第六幕


 第六幕     太陽の不屍鬼ノスフェラトゥ



「う……あ……あぁ……」

 木の洞の様な眼をしばたたかせて、高架道路の路面に大の字を晒して転がっていたヴラジーミルが意識を回復させた。成型炸薬弾頭の直撃によって吹き飛ばされた頭部もあらかた復元され、見かけ上は、ほぼ負傷する前の姿を取り戻している。

 多少脚をふらつかせながらも立ち上がると、頭をブンブンと振って記憶を整理する筋肉ゴリラ。無限の復元能力を有する不屍鬼ノスフェラトゥは、肉体をどれほど破壊されようとも、死に至る事は無い。しかし当然ながら、脳髄を中心とした神経系を失えば物理的な活動は停止し、特に大脳皮質の広範囲に渡る損傷は、記憶や知能の一時的な喪失・混乱を発生させる。

 やがて意識が回復し、記憶を翳らせる雲がようやく晴れたヴラジーミルは、己に不意打ちを喰らわせた男女二人組の乗った装甲トラックを探した。しかしその車影は見当たらず、代わりに壁高欄の一部が崩れ落ちて鉄骨が剥き出しになっている箇所が眼に止まったので、そこから顔を覗かせて視線を巡らす。すると下の一般道に、目当てのトラックが落下しているのが確認出来た。

 中に乗っていた筈の二人組がどうなったのかは、ここからでは遠く薄暗く、うかがい知る事は出来ない。下まで下りて行って生死を確かめ、もしも息があるようなら止めを刺すべきかと逡巡するヴラジーミル。だが次の瞬間、彼の背中に低く野太くドスの効いた、それでいてどこか高揚した男の声が投げかけられる。

「おい、キザゴリラ」

 振り返った筋肉ゴリラの視界に映ったもの。それは立ち上る炎と黒煙を背に受けて仁王立ちする久我有理のシルエットと、猟奇的な笑みを浮かべた彼の口元に光る、白い歯。そして大男の隣では、美しい黒髪を炎が生み出す上昇気流になびかせた少女が同じく仁王立ちし、ヴラジーミルをキッと睨み付ける。

 砕けた筈の大男の両脚は路面をしっかりと踏みしめ、筋骨隆々とした肉体をしっかと支える。裂けた腹部の傷も、その痕跡すら残さずに完全に塞がり、潰れた左眼球も何事も無かったかのように見開かれて、ヴラジーミルを睨み据えていた。

 千切り取られた左腕だけが未だ復元の途中で、葉脈の様に走る血管から骨、神経、腱、筋肉、皮膚と、身体の内側から順を追って細胞が再構築されて行く。それはまるで、腕が溶け落ちて行く様を逆再生するかの様ですらあった。

「貴様その腕は……。そうか、オリガお嬢様と契りを結んだか」

 眼前で敵の身に起きている現象に納得し、改めて大男に向き直るヴラジーミル。対して有理は、ジワジワと復元されつつある自身の左腕を興味深そうに見つめながら、呟く。

「自分が従鬼ヴァレットになってみて、ようやく理解出来たな。俺はずっと、この不屍鬼ノスフェラトゥの復元能力は新しい細胞が作られるもんだとばかり思っていたが、実は時間を巻き戻して、破壊される以前の状態を再現しているんだな。て事は、あれか。老人が従鬼ヴァレットになった途端に若返るのも、時間を操作して若い頃に巻き戻してるって事か」

 復元されつつある己の腕の端々に刻まれた、学生時代の喧嘩で負った傷痕も寸分違わず復元されているのを確認しながら、大男は得心を深めた。

「成り行きとは言え、人間じゃなくなっちまったのは予定外だが、便利な身体が手に入ったのだけは不幸中の幸いだ。さあ、これでお互いに条件は対等! ハンデ抜きでお前をぶっ殺してやるから、覚悟しな! キザゴリラ!」

 啖呵を切って見せた有理は、拳の具合を確かめるように指をポキポキと鳴らしながら、眼前の獲物に向けて一歩を踏み出す。それに対して隣に立つオリガもまた二歩を踏み出し、啖呵を切る。

「ユーリだけじゃない! あたしも戦う!」

 黒髪の少女の覇気に呼応するかの如く、オリガの周囲の空気が、いや、空間そのものが、泡立つかのようにごうと震える。それは気体と液体の中間の、まるで陽炎の様な、質量が有るのか無いのかすらも判然としない何かが舞い踊る不可思議な現象。その現象を眼にしたヴラジーミルが、息を呑んで身構えた。

「ほう……。オリガお嬢様も、その男の命を喰って不屍鬼ノスフェラトゥの力に目覚められましたか……。だがそれでもまだまだ私の、ましてやイライダ姫様の力には遠く及びませんよ? 勇ましい姿はご立派ですが、そんなものは決定的にして絶望的な力の差の前では何の役にも立たない事を、その身をもって教えて差し上げましょう!」

 筋肉ゴリラが吠え、手招きをしてオリガを挑発した。対して黒髪の少女は、眉間に皺を寄せながら、唇を尖らせる。それは真に心の底から沸き上がる怒りを表現した事が無い子供が、必死に大人の真似をしているかのようで、本人は真剣なのだろうが酷くコミカルで場違いな表情にも見えた。そんなオリガの頭にぽんと、有理が大きな掌を乗せて語る。

「おい、ガキ。お前は下がってな。あんなキザゴリラ程度は、俺一人で充分だ。それにお前が着ているその服、せっかく俺が今日買ってやったばかりなんだからな。あいつの糞みてえな血で汚すのは勿体無え」

 大男は黒髪の少女に、ニヤリと笑って見せた。その顔に浮かぶのは、いつもの自信に満ち満ちた表情。それを見たオリガは一瞬逡巡してから有理の眼を見つめ返し、こくりと頷くと、一歩下がる。対してヴラジーミルは、こみ上げる笑いを堪え切れない。

「はーっはっはっはっはっははは。まったく、何を言い出すかと思ったら、馬鹿な事を。オリガお嬢様と二人がかりでも勝ち目が無いと言うのに。いくら不老不死の従鬼ヴァレットになったところで、まだ一つの命も喰っていない、只の人間同然に何の力も持たない貴様がこの私と勝負になるとでも思っているのか?」

 手をパチパチと叩いて爆笑するヴラジーミル。そこに生じた隙を大男は見逃さず、膝を軽く落とすと臨戦態勢に入る。

「試してみるか?」

 そう言い終えるや否や、有理が筋肉ゴリラめがけてダッシュした。その速度はこれまで以上の、完全に人間の域を超えた驚異的な瞬発力。そして獲物の三mほど手前で地を蹴って跳躍すると、空中でコマの様に身体を一回転させて遠心力を乗せ、虚を突かれたヴラジーミルの顔面に強烈な横蹴りを叩き込む。

