第四幕


 第四幕     母



 天井から吊り下げられた和紙張りの照明が、柔らかく暖かな光で、古風な土壁と年季の入った杉板のカウンターを照らす。鰹と昆布の出汁の匂いが染み込んだ湯気が、伝統的な和式建築の店内を漂い、客の鼻腔を心地良くくすぐると同時に食欲を増進させる。

 ここは東京都台東区浅草の一角に店を構える、言問い通り沿いの老舗のおでん屋『福々ふくふく』の店内。その間口の狭い引き戸をくぐってから細長いカウンター席を抜けた最奥の、対面式の座敷席の片面だけに、不自然な横並びで座る四つの人影があった。

 テーブルの上に並ぶのは、店の看板でもある関東出汁のおでんを中心とした色とりどりの料理と、酒。四つの人影の内、奥から二番目に座るのは、店の雰囲気にはややそぐわない黒のナイトドレスと毛皮のショールに身を包んだ妙齢の女。彼女はグラスに注がれた酒を飲み干すと、心の底から満足そうな笑みを浮かべて、深く嘆息する。それを横目で見遣るのは、一つ手前の席に小さなお尻を納めた、二つ結いの髪の少女。こちらの視線は対照的に険しく、不満げな色を浮かべていた。

「来ましたよ、母上マーチ

 四つの人影の内の一番奥、壁際の席に腰を据えた髭面の巨漢が、妙齢の女の空いたグラスに酒を注ぎながら呟いた。すると、その直後。店の出入り口ががらりと開き、新たに四つの人影が、芳醇な香り漂う店内へと足を踏み入れる。先頭から来々部長、有理、オリガ、舞夜の順に入店した一行は、応対する店員を「待ち合わせだ」と一言告げてあしらった。そして狭いカウンター席の脇をズカズカと、店の奥の座敷席まで、脇目も振らず歩を進める。

 席を埋める客の、がやがやと場を賑わせる話し声と、人いきれ。それらが充満する狭いおでん屋の片隅で今、敵対する二つの勢力の頭目同士が相対した。

「遅かったのね? もう五杯目よ?」

 酒で満たされたグラスを手にした、胸元も露わなナイトドレス姿の女。彼女は地味なビジネススーツに身を包んだ来々部長にそう言うと、グラスの中身を一気に飲み干した。

 その女の容姿は、隣に座る二つ結いの髪の少女イライダと同じく、透き通るような白い毛髪に白い肌、そして真紅の瞳を持つスラブ系の白人。その長身で豊満な肢体はひどく扇情的で、また腰まで伸ばした艶やかな白髪が、美しくも妖艶な雰囲気の顔立ちをより一層強調している。それは端的に言ってしまえば、絶世の美女を謳っても差し支えないだろうほどの、誰もが羨むべき美貌。だがその顔には、子供の様に無邪気で悪戯っぽい笑顔が、常に張り付いていた。

 すると有理の陰から顔を覗かせたオリガが、ナイトドレスの女の姿を確認するや否や、満面の笑顔を浮かべて駆け寄る。

「母様!」

「まあ! オリガ!」

 座っていた座椅子から立ち上がった女は座敷から飛び下りると、駆け寄って来たオリガと熱い抱擁を交わした。

「まあまあまあ、会いたかったわよ、オリガ。いなくなったと聞いて心配してたけれど、以前よりもずっと元気そうで、母様安心しちゃった。相変わらず、綺麗な黒髪ね。母様の若い頃にそっくりよ? 見ない間に、少し背が伸びたかしら? それに、可愛いお洋服ね。とても良く似合っているじゃないの」

「うん、ユーリとマイヤが買ってくれたの!」

「それは良かったわね、オリガ。母様に、もっと良く見せてちょうだい」

 買ってもらったばかりの白地に黒い飾り模様が入ったワンピースを、その場でクルリと一回転して披露するオリガを、女は愛おしそうに見つめる。

「……遅れてすまない。道が混んでいたものでな」

「まあまあ、立ち話もなんですし、腰を落ち着けてから話しましょ? さあ、オリガも皆さんも、座って座って」

 来々部長の釈明に、笑顔で着席を促したナイトドレスの女。その提案に従い、異形管理局の面々も、四人組の向かいの席に腰を据える。その順番は奥から、舞夜、来々部長、オリガ、有理。

