壱の参
その女生徒と出会ったのは、病院の建物を出てすぐのところだった。入り口近くの塀の辺りをうろうろとしていたのだ。制服も髪型も先の病室の生徒と殆ど変わらない。背が少し低いくらいだろうか。同じような少女が三、四人並んでいれば誰が誰だかすぐにわからなくなってしまうような
「君。もしかすると松代先生に用事かい」
呼びかけるとさっと顔色が変わった。くるりと僕らに背を向けて去ろうとする。
「大久保」
そう言うと関は素早く彼女を追い抜き、前を塞いだ。僕は後ろに立ちはだかる。少女は怯えた顔で鞄を抱えた。まあ、無理もなかろう。これは悪者の所業である。
「ああ、お嬢さん。我々は別に人攫いだのではないよ。大丈夫。少し話を聞かせて貰いたいだけなんだ」
「なんにも」
首を横に振る。お下げ髪が揺れた。
「知りません」
「いや、本当に怖い事をする心算はないんだよ。俺たちは松代先生の友人だ。どうしてあいつがあんな酷い目にあったのか、それを調べてるだけなんだ」
関は続ける。少女は余計にガタガタと震え出した。
「私……私、なんにもやってない」
「別に君を疑っちゃ……いや、待てよ」
関はジロジロと無遠慮に少女を眺める。大人しそうで、目の下に黒子があるのが特徴と言えば特徴、といったくらいの、本当に平凡な子だ。あまりに縮み上がっているので、流石に哀れになってきた。第一、この布陣は通行人からの印象があまりに良くない。
「なあ、関。いい加減に……」
「大丈夫だ。大丈夫だよ、お嬢さん」
関は猫撫で声を出してなおも続けた。
「どこか落ち着いた場所でゆっくり話したいんだ。その……赤ん坊の話をね」
それが止めだったらしい。女生徒はびくりと震え、急に大人しくなった。
「私、本当に……違うんです……」
「わかってるさ。わかってる。なあ、俺達は君を助けたいんだ。本当だよ」
手練手管、という奴だろうか。関は泣きそうな女生徒を宥めるようにして話を聞く事に成功したようだった。呆れるばかりである。
「ここいらだと、いい喫茶があるよ。席が広いし、煙草臭くない」
死刑執行間際のような顔の少女に比べ、関は何だか饒舌で陽気だった。いいネタが掴めそうだ、とでも思っていたのだろう。
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「そう、ですか。赤ん坊、ご覧になったんですね」
喫茶『海鴎』は確かに悪くない店だった。酒が出ないのはともかく、静かに古典音楽が流れ、
女生徒、名を菅沼透子嬢は目を伏せ、堪忍したような顔で呟いた。
「あの、本当に全部秘密にしてくださいね」
「勿論だともさ」
関は狡い男だが、こういうところで嘘はつかない。記事にはかなり作為の入った
去年からずっと担任の先生だったんです、と透子嬢は語った。
学級の委員を務めていた彼女は、自然松代と接触する機会も多く、一度自宅に招かれたのを切欠に深い仲になっていたのだと言う。
誰にも言えぬ関係ではあるが、それなりに安定していた二人の仲が急に変化したのは、矢張り透子嬢の妊娠疑惑が持ち上がってからだった。
「どういう訳かわかりませんが、私、絶対に赤ちゃんが出来たって思い込んでいて。ただ体調を崩しただけなのに先生に態々伝えてしまって」
不安だったのかもしれません。そう言って彼女は薄く笑った。不確かな関係をより強固にするよすがが欲しかった、ということだろうか。だが、松代は狼狽し、激怒し、結果最悪の形で透子嬢を捨てた。
「これは仮の話だけれど、松代との事を暴露してしまうというのは考えなかったのかい」
僕は気になった事を聞いてみた。透子嬢は首を振る。
「そんな事があからさまになったら、私も学校に居づらくなってしまうし、それに……」
そこから先は無言だったが、何となく推察は出来た。未練がまだあったという事か。こんな酷い男にも。
「だからそれでも私、黙って耐えていようと思って。上手くいっていたんです。先生が前田さんと歩いているところを見るまでは。私、許せなくて。頭がわっとなってしまって」
前田、というのは先の病室で会った女生徒のことだろうな、と予想がついた。松代は性懲りもなくまた生徒に手を出していたのだ。
「でも、それだけです。そしたら先生が職員室で何かに襲われたって噂が立って、実際あんなことになって。心配で病院に行こうと思って、それだけです」
「それだけじゃないだろう。君は赤ん坊のことを知っていたんだから」
関は珈琲をすすり、カップを置いた。眼鏡の奥で目が鋭く透子嬢を射た。
「君、何かしたんじゃないのか」
「…………」
透子嬢は下を見た。ぎゅっと手を握る。まるで万引きか何かを咎めているような空気になった。そうして、彼女は絞り出すように告白をした。
「お呪いを、しました」
「お呪い?」
「学校で少し流行っていたものです」
関はふん、と鼻で笑った。
「最近の学校じゃ恐ろしい物が流行る——」
「違います」
遮りながら彼女は、頭を大きく横に振った。
「違うの。そんな大した物では無かった筈なんです。気持ちが離れてしまった人に、想いを伝えるって、それだけなんです。でも、私の場合、あんな物が生まれてしまったんです」
