第五幕


 第五幕     血



「オリガお姉様」

 クリムソンレッドに輝く、感情の機微を窺わせない涼やかな瞳。微かな紅を湛える、薄い唇。青味を帯びるほど白く輝く毛髪に、炎上する車輌から発せられたオレンジ色の光が波を打って反射し、この世のものとは思えぬ神秘的で退廃的な美しさを演出する。そんな二つ結いの髪の少女イライダの呼びかけに、高架道路の片隅で立ち尽くしていた双子の姉オリガは、妹と視線を合わせる。

「イライダ! こんな事をしたのは、イライダなの?」

「ええそうよ、お姉様。少しばかり、派手に遊ばせてもらったわ」

 崩落箇所を挟んで、イライダと対峙する位置まで駆け寄って来て叫ぶオリガに、赤い眼の妹はさも当然の事の様に軽やかに答えてのけた。

「先程はお母様の手前、黙って従っていましたが、私は決して人間と共存する気などありません。いえ、生かしておく価値も無いと思っています。私達不屍鬼ノスフェラトゥに仇なす人間共を、そして何よりもオリガお姉様、あなたを!」

 イライダの覇気溢れる口調に気圧されたオリガは、小脇のポシェットから覗く小熊のぬいぐるみのユーリエヴィチを、ギュッと抱きしめた。そんな彼女の反応を楽しむかのように、二つ結いの髪の少女は押し殺していた感情を爆発させて、独り語りを続ける。

「オリガお姉様。私はずっと、お姉様を許せませんでした。認める事が出来ませんでした。私達兄弟姉妹の中で、何故お姉様だけ髪が黒いのですか? 何故お姉様だけ、瞳が赤くないのですか? 何故お姉様だけ、太陽の光の下でも生きられるのですか? 何故双子として同時に生まれながら、私ではなくお姉様だけが特別な存在として生まれて来たのですか? 何故お姉様だけが、お母様の寵愛を受けられるのですか?」

 ボンと再び破裂音が轟き、新たな火柱が高架下から噴き上がる。周辺一帯はタイヤとガソリンの焼ける悪臭と共に分厚い黒煙が頭上高くまで立ち上り、高速道路を囲むビル群の窓からも、この場で繰り広げられている睨み合いを鮮明にうかがう事は出来ないだろう。

「お母様やアルトゥールお兄様達の様な穏健派は、オリガお姉様を、夜の衡から開放された新世代を担う存在だと考えているようです。それは急進派の多くも、同じ意見。だからこそ私達は、その新たな世代に取って代わられるのを恐れて、お姉様を三十八年もの永きに渡って幽閉して来ました。……ですが、私個人の考えは違います。お姉様は単に、不屍鬼ノスフェラトゥになり損ねた半端者。只の出来損ないに過ぎません!」

 冷徹なイライダの瞳に、初めて感情の火が灯る。それは怒りと嘲笑と嗜虐に、何故か僅かな羨望と嫉妬の混ざった複雑な眼差し。だが高圧的な態度の妹とは対照的に、恐怖と困惑に顔を曇らせたオリガは腰が引け、後退る。

「ですからオリガお姉様には、ここで消えていただきます。そうすればもう、エカテリーナお母様も、お姉様の処遇で気を揉む事も無くなるでしょう。……お母様は、お姉様の死を悲しむかもしれません。私を恨み、拒絶するかもしれません。ですがそれは、時間が解決してくれる問題です。何故なら私達不屍鬼ノスフェラトゥは、悠久の時を生きる不老不死の存在なのですから! さあお姉様! 万物の霊長たる人類の更に上を行く私達に、お姉様の様な出来損ないは必要無いのです! 消えて無くなりなさい!」

 イライダが声高らかに自らの論を張り終えるのと同時に、ビルの狭間にパンと、一発の銃声が鳴り響いた。その発生源は、久我有理の構えたアサルトライフル。銃口からは細く薄い紫煙が風に流され、金色に輝く真鍮製の空薬莢がコンクリートの路面に落下して、カキンと軽い金属音を奏でる。

 しかしイライダの眉間を狙って発射された弾頭は、二つ結いの髪の少女に着弾する数十㎝手前の空中で、静止していた。いや、正確には静止しているのではなく、極めて僅かずつだが前進し、銃身のライフリングによって生まれた軸回転も継続されている。だが一見するとそれは、ほぼ完全にその動きを止めていた。そしてイライダは、眼前に迫る鉛の塊と、それを射出した大男を冷徹な眼差しで見つめ返す。

 不屍鬼ノスフェラトゥの祖、『開祖オリジン』であるエカテリーナの正体は、千二百年の時を生きる史上最強の魔女。その魔女から生まれた不屍鬼ノスフェラトゥの力の根源は、魔術。そして魔術とは、空間と時間に意志の力を干渉させ、それらを自在に操作する術に他ならない。而して魔女エカテリーナの娘イライダは、自らの周囲に見かけ上は僅か数㎜だが実質数百mの距離に匹敵する延伸された空間の壁を一瞬で形成し、銃弾を防いで見せたのだった。

 急激な空間の延伸は、同時に急激な断熱膨張と気圧の低下を生む。その空間に侵入した銃弾は一瞬で凍り付くと、真っ白な霜にびっしりと覆われ、その周囲には放射状に薄い氷の結晶が広がった。高速で軸回転する弾頭を中心にして咲いたそれは、まるで氷細工の花の様に美しく、そして恐ろしい。

