第壱話 よばいのあかご

壱の壱

 関と僕が最初に訪ねたのは、現在は女学校の教師をしているという、松代圭吾という元同級生の家だった。


「手近な人間をネタにするなよな」


 そうぼやくと、逆に胸を張られる。


「人脈の有効活用と言ってくれ給え」


 外はそわそわと蝉時雨も始まり、道を行く人々の服装も軽やかに、じっとりとした空気の他は良い季節だ。夕暮れの空も綺麗に染まっている。出不精の僕も、少しは外を歩きたくなるというものだ。


「たまにはこうして出かけるのも良いものだろ」


 関が心を読んだようなことを言う。それは正論だが、脅されすかされて気の向かない仕事に向かうことは確かなのだ。どうも釈然としない。


「何、俺は君を心配して言ってるんだぜ。一時は篭りきりだったそうじゃないか」

「あれは仕事が溜まっていたからで」

「溜まるほどの仕事が来るような売れっ子か、君は! いや実に羨ましい。牛鍋でも奢れ」


 わざわざ心配だ心配だと強調する男が本当に心配するものだろうか。確かに冬の頃の僕は寒さにやられ鬱々としていたのは事実であるが。今は陽光も燦々と眩しく、明るい季節の到来を予言しているかのようだ。そうだ。この時間に聞く怪談ならそう怖いことも無かろう。あれは夜の闇のあわいに流れるから恐ろしいのであって……。


「おい、着いたぜ。どこ迄行く気だ」


 考え込んだ結果、危うく僕ひとり、松代の住まいであるアパートメントを通り過ぎるところであった。慌てて駆け戻る。いつものこととて関は見向きもせずさっさと建物の階段を登っていった。


 屋内に入ると日差しは遮られるが、空気はどこかむっと篭ったようである。三階へ行くまでに着流しの襟元がじっとりと湿った。


「普段動かないからそうなる」

「五月蝿い」


 ふう、と息をつく僕に関は揶揄からかいの言葉を投げる。僕が短く言い返すと、彼は肩を竦めて呼び鈴を鳴らした。


 りん、と音が鳴る。中から足音が聞こえ、松代が顔を出した。なかなかの色男と昔は評判だった。今も顔立ちは変わっていないが、心なしか痩せて、顔色が青白い気がする。


「やあ、よく来てくれた」


 松代は我々を中に招いてくれた。広くもない、単身者向けのアパートメントだ。日当たりは悪くない。そこそこ綺麗に片付いており、そして、ぐるりと辺りを見渡した時、僕はなんだかよくわからない居心地の悪さを感じた。

 何だろう。匂いか。色か。仄かに漂う、決してそれ自体は悪い物では無いのだが、こちらを拒否するかのような、そんな空気があった。気にはなったが、あちこちを覗くわけにもいかない。もしかすると、恐怖で些か神経が敏感になっているだけかも知れないな、と大人しく示された座布団に座った。


「いや、助かったよ。知り合いあちこちに連絡をしたら、丁度君がいい話を知っていると言うじゃ無いか」

「大した話でも無いさ。ただ……僕の方も人に話しておきたくてね」


 おや、と思う。妙に切羽詰まった声音に聞こえたからだ。ともあれ、僕の役目は話を聞いて、精々いいところで怖がることくらいだ。覚悟を決める以外にすることは無い。


「ああ、一寸待って……」


 関は使い古された手帳を取り出す。そして、ほんの少し顔を引き締めると松代を促した。


「今日は取材に応じて頂き有難う。それでは、始めてくれ給え」


 松代は頷き、語り出す。それは、こんな話だった。


----


 これは、つい先頃、一週間も経たぬ頃に松代自身が経験した出来事なのだと言う(僕が「先週か!?」と声を上げたところ、まだ早いと関にペンで叩かれたため、後は意地でも静かにしている事にした)。


 教師の仕事という物は門外漢が想像するよりも余程忙しい物なのだそうで、その日も日が落ちる頃まで松代は課外の見回りだの次の日の準備だの、用事を済ませるために立ち回っていたのだそうな。


 職員室の窓の外は徐々に橙に染まり、照らされる影もゆらゆらと長く色濃くなって来た。西日に目を射られながらも松代は作業を続けた。主に生徒の日誌の確認だ。面倒ではあるものの、時折新鮮な文章も飛び出す、なかなかに楽しい作業だった、と言う(関は女学生の日誌という単語に妙に興味を示していた風だった)。


 そうして熱中していると、今度はゆっくりと外が暗くなってくる。黄昏時だ。空は未だ橙と茜を残していたが、しばらくすると手元が見えなくなってくる。不便であるので、そろそろ電気を点けるか、と顔を上げた時だった。


 足元に赤ん坊がいたという。それも生まれたばかりの様子の、あの薄ら赤く、湿った肌をした、人間とは別の生き物のような赤ん坊が。


 松代はぎょっとし、椅子から立ち上がろうとした。尋常の、這うことも出来ないような頃の赤ん坊がこんな場所に居ようはずも無い。だが、それは予想外に素早く動き、全身で松代の脚にしがみ付いた。