「な……」

 軍用ブーツの分厚い踵に鼻っ柱をへし折られた筋肉ゴリラが、大量の鼻血と共に、驚愕の声を漏らした。だが大男は、息つく暇を与えない。着地と同時に更に地を蹴って身体を一回転させると、全体重を乗せた神速の肘打ちをヴラジーミルの腹に打ち込んだ。変異した強靭な腹筋に守られ、ステライト鋼製のタクティカルナイフによる一撃でも突き通せなかった筈の腹部が、クレーター状にボコリと凹む。筋肉ゴリラの全身から飛び散る汗により、肘打ちによる衝撃が内臓を貫通して背骨にまで伝わるのが確認出来た。

「が……は……」

 前屈みになって凹んだ腹を押さえ、身体を「く」の字に曲げて目を剥くヴラジーミル。大きく開かれた彼の口蓋からは、嗚咽と共に、文字通りの血反吐がドボドボと溢れ出る。その無防備な顔面を、追い討ちとばかりに有理は真下から蹴り上げた。

 コォーンと、中空の金属缶を蹴り飛ばしたかのような小気味良い反響音が響き渡り、前屈みだった筋肉ゴリラの上体がグルリと半回転して仰け反る。そしてそのまま、勢いを衰えさせる事無く、後頭部を高架の路面に強打した。激突の衝撃でコンクリート製の路面上に、びしりと放射状の亀裂が走る。やがて一拍の間の後に、ヴラジーミルの身体は反動で跳ね返ると元来た道を引き返すかのように再び半回転して前のめりに倒れ、顔面からドサリと崩れ落ちた。

 流れるような三連撃の後に、一瞬の静寂が訪れる。その静寂の中、大男は屠殺された豚の如く横たわった筋肉ゴリラの前に仁王立ちし、歯を剥いて猟奇的な笑みを浮かべた。

「どうだ? キザゴリラ」

 瞬間的に飛んだ意識が回復したヴラジーミルは、ハッと眼を覚ますと慌てて起き上がり、素早く飛び退って有理から距離を取った。そして何が起こったのか理解出来ない、信じられないと言った表情で己の顔をさすり、大男の蹴りによって潰れた鼻から血が噴出しているのを確認すると、その顔を憤怒の色に染める。

「……貴様ぁっ!」

 怒りの咆哮を上げ、突進と共に振りかぶった右拳を、大男めがけて力任せに叩き込むヴラジーミル。しかし有理はそれを最小限のステップワークだけで、それも背後に後退するのではなく敵の懐に飛び込んでかわしてみせると、そこから左足を軸にして身体を半回転させる。そして再び虚を突かれる形勢となった筋肉ゴリラの無防備な腹に、今度は渾身の後ろ蹴りを打ち込んだ。

 大男の右足が胴体にめり込み、内臓が飛び出るかのような激痛から背後に数歩よろめいたヴラジーミルは、再び後方へと飛び退る。そして今度は無策に飛び込むのを止め、両腕を有理の方向に構えて警戒態勢を取った。

「ユーリすごい! ユーリ、すごぉい!」

 対峙する二頭の獣の激突を見守るオリガが、思わず無邪気な歓声を上げながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。その声が耳障りだったのか、ヴラジーミルがギロリと黒髪の少女を睨み付けると、その視線に気付いた少女は身を縮こまらせて後退る。そして有理の陰に隠れるようにして、二人の視線の延長線上に移動した。

 かくして大男と筋肉ゴリラは、再び睨み合う。

「……貴様ぁ……一体何をしたぁっ! 従鬼ヴァレットになりたての貴様に! こんな力が有る筈が無いっ! 何の力も持たない筈の貴様が! この私の身体に傷を付ける事など! 有ってはならんのだっ!」

 ヴラジーミルが呼吸を荒げ、肩を怒りで震わせながら叫んだ。その顔には底無しの憤怒と共に、困惑と狼狽の様相が色濃く浮かぶ。

 従鬼ヴァレットの戦闘能力を決定付ける要因は、主に三つ。それらが複雑に絡み合い、最終的に個々の従鬼ヴァレット固有の能力として現出する。

 まず第一の要因が、その従鬼ヴァレットが人間だった時の身体能力の優劣。これが全ての基礎となり、他の能力を底上げする。この点に限って言えば、全人類中でもトップクラスの動体視力と反射神経、そして極限まで戦闘用に鍛え抜いた肉体を有する有理は、ヴラジーミルのそれを遥かに凌ぐと言っても過言ではない。

 そして第二が、これまでに喰った命の数。簡単に言えば、どれだけ多くの人間を屍人ズールに変え、その命を糧として来たかである。この命の蓄積が従鬼ヴァレット特有の肉体変異を生み出し、人間を遥かに超えた身体能力の源泉、ひいてはその主人である子供達チルドレンの力ともなる。つまり下僕である従鬼ヴァレットが強くなればなるほど、命を共有する子供達チルドレンもまた力を得る構造となっている。この点に関して言えば、たった今しがたオリガと命の契約を結んで従鬼ヴァレットとなったばかりの有理は、ヴラジーミルが語る通りに何の力も持たず、肉体の変異も出来ない筈であった。

 最後は、主となる子供達チルドレンの潜在能力。人間同様に子供達チルドレンもまた、生まれながらにして有する才能には優劣が存在する。より優れた才能に恵まれた主人に仕える従鬼ヴァレットは、より優れた特殊能力を得る。こうして主人と下僕が互いに力を高め合う事によって、相乗効果的に強い者はより強くなる一方で、弱い者は一生涯に渡って頭角を現す事が出来ない。この単純にして明快、かつ残酷な構図により、血を分けた兄弟姉妹である子供達チルドレンの間には、年功序列を無視した才能による上下関係が暗黙の了解として成立していた。裏を返せばこの暗黙のルールこそが、齢四十に満たない年少者であるイライダ風情が、急進派の中においても発言権を得る事が出来ている根拠である。だが子供達チルドレンとしての能力に目覚めたばかりのオリガのそれは、完全に未知数。その従鬼ヴァレットである有理もまた同様に。

 そして今、その未知数が白日の下に晒されようとしていた。

「何の力も持たない筈と言ったな、キザゴリラ? だがな、自分でも分かるんだよ。腹の底から力が漲って来るのが! これまでに浴びた手前えら不屍鬼ノスフェラトゥ共の血が、命が、俺の力に変わって行くのがな!」

 己の身体に漲る力を楽しむかのように、拳を握り締めて啖呵を切った有理。それに対してヴラジーミルは、頭を抱えて困惑する。

「まさか……。お前がこれまでに殺して来た我が同胞の命も、お前が喰った命の数にカウントされているとでも言うのか? そんな馬鹿な! だが、過去にそんな共食いめいた事をした例は無い……。そんな……まさか……」

「そうとも。俺はこれまでに、数え切れないほどの屍人ズールと十三体の従鬼ヴァレットをこの手でぶっ殺し、その返り血を大量に浴びて来た。それが今、この俺の力となって全身の細胞を駆け巡り、これまでに感じた事も無いような恍惚感で今にもイっちまいそうだ! これが肉体の変異ってやつなのか? だとしたら、随分と悪趣味な能力だったんだな、こいつは! そうは思わないか? キザゴリラよぉ!」