 やがて推進力を失った弾頭と、その周囲に咲いた氷の花は路面にぽとりと落下し、薄氷の破片を散らして果てた。それら一連の現象を見届けてから、有理が口を開く。

「さっきから黙って聞いててやれば、一方的に好き勝手なご託を並べてんじゃねーぞ、このクソガキ。今すぐぶっ殺してやるから、さっさとかかって来な、白んぼ」

「……本当に、無粋な男ね。さっきのお店でもずっと我慢していてあげたけれど、私、あなたみたいな下品で礼儀知らずな男が一番嫌いなの。あなたと私が同じ空気を吸っていると考えただけでも、虫唾が走るくらいよ。……まあ、いいわ。オリガお姉様を始末した後には、あなた達邪魔な人間も皆殺しにしてあげるから、命乞いのセリフでも考えながら大人しくそこで待っていなさい」

 アサルトライフルを構えて手招きする有理を、イライダは便所を這い回るゴキブリでも見るかのような視線で睨め回しながら、苦々しく吐き捨てた。対して大男は、問いをぶつける。

「こんな襲撃で俺達を殺したところで、すぐに代わりが来るだけだ。それくらいの事は理解してんだろ、白んぼのクソガキ? どうせ無駄に終わるのが分かってて、それでも殺そうってのか?」

 二つ結いの髪の少女は、さも当然とでも言いたげな涼しい顔で返答する。

「その時は、更に殺すだけよ。私達不屍鬼ノスフェラトゥは、悠久の時を生きる不老不死の存在。人間ごとき矮小な存在に屈服する事無く、永遠に殺し続けてあげます」

「なるほどな。そこまでの覚悟が決まってるってんなら、話は早い。むしろ、心置き無くぶっ殺せるってもんだ」

 どこまでも高圧的なイライダの言葉に、大男は満足の笑みを浮かべて返した。

「ユーリ!」

「来るな、ガキ!、お前は下がってろ! こいつは俺が相手をする! こう言う生意気な口を利く身の程知らずなクソガキは、大人が責任持って、お仕置きしてあげなきゃならねえからな!」

 駆け寄ろうとしたオリガを、有理は手で制して下がっているように促した。大男の顔は怒りと興奮とで、奇妙な高揚に満ちている。

「ユーリ……イライダ……」

 崩落した高架の穴を挟んで睨み合う、王子様と双子の妹。それら二人を交互に見つめながら逡巡したオリガは、胸に小熊のぬいぐるみを抱き直すと後退り、距離を取る。これから始まる戦いの、邪魔にならぬように。

「さあ、かかって来な。白んぼのクソガキ」

「黙って聞いていてあげれば、いつまでも人をクソガキ呼ばわりして……。いいわ、先に死にたいと言うのなら、望み通りにあなたから殺してあげる。絶対的な力の差を思い知り、己の無力さを噛み締めながら、苦しんで死になさい」

 挑発する大男に歩み寄ろうと、一歩を踏み出すイライダ。だがその進路に人影が立ち塞がり、二つ結いの髪の少女の行く手を遮る。

「イライダ姫様。あのような下賤の輩相手に、姫様の手を汚す必要はありません。不肖この私、ヴラジーミルが仕留めてご覧に入れましょう」

 人影の正体は、主人であるイライダの背後に付き従っていた白スーツの男、従鬼ヴァレットのヴラジーミル。彼は相変わらずの芝居がかった身振りで主人の前に跪くと、二つ結いの髪の少女に許しを請う。

「……分かったわ。万が一にも人間相手にこの私が負けるような事は無いでしょうけれど、このお気に入りのドレスがあの男の血で汚れでもしたら不愉快でしょうからね。あなたに任せるわよ、ヴラジーミル」

「かしこまりました、姫様。あのような人間風情、五分とかからずに、惨たらしい骸に変えてご覧に入れます」

 主人の了承を取り付けた白スーツの男は立ち上がると、崩落した高架を挟んで立つ大男に向けて一歩を踏み出し、ネクタイを外してジャケットの胸ポケットに納めた。ヴラジーミルの自分に酔っているかのようなキザったらしい喋り方が気に食わない有理は、イライダとの対決に水を差されたのも相まって、周囲の車輌が燃え盛る音越しにもハッキリと聞き取れる程の盛大な舌打ちを漏らす。

「おいおいおい、キザ野郎。誰が選手交代を認めた? 俺はもう、お前ら従鬼ヴァレットは殺し飽きてるんでね。さっさと引っ込んで、後ろのクソガキを出しな!」

 有理が挑発するが、ヴラジーミルはそれを無視して白スーツのジャケットを脱ぎ捨てた。そして更にベスト、Yシャツと高速道路の路面に脱ぎ捨てると、有理よりも小柄で細身な浅黒い肌の上半身が露わになる。

「……おいキザ野郎、何やってんだお前? ストリップか?」

 腰に廻したベルトのバックルを外したヴラジーミルが、更にスラックスをも脱ぎ始めたところで、有理は銃を下ろして指でこめかみに円を描く。それは勿論、「お前、頭おかしいんじゃねえのか?」とのジェスチャーに他ならない。だがそれすらも意に介さず、キザ男の男性版ストリップは続き、とうとう一糸纏わぬ全裸になってしまった。

