帝都つくもがたり

佐々木匙

第零話 はなしのはじまり

零の零

 関の馬鹿がまたも僕、大久保純の静かな思索の場をぶち壊しにやって来たのは、梅雨もそろそろ明けたかという時分の頃だった。帝都・東京の片隅にある、我が家での出来事である。


「やあやあ、元気にしているか、大久保」


 夏らしい開襟シャツにカンカン帽。分厚い眼鏡、首からは写真機カメラをぶら下げて、関信二はどこから見ても怪しいブン屋以外の何者でもない。少しは慎みを持って隠すべきだと僕は思う。


「人並みには。夏はまだ楽だよ」

「そりゃ何よりだ。気鬱が心配だったからな」


 それより、と関は僕の方を見て言った。


「中に入れてくれよ」

「嫌だよ!」


 僕は完全に押し売りに対する態勢を取っていた――すなわち、片目が覗くほどに細く戸を開け、しっかりと掴んで開けられないようにしていたのだ。


「ま、また何か妙な話を持ち込むんだろう。門前払いしたっていいくらいだ。いいか、僕はもう君の口車には……」

「失礼」


 ぐい、と関は案外な力で戸を押し開けた。元来虚弱な僕は直ぐに押し負ける。


「ああー」

「まあ、悪い話じゃないさ。君だってなかなか筆で食えてもいないんだろう」

「そりゃそうだが、僕の清貧と君の陰謀とは何も関係がない」

「陰謀なんて滅多なものじゃない。まあ、中で話でも」

「それは僕が言う台詞だ」

「そうかい、ありがとうありがとう」

「まだ言ってない!」


 結局、負けた。関は僕の静かな家にずかずかと歩み入る。いつものことではあるが実に業腹だ。

 僕は所謂いわゆる三文文士である。彼の言う通り、親の遺産が少しばかりなければぐに食いはぐれる程度の人間だ。

 そんな僕は、鳴き出した蝉の声を背に、忌々しく虚空を睨むとぴしゃりと戸を閉じた。


 多分、それが間違いだったのだと思うが、この後悔すらいつものものだ。

 何となれば、この三流新聞社に勤める胡乱な男と学生時代に知り合ってしまった時点で、僕は何かを間違えたと思う。



「怪談をね、集めているんだ。紙面に載せるんでね」

「怪談? まあ、季節には合っているけど」


 麦湯を出してやった。関はそれを飲んで一言、薄いな、と言った。知るか。


「僕は特に知らんよ。そういった出来事に遭ったこともない」

「そこは期待していないさ。君に頼みたいのはな、あちこちで取材をするのを、手伝ってはくれないかということなんだ」

「僕が?」


 湯呑みを持ち上げる手を止めた。何を言い出すのかこの唐変木は。


一寸ちょっと待て。僕の恐怖癖は知ってるだろう」

「知ってるさ。子猫も怖がるくらいだ」

「あれは爪を立てるから……いや、それはいい。どうして態々向かない人種を誘うんだよ」


 学生時代から、僕の怖がりときたら皆の物笑いの種になっていた。高い場所は目が眩む。暗い場所は何が出て来るかわからない。狭い場所は息が苦しい。自分でも何度も悩んだが、もういっそ、危機意識が強いのだということにして放置している。


「それがいいんだよ。そこが狙いで、怪談に向かない人間を連れて行くことで、新鮮な反応を記録出来るんだ」

「何?」

「幽霊の話を聞くだろう。怖がった君が思わず叫ぶ。僕はそこで、大久保氏深々たる恐怖に耐えかね絶叫す、とこう真に迫った文が書けるという訳だ」

「出て行け」


 僕が遠慮を知った人間でなければ蹴り飛ばしていたかも知れない。この男はこういう人間である。人の性分を全て体系的に把握して、自分の損得に結びつける。


「何、何なら名前は伏せるよ」

「そう言う問題じゃない」


 言い募ろうとしたところ、ぺらりと懐から紙を出される。……見慣れたものだ。あまり丁寧に扱われていないので、皺が寄っている。『金二十円也』。借用書だ。僕の、関への。これを出されると僕は黙らざるを得ない。何せ、五年以上無利息で止まっているのだ。


「御利益のあるお札だ」

「今度、今度稿料が入ったら半分だけでも……」

「金に関しては俺は君を信用しちゃいないよ。それに、返してもらうよりこれを形に言うことを聞いて貰った方が得だ」

「しかし怪談だろ」


 僕は頭を抱える。友人同士の百物語の会では、いつも耳を塞いでいたものを。


「話は話さ。本当に化けて出るなぞそうある事じゃない」


 関は回り込むようにして、僕の肩を叩く。


「それこそ、取材費は出させて貰うよ。僕に幾らか返してくれるなり、酒代にするなりそこは君に任せるが」

「…………」


 恥を忍んで言うが、これが最後の一撃だった。僕は不承不承頷いた。関は満足そうな顔になる。


「しかしね、君。もう少し部屋を片付けるといいよ。酷い有様じゃないか」


 関はそう言うと周囲を見渡した――床に酒瓶のごろごろと転がった、僕の静かな思索の場を。

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