘弁しろ……」
時は夏。外は蝉時雨。運勢は恐らく凶。
僕の災難は、まだまだ終わる気配を見せないようだった。
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