「外見を変えずに変異しているだと……? そんな事は有り得ん! そんな事、有り得る筈が無い!」

 下卑た笑いが止まらない大男めがけ、筋肉ゴリラは力ずくでその発言を否定させるが如く、変異によって異常に肥大化した右拳を叩き込む。その筋繊維剥き出しの拳を、有理は避ける素振りすらも見せない。それどころか素早く腰を落とすと、タイミングを合わせ、迫り来るヴラジーミルの拳に自分の右拳をカウンターで繰り出した。

 強烈な打撃同士が真っ向から激突し、その衝撃が轟音を伴う空気の振動となって、水上に広がる波紋の如く高架道路上を走る。突風さながらの風圧が砂埃を舞い上がらせ、炎上車輌から立ち上る炎と黒煙が踊るように暴れ狂った。

 同等に肉体を変異させた従鬼ヴァレット同士の勝負であれば、単純に拳、そして腕そのものが巨大な分だけ、ヴラジーミルの方が優勢と言える。だが拳同士の激突と同時に路面上に飛び散った鮮血は、優勢である筈の筋肉ゴリラのものだけであった。そして火災の上昇気流で渦巻く夜風に、燃え落ちた白い灰が舞い散る。

「何だ……これは……?」

 ヴラジーミルが己の拳に生じた変化に、驚愕と困惑の声を上げた。その拳は拳頭から肘にかけての肉と骨が抉り取られ、しかもその傷口がチリチリと赤くただれて焼け落ち、一部は白い灰と化している。

「これは……太陽の光に焼かれた時と同じ……」

 ハッと何かに気付くと、眼前の大男の拳を見遣るヴラジーミル。その表情は、益々をもって驚愕と困惑の色を深める。

「何だそれは……? 何なんだそれは……? 貴様ぁっ! 一体何をしたぁっ!」

 その眼に映るのは、眩く輝く光。ヴラジーミルの眼前に突き出された久我有理の右拳が、溶け落ちる寸前まで熱された金属の様に白く輝き、やがて白からオレンジ色へと変化する光のグラデーションが肘の辺りまで波打ちながら続いていた。

 ゆらゆらと陽炎を纏わせながら発光する、大男の右腕。それは一見すると腕そのものが燃えているかのようにも見えるが、決して物理的に燃焼している訳ではない事は、拳と共に発光している革ジャンの袖が焼け落ちていない事実からも確認出来る。いやむしろ、革ジャンまでもがオレンジ色の光を帯びている事実が、これが単純な物理現象ではない事を如実に物語っていた。

「何をした、か。さあな、生憎とこの俺自身にも、一体自分の身に何が起こっているのか良く分かってないんでね。ただな……この腹の底から漲って来る力が、お前ら不屍鬼ノスフェラトゥ共を焼き尽くせと言っている事だけは、はっきりと理解出来るがな!」

 右腕だけでなく、次第に有理の左腕もまた同様に、燃え盛るような発光を開始する。良く見れば、今や彼の眼球の中央、瞳孔の奥までもが淡いオレンジ色の光を放ち始めていた。それはまるで、大男の体内に湧き上がる紅蓮の炎が噴き出し口を求めて、心身の末端から唸りを上げて漏れ出ているかのようですらある。

「まさか……」

 ヴラジーミルは呟くと、瓦礫の陰から固唾を呑んで二人の戦いを見つめているオリガを見遣る。黒髪の少女もまた、己の眼前で起きている現象を理解出来てはいない様子であったが、その従鬼ヴァレットである大男の光り輝く腕と彼女が関係している事は明々白々であった。

「まさかこれが……太陽に許された不屍鬼ノスフェラトゥの力なのか……?」

「おいこらキザゴリラ、どこ見てやがる。お前の相手は向こうのガキじゃなくて、この俺様だ。そっちがかかって来ねえってんなら、こっちから行くぞ」

 黒髪の少女を見つめながら困惑と狼狽を幾重にも重ねるヴラジーミルに対して、有理はニヤリと笑うと腰と膝を軽く落とし、臨戦態勢を取った。そして地面を蹴ると、腕と瞳孔からオレンジ色に輝く光の帯を従えながら、大男の肉体が闇夜を疾走する。

 一瞬で敵の懐に飛び込んだ有理は、オリガに気を取られていた筋肉ゴリラの右腕を掴んで素早く身を屈めると、合気道の腕絡み投げの要領でそれを捻り上げる。すると大男の更に倍近い巨体のヴラジーミルが、文字通り手玉に取られるかの如くふわりと浮いて空中で一回転し、勢いよく高架の路面に叩きつけられた。激突の衝撃で頑丈な筈の路面にびっしりと亀裂が走り、剥がれたコンクリートの破片が周辺一帯に散弾の如く飛び散る。

 しかし、投げるだけで終わりではない。掴んだ敵の腕を解放する事無く、それを更に背後に捻り上げた有理はヴラジーミルの背中を踏みつけると、その右肩関節を逆方向に捻じ曲げた。

「がああああぁぁぁっ!」

 テコの原理で極められた肩関節が悲鳴を上げ、骨格から筋繊維がブチブチと千切れながら剥がれる痛みに、小さな牙のびっしりと生えたヴラジーミルの口から苦悶の嗚咽が漏れた。だがそれも、猟奇的に笑う大男にとっては嗜虐心を煽る心地良い旋律でしかない。

「ふん!」

 気合いの掛け声と共に、有理が最後の一捻りを加えた。するとゴギンと不気味な音を立てて肩甲骨から上腕骨頭が外れ、骨と骨の間を取り持っていた軟骨も剥がれて、ヴラジーミルの野太い右腕が肩口から丸ごと捥ぎ取れた。

「ああああーっ! ああーっ! あああああーっ!」

 捕縛されていた腕そのものを失うと言った最悪の形で自由を得たヴラジーミルが、たとえ一時的なものとは言え、肉体を欠損した激痛と恐怖に悲鳴を上げながらバタバタとのた打ち回る。肩口の断面から噴出した真っ赤な鮮血が、筋肉ゴリラが暴れる度に路面に塗りたくられ、高架道路には前衛的で凄惨な絵画が描かれていた。

 それを満足そうな笑顔で眺める有理は、筋肉ゴリラの捥ぎ取れた右腕を掴んでいる自身の白く輝く両手に、グッと力を込める。するとその手の輝きが更に眩さを増し、ヴラジーミルの腕が黒褐色に変色して焼き尽くされると、やがて白蟻に侵食された木材の様にボソボソの白い灰へと朽ち果てて夜風に散った。

 その顔に苦悶の表情を浮かべ、鮮血の噴き出る肩口を押さえながらも、よろよろと立ち上がるヴラジーミル。その眼前に立ちはだかった有理は腰のシースからすらりとナイフを抜くと、歯を剥いて猟奇的な笑みを浮かべ、語る。

「よお、キザゴリラ。形勢逆転だな。……ところで、さっき俺が言った事を覚えているか? 俺は覚えているし、一度言った事は必ずやり遂げる主義なんだ。……お前をバラバラにしてから、ぶっ殺すってな」