「何故、脱いだ」

 有理が呈する、当然の疑問。だがそれは、すぐに氷解する。

「ふん!」

 気合一閃。ヴラジーミルの全身全帯の皮膚に、細かな亀裂がびっしりと走る。そして内側から肉色の風船が膨らむかのように、ボコボコと亀裂を押し割って剥き出しの筋繊維の塊が噴出したかと思えば、細身だったキザ男のシルエットが瞬く間に数倍の容積に膨張した。

 その突然の光景に、有理は下ろしていたアサルトライフルを構え直す。似たような現象は、過去にも数度、見た事があった。かつて相対し、心臓に純銀の銃弾を撃ち込んでとどめを刺した従鬼ヴァレットが、腕を戦闘用に変異させた時。あの時も同様に、亀裂の入った皮膚の内側から、筋繊維剥き出しの膨張した新たな腕が生え出したのを思い出す。だがそれは、あくまでも身体の一部だけの話。今現在眼前で繰り広げられているような、頭の天辺から足のつま先までに渡る広範囲な変異は、この一年半に渡って十三体もの従鬼ヴァレットの息の根を止めて来た有理ですらも初めて見る光景だった。

「へえ、こいつは面白えや。そりゃあ全裸にならねえと、帰りに着る服が無くなっちまうもんな。……まあ、生きて帰す気は毛頭無えがな」

 僅かに驚きながらも、新しい玩具を与えられた子供の様に、笑みを浮かべる大男。彼の眼前に、人間を遥かに凌駕する筋力でもって崩落した高架の穴を飛び越えたヴラジーミルの巨体が、ズシンと砂煙を巻き上げて着地した。その衝撃で高架道路が震え、コンクリートの路面に小さな亀裂が走る。

 そびえ立つその姿は、体高三m超。細身のヤサ男然としていた変異前の姿からは想像も出来ない筋骨隆々としたマッシブな肉体は、特に上半身の肥大化が著しく、そのシルエットはホモサピエンスのそれとは明らかに違っていた。例えるならば、前腕から拳にかけてが異常に発達して膨れ上がった、全身の皮膚を剥かれた巨大なゴリラ。有理との体格差は、大人と子供のそれ以上に及ぶ。

「さあ来い、人間風情。これまでに討たれた仲間達の復讐も含めて、オリガお嬢様の前に、まずは貴様を始末してくれる」

 ガツンと己の両の拳をぶつけ合う怪物が発した声は、変異によって多少低くくぐもってはいるが、確かにヴラジーミルのそれに間違い無い。だがそれ以外には、もはや原形を留めている箇所は存在しなかった。

「うるせえぞ、キザ野郎。……いや、今はキザゴリラか。さっさと手前えをバラバラにしてから、あの生意気な口を利く白んぼのクソガキを灰にしてやる。なんせ、初めて子供達チルドレンをぶっ殺せるんだからな。楽しみで仕方無えよ」

 啖呵を切って見せた有理は、アサルトライフルを肩口に構えたまま、じりじりと後退る。だがそれは決してヴラジーミルの姿に怯んだのではなく、自分にとって最も戦い易い間合いを得るために距離を計った結果の行動。笑う大男の辞書に、「怖気付く」の四文字は存在しない。

 そして対峙した両者、暫しの沈黙。耳に届くのは、燃え盛る炎の荒々しい呼吸音のみ。

「死ね。下郎」

 まず口火を切ったのは、ヴラジーミルの右拳。一瞬で間合いを詰めた筋肉ゴリラは、有理の頭めがけて、それを高速で振り下ろす。だがその鈍器が激突する寸前に、大男は常人離れした反射神経でもって、それを横っ飛びにかわした。目標を補足し損ねたゴリラの拳は路面を叩き割り、砕けたコンクリートの破片が轟音と共に周囲に飛び散る。

 空振りした拳を引いたヴラジーミルは、今度は横薙ぎの裏拳でもってそれを振るう。だがまたしても有理は素早く飛び退ってかわすと、空中で身体を捻って一回転し、着地。ごうと空気を切り裂きながら弧を描いた鈍器は、虚しく空を切った。

「やれる」

 有理がボソリと、独り言つ。たった二撃だが、眼の前の筋肉ゴリラが繰り出した攻撃を分析した大男の答は、勝利への確信だった。その根拠は、敵の動きに無駄が多い事。

 確かに全身を変異させたヴラジーミルの動きは並の人間のそれよりも遥かに速く、重い。だがそれは戦闘の訓練を受けた者の無駄の無い動きではなく、多大な筋力に任せた、雑な大振りに過ぎなかった。ならば、その隙を突けば充分に勝機は有ると、大男は判断したのだ。

 裏拳を振り終えてがら空きになったヴラジーミルの胴体に、有理はライフル弾をフルオートで叩き込みながら距離を詰める。狙いは正確に胸の中央、心臓。パパパンパパパンと連続した射撃音がビルの谷間に響き渡り、鮮やかなマズルフラッシュが高架を照らし出す。被弾した筋肉ゴリラの剥き出しの胸筋から血飛沫が飛び散るが、浅い。

「チッ、やっぱり、銃じゃ駄目か」

 心臓を貫通はおろか、肋骨にすら達する事無く、表面の筋肉を僅かに傷付けただけで銃弾は止められてしまった。その銃創も、不屍鬼ノスフェラトゥの復元能力によって、見る間に塞がって行く。