 ここに辿り着くまでに何も詳しい事を聞かされていない舞夜は、一人だけ状況が分からないままに、困惑を隠せずにいた。そんな彼女の向かいに座るのは、山の様な巨体を誇る、中年に片足を踏み入れた年頃の男。久我有理も大概な大男だが、果たしてこの髭面の男の体格は、それを遥かに凌ぐ。座した体勢なので正確な数字は分からないが、その身長は軽く二mに達しているであろう事は、想像に難くない。しかも縦方向だけでなく横方向の幅も広く、筋肉と皮下脂肪を重厚な鎧の様に纏ったその身体を納める仕立ての良いダークグリーンのスーツが、少し力を入れれば今にもはち切れそうになっていた。

 しかしその体格に反して、顎髭に覆われた岩の様にごつい男の顔は、人畜無害を絵に描いたような人の良さそうな笑顔に包まれている。そしてこの男の毛髪と肌と瞳も、隣に座るナイトドレスの女や二つ結いの髪の少女イライダと同じく、白くて赤い。その不思議な風貌に何故か舞夜は、子供の頃に大好きだったサンタクロースを連想した。

「私達が来るのを察していたと言う事は、やはり故意に我々の前に姿を現したと解釈しても、構わないか?」

 来々部長が問いかけると、彼女の向かいに腰を下ろした、オリガが母様と呼んだナイトドレスの女が応える。

「勿論そうよ? 一度、お互いのトップ同士で話し合う必要があるかなって、あたし達も思ってた所ですしね。でもちょっと、心配しちゃった。昨日も別の店で飲みながら待ってたんだけど、見つけ出してくれないんだもん」

「それは、失礼した。昨夜はウチの情報班も、バタバタしていたものでな。容赦してほしい」

 来々部長は軽く頭を下げた後に、続けて口を開く。

「それでは改めて、自己紹介をさせてもらおう。私が内務省異形管理局第四部部長、進堂来々だ。本来ならば局長が馳せ参じるべきなのだろうが、生憎と今は海外に出張中なので、全権を委任された私で勘弁してもらいたい」

「『ライラ』なんて、日本人にしちゃ変わった名前だろ? こいつ実家が中華料理屋で、店名の『来々らいらい』をそのまま名前にされたんだってよ」

 ニヤニヤと笑いながら、有理が話の腰を折った。そして無礼な事実を漏洩した大男の顔面に対して、来々部長は無言で裏拳を繰り出すが、それは華麗に受け止められる。

「あら、あなたがオリガの彼氏ね? お名前は?」

「ユーリだよ!」

 有理の手を取って尋ねるナイトドレスの女に対して、大男よりも先に、その隣に座る黒髪の少女が嬉しそうに答えた。

「ユーリ、良い名ね。ご実家は農家で?」

「……いや、違うが?」

「あらそう? そうね、日本人には関係の無い事よね」

 ナイトドレスの女の発言の真意が読めずに、首を傾げる有理。一方でオリガの母は、右手を差し出しながら来々部長に屈託の無い笑みを向ける。

「ちょっと話が逸れちゃったけれど、改めて、こちらも自己紹介させてもらうわね? 初めまして、世に知れたあざなは数多くあれど、あなた方が一番求めているのは、これかしら。不屍鬼ノスフェラトゥの王にして、全ての子供達チルドレンの母、『開祖オリジン』のエカテリーナよ。お手柔らかに頼むわね、進堂部長さん? よろしければ気軽に、『カチューシャ』って呼んでくれてもいいわよ?」

「透き通るかのように白い髪と肌に、血の色に輝く瞳。確かに伝説に聞く、不屍鬼ノスフェラトゥの開祖にして夜の王。そしてその正体は史上最強の魔女、エカテリーナ御本人とお見受けする」