「あの赤ん坊だね」
「はい。先生が襲われるたび、あれは私のところに帰って来ました」
ガタガタと震えながら彼女は言う。
「あれ、私の生まれて来なかった赤ちゃんなんです。きっと」
沈黙が降りた。管弦楽の響きが柔らかく店内を包む。
「そういう他愛のないはずのお呪いが、実際に力を持ってしまうことってのは、まああるようだね」
関が再び切り出す。
「儀式に本当に意味があった場合か、実行者の意志がどうしようもなく強かった場合か」
「私、でも、先生にあそこまでのことをしたいなんて思ってませんでした」
透子嬢が反論する。
「それは、恨めしい気持ちはあります。でも」
「ああいった物は、融通の利かないレンズみたような物だ。君の心を正確に映して勝手に拡大して、独り歩きする」
「詳しいな」
「昔取材した事があるよ。恋に克つ呪いっていう触れ込みで黒魔術めいたことをやった女生徒がいた。結果、周囲の5、6人が死んだそうだ」
嫌だ。彼女は小さく呟く。
「どうにか出来ないんですか」
「呪いを解く方法は?」
「知りません。紙に名前を書いて燃やして、それきりだから何も残っていません」
「だとしたら、再びあれが現れた時に返り討ちにしてやるしか……」
関の声が止まった。おい、とだけ言ってそっと指を伸ばす。
その先の床、透子嬢の足元には、あの赤ん坊がニヤニヤと笑いを浮かべて居た。
ガタン、と音を立て、私は椅子の上によじ登るようにして震え上がった。同じ床の上にいるのが恐ろしい。透子嬢の顔が真っ白に色を失った。
「なまえを、よんで」
一言、歯の生え揃った不自然な口でそう言うと、赤ん坊はするするとどこかに這って、ふいと消えてしまった。
「おい、これ、まずいんじゃないのか」
「ああ、松代のところに向かったと見て間違いない」
関は立ち上がる。
「お嬢さん、急いで付いて来てくれないか。対処できるかどうかはわからんが、とにかく追いかけて止めるしかない」
透子嬢は依然顔色を失っている。関は彼女の肩を掴んだ。
「あんな野郎でも人間だ。命がある。俺は」
関は、妙に強い口調で続けた。あの人でなしが。
「俺の目の前で、むざむざ人に人を殺して欲しくはない」
彼女はこくこくと頷く。半分泣きそうだったが、それでも立ち上がって鞄を抱えた。
「行くぞ大久保。逃げるなよ。まだ証文はあるんだからな」
椅子の上で縮み上がっていた僕の心を読んだかのような声が掛けられる。僕は、もう本当に帰って寝ていたかったのだが、どうにか震える手で懐からジンの小瓶を取り出し、一口呷る。酒の香りと酩酊感が、どうにか僕のなけなしの勇気を盛り立ててくれた。
「わかったよ。行けばいいんだろう!」
「その意気だ。マスター、悪いけど会計は帝都読報のツケで頼む」
僕ら三人は、急ぎ外へと飛び出した。辺りは薄暗い、黄昏の曖昧な闇に包まれつつあった。
「赤ん坊の這う速さだ。こちらの方が先に着ける」
「なあ、さっきの。『なまえをよんで』というのは一体何だ?」
松代の体験談にも出て来た言葉だ。僕は何故かどうにも引っかかった。
「あれがこの子の赤ん坊なら、何か名前を付けたりしてたんじゃないのか」
「いえ、そういうのは特には……」
早足で行くと、直ぐに病院の前に着く。面会時間外だが、関は守衛と看護婦に幾ばくか握らせて中へと入った。そのまま松代の病室を目指す。
「じゃあ、あの言葉は何なんだろう」
「わかりません。関係あるんですか、それ」
松代の病室の前で透子嬢が顔を歪めた瞬間。
ずる、と何かを引きずる様な音がした。
ゆっくりとそちらを見ると、廊下を裸の赤ん坊がゆっくり這って、こちらに近づいて来ている。僕らは慌てて病室の中に駆け込んだ。
「松代、気をつけろ!」
ひとり寝台の上に寝かされている患者はひどく驚いた顔で僕らを見る。それはそうだろう。僕らだけではない、自分が捨てた少女が付いて来ているのだから。
「話は後だ。赤ん坊が——」
はっと関は口を噤んだ。廊下に居た筈の赤ん坊が、寝台の傍にずるずると這っている。
生まれたての、湿った赤い肌のくしゃくしゃした赤ん坊が、手探りで周りのものを避け、ばたばたと足を動かし。
「なまえを、よんで」
またあの言葉だ。関が手元から消しゴムを投げた。それは赤ん坊を通り抜けて地面に転がる。実体が、無いのだ。
「よんで」
「おい、何だ。止めろ。来るな。お前の名前なんて知るか」
松代が動く方の身体をガタガタと揺らしながら悲鳴を上げる。身動きが取れぬ状況で何者かにじわじわと近寄られる恐怖を、僕は思いぞっとする。
「助けてくれ」
「止めて」
透子嬢のか細い声が重なった。
「止めて。ごめん。私が悪かったの。もう止めて」
駆け寄って抱こうとするが、やはりその手もすり抜ける。
「なまえを」
寝台の下で、赤ん坊は抱っこをせがむ様に両手を広げた。
「せんせい」
その場の全員が、凍りつく様に動きを止めた。
「せんせい、だいすき」
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