 しかしそこまでは、予想の範囲内。スリングを肩にかけ、アサルトライフルを背中に回した有理はヴラジーミルの懐に素早く飛び込みながら腰のタクティカルナイフを抜くと、全体重を乗せてその切っ先を筋肉ゴリラの腹部に突き立てる。大男の読みでは、これで勝機を導ける筈だった。変異した従鬼ヴァレットの筋繊維は防弾着に使われているガラス繊維の様な物で、面攻撃の銃弾には強いが、鋭利な刃物の貫通力には弱いと判断したからだ。

 だがしかし、大男の鋭い野生の勘にしては珍しく、その予想は外れた。ヴラジーミルの変異した分厚い腹筋は、ステライト鋼製のタクティカルナイフを、僅かに刃先が食い込んで裂傷を負わせただけで防ぎ切ったのだ。

 ナイフを通して有理の手に伝わる、筋肉ゴリラの肉の鎧の感触。それは生物の肉と言うよりも、高密度で束ねられた鋼鉄のワイヤーを相手にしているかのように錯覚するほど硬く、貫き通せない。

「どうした人間? それで終いか?」

「チッ、バケモンが」

 ヴラジーミルが勝者の余裕とばかりに、ニヤリと笑ってみせた。胴体と同じく真っ赤な筋繊維が剥き出しになったその顔は、頭部のサイズに対して眼窩が極端に小さく、対照的に小さな牙がびっしりと生えた大きな口がガパリと耳まで裂けている。見るもおぞましいその口から発せられた挑発的な言葉に、有理は舌打ちでもって返すが、その声色には珍しく若干の焦りが感じられた。

「さっきまでの威勢の良さはどうした? この私をバラバラにして、イライダ姫様を灰にするのではなかったのか?」

「うるせえぞ、キザゴリラ! 手前えをぶっ殺す方法を考えてやっているところだから、少し黙ってろ!」

 嘲笑と共に、ヴラジーミルの拳が再び大男を襲う。繰り出された横薙ぎの右フックを素早く飛び退ってかわした有理だが、勢いに乗った筋肉ゴリラは前進しながら返し刀の要領で、振り終えた拳を今度は裏拳にして振るった。

 眼前に迫る、巨大な拳。今度はかわし切れない。相手が並の人間とは大きくかけ離れた体格故に目算を誤り、敵の間合いに深く入り過ぎる、初歩的な戦略ミス。だがそれでも有理は限界まで身体を捻ると、上半身を後方に向けて大きく退け反らし、跳んだ。変則的なバク転でギリギリ掠る程度で済ませる事が出来れば、充分に体勢は立て直せる。

 しかしその想定も空しく、直後に感じたのは、脇腹への熱い異物感。上半身の背中側から腹側に向けて、鈍器が肋骨の下端をえぐり取るように撫でるのを、有理は感じた。

 空気を切り裂いて振り抜かれる、筋肉ゴリラの右拳。僅かに掠ってしまったとは言え、超人的な動体視力と反射神経でもってその直撃を回避してみせた有理は、後方に一回転すると、身を翻して着地した。そして素早く身を起こし、今は一刻も早く体勢を立て直すためにヴラジーミルから距離を取ろうする。だが右脇腹に走った鈍痛が、大男の足を止めさせた。肋骨が四本、いや、五本。僅かに掠めただけにも関わらず、それだけの数が砕けていた。

「畜生!」

 粉砕骨折の痛みに有理ががくりと膝を突き、苦悶の表情と冷や汗を浮かべるその間にも、ヴラジーミルは攻撃の手を緩めない。その体格に似合わぬ素早い跳躍で一気に大男との距離を詰めると、強烈な前蹴りを放つ。

「ほらほら、どうした人間!」

 巨大な腕に比べると変異による肥大化の程度が小さい筋肉ゴリラの脚は、間合いも威力も一段劣る。だがそれでも、人間とは比較にならない筋力から繰り出されるヴラジーミルの前蹴りを、体勢を崩した今の有理は避け切る事が出来ない。

「糞ったれ!」

 避け切れないならば、受けるしかない。背負っていたアサルトライフルを素早く盾代わりに構えた大男は、ヴラジーミルの蹴りを真正面から受け止めた。飛び散る火花と共にゴカンと鈍い音を響かせて、有理の体が蹴りの衝撃で弾け飛び、コンクリートの路面に激突する。だが咄嗟に受身を取ると、最小限の被害と動きで立ち上がった。

 再び脇腹に走る鈍痛を押し殺し、ヴラジーミルに向けてアサルトライフルを構え直す有理。従鬼ヴァレットの変異した筋肉が銃弾もナイフも通さないのならば、次に狙うは、外部に露出している感覚器。大男は敵の眼球にドットサイトの照準を合わせると、引き金を引き絞った。しかしカキンと小さな金属音が発されただけで、銃弾が発射されない。よく見ればアサルトライフルはヴラジーミルの蹴りの衝撃を受け止め切れずに機関部が緩い「く」の字に折れ曲がり、どうやら内部で撃針が折れているらしかった。