 大男の白く輝く拳に握られたタクティカルナイフもまた、炎が燃え移るかのように、輝きを帯び始める。今にも溶け落ちんばかりに発光するナイフの刃は、まさに白刃。耳を澄ませば、ちりちりと焼ける音が聞こえて来そうなほど危うく、そして美しい。

「黙れ黙れ黙れえぇっ! 貴様の様な下賤のひよっこに、この私が負けるような事が有る筈が無いのだあぁっ!」

 怒声を上げながら残された左腕を大上段に振りかぶると、大男の頭頂部めがけてそれを叩き込むヴラジーミル。しかし有理は頭上で両腕を交差させ、それを真っ向から受け止めた。両者の激突と同時に、空気が破裂したかのように鳴り響く轟音。それと共に高架が揺れ、砂塵が舞い上がり、大男の両足を中心とした蜘蛛の巣状の亀裂が路面に走る。頑強なコンクリートが砕けるほどの衝撃にもかかわらず、大男は笑みを絶やす事無く、受け止めた筋肉ゴリラの左腕を輝く両手で鷲掴んだ。

「があぁっ!」

 掴まれた肘付近からじわじわと、ヴラジーミルの左腕がオレンジ色の光と共に溶け始める。生きながらにして身体を焼かれる苦痛と恐怖。それらから逃れるために叫びながら上体を振り回すと、筋肉ゴリラの左前腕はあっさりと焼き切れた。その切断面からは、鉄が焼けるようなきな臭い匂いが漂う。

「あ……あぁ……」

 右腕を肩口から、左腕を肘から失ったヴラジーミルは、喉と舌が硬直して声も出ない。変異によって筋繊維が剥き出しの状態になっているために確認出来ないが、もしも普通の人間だったならば、その顔色は蒼白を極めていた事だろう。しかし大男は、獲物が恐怖に溺れる時間すらも与えない。

 オレンジ色に輝く光に焼き尽くされ、真っ白な灰の塊へと変わり果てた筋肉ゴリラの左前腕。それを放り捨てた有理は、獲物の懐に素早く踏み込むと、横薙ぎにナイフを一閃。すると一拍の間を置いてから、ほんの半時間ほど前までは同じナイフの突きを一切受け付けなかったヴラジーミルの腹筋が横一線にバックリと開いて、血飛沫と共に内臓をまろび出させた。既に両腕を失っている筋肉ゴリラは、自身の臓物が外気に晒される凄惨な光景を、只々呆然と見守る事しか出来ない。

 ナイフに付着した血糊を切り払った有理は、腰のピストルベルトに固定されたシースにそれを収めると、自由になった右拳をヴラジーミルの腹の穴へと突き入れた。その手に伝わって来る、熱く柔らかい血と臓物の感触。それらの最奥から、大男は目当てのブツを探し出す。

「やめっ! やめろっ! 何を……何をして……」

 生きながらにして腹の中身を掻き回される激痛とおぞましさに、筋肉ゴリラは呻きながら悶え苦しむ。だが嗜虐心に陶酔し切った大男は、その手を休めない。

「見っけ」

 子供の様に無邪気で、かつ残酷さを併せ持つ声色で発見の喜びを表現した大男は、握り締めた硬い物体をオレンジ色に輝く拳で焼いた。その硬い物体とは、ヴラジーミルの背骨。

「きああああぁぁぁーっ!」

 奇怪な絶叫を喉の奥底から漏らしながら、首をガクガクと震わせ、背骨が溶け落ちて行く激痛に苦悶するヴラジーミル。並の人間であったならば既に死んでいてもおかしくない、いやむしろ、あっさりと死んだ方が楽になれる程の激痛だが、皮肉にも不老不死の肉体がそれを許さなかった。

 期せずして手に入れた、どれだけ乱暴に扱っても壊れる事が無い玩具を楽しむかのように、大男の責め苦はまだまだ続く。

 有理は筋肉ゴリラの腹に突き入れた手を抜かずに、そのまま臓物を押し退けると、手探りで探り当てた肋骨の最下端を掴んだ。更に腹の穴から骨盤の上端にブーツの踵を乗せると、車を持ち上げるジャッキさながらに、獲物の腹に空いた傷口を全力で押し広げる。するとブチブチと筋繊維が千切れる音をBGMにして、ヴラジーミルの身体が上半身と下半身に分断された。

 ドサリとその場に崩れ落ちる下半身と、ゴロゴロと路面を転がる上半身。その二つを満足そうに眺める有理の顔は、獲物の返り血でもって真っ赤に染まった、満面の笑顔。

「ひいぃーっ! ひいいぃぃーっ!」

「逃げるな、キザゴリラ」

 怯え切ってキャンキャンと泣き喚く小型犬を連想させる無様な声で絶叫しながら、まるで芋虫の様に、残された左上腕だけで這いずって逃走を試みるヴラジーミルの上半身。その腹の断面から長い尻尾の様に飛び出た腸を掴み上げた有理は、暴れる駄犬を手綱で操るかの如く、逃げる芋虫をグイと手繰り寄せた。

 大量の血脂にまみれた路面はヌルヌルと滑り、筋肉ゴリラの上半身は、いとも容易く大男の足元まで引き寄せられる。その胸を踏み押さえてから腸を力任せに引っ張ると、ブチリと食道管が千切れて、胃袋と各種の臓器が上半身から分離された。呼吸と共に荒く上下するヴラジーミルの剥き出しの横隔膜に、たった今しがた引き抜かれたばかりの食道が通っていた丸い穴、食道裂孔がぽっかりと口を開けている。

 恐怖と絶望、困惑と狼狽に顔を歪めながら、尚もバタバタと路面上で暴れ狂うヴラジーミルの上半身。もはや悲鳴も出ないその芋虫が、見る間に小さくしぼみ始める。

 肉体を欠損し過ぎたせいか、それとも戦意喪失が肉体にも影響を及ぼしたせいなのか。変異を維持出来なくなったその身体は、強靭な剥き出しの筋繊維に包まれた巨体ではなく、今や元の姿――浅黒い肌にダークブロンドの髪をなびかせたキザ男――でしかない。しかも己の血と体液と吐瀉物にまみれて生ゴミの様になったそれは、両腕と下半身を失っている分を差し引いても、あまりにもみすぼらしかった。

「おいおいおいおい、まだまだ終わりじゃねえぞ? まさか、この程度で許してもらえるとでも思ってんじゃねえよな?」

 有理は笑いながらそう言うと、キザ男の無防備な頭部を掴み上げた。そしてその口蓋に、己の両手の指を突っ込むと、力任せにヴラジーミルの口を引き裂きにかかる。

「ひゃめっ! ひゃめへえぇっ! ひやっ! ひゃしゅけへえぇっ!」

「駄目だな、キザゴリラ。……いや、今は只のキザ野郎か。この俺に手を上げた以上は、命乞いなんて情け無え真似は許されねえんだよ」

 涙を流して必死に懇願するヴラジーミルの奮闘空しく、まずはゴキンと、顎関節が外れた。そして更に大きく口蓋は開かれ、やがて口角にプチプチと裂け目が入ると、有理はそのままキザ男の下顎を毟り取る。毟り取られた下顎に付随して、舌、及び喉から胸にかけての皮膚も同時に剥がれ、空洞の様に開いた咽喉と胸骨が露出した。