 ナイトドレスの女の挨拶に来々部長が応え、双方の陣を従える妙齢の女性同士が、固く握手を交わす。だがしかし、片や来々部長が神妙な面持ちなのに対して、エカテリーナと名乗った白髪の女は無防備で無邪気な笑顔を崩そうともしない。

「え? 開祖オリジンって、え?」

「うろたえるな、新入り。こいつに会うために、俺達はこんな浅草の端っこくんだりまで来たんだ」

 眼の前の女が自ら黒幕を名乗った事に動揺する舞夜と、それを肘で小突く有理。事前に何も聞かされていなかった舞夜は、状況が全く飲み込めない。

「そうよ、お嬢さん? ゲームで言ったらいきなり序盤でラスボスが登場しちゃったから、驚いちゃったかしら? でも今夜のところは、話し合いだけ。お互いに、血生臭い話は抜きでいきましょ? それじゃあまずは早速、お互いに腹を割って話し合うために、乾杯でもしましょうか? 少しくらいはお酒が入った方が、誰しも本音が語れるものよ?」

 大男をフォローしたエカテリーナはカウンターに向けて片手を挙げると、店員を呼ぶ。だがそれを、ビジネススーツの来々部長が制した。

「いや、結構。申し訳無いが、我々はまだ勤務時間中なので、アルコールは控えさせてもらう。そうだな、烏龍茶を三つと、オリガ……お嬢さんにはオレンジジュースを」

「あらそう? それは残念。久し振りに、家族以外の人と飲めると思ったのに」

 店員にソフトドリンクだけを注文する来々部長と、子供っぽく頬を膨らませて無念さを訴えるエカテリーナ。気勢を削がれた鬱憤を晴らすかのように、白髪の開祖は手にしたグラスの中身を一気に飲み干した。

「ふう、やっぱり美味しいわねえ。故郷のウォトカも好きだけれど、今はこれ、芋焼酎が一番好きよ? ちょっと臭いくらいのやつが、大好き。ふふふ」

 子供の様に一切の邪気が感じられない、満面の笑顔。とてもこれが、不屍鬼ノスフェラトゥを統べる王の姿だとは思えない。

「まずはその故郷から日本に来た経緯を、お聞かせ願いたい」

 来々部長が要請すると、隣に座る髭の巨漢から芋焼酎をグラスに注がれたエカテリーナは、過ぎし日を懐かしむような遠い眼をしながら口を開く。

「そうね。話せばもう、長くなるわねえ。千二百年前にウクライナの小さな漁村で生まれてから、宮廷魔女として帝政ロシアに取り入ったところまでは省略させてもらうけれど、あの頃は毎日毎日贅沢三昧し放題で楽しかったわよお? オペラにダンスに豪華な食事、男も女も喰い放題で、そして何よりも貴族の戦争。まさに、夢の様な日々だったわ」

 恍惚とした表情を浮かべて、ナイトドレスの女は芋焼酎を一口飲み下した。そして一転、顔を曇らせる。

「……それがロシア革命の時に、上手く立ち回るのに失敗しちゃってね。まさか共産党があそこまで大躍進するとは思っても見なかったもんだから、パトロンが全員失脚か処刑されちゃった。それであたし達一族の生活は、一気に苦しくなったって訳。だから共産主義って、大嫌い。レーニンも真面目で退屈な、面白味の無い男だったし」

 頬杖をついてグラスの氷をカランと鳴らしたエカテリーナは、唇を尖らせる。

「ソヴィエト時代は、良い思い出は何も無いわね。とにかく革命と戦争と、粛清と統制の毎日。地味で貧相で、何よりも食事が少なくて不味かったのが、もう最悪。それでも二次大戦で勝てば少しはマシになるかと思って我慢してたけれど、結局は国土がちょっと広がっただけで、生活は全然改善されなかったのよね」