「畜生! こんな時に!」

 弾丸が発射出来ない銃火器など、ただの鉄パイプでしかない。そんな物は持っているだけ動きの邪魔になると判断した有理は、すぐさまアサルトライフルを路面に投げ捨てる。

 万策尽きた大男にゆっくりと歩み寄りながら、頑強な筋肉の鎧を身に纏った怪物ヴラジーミルは下卑た笑みを浮かべて腕を広げると、余裕綽々と言った表情で挑発する。

「驚いたか、人間? これが本物の従鬼ヴァレットの力だ。これまでにお前がいい気になって相手をして来た奴らなど、所詮は全身変異も出来ない、未熟な若造ばかりだったと言う事だ」

「なんだと、ふざけんなコラ。俺はまだ負けちゃいねえぞ、このキザゴリラ。この程度はハンデだ、ハンデ」

 この絶望的な状況下にあっても虚勢を張って見せた有理の眼は、まだ希望の光を失ってはいない。むしろその口元には、ギリギリの死闘がもたらす興奮を抑え切れずに漏れ出した、猟奇的な笑みが浮かび上がっている。しかし勿論、そんな大男を嘲笑うヴラジーミルには、容赦する気など微塵も無い。

「ほう、口先だけは随分と達者だな。それでは圧倒的な力の差と言うものを味わわせてから、ゆっくりと殺してやろう。イライダ姫様も、その方がお喜びになる」

 一方的な殺戮劇の、幕が上がる。


   ●


 対峙する大男と筋肉ゴリラを、高架道路の片隅から見守る四つの人影。その人影はそれぞれ伊垢離、舞夜、それに腕を痛めた来々部長とオリガ。彼らは有理の指示に従い、横転したリムジンから気絶した運転手と秘書の入谷を担ぎ出すと、安全な場所への退避を試みた。しかし崩落によって寸断された高架は立ち上る炎と黒煙に包囲されており、逃げ道は存在せず、立ち往生を余儀無くされていた。

 激突する有理とヴラジーミル。そして横転した車輌から距離を取った面々に、ぬいぐるみを抱えた黒髪の少女オリガが合流して、死闘の行く末を見守る。

 これまでに幾度も、有理の超人的な身体能力によって、屍人ズール従鬼ヴァレットが打ち滅ぼされて行くのを目の当たりにして来た伊垢離と舞夜。だが今、二人の眼前では信じられない事に、無敵の筈の大男が絶体絶命の状況に追い込まれていた。高架上で孤立したこの状況下では当分は援軍も期待出来ず、頼みの綱である太陽が昇るのは、まだ数時間も先の話。このまま手を拱いていては、勝機は無い。

「伊垢離先輩、ちょっと手伝ってください。オリガちゃんは、進堂部長と一緒にここに残ってて」

 小声で伊垢離とオリガに指示を出した舞夜は、姿勢を低くすると、高架の端をゆっくりと移動し始めた。不屍鬼ノスフェラトゥ達から、その動きを気取られぬように。


   ●


 有効な攻撃手段を失った有理は、防戦一方であった。次々と繰り出されるヴラジーミルの打撃を、砕けた肋骨に走る激痛に耐えながら、かわし続ける他に手段は無い。それを熟知した上でか、筋肉ゴリラはギリギリで大男が避けられる程度に手加減した拳を繰り出し続ける。それはまるで、眼前の獲物の体力を少しずつ削り取り、嬲り殺しを愉しむかの如く悪趣味な所業。

「ほらほら、どうした人間! だんだん動きにキレが無くなって来ているぞ? もっと最後の悪あがきをして見せろ!」

「うるせえぞキザゴリラ! すぐにぶっ殺して、その生意気な口を真っ二つに引き裂いてやるから覚悟してろ!」

 ヴラジーミルの挑発に、負けじと啖呵を切り返す有理。だが肉体の疲弊は、容赦無く大男の動きを鈍らせる。筋肉ゴリラが繰り出した横薙ぎの拳を飛び退いて避けようとしたところで、膝に力が入り切らずに、ガクリと体勢を崩して腰が落ちた。そこに間髪を容れず襲い来る、ヴラジーミルの拳。頭部めがけて迫り来るその鈍器を、首を反らせてなんとかかわそうとするが、僅かに間に合わずに有理の顔面に衝撃が走る。

 くちゃりと不快な水音を立てて、有理の左眼球が破裂した。ヴラジーミルの拳は周辺の皮膚ごと眼球を削ぎ落として振り抜かれ、コンクリートの路面に鮮血が飛び散る。

「くっ!」

 なんとか体勢を立て直した有理の左眼窩からは、真っ赤な血と共に、半透明の水晶体と眼房水がゼリーの様にどろりと滴り落ちていた。眼球を失った痛みそのものは、大した事はない。意識もハッキリしている。だが視界の半分と遠近感が失われた事は、近接格闘戦においては致命的な損失な事ばかりは疑いようが無い。

 その感覚器の欠損によるハンデは、すぐに形となって現れる。ヴラジーミルが繰り出した単調な回し蹴りすらも、今の有理は間合いを見誤ってかわし切れずに、筋肉ゴリラの足指に生えた鉤爪が腹に突き刺さった。そして着ているTシャツごと、大男の腹部が引き裂かれる。

 皮膚の裂け目からピンク色の腹直筋と腹斜筋、そして黄色い皮下脂肪の断面が露になり、破れた腹膜からグロテスクな大腸がぶりゅりとはみ出す。そして一拍の間を置いてから溢れ出した鮮血が、有理のTシャツとジーンズを赤く染めた。