 文字通りの嬲り殺し。しかし笑う大男は手を休める事無く、更にキザ男の全身の皮膚を剥がしにかかる。


   ●


 黒髪の少女はギュッと、小熊のユーリエヴィチを抱き締め直した。彼女の眼前で繰り広げられているのは、とてもじゃないが幼い少女に直視させていいものではない、筆舌に尽くしがたい凄惨極まる光景。

 全てを託して送り出した王子様は、その全身を敵の返り血で真っ赤に染め上げている。そしてその白く輝く手が掴み上げているのは、頭と胸以外を無残にも捥ぎ取られ、下顎も舌ごと毟り取られて悲鳴を上げる事すら許されなくなった、獲物の残骸。

 今や、皮膚を剥かれた人間の断片と成り果てたヴラジーミルの上半身。その頭髪を鷲掴みにし、勝利のトロフィーの如く天高く掲げた有理は、文字通り眼を輝かせてゲラゲラと笑っていた。それはまるで、自らに宿った新たなる力を楽しむかのように。そしてまた、底無しの嗜虐心が満たされる喜びに酔いしれているかのように。

 それは既に、対等な条件下での戦いではなかった。圧倒的な力の差が生み出した、狩る者と狩られる者による、無慈悲で一方的な殺戮劇。血塗られた虐殺。呼び方に違いはあれど、忌避され、また唾棄されるべき事象である事に他ならない。

 だがその光景を見つめるオリガの胸中には、何とも言えない感情が湧き上がり、心を支配していた。普通の幼い少女であれば、恐怖と嫌悪でもって眼を背け、嘔吐なり失神なりの行動に至っていてもおかしくはない状況であろう。しかし黒髪の少女が感じていたのは、抑え難い興奮と、胸を躍らせる高揚であった。周辺一帯に充満する血生臭い鉄の匂いすらも、彼女にとっては心地良い芳香と化している。

 果たして、『太陽の不屍鬼ノスフェラトゥ』として生まれた本能が、そうさせるのだろうか。王子様の腕から放たれる太陽の光が、高架の路上一面に撒き散らかされたおびただしい量の血と臓物が、オリガの心を躍らせると同時にその眼を釘付けにしていた。


   ●


 かひゅーっ、かひゅーっ、と肺の奥から搾り出すかのような呼吸音と共に、喉から呼気に混じって、真っ赤な血の泡がごぼごぼと溢れ出す。声帯を失った事で命乞いさえ出来なくなったキザ男は、眼球を抉り取られた眼窩から血の涙を流し、その意識は完全に無い。首から下の皮膚、更には筋繊維までもが生きながらにして剥ぎ取られ、その胸部はほぼ完全に白骨が露出している。肉体を破壊される速度に不屍鬼ノスフェラトゥの復元能力が追い付かず、不老不死である事が、むしろヴラジーミルが被る苦痛を長引かせていた。

 そんな惨たらしい姿になってしまったヴラジーミルの頭髪を、左手で掴み上げた有理。彼は嬉しそうに手中の獲物を観察してから、未だ破壊出来る部位が有った事を喜びつつ、キザ男の耳と鼻を力任せに毟り取ってから投げ捨てた。ついでに、残っていた歯も全部抜き取ってから放り捨てる。

「流石にもう、バラバラに出来る場所が無くなっちまったな。それじゃあそろそろ、約束通りにぶっ殺してやろうか?」

 ヴラジーミルの頭部の、つい先程まで耳が存在していた箇所に空いている穴に向けて、有理は尋ねる。だが当然、意識を失ったキザ男からの返答は無い。それを一方的に了承と受け取った大男は、自身の左脇に吊るされたホルスターから純銀弾頭の装填されたM500リボルバーを引き抜いた。そして生肉で出来たボロ雑巾の様になっているヴラジーミルの上半身の、肋骨の隙間から直接心臓に銃口を押し当てると、撃鉄を起こすべく右手の親指を立てる。

「ユーリ! 危ない!」

 その時、オリガの叫び声が夜の高架道路に響き渡った。そして次の瞬間、有理は背中に激痛を覚えるのと同時に、自分の胸から何か細長い物体が生えて来るのを眼にした。

 細く、白く、そして真っ赤な血にまみれたそれは、未だ幼い人間の腕。それが大男の胸を背中から貫通して突き破り、大人の拳大ほどの、ピンク色をした物体を掴み出している。よく見ればそれは、規則的な鼓動を繰り返し続ける、筋肉で作られた内臓。即ち、久我有理の心臓そのものであった。

 肩甲骨と肋骨、それに背骨と胸骨の一部を貫かれた激痛で、笑顔から苦悶へとその表情を激変させる有理。彼が首を捻って背後を見遣れば、そこに立っていたのは果たして、二つ結いの髪の少女イライダの姿であった。気取られぬ内に音も無く忍び寄った少女の右腕が、大男の胸を無残にも串刺しにしている。

 ガクリと膝の力が抜けて、体勢を崩す有理。だが決して路面に倒れ伏す事はなく、その巨体は串刺しの状態で維持されている。か細い身体のどこにそんな力が秘められているのか、体重百㎏に達する大男の五体を、イライダは胸郭を貫通した腕一本で支え上げていた。

「……大したものね。従鬼ヴァレットになったとは言え、ヴラジーミルほどの手錬がこうも易々と打ち負かされたのは予想外だったわ。その点は、敵ながら天晴れと褒めてあげるべきかしら?」

 何の感情の機微もうかがわせないままに、二つ結いの髪の少女は有理の心臓を掴み出しながら呟いた。彼女の瞳に宿る光は、涼やかを通り越して、もはや底無しの冷酷。

「このクソガキ……いつの間に……」

 苦痛と驚愕に、左手に掴み上げていたヴラジーミルの上半身を取り落とす有理。それでもガタガタと震える大男の右手は、M500リボルバーを握り直すと、背面撃ちでもって二つ結いの髪の少女の心臓を狙おうとする。だがイライダは、銃口が自身に向けられる直前にその銃身を難無く摘み上げて奪い取ると、背後へと無造作に放り捨てた。心臓を掴み出された大男の手には既に、重量二㎏を越える大ぶりなリボリバーを保持する握力は残されていない。

「何があろうとも諦めない精神力と、ゴキブリ並みの生命力。それに肉体を変異させずとも発揮される人間離れした身体能力には、敬意を払わなくもないわ。出来る事ならば、新たな私の従鬼ヴァレットとして迎え入れたいとすらも思うくらい。でも、主人に従う気の無い下品で無粋な下僕は必要無いの。だから今ここで、確実に殺してあげる」