 尖らせていた厚く艶かしい唇をグラスに着けて、その中身を一気に飲み干すエカテリーナ。彼女は取り皿に盛られたおでんの大根を箸で四つに切ってから、その一欠けを口に運ぶと、美味しそうに咀嚼する。

「だから思い切って故郷を捨てて、外国に移住しようって思い立った訳よ。子供達も、可能な限り引き連れてね。で、最初はアメリカに行くつもりだったのよ。でもほら、まさに冷戦真っ盛りの頃だったでしょう? 陽の光を避けて入国するルートが、どうしても確保出来なくって困っちゃった。だったらいっそ、全然違う文化圏に行っちゃおうって思って、サハリンから北海道経由で東京まで来たって訳よ。当事の日本は、景気も良かったしね。まあ、最初は言葉も通じなくて大変だったけれど、食べ物が美味しいのだけはあの頃から今も変わらずで、本当に良い国よ、日本は。只の大根を出汁で煮込んだだけのものが、こんなにも美味しくなるんだもの」

 そう言うとエカテリーナは、残りの大根も満面の笑顔で頬張った。その表情からは、屈託もしがらみも感じられない。

「なるほど。それから現在に至るまでは、我々も大体把握している」

 静かに話を聞いていた来々部長が、一旦眼鏡を外すと、胸ポケットから取り出したハンカチでもってレンズを拭いてから掛け直す。彼女の眼前には注文した烏龍茶が、そしてオリガの前にはオレンジジュースが、エカテリーナが身の上話をしている間に運ばれて来ていた。

「さ、飲み物も来た事だし、皆で乾杯してお食事にしましょ? アルコールは駄目でも、そのくらいは勤務中でも許されるでしょ? このお店はおでんだけじゃなくて、お刺身も焼き物も美味しいわよお? ちゃんと取り皿も八人分用意してもらってあるし、さ、食べましょ食べましょ」

 嬉しそうに料理を勧めるエカテリーナの言葉に、来々部長の眉がピクリと動いた。

「八人分の取り皿……。店に入った時から気になっていたのだが、やはり我々が四人で来る事が、事前に分かっていたのか?」

「ええ、そうよ。あたしは、偉大なる魔女エカテリーナ。過去から未来まで、その全てを知る者よ? ……共産党の躍進だけは予測出来なかったけれど、結局ソヴィエトは崩壊しちゃったから、プラマイゼロかしら」

 笑みを崩す事無くウインクして見せる魔女に、来々部長は渋い顔を返す。その手は、箸を取らない。

「なんだ来々、食わねえのか? 俺は頂くよ。ちょうど、腹も減って来ていたところだしな」

 有理は上官を呼び捨てにすると、テーブルの中央に置かれた卓上おでん鍋から、自分の取り皿に大根と竹輪とがんもどきを。オリガの取り皿にも、煮卵とロールキャベツをよそってやる。初めて見る料理に、黒髪の少女は興奮を隠せない。

「あら? そう言う欲望に正直で子供に優しい男って、あたし好みよ? 体格もマッチョで雄臭いし、娘の恋人じゃなかったら、あなたの子供を産んでみたいところだわ」

「それはそれは、光栄だな。あんたが千二百歳の婆様でなかったら、なかなかに魅力的な提案だったんだがな」

「あら失礼ね、女に歳の話をするなんて。あたしはいつでも女盛りなのが自慢なのに。床上手の熟れた女もいいものよ? 試してみる? あなたには是非、ベッドの中でカチューシャと呼ばれてみたいわ」

 エカテリーナが有理を扇情的な言葉と流し目で誘惑すると、大男の方も、まんざらではなさそうな笑みを返す。この二人はなかなかに、話の波長が合うらしい。だがロールキャベツに齧り付くのを一時中断したオリガは、視線を交わす男女を交互に眺めると、隣に座る浮気者に抱きついて母に抗議する。