「がはっ!」

 腹圧で外に飛び出そうとする自分の内臓を、なんとか押さえ込むために腹に手を当てた有理の顔が苦悶に歪み、脚をもつれさせて路面に倒れ込む。

「どうした? もう限界か? ただの人間にしては善戦した方だが、この私を前にしては、全くもって相手にすらならなかったな! この身の程知らずが!」

 嘲笑を浴びせながら、ヴラジーミルは腹膜の裂ける痛みをおして身を起こそうと奮闘する有理の両脚を、全体重を乗せたストンピングでもって踏み潰した。湿った木材をへし折るようなべきりと言う音を立てて、大男の右足が脛から、左足は太腿から砕け、まるで関節が一つ増えたかのように折れ曲がる。

「ぐはぁっ!」

 激痛に顔を歪める有理。だがしかし、ヴラジーミルは尚も、攻撃の手を休めない。大男の左腕を右手で掴み上げて無理矢理立たせると、その無防備な腹に左拳を容赦無く打ち込む。一発、二発、三発と打ち込まれる度に大男は嘔吐を繰り返し、やがて内臓が破裂したのか、吐瀉物に血が混じり始める。

「さあどうだ! そろそろ泣いて命乞いでもするか? 無力な人間風情が!」

 勝ち誇るヴラジーミル。だが有理の返答は、筋肉ゴリラの想定の範囲外。

「……俺はなあ……」

「あぁ?」

 文字通りの血反吐を吐きながら有理が搾り出した声を、まるで小馬鹿にするかのように、眉間に深い縦皺を寄せながら聞き返すヴラジーミル。それを真っ向から睨み据える大男の眼光は、両脚を無残に砕かれ、内臓は破裂して裂けた腹からはみ出し、眼球が潰れて血の涙を流すも、全く生気を失ってはいなかった、むしろその口元に、微かな笑みすらも浮かべて啖呵を切り返す。

「俺はなあ、ガキの頃から弱い者イジメってのが大嫌いでなあ……。それとは逆に、強い奴をイジメるのが好きで好きでたまらねえんだよ」

「……貴様、一体何を言っている?」

 ヴラジーミルの疑問を無視して、有理は続ける。

「自分は強い、自分は安全圏に居るって勘違いしている奴を、どつき回して引き摺り下ろして、眼にもの見せてやるのが何よりも最高の快感なんだよ。だからそうやって、手前えが勝ち誇れば勝ち誇るほど、それを出し抜いて俺様が勝った時の喜びが増すってもんだ。……だからせめて今は、大きな口を叩いてやがれ、このキザゴリラが」

「……確かに、口先だけは達者だな。その心意気にだけは、敬意を表してやろう。だがもう、貴様には万に一つも勝ち目は無いぞ?」

 冷徹に言い下すと、ヴラジーミルは掴み上げた有理の左腕を、有らん限りの力で握り潰した。

「がああああぁぁぁぁっ!」

 肉が潰れ、皮膚が裂け、骨が砕けて神経が千切れる激痛に、流石の大男も顔から笑みが消える。だがヴラジーミルは獲物の喉から漏れる絶叫を無視すると、両手で掴んだ有理の腕をブチブチと雑巾を絞るかのように捻り上げ、そのまま硬いコンクリートの路面へと叩きつけた。

 右肩から落下して路面を転がりながらも、必死の受身で頭部だけは守り切った有理は、体勢を立て直そうと踏ん張る。しかし、立つ事が出来ない。

 太腿と脛から潰れた両脚は、共に明後日の方向を向き、立ち上がろうにも既に感覚は無かった。そして引き裂かれた腹部から溢れ出る鮮血と臓物で下半身は真っ赤に染まり、視界の半分も既に失われている。ならばせめて上体だけでも立たせようと奮起したところで、大男はガクンと体勢を崩す。

「あ……」

 左腕が、無かった。

 二の腕の中央辺りから、着ている革ジャンの袖ごと、有理の左腕が無残に千切り取られていた。よく見れば少し離れた路面に、その千切れた腕だけが、ごろりと転がっている。車に轢かれた子犬の死体の様に、血に染まって、力無く。

 しかも、どうやら落下の際に右の肩甲骨も砕けたらしく、神経に直接釘を刺されるような痛みが止まらない。一部が破裂した肺が漏らす大男の呼吸は荒く、心臓の鼓動も早鐘の様に激を打つ。胃の中身が逆流して吐瀉物を吐き漏らすが、その内容物は全て真っ赤な鮮血で、満身創痍もここに極まれりと言えた。だが、しかし。

「畜生……まだ終わってねえぞ、キザゴリラ……。絶対にぶっ殺してやるから、そこを動くんじゃねえぞ……」

 この状況下においても尚、大男の戦意は全く喪失していない。それどころか、今の自分の醜態が勝利に華を添えるとばかりに、再び不敵な笑みを浮かべる。そして痛めた右腕一本で、這いずってでも敵に一太刀を加えようと、前進を再開した。

「ユーリ! だめ! 逃げて! もう死んじゃう!」

 陰から死闘を見守っていたオリガも、王子様の痛々しい姿に遂に耐えかねて、退避していた高架の片隅から有理の元へと駆け寄る。そして涙をぽろぽろと流しながら大男の革ジャンの裾を掴むと、少しでも遠くへと逃げるように促した。だがしかし、有理の鉄の意志は覆らない。