 イライダが右手に力を込めると、その手に握られた有理の心臓がジワジワと溶け始める。

「がはっ!」

 大男は、ヴラジーミルに致命傷を負わされた時以上の呻き声を上げた。

 心臓を溶かされると言っても、有理が白く輝く拳で筋肉ゴリラの肉体を焼いた時の様な、ボソボソの灰になって崩れ落ちる感覚ではない。筋肉の塊である筈の心臓が溶けて液体の血液となり、イライダの掌に吸収されて行くような感覚。それは命そのものを吸い尽くされるような、気の遠くなる喪失感に満ちている。

「貴方達人間は、不屍鬼ノスフェラトゥを殺す方法は太陽の光と純銀の二つしか無いと思っているようね? でも実は、もう一つ方法があるの。それは、心臓を共食いする事。つまり不屍鬼ノスフェラトゥは別の不屍鬼ノスフェラトゥの命を、その心臓と共に喰らう事が出来るの。それをこれから、身をもって教えてあげる。さあ、私の糧となりなさい」

「うるせえぞクソガキ……今……ぶっ殺して……やる……」

 冷徹かつ高潔なイライダに対して、大男は口汚く罵ると、反撃の機会を得ようと孤軍奮闘する。だが既にその心臓は半分がたが溶け落ち、もはや有理には、拳を握る力さえ残されていない。それを尻目に、イライダの拳に更なる力が込められた。有理の意識が危険域に達し、その眼が虚ろになる。だが次の瞬間、ビルの谷間に一発の銃声が轟いた。それと同時に、イライダの足元の路面が小さく爆ぜる。

「その手をはなしなさい! イライダ!」

 果たして声のした方角である背後を振り返った二つ結いの髪の少女の瞳に映るのは、双子の姉の姿であった。

 数mしか離れていない位置から妹をキッと睨み付けながら、強い口調で迫るオリガ。彼女が両の手で握っているのは、先程イライダが有理から取り上げて放り捨てた、M500リボルバー。黒髪の少女の幼く小さな手には不釣り合いな大口径の銃身からは、僅かな紫煙と陽炎が漂っている。

 血を分けた肉親に銃口を向ける。そんな姉の姿を見ても、妹は眉一つ動かさない。

「オリガお姉様。そんな玩具が、この私に通用するとでも思っているのですか?」

 黒髪の少女の瞳を真っ向から見据えて、イライダが氷の様に冷たい声で語りかけた。そこに込められているのは、己の優位性に対する絶対の自信と、嘲笑。対してオリガは、慣れない手つきでリボルバーの撃鉄を起こすと、双子の妹の胸にその照準を合わせる。緊張からか、それとも初弾の強烈な反動で痺れているのか、黒髪の少女の手は微かに震えていた。そして二つ結いの髪の少女に向けて、オリガはその決意を言い放つ。

「ユーリは、殺させない」

 双子の姉の眼から固い意思と決意を感じ取ったイライダは、右腕で大男の体躯を持ち上げたまま、オリガに向けて左手をかざした。

「分かりました、オリガお姉様。お姉様がそのつもりなら、この男よりも先に、まずはお姉様から殺してさしあげます」

 そう言い終えるや、イライダのかざした手の先で、ゆっくりと空間が割れ始める。縦に、横に、垂直に、水平に。次々と立体的な空間の断裂が積層されるその光景は、例えるならば、透明で巨大なシュレッダーの刃。それらが何層にも渡って積み重なり、高速で回転しているその様は、生理的な恐怖感すらも覚える。また同時に、空間と共に光をも断裂しているのか、その背後にいる二つ結いの髪の少女の姿が霞んで見えた。

 やがて回転運動を繰り返す空間の刃に触れたコンクリートの路面が、ミキサーにかけられた豆腐の様に、いとも容易く切り刻まれた。こんなものを喰らえば、柔らかい人間の身体など、ひとたまりも無く生肉のジュースへと変貌してしまうだろう。事実、今現在二人の少女が対峙している高架道路をズタズタに切り裂いて崩落させ、多くの車輌を破壊して見せたのは、イライダの有するこの能力に他ならない。

 すると黒髪の少女の周辺の空間もまたゆらりと沸き立つと、襲い来るであろう二つ結いの髪の少女の攻撃に備える。双子の姉妹共に空間を操る魔術の技を発動し合うが、その力量は明確かつ格段に、イライダの方が上であった。その差はたかがリボルバー一丁で覆せるものではないが、それでもオリガは、一歩も引かない。引く訳にはいかない。

 一秒が一時間にも思える、張り詰めた緊張に支配された静寂。それを破る一発の銃声が、夜空に轟く。オリガが引き金を引き絞り、リボルバーの撃鉄が銃弾のプライマーを叩いて起爆させたのだ。そしてニトロセルロースの燃焼によって押し出された純銀弾頭が射出されるのと同時に、イライダは断裂空間の嵐を射出した。

 二つの力が激突した瞬間、激しい衝撃音が巻き起こる。そして空間のシュレッダーはガラスが砕け散るかのように霧散し、夜の闇に溶けて散った。後に残されたのは、オリガが撃ち出した純銀弾頭。それは二人の少女のちょうど中間の何も無い空中で、クルクルと旋状回転を継続しながら浮いている。

 双子の姉妹は共に、その光景を前に言葉を失い、驚きを隠せない。イライダの空間断裂を霧散させたのはオリガの力ではないし、オリガの銃弾を押し留めているのもまた、イライダの力ではなかった。

「はいはい、そこまでよ、二人共」

 燃え上がる乗用車から立ち上る黒煙の中に、いつの間にこの場に姿を現したのか、黒いナイトドレスに毛皮のショールを纏った女が立っていた。その妖艶な肢体に美しい白髪を這わせた妙齢の女性は、相も変わらずのお気楽な笑顔をその顔に浮かべている。

「母様!」

「お母様! 何故ここに?」

 双子の姉妹が共に、驚きの声を上げた。

 その笑う女性の正体は、不屍鬼ノスフェラトゥの王にして『開祖オリジン』、魔女エカテリーナ。彼女はハイヒールの踵を高らかに鳴らしながら二人の娘に近付くと、空中で回転運動を続けている純銀弾頭を悪戯っぽく「えいっ」と言いながら指で弾いた。弾かれた弾頭は放物線を描いて路面に落ち、カラカラと力無く転がる。

「さ、オリガ。そんな物騒な男の子の玩具は、捨てちゃいましょうね? それにイライダも、その手を下ろしなさい?」

 そう言うとエカテリーナは、強烈な射撃の反動で痺れているオリガの小さな手からM500リボルバーをそっと優しく、幼児から危険な玩具を取り上げるかのように摘み上げた。そしてその玩具を、足元のコンクリート上にポイと投げ捨てる。だが素直に母の言葉に従った黒髪の少女とは対照的に、二つ結いの髪の少女イライダは、掲げた手を下ろそうとはしない。

