壱の弐
松代は気絶したまま担架で病院に運ばれた。命に別状は無く、ただ大きな怪我としては左手と右脚の骨が無惨に折れているとの事だった。少しばかりほっとする。人でなしの関は少々詰まらなそうにしていたが。
「ただ」
話好きそうな看護婦が少し気遣わしげに言う。関の目が嫌な感じにきらめいた。
「おかしいんですよ。手の方は綺麗にぽきりと折れているんですけど……。ただ脚が。階段から落ちただけであんな風に骨が砕けるものかしら」
「ほう、ほう!」
関よ、関よ。確かに人の不幸は君の飯の種かも知れんが、その態度を表には出さない方が良いと僕は思う。
「まるで……そう、機械か車かに挟まれたみたいで」
「そりゃいい」
さすがにこれは小声で言うと、手帳にさらさらと書き出す。
「なあ、大久保。これはどうもあの赤ん坊、松代の奴と因縁があると思わないか」
「あろうが無かろうが僕はもう手を引きたいよ。あんな物何度も見たくはない」
「なんだ、友達甲斐の無い奴め」
これはお前には言われたくない、と思う。腹が立つと途端にアルコールが飲みたくなってきた。病院には消毒用くらいしかあるまいが。
「俺はもう少し調べてみようと思うよ。進展があったらまたそちらに行こう。電報の方が良いかな」
「連絡が無い方が良い」
「直接だな。よしわかった」
何もわかってはいない。
結局松代は目を覚ましても暫く恐慌状態が続き、僕らは電車のある時間のうちに病院を退散した。
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再び関が我が家を訪ねて来たのは、二日後の事だった。少し汗をかいて、片手に何か袋を持っている。昼になってから起きた僕は、陽光の眩しさに目を細めながら渋々彼を迎えた。
「何か進展はあったのか」
「何も無い。だから直接本人にまた話を聞こうと思ってね。流石にもう落ち着いたろうよ」
やはりこの男、友人を心配する気持ちは微塵も無いと見た。
「嫌だなあ、行きたくない。あの赤ん坊、昨日も夢に見たよ」
魘されて汗みずくで起きて、落ち着くのにブランデーの気付けが必要だった。悪夢である。
「何、今日は真昼の盛りじゃないか。あれは黄昏の頃に出るのだから心配は無かろうよ」
「そういう問題じゃあないだろ」
話を聞くのが怖いのだから、と言い募ろうとしたところ、またも証文をごそごそと取り出そうとするので止めた。関は悪びれず言う。
「まあまあ、とにかく行ってみよう。何もなくても友人の見舞いは出来るのだし」
だからそれを先に持って来るものだろう普通は、と思った。
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「ああ、よく来てくれた」
病室では弱々しい声で松代が迎えてくれた。脚と手は不恰好に吊られており、首や頭にもぐるぐると包帯が巻かれている。
「この様だろう、動けなくてなかなか辛い」
「大変そうだな」
関は口ばかりで言うと、手に持った袋から桃を取り出した。隠しから小刀を取り出し、するすると器用に皮を剥く。見舞いの品のようだ。
「骨が繋がるまでこうだそうだ」
「酷い折れ方だったんだって?」
瑞々しい、少し時期の早そうな桃は小皿に並べられ、爪楊枝を刺される。よくもここまで準備したものだなと思う。関は人の心の機微はわからないことが多いが、こういった手間は決して惜しまない。
「ああ」
松代の顔が曇る。
「その……あれだ。君らは見たのか。あの時の……」
「赤ん坊」
松代はこくりと頷いた。関は頷き返すと……桃を自分で取って食べた。
「おい」
「俺はぼんやりとしか見ていないが、大久保ははっきり目が合ったそうだよ。なあ大久保」
「まあそうだけど、その桃」
「恐ろしい事だよなあ」
もぐもぐと口を動かしながら彼は問いかける。
「本当に心当たりは無いのか」
「無いよ……」
流石に呆れた声で松代は返す。桃を食いたそうだ。あまりに哀れなので僕は加勢してやる事にした。
「おい、それは松代の」
「そんなに美味くはないよ。少し早すぎたようだ。甘みも少ない」
「味どうこうじゃないたろう。松代にも」
「君もひとつどうだ」
「え?」
僕は目をぱちくりとさせ、思わず答えていた。
「い、いただきます」
「まあ早生には早生の良さがあると言う事だ」
ひとつ摘む。成る程、まだ味が薄いが、果汁が口の中に溢れ出すこの感じは何事にも代え難い。強い酒に漬けて置いておいてやれば、なかなか熟れた味になるのではないだろうか。
松代が苛々と自由な方の指で寝台の端を叩いている。しまった。そうではない。
「松代、今持って行ってやるからな……」
「その前に。松代。どうなんだ。本当になにも知らんのか」
「知らないと言っているだろう……」
「松代」
桃をもうひとつ、関は持ち上げてゆらゆらと振る。
「少し青臭いところが、俺はなかなか」
「ああ、もう、わかった、わかったとも!」
彼は叫ぶように言った。ふたつ目を摘もうとしていた僕はその声に驚いてとり落としかけてしまった。皿の上で良かった。
「心当たりという程じゃない……が、赤ん坊というキイワードには覚えがある。それだけだ」
関は僕の方を見てニヤリと笑って見せた。これではこいつと僕が示し合わせて脅迫でもしたようではないか。実に遺憾だ。噛み締めるふたつ目の桃はやはり美味い。