「母様! ユーリはオリガの王子様なんだから、いくら母様でも横取りは許しません! それにユーリももっと、きぜんとした態度をとってください!」

 ぷくりと頬を膨らませる黒髪の少女のおでこに、大男は「その呼び方はやめろと何度言えば分かる」とデコピンを叩き込み、その光景をエカテリーナがケラケラと笑いながら眺める。

「お母様、下品です。仮にも実の娘の前で、そのような発言は控えてください」

「あら、ゴメンなさい、イライダ。あなたはホント、堅いわねえ」

 先の子作り発言に、エカテリーナの隣、オリガの正面に座る二つ結いの髪の少女イライダも冷ややかに抗言した。

「それではお嬢さんも、お一ついかがですか?」

「あ、すいま……ありがとうございます」

 舞夜が向かいに座った髭の巨漢から鮮魚の御造りの乗った皿を勧められ、やや遠慮がちに、その一切れを箸で摘む。巨漢は終始、人の良さそうな笑顔を崩さない。

「よろしければ、お名前をお聞きしても?」

「あ、周防です。周防舞夜」

「マイヤ。良い名ですね。さ、遠慮せずに召し上がってください」

 暫し互いの陣営共に、摂食のためにのみ口を動かす静かな時間が続く。その沈黙を破ったのは、烏龍茶を一口飲み下して喉を潤した来々部長の、冷徹な声。

「それではそろそろ本題に、過去ではなく現在と未来の話に入りたい。我々がお互いに何を考え、これからどうして行くべきかを」

 エカテリーナが少しだけ残念そうな表情を浮かべて焼酎のグラスを空にすると、口を開く。

「そうね、まず初めにハッキリさせておきたいのだけれど、あたしはあなた達と争う気は無いわよ?」

「……その言葉、信じてもいいのか?」

「ええ、嘘は吐いていないわ。少なくとも、あたし個人は、ね」

 来々部長の疑問に、エカテリーナはやや含みを持たせて答えると、続ける。

「もう七百年も昔の話ね。若気の至りで、不死の軍勢を作ろうとか思いついちゃってね? 百年がかりで子供をバンバン産んで、十字軍後の混乱に乗じて国を乗っ取ろうとしたのよ。ゆくゆくは、ヨーロッパからオスマン帝国にかけてを支配してやろうと目論んで」

 眉間に皺を寄せて、深く嘆息。

「ところが拠点にしていた城塞に、昼間に奇襲を受けちゃってね。酷いと思わない? 数十基のトレビュシェットで、一方的な集中砲火よ? お陰で穴の空いた城壁から太陽の光が差し込んで来ちゃって、あっと言う間に百人以上の子供達を失ったわ。……その時ね。金輪際、表立って人間と喧嘩をするのはやめようって決めたのは」

 当時を思い出してか、寂しげな表情を浮かべるエカテリーナ。彼女の前に置かれたグラスに、隣に座る髭の巨漢が再び焼酎を注ぐ。この二人は永い仲なのか、その動きには阿吽の呼吸が出来上がっていた。

「なるほど。我々人間も決して、あなた方を理由無く殲滅するのが本意ではない」

 来々部長が口を開く。

「存じているとは思うが、あなた方が四十年程前に日本に渡って来てからつい五年前まで、この国はあなた方『不屍鬼ノスフェラトゥ』の存在を容認して来た。元々この国は、諸外国に比べて多くの異形を抱えている。今更一種類や二種類増えたところで、それを許容するだけの歴史的・社会的土壌は出来上がっているからな」

 一呼吸置く来々部長に静かな注目が集まる中、オリガだけはどこ吹く風で、箸を動かす手を休めない。そんな彼女を無視して、来々部長の言葉は続く。

「だが近年増加する一方の屍人ズール従鬼ヴァレットによる被害は、既に我々の許容値を越えている。その結果として五年前に、我々異形管理局は『不屍鬼ノスフェラトゥ』を駆除対象とした」

「そうね、残念だわ」

 エカテリーナが相槌を打つ。

「そこで、どうだろう。あなた方が活動を自制してくれるのならば、我々には『不屍鬼ノスフェラトゥ』を駆除対象から除外する用意がある。互いに引き際を見極める事を、私は推奨する」