「お母様、そこをどいてください」

 その小さな手の先から、再び断裂空間の刃が生み出され始める。

「あらあら、駄目よイライダ。母様さっき、おでん屋さんで言ったでしょう? 今夜は人間と争う気は無いって。だから母様の顔を立てて、今はおとなしく従いなさい? ね? それに血を分けた娘達、しかも双子の姉妹が殺し合うなんて、母様とっても悲しいわ?」

 やや芝居がかった口調と表情でもって聞き分けの無い娘に語りかけたエカテリーナは、顎に指先を当てると、いかにもな溜息を吐いて見せる。

「しかしお母様……」

 文字通り一度上げた手を下ろす訳にはいかないイライダは、不服そうに口篭った。そんな娘をエカテリーナは、口元には笑みを浮かべたまま、その視線だけを刺すような鋭さに変えて見つめ返すと口を開く。

「イライダ、母様三度は言わないわよ? その手を下ろして、今夜のところは引き下がりなさい」

「……くっ……」

 有無を言わせぬ母の口調に、イライダは口惜しそうに歯噛みしながらも、オリガに向けてかざしていた手を下ろした。同時に空間の断裂もまた中断され、臨戦態勢が解かれる。

「左手だけじゃなくて、右手も、ね?」

 笑顔でありながら威圧感を纏わせた表情のエカテリーナに、再度促されたイライダ。彼女は渋々、有理の胸郭を貫き、心臓を掴み出していた右手も大男の身体から引き抜いた。そして二つ結いの髪の少女はべっとりと血脂にまみれたその手を振って、血を払い落とす。

 ようやく串刺しの状態から開放された大男は、ゆっくりと膝から崩れ落ちると、そのままドサリと高架の路面に倒れ込んだ。

「ユーリ! 大丈夫?」

 胸を押さえてうずくまる大男に、オリガが駆け寄る。心臓を半分以上溶かされた苦痛は想像を絶し、タフさには絶対の自信を持つ大男も蒼白の顔に苦悶の表情を浮かべて呼吸を荒げ、傷が復元されるまでは声も出せない。決して無事とは言い難い状況だが、王子様の生死を確認したオリガは、有理の頬に手を添えて安堵の溜息を漏らした。そんな二人の姿を、二つ結いの髪の少女は苦々しげに見つめながら舌打ちを漏らす。

「ヴラジーミル!」

 気を取り直して、路面に転がったままの下僕に声をかけるイライダ。

「イライアひめひゃま、もうひわけありまひぇん……。わらひがふがいないひゃかりに……」

 なんとか意識を取り戻し、半分がた復元されたゼリー状の舌と下顎を震わせながら、苦しげに応えるヴラジーミル。その失った両腕と下半身の断面からは、葉脈の様な血管とピンク色の細胞が泡状に噴き出し、不屍鬼ノスフェラトゥの特徴的な能力に一つである肉体の復元が行なわれている最中であった。僅かに残された筋肉と関節を使って血の海の中をもぞもぞと這い回るその姿は、まるで巨大な芋虫の様ですらあり、キザ男の伊達な一面は見る影も無い。

「お前が仕留めて見せると大口を叩くから任せたのに、とんだ失態ね、ヴラジーミル。このお気に入りのドレスが血で汚れてしまった事に対する懺悔も含めて、言い訳は帰ってからゆっくりと聞かせてもらうから、今は黙ってなさい」

「ひゃい……」

 侮蔑、憐れみ、怒り。そして僅かな安堵と愛情。それら様々な感情の入り混じった、それでいて冷ややかな視線を投げかけながら芋虫の首根っこを掴んで、乱暴に抱え上げるイライダ。

「それじゃあ、そろそろ帰りましょうか」

 一時的にとは言え、いがみ合うのを止めた娘二人を見てそう言ったエカテリーナ。彼女は右手の人差し指をピンと立てると、肩関節を軸にしてコンパスの様に虚空に大きな円環を描いた。すると指が描いた軌跡に従って空間が歪み、直径二mほどの水鏡の様な円盤状の物体が宙に浮く。

 それは可視光線そのものを拒否するかのように、円環の向こうに何かが見えているようで何も見えていない、曖昧模糊とした不可思議な状態の存在。おそらくは視覚で認知する事自体が不可能なまでに、空間が歪んでいるものと思われる。

「さ、イライダ。先に行きなさい」

 母に促された二つ結いの髪の少女は、横たわる大男に寄り添った双子の姉に一瞥をくれてから、脇に抱えたヴラジーミルの上半身と共に歪曲空間の円環にその身を躍らせて、消えた。この円環はどうやら、空間と空間を繋ぐ門の役割を果たしているらしい。

「母様!」

 双子の妹に続いて円環の門へと足を向けた母の背中に、オリガは語りかける。

「母様、オリガは……オリガはどうしたらいいの? また今日みたいにイライダたちにいじめられたら、オリガはどうしたらいいのか、わからないの! オリガは何をするべきか、わからないの!」

 叫ぶように声を張り上げながら、黒髪の少女は両の瞳からボロボロと涙を零れ落とした。暫し背を向けていた母エカテリーナは、娘へと向き直ると、ゆっくりとその眼前に歩み寄る。そして路面に膝を突いて姿勢を下げ、オリガと自分の目線を合わせた。娘を見つめる母の眼は、ひたすらに優しい。

 慈愛に満ちた表情のエカテリーナが、くるんと右手の人差し指を虚空で回す。するとどこからともなく、その手中に白いレースで縁取りされたハンカチが現出した。それでもって母は、優しく優しく、愛しみを込めて娘の涙と鼻水を拭い取る。

「オリガ」

 まだ少し赤く腫れてはいるが、すっかり綺麗になった娘の眼を見つめながら、母は語りかけた。その顔に浮かぶ笑顔には少しだけ、寂しさが混じっているように見えなくもない。

「オリガは、母様の事が嫌い?」

「ううん、母様は好きです! 大好きです!」

 即答するオリガ。

「じゃあオリガ、オリガは自分自身の事は嫌い?」

「それは……よくわかんない」

 一点の迷いも無く答えた先程とは違い、今度の母の問いに、娘は口篭った。

「なら質問を変えるわね。オリガは、自分自身をどうしたいの? これからは、誰と一緒に生きて行きたい?」

「オリガは、母様といっしょにいたい! でも、もうあの暗い地下室にもどるのは、絶対に嫌なの……。それに、ユーリやマイヤともはなれたくない……。ねえ母様、みんなでいっしょに、仲良くすることはできないの?」

「残念だけれど、それは出来ないのよ、オリガ」

 再び涙で瞳を潤ませて訴える娘に、母は少し悲しそうな笑顔を向けた。そしてオリガの頬を優しく撫でながら、応える。

「さっきの別れ際に伝えた事の繰り返しになるけれど、あなたは母様達とは違う、特別な存在なの。あたしは千百年の昔、不老不死の肉体と魔力を得るための儀式を行なって、太陽に背を向ける呪われた生き方を選んでしまった。だからあたし達は、あなたや人間達の様な太陽の下で生きる事を許された存在とは、根本的に違うの。残念だけれど両者は、互いを無視し合いながらの共存は出来ても、共に喜びを分かち合う共生は出来ないの」