「うるせえ! 黙って下がってろガキ! こんなキザゴリラなんかに、この俺が負ける訳が無えだろうがぁっ!」

 その姿に、ヴラジーミルもほとほと呆れ果てたのか、それとも感嘆したのか、深い嘆息を漏らして口を開く。

「この期に及んで、尚もそれだけの虚勢が張れるとは、大した精神力だな。だが所詮、一介の人間に過ぎない貴様など無力なものだ。……そろそろ貴様との遊びは終わりにして、オリガお嬢様にも消えていただく事にしよう」

「だめ! ユーリを殺しちゃだめ!」

 身を挺して王子様を守るべく、有理の前に躍り出たオリガ。その顔には憤怒の表情を浮かべ、両手を広げて大の字で立ち塞がり、ヴラジーミルの前進を阻もうと試みる。そのあまりにも健気な姿に、筋肉ゴリラは嘲りを隠さない。

「はははははは、そんな事をしても無駄ですよ、オリガお嬢様? それにそんな死に損ないの男なんかよりも、御自分の身を心配された方が良いのではないですか? 一人の従鬼ヴァレットも従えず、人間の命一つ喰った事の無いあなたには、何の力も無いのですからね。まったく、無力な人間風情に、無力な出来損ないの子供達チルドレンとはね。力無き者同士、仲良くあの世に送って差し上げましょう!」

 ヴラジーミルが二人に引導を渡すべく一歩を踏み出し、オリガがギュッと眼を瞑る。だがその刹那、筋肉ゴリラの右肩口が弾け、血飛沫と肉片が飛び散った。そして一拍遅れて、ドンと周辺一帯の空気が膨張するかのような咆哮と震動。更に続いて、その音がドンドンドンと連続して轟くと、夜の闇に閃光が走る。

 天地を震わす音と震動、そして閃光の発生源は、高架の壁高欄にもたれかかるようにして停まった装甲トラックの傍ら。そこに設置された、全長百六十㎝余りの鋼鉄の塊。その名も、M2ブローニング重機関銃。三脚式銃座と弾薬も含めた完装重量は六十㎏に達し、強力な五十口径ライフル弾をフルオートで射出出来る重機関銃。この制圧火器を、ヴラジーミルの眼を盗んで装甲トラックから運び出した舞夜と伊垢離は、その銃弾の雨を筋肉ゴリラの横っ腹に浴びせかける。

 凶悪なまでの反動と、ニトロセルロースが焼ける匂いを漂わせながら輝くマズルフラッシュ。一発打つ毎に空気が震え上がり、爆音が鼓膜を蹂躙する。射出ボタンを押し込む舞夜と薬室に弾帯を送り込む伊垢離の手元で、凶悪な鉄の獣が火を噴き、硝煙と共に鉛の弾頭と空薬莢、そしてそれらを繋いでいた金属リンクが次々と吐き出された。

 超音速で射出される五十口径ライフル弾の威力は凄まじく、勝利を確信していたヴラジーミルの頑強な半身に、次々とピンポン玉大の穴が穿たれる。その衝撃に、流石の筋肉ゴリラも血飛沫ならぬ肉飛沫を飛ばしながら身体を丸めて防御体勢を取り、急所を守る事に努めた。

「オリガちゃん! 今の内に、有理先輩を連れて逃げて! 早く!」

 銃声に負けまいと有らん限りの声量で叫び、黒髪の少女に撤退を指示する舞夜。彼女は以前から、装甲トラックの金属ラックの最下部にこの重機関銃が納められている事には気付いていたが、まさか自分自身がこんな形で使う事になろうとは思ってもみなかった。

「……貴様らあぁっ!」

 激高したヴラジーミルが、怒号を上げた。そして腰を落とすと全力で跳び上がり、有理とオリガの眼前から装甲トラックの脇に設置された重機関銃までのおよそ四十メートルを、一息に跳躍する。

「来た来た来た来たあっ!」

 筋肉ゴリラが跳び上がる姿を確認した舞夜と伊垢離の二人は、重機関銃を放置すると、慌てて装甲トラックの荷台へと駆け出した。M2ブローニングの三脚銃座は水平方向への回転運動には優れているが、垂直方向、特に頭上への射撃には適していない。使えない武器はとっとと捨てて、危険を回避する事に、今は注力する。

 後部ハッチから装甲トラックの荷台に駆け込んだ二人の背後で、轟音と共に落下して来たヴラジーミルの全体重を乗せた両拳が、重機関銃の銃身バレルを叩き潰した。頑丈な鋼鉄製の銃身が、飴細工の様にぐにゃりと折れ曲がり、使い物にならなくなる。

 だがここまでは、舞夜の作戦の内。重機関銃による掃射は、ヴラジーミルの注意を有理とオリガからこちらに向けさせるためのデコイでしかない。そして慌てる事無く、舞夜は手にした新たな火器の安全クリップと保護カップを外した。

「このまま、車もろとも放り捨ててくれるわあぁっ!」

 ヴラジーミルが雄叫びを上げ、舞夜と伊垢離が乗った装甲トラックの荷台に手をかけると、車輌ごと壁高欄から下の一般道に投げ落とすべく後輪を浮かせた。筋肉ゴリラの眼前に開いたハッチからは、二人の異形管理局第四部隊員の姿が見える。そして小柄な女の方が何か筒状の物を肩に担ぎ、男は床に伏せて耳を塞いでいた。直後、女の口が呟く。