「……女が居たんだ。ある日急に子供が出来たと言い出した。僕は産ませるわけにはいかなかったから、産科に行かせた。医者はあれこれ問診をして、女は妊娠なぞしていないことがわかった」
「そんなに簡単にわかるものなのか」
「月経が止まっていなかったんだそうだよ。馬鹿らしい。そんな事も知らずに狂言で気を引こうとしたんだ」
それが証拠に、暫く経ってもその女の腹は少しも大きくならない、と彼は言う。僕は少し、頭がくらくらとしていた。
「狂言とは限らんだろう。想像妊娠と言うのがある」
「どちらだって同じようなものだ」
吐き捨てる様に言う。
「とにかく、僕にはそいつと添い遂げる気もなかったし子供も要らなかった。結局子供は居なかったのだから、何も問題は無い。赤ん坊の幽霊なぞに襲われる事なんてある筈が無いのだ」
「お前、少しは考えて物を言え。命の尊厳を何と心得ている。大体お前の無責任が全部の原因だろうが。問題が無い訳が無い」
腹がむかむかとして、つい大きな声を出してしまった。こんな事を言い出す奴だったとは思わなかった。
「大久保の言う通りだぞ」
意外な事に、関が口を出してきた。この男が倫理をあげつらうとは思えないが。
「問題が無い訳が無い。現に赤ん坊は現れているんだ。つまり、赤ん坊の怪異は単なる『赤ん坊の幽霊』では無いという事になる」
そこかよ、というのと、また訳のわからん事を言い出したな、というのとで僕は顔を歪めた。
「そこを間違えると大変な事になるぞ。根っこを確かめないと撃退も出来まいよ」
「撃退?」
僕と松代は口を揃えて言った。
「そうともさ。撃退だ。良いかね、諸君。俺はこの怪異をどうにか退治して友人たる君の命を守ろうと言うのだ。そうして、子細を我が紙面に連載し売り上げを……」
「危険に過ぎる!」
「大久保。お前はいつもそうだな。口先で人情めいた事を言っては大事になると及び腰だ」
痛いところを突かれたが、だが、それの何が悪い、と思う。文士はブン屋では無い。態々相撲の最前列で砂を被るような職業では無いのだ。
「俺は違うぞ。中身は欲得ずくだが、やることはやる。金の為だがお前は守る。どうだ、松代。俺に任せてみないか」
「当てはあるのか」
松代は掠れた声で言った。関は頷く。
「取材で知り合った、霊験あらたかなその筋の知り合いが居る。御本人は忙しい身だが、霊符くらいは分けて貰えるさ」
「頼む……」
ああ、と関は力強く言った。松代は力が抜けたような顔になる。やはり恐怖はまだまだ強かったのだろう。
「桃をやろうな。もうあまり残っていないが」
もぐもぐとしながら関は言い、皿を松代の自由な方の手に近づけてやる。半分は彼が食した。
「安心しろ。俺と大久保に任せろ、な」
松代が泣きそうな顔で何度も首を縦に振った。巻き込まれた僕は全くもって釈然としないまま、首を捻っていた。
と、外から戸を叩く音が聞こえた。それから若い女の失礼します、という声。松代がハッとした顔になり声を張った。
「ああ、入って来給え」
戸が開いて中に来たのは、若いというよりは幼い、女学生らしき少女だった。見舞いらしき袋を抱え、緊張した顔で松代と、見知らぬ人間である僕らを交互に見ている。
「あの、学級の代表で来ました」
「うん、わかっている。そういう訳だ。今日は有難う」
後半は僕らに向けた物だった。関と僕は顔を見合わせ、帰るか、と頷き合う。桃の皿は脇の机に置かれた。
「それじゃあ、養生し給えよ。また来る」
戸口に向かう時、女生徒とすれ違った。彼女はお下げを揺らしながら、心配そうに寝台に近づく。全く慕われた物だな、と思ったその時、揺れる髪を結ぶリボンが目に入った。鮮やかな赤色のそれは、何処かで見たような――いや、僕は覚えている。松代の部屋だ。僕はあの床のリボンを見て、松代には若い女が居ると思ったのだ。良く良く見れば、リボンは右と左とでほんの少し色味が違う。
僕はゾッとした気持ちで一瞬立ち尽くした。関が腕を引く。慌てて病室を出る。
松代は、生徒に手を出して居る。あの女生徒がその相手だ。
「……随分やらかしているな、あいつ」
廊下を歩きながら、関が厳しい顔で言う。
「あれじゃあ仕方がないのかも知れんな、少しくらいの火傷は」
「あいつ……あの子は」
「お前も気づいたのか」
犬がいつの間にか芸を覚えていたのを見る時の様な顔で、関は僕を見た。
「あの空気は出来てるよなあ。あいつ、邪魔だからって俺たちを追い出しやがった。あんなに必死だった癖にな」
「空気は知らんが、物証があった」
「成る程。お盛んな上に始末も甘い。どうしようもないな」
ふう、と息を吐き、早生には早生の良さがある、と呟いた。それにしても僕は、一日でこれほどまでに松代の評価が地に落ちようとは思わなかった。
「だが、助けるぞ」
「君は……」
関の声は、意固地な程の響きに満ちていた。僕はそこにある物が何か知っている。それは決意と言う。
「いかな下劣な野郎とは言え、人間であるのは確かなのだからな」
「君は、まだあの赤ん坊が来ると思ってるな。何故だ?」
がらがらと、台車が脇を通っていく。関はそれを避けながら振り返った。
「あんな怪異を起こす様な奴が、骨の一本二本で済ますとはとても思えないからさ」
次があれば、あいつ、死ぬぜ。彼はそう言って陰鬱に笑った。
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