 改めて、寂しげな笑みを見せるエカテリーナ。

「どうして子供達の中で、あなただけが呪いから逃れる事が出来たのか、それは母様にも良く分からない。でもきっと、それには意味がある。その意味にあなた自身が気付くその日まで、我慢してちょうだい」

「母様……」

「オリガ。これからあなたの人生には、苦しい事もあるでしょう。辛い選択を迫られる日も来るでしょう。でもこれだけは、決して忘れないでちょうだい。母様は、あなたを心から愛している。いつでも、いつまでも、ずーっと、ずっと。愛しているからこそ、今はここで別れなければならないの。そしてこれからのあなたは、あなたの生きたいように、あなた自身を信じて生きて行きなさい」

 両眼に涙を湛えたオリガを、エカテリーナはギュッと強く、だが優しく抱き締める。母の熱い抱擁に負けじと、娘もまた母を抱き締め返す。

「母様……オリガは……オリガは……」

 嗚咽混じりに呟くオリガの前髪をそっとかき上げ、現れた可愛らしいおでこに優しくキスしたエカテリーナは、娘のポシェットから覗く小熊のぬいぐるみに気付いた。

「あらこれ、昔あたしがあげたぬいぐるみね? ずっと持っていてくれたのね、オリガ」

「うん、母様がくれたもので残ってるの、これだけだから。名前は、ユーリエヴィチ」

「そうなの、王子様の子なのね。……オリガ、もしも母様が恋しくなったら、このぬいぐるみを母様だと思いなさい? あなたが手放さない限り、ずっと母様はあなたの傍に一緒に居るからね」

 小熊のぬいぐるみの頭を軽く撫でたエカテリーナは、ゆっくりと立ち上がると、娘への愛情に満ち溢れた笑顔を浮かべる。

「さあオリガ、これからあなたと共に生きる王子様が待っているわ、お行きなさい」

 母の言葉に娘は、ワンピースの袖で涙を拭うと、それ以上泣いてしまうのをグッと堪えて王子様の姿を眼で追う。だがしかし、先程まで有理が倒れていた筈の場所にその姿は無く、血痕だけが残されていた。

「ユーリ?」

 黒髪の少女が王子様の名を呼び、血の痕を眼で追う。果たして路面に擦り付けるかのように残された血痕の先に存在したのは、胸の傷が塞がり切っていない大男の這いずる姿。その向かう先には、エカテリーナがオリガの手から取り上げて投げ捨てた、M500リボルバーの冷たく光る銃身が転がっていた。

 この状況においても尚、勝利を諦めて休息を取る事を、有理は選択しない。彼は指一本動かすだけでも激痛の走る身体に鞭打ち、必勝の武器を求めて、前進する事を止めてはいなかった。

「あらあら、無粋な男ねえ。イライダも言ってたけれど、ホント、ゴキブリ並みの生命力ね。ここで大人しくお姫様の介抱を受けていれば、感動的に場が丸く収まったのに。空気の読めない男は、女の子に嫌われるわよ? でも残念ながら、反撃のチャンスを与えるほど、あたしは甘くないの」

 大男の意地と執念に感心しながらも、呆れ果てて嘆息するエカテリーナ。彼女は右手の指三本を立てると、それをパチンと鳴らした。それを合図に何らかの力が作用したのか、あと少しで有理の手の届く位置まで迫っていたリボルバーが見えない何かに弾き飛ばされ、更に遠くへと路面を転がる。

「糞っ!」

「御免なさいね、色男さん。いつかあなたが、あたしと本気でやり合えるほど強くなるその時まで、殺し合いはおあずけにしましょ? それ以外で、そうね……。ベッドの上でやり合いたくなったら、すぐにでもお相手してあげるから、連絡ちょうだいね」

 路面に拳を打ち付けて口惜しがる大男に、エカテリーナは悪戯っぽく微笑みかけると、投げキッスを飛ばした。そしてケラケラと笑いながら円環の門に歩を進めた魔女は、ふと思い出したかのように振り返って、付け加える。

「そうそう、さっき車と一緒に落っこちて行ったお仲間さん達も無事だから、安心してね? 今夜のところはお互いに犠牲者ゼロって事にしておきたかったから、サービスしといたわよ? それじゃあオリガ、ユーリと二人でお幸せにね」

 最後に満面の笑顔で娘に祝福の言葉を送ると、母は空間の狭間に、その姿を消した。虚空に浮いていた歪曲空間の円環もまた、それに合わせて、砂の城が崩れ落ちるかのように消え去る。

 暫しの間、母の残香を惜しむかのように円環の存在していた虚空に眼を奪われていたオリガは、ハッと我に帰ると背後に向き直る。そして地に臥せっている有理の元へと駆け寄った。

「ユーリ! ユーリ、だいじょうぶ?」

 屈み込み、大男の顔を覗き込むオリガ。

「ちっきしょう……。あのキザゴリラと白んぼのクソ親子め、勝ち逃げして行きやがった……。次は必ず、ぶっ殺してやるからな」

「ユーリ、母様を悪く言っちゃだめ!」

 未だにその顔面は血の気を失って蒼白で、自力では立つ事すらもままならない有理。だがそれでも、王子様の無事な姿を確認した黒髪の少女は安堵の意を込めて叱咤すると、その傍らにしゃがみ込んだ。そして大男の頭をそっと抱え込んで膝枕させ、その短く刈り込まれた黒髪を優しく、愛しみを込めて撫でる。

「ユーリ。これからは、ユーリとオリガの命は一つ。いっしょに生きていくの」

「……けっ、仕方無えか。お前が死んじまうと、俺も死んじまうからな。不可抗力とは言え、面倒な事になっちまったもんだ」

 嘆息して天を仰いだ有理に、オリガは無言で、くすりと微笑み返す。

「ま、これも何かの縁だ。お前と一緒に居てやるよ。だがな、俺は俺の好きなように生きる。それを変える気は無いからな。だから、お前もお前の好きなように生きろ。それが人間の生き方ってもんだ」

「うん、わかった! オリガは、オリガらしく生きる!」

 黒髪の少女はポシェットから小熊のぬいぐるみを取り出すと、有理の頭と共に膝の上に抱いた。そして小鳥の様に澄んだ声で、優しく話しかける。

「ついに王子様とひとつになれたよ、ユーリエヴィチ」

 燃え盛る車輌から立ち上る黒煙と、舞い散る火の粉。ヴラジーミルが脱ぎ捨てたまま置き忘れて行った白スーツが、火炎の上昇気流でバタバタとはためいている。それらを尻目に、ビルの狭間に垣間見える夜空の下で笑顔を浮かべた黒髪の少女は、安らかに歌う。遠い昔、彼女の母親が歌ってくれた子守唄を。


 お休み私の可愛い赤ちゃん


 安らかに寝んねなさい


 輝く月が揺りかごを


 静かに見守ってあげるから


 お喋りをして


 お歌を歌って


 瞼を閉じて眠りましょう


 安らかに寝んねなさい

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