 次の瞬間。来々部長の提案を遮るかのように、ダン! と一際大きな音が、テーブルを揺らした。気を抜いていた舞夜とオリガが、ビクリと身をすくませる。

 音の主は、不屍鬼ノスフェラトゥ側の一番手前、イライダの隣、有理の正面に腰を据えた白いスーツの若い男。この男が、手にしたグラスの底をテーブルの天板に勢いよく叩き付けていた。

「エカテリーナ様! お言葉ですが、この女に耳を貸す必要などありません! 話し合いなど、一切無用! 我々は人間に譲歩する事無く、むしろこれまで以上に勢力拡大を続けるべきなのです!」

 異形管理局の面々がこの店を訪れて以来、沈黙を保ち続けていたこの男。その外観は、不屍鬼ノスフェラトゥ側の他の三人とは明らかに異なっていた。日本の下町では異様に目立つ純白のスーツ姿はさて置くとして、その頭髪の色は白ではなく、ダークブロンド。線の細い身体と彫りの深い顔立ちは白人に近いが、アジア人との混血なのか、肌の色はやや褐色がかっている。また瞳の色も赤ではなく褐色で、イライダや髭の巨漢とは違い、エカテリーナと血縁関係ではない事が歴然と見て取れた。

「我々は人間を越えた、選ばれし存在なのです! それがこんな場所で席を並べている事自体に、屈辱を感じるべきなのです! ましてや人間風情の口車に乗って行動を自制するなど、愚の骨頂以外の何物でもありません!」

 自分に酔っているのか、妙に芝居がかった喋り方をするこの白スーツの男に、対面の大男が歯を剥いて威嚇しながら反応する。

「そりゃ奇遇だな。俺も話し合いなんて面倒臭い事はせずに、ここでお前ら全員をぶっ殺しちまうのが一番手っ取り早いと思っていたところだ」

 懐に右手を差し込み、脇に吊るしたM500リボルバーに手を掛けた有理と、白スーツの男が睨み合った。おでん屋の座敷席に漂う、一触即発の空気。しかしその空気を、エカテリーナの声が破る。

「はいはい、二人とも、やめときなさい。ユーリも手を下ろして。まったく、男の子は血の気が多くていけないわ。いいこと、二人とも? あたし達は今、戦争をしているの。戦争の手段は暴力であっても、最終的には互いの落とし所を探り合った末に、政治的な話し合いで決着させるものよ? どちらか一方が全滅するまで殺し合うなんてのは戦争じゃなくて、只のテロルよ、テロル」

 その口調は、やんちゃな子供を諭す母親の様に、穏やかで優しい。そしてその艶やかな紅に濡れた唇から漏れる声は、来々部長に向けられて尚も続く。

「ご覧の通り、さっき「少なくともあたし個人は」と注釈を付けさせてもらったのは、こう言う訳なのよ。あたし達『不屍鬼ノスフェラトゥ』も、決して一枚岩ではないのよね」

 頬杖をついて首を傾げ、唇を尖らせて少し困ったような表情を浮かべるエカテリーナ。

「悲しい事にあたしの子供達、つまりは血を分けた兄弟姉妹達の間でも、急進派と穏健派で意見が対立しちゃってね? で、紹介が遅れたけれど、こっちが穏健派の代表として同席させた、あたしの息子。子供達チルドレンのアルトゥール。そして同じく急進派の代表として、娘のイライダと、隣はその従鬼ヴァレットのヴラジーミル」

 アルトゥールと紹介された髭の巨漢が、異形管理局の面々に向けて、ぺこりと軽い会釈をする。対照的にイライダと白スーツの男ヴラジーミルは、互いに正面に座る男女を無言で睨み付けたまま、その表情を崩さない。

 無言でヴラジーミルと睨み合っていた有理が、不意に右腕に違和感を覚えて視線を移すと、右隣に座るオリガがギュッと身を寄せて抱き付いていた。その幼い顔に浮かぶのは、恐怖と怯弱の色。