「な、ま、え」


 思ったよりも余程強い力であったと言う。ぎゅう、と脚が締め付けられ、みしみしと音がしそうだった。そして、赤ん坊は何か声を発そうとすらしていたのだ。


 松代は、ぞっとしながら振り払おうとした。赤ん坊は力を増して締め付けてくる。


「なまえを、よんで」


 それは、にい、と大人のように笑った。松代は肌にふつふつと湿疹が出来そうな、嫌な恐怖に慄然とした。


 小さな赤ん坊の口には、既に不似合いにも真白い歯が全て生え揃っていたのだ。


 大声で叫んで床に転ぶ。無様に這いつくばって逃げようと試みた。そこに、がらりと戸が開いて、声を聞きつけた他の教師が慌てて駆け込んできた。


 赤ん坊は、残念そうにゆるゆると引き下がり、どこかに消えてしまったと言う。


----


「成る程……!」


 関が身を乗り出し、部屋の隅に下がって耳を塞ぎかけていた僕をちらりと見る。期待通りの反応だったかどうかは知らないし興味もないし、一刻も早く帰って水割りでも飲みたかった。地虫と赤ん坊は苦手だ。どちらも地面をうぞうぞと這う。


「それで、その後は」

「それきりさ。何かいい因縁があれば君の記事には良かったかも知れないが――学校が建ったのが産院跡だったとかね――残念ながら何も無かった」

「そうだなあ。君が連続嬰児殺害魔だったとかな」


 松代は当然ながら嫌な顔をする。関はこう言うところが馬鹿だ。冗談の勘が悪い。


「まあいいさ。適当にデッチ上げ……整えるからな。大久保も実にいい反応をくれた。満点だよ」

「そんな満点は要らん」


 座布団に戻ると、僕は憮然と呟く。


「いや、聞いてくれて良かったと思うよ。どうも本当にあった話なのかどうか自分でもあやふやで……途中で来てくれた同僚も赤ん坊は見たようなそうでも無いような、とどうも心許なくてね。その後は何も無いし。だから、少しスッキリしたよ」

「有難う、なかなか良かった。記事になったら一部送ろう。勿論名前は伏せるさ」


 関は立ち上がる。


「さ、そろそろお暇するぜ、大久保。まさか腰を抜かしてはいないよな?」

「馬鹿にするなよ! 足が痺れただけだ!」


 松代が笑い出した。少しは元気が出たらしい。道化になった甲斐があったと言う物だ(なりたくてなった訳ではないのだが)。


 僕はじんじんとする足を強いて立ち上がった。その時、何か松代の持ち物にしては綺麗な物が床に落ちているのが目に入る。細長いリボンか何かだ。髪を束ねる為の物だろう。


 ああ、と先に覚えた居心地の悪さの正体に得心がいった。女だ。松代には女が居るのだな、と思う。しかもリボンの鮮やかな赤の色味からすると、若い女だ。羨ましい事だな、と僕は思った。酒瓶と万年床の我が家とは凡そ事情が異なる。


 僕と関はそれから松代宅を辞した。少し昔話でも、と思わなくも無かったが、関に急かされる。彼はどうもその辺りの機微に欠ける。人を駒のように見る癖があると言うか、早い話が人でなしである。


 重い戸が閉まる。関は満足そうに頷いていた。外は黄昏の薄闇が静かに辺りを染める頃合いになっていた。何となく先の赤ん坊を思い出してしまい、背筋が痒くなる。僕らはそのまま階段を降りようと足を踏み出した。


 瞬間、物凄い叫び声が聞こえた。今まさに出て来た部屋の中だ。松代だ。僕らは顔を見合わせた。あの話の後だ。まさか、と思う。僕は恐怖から、関は恐らく保身から、扉を再び開けるのを躊躇ためらった。


 ばん、と大きな音を開け、中から扉が開いた。顔を痙攣ひきつらせた松代が飛び出してくる。脚には――何か、肉の赤の色をした小さな物がひしと。


 私は、ぞっと体温が冷えるのを感じた。それは確かに赤ん坊だった。目が合ってしまったのだ。それは、確かに笑っていた。愛しい人を眺める時の笑み、のようだった。


 松代は脚を引きずりながら滅茶滅茶に走ろうとし、そしてぐらりと体勢を崩し――僕らの目の前で、階段の手すりを乗り越えるようにして真っ逆さまに落ちていった。


 ぐしゃ、と嫌な音がした。僕は嫌だ嫌だと思いながらも薄目で下を見る。脚と腕が奇妙に捩じくれた松代が倒れていた。赤ん坊はもう何処にも居なかった。


「ありゃあ、担架だな」


 関が妙に冷静な声で言った。顔は少し青くなっていたようだが。

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