「喰らえ、化け物」

 次の瞬間。白煙と爆風、それに続く轟音と爆炎に、閃光。それら全てを巻き上げながら、舞夜が担いでいたRPG――Rocket Propelled Grenade――ロケット式榴弾砲が火を吹いた。そして射出された成型炸薬弾頭が、トラック内を覗き込んでいたヴラジーミルの顔面に直撃し、高圧のジェット噴流が筋肉ゴリラの頭の半分を溶かし尽くす。

 装甲トラックの車内はRPGの爆煙と後方爆風で真っ白に煙り、何も見えない。

「やったか?」

「多分! 爆発したって事は、当たったって事です!」

「よし! 心臓さえ剥き出しにしちまえば、俺達でも殺れる!」

 伊垢離が、そして舞夜が、奪われた視界の中で確認し合う。だがしかし、その戦果を直接視認する事は叶わなかった。ヴラジーミルが荷台を持ち上げたためか、それともRPGの後方爆風が影響したのか、二人を乗せたままの装甲トラックはぐらりとバランスを崩す。そしてゆっくりと高架の壁高欄を乗り越えると、下の一般道めがけて落下を開始した。

「おっととととと、糞、止まれ! 止まれ!」

「きゃああああぁぁぁっ!」

 車体前方を下にして、高架道路から落ち行く装甲トラック。その荷台内で死を覚悟した舞夜は、開け放たれた後部ハッチから春の夜空が垣間見えたのを最後に、意識が途絶えた。


   ●


 高架の路面上には、全身変異したヴラジーミルの巨体が力無く横たわっていた。頭の左半分が丸く抉り取られたかのように肩口まで溶け落ち、上半身全体の表面組織が焼けただれて、ピクリとも動かない。だがこの筋肉ゴリラが決して絶命してはいない事を、その傷口からジワジワと伸びる血管と、そこから泡の様に沸き立つ細胞組織が物語っていた。脳髄を大きく損傷したために一時的に意識を失ってはいるが、その肉体は確実に復元しつつある。

 太陽の光が届かぬこの時間帯に、人間が不屍鬼ノスフェラトゥを駆逐する方法は只一つ。心臓に直接純銀を撃ち込む以外には存在しない。自然界に存在する金属原子の中でも最大の光線反射率を誇る純銀のみが、月の光を無限に増幅し、夜の闇の中でも不屍鬼ノスフェラトゥの心臓を焼き尽くす事を可能とする。だからこそ久我有理は、瀕死の重傷を負った今も尚、決して諦めようとはしない。残された僅かなチャンスに全てを賭けて、残された右腕一本で這いずってでも前進する。

「ユーリ、だめ! はやく逃げなきゃ!」

「うるせえ! まだだ! まだ終わっちゃいねえ!」

 有理の革ジャンの裾を掴んで、少しでも戦場から距離を取ろうと引っ張る涙眼のオリガ。だがそんな黒髪の少女の言葉など意に介さず、大男は高架道路の端に倒れているヴラジーミルの方角に、数㎝ずつでも進むのを止めようとはしない。想像を絶する激痛により、全身に脂汗が噴き出す。顔面は血の気を失い、雪の様に蒼白。だがその眼は光を失ってはおらず、口元には薄く笑みすらも浮かべていた。

 幸いにも、舞夜と伊垢離が筋肉ゴリラの厚い装甲に穴を開けてくれた。そこから心臓に直接M500リボルバーで純銀弾頭を叩き込めば、まだ僅かながらも勝機は残されている。それだけを信じて、有理は血と埃にまみれながらも、前に進む。それは戦士として生まれた者の意地であり、矜持でもあった。

 ふと、大男を制動しようとする力が消えた。革ジャンの裾を引っ張っていた黒髪の少女がその手を放し、有理の正面に立ちはだかる。

「ユーリ、そんなに戦いたいの? そのままだと、死んじゃうよ?」

「……ああ、構うもんか。たとえ死んだって、あんなキザゴリラに負けるのだけは絶対に認められねえ。俺は何があっても戦って、必ず勝ってやる。そのためになら、悪魔に魂を売っても構やしねえよ」

 オリガが路面に膝をつき、這い蹲る有理の頬にそっと手を触れた。

「ならユーリ、オリガにユーリの命の半分をちょうだい? オリガは悪魔じゃないけれど、ユーリを勝たせてあげることができるから」

 暫し無言で見つめ合う、大男と黒髪の少女。やがて有理が、何かが吹っ切れたかのように失笑を漏らし、オリガもまた微笑む。

「お前みたいなガキの力を借りるのは癪だが、それであのキザゴリラをぶっ殺せるってんなら、文句は無え。どうせもう、致命傷で助からん命だ。半分くらいはくれてやるさ」

「うん。ユーリを一人では死なせない。オリガと一つになって、オリガといっしょに生きよう。そして、いっしょに死のう」

「いいか、先に言っておくが、俺はお前の手下になる気はこれっぽっちも無いからな? それだったら、死んだ方がまだマシだ」

「そんなことしないよ、ユーリ。ユーリはオリガの王子様だもん」

 オリガは有理に顔を寄せると、その唇にそっと自らの柔らかな唇を重ねた。互いの歯と歯が軽く触れ合い、小さくカチリと鳴る。大男の口蓋内に溢れた鮮血が、少女の小さな口膣内に流れ込み、それを一口飲み下す。

 血は命の象徴。今ここに、命を分かち合う契約が成立した。

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