「どうした、ガキ」

「……イライダきらい。オリガをあの地下室に閉じこめていたのは、イライダ」

 オリガは有理の腕に回した自分の腕の力を、更に強める。対して二つ結いの髪の少女イライダは、冷徹な視線で黒髪の少女の瞳を見据えたまま、微動だにしない。

「あらあら、駄目よ、二人とも? 双子の姉妹同士なんだから、仲良くしなきゃ。そうでないと、母様、とっても悲しいわ」

 テーブルを挟んで対峙する二人の愛娘の姿を見て、エカテリーナが仲裁するかのように声をかけた。だがオリガもイライダも、互いに表情を変えずに、言葉も交わさない。

 双子。髪の色を初めとした外見的特徴が重ならないために、オリガとイライダの一見した印象は、全く異なる。だが良く見れば、二人の少女の顔立ちは確かに似通っており、特に小ぶりな鼻と耳の形は瓜二つであった。体格はイライダの方がやや発育が良く大人びて見えるが、これは栄養状態の違いによるものであろうか。

 そんな二つ結いの髪の少女に、母は問う。

「イライダ。何かあなたから、言いたい事はあるかしら?」

「お母様。私達急進派の意見は、常に一致しています。不屍鬼ノスフェラトゥの勢力を拡大し、ゆくゆくは人間社会を支配下に置く事。それこそが我々不老不死の存在に課せられた使命だと信じている以上、一歩も譲歩する気はありません」

 見た目の幼さからは想像出来ない冷静かつ淡々とした口調で、自らの主張を述べるイライダ。そんな娘の姿に、母は首を振って嘆息する。

「とにかく、あたし個人に限定して言えば、人間と正面切って争い合う気は無いからね? でもご覧の通り、子供達の一部はその限りではないのよね。あたしは子供の自由意思は最大限尊重する教育方針だから、イライダ達を強制的に止める気も無いし、それに止まる気も無いでしょうね。もはやこの状況は、あたしの一存だけでどうこう出来る段階ではないのよ」

 エカテリーナは改めて、来々部長を見据えながら、総括を述べた。口調こそ残念そうだが、その表情はどこか、事態を楽しんでいるかのようにも見える。そんなナイトドレスの女に対して、今度は来々部長の方が深く嘆息し、重い口を開く。

「分かった。どうやらこの交渉は、実を結ばなかったようだな」

「あら? そんなに悲観的に考える事はないわよ、部長さん? こうしてお互いの意見を交換出来たんだから、充分な成果じゃない。それになにも、この一席で全てが決まるって訳じゃないんだから、意思の疎通が図れるチャンネルが出来たってだけでも喜ぶべき事だわ。……そうね、今後は急進派の子達を相手に、交渉を重ねる事をお薦めするわ。それで良いわよね? イライダ」

「……はい。お母様が、それを望むのなら」

 母の投げかけた問いに、冷徹な娘は目線も合わさずに答えた。それを合図にするかのように、来々部長はグラスに残った烏龍茶を飲み干してから、おしぼりで口元を拭うと腰を上げる。

「では、今夜のところはこれで失礼させてもらう。久我、周防、お開きにするぞ」

「あ、はい部長、了解です」

「おいおい、俺はまだ食い足りないぜ?」

 上官の命令に素直に従う舞夜とは対照的に、有理は突然の撤退命令に抗議した。だが来々部長はそれを無視して、退店の準備を始める。

「あら、もう帰っちゃうの? それは残念。久し振りに家族以外の人と会食出来たんだから、もうちょっとお喋りしていたかったのに。……特にユーリ、あなたとは是非とも親密な仲になりたいわね。娘とどこまで関係が進んでいるのかも、聞いてみたかったし」

 意味深で、ややもすれば下世話な笑みを有理に向けるエカテリーナ。それに対して大男は、眉間に皺を寄せながらのいつもの猟奇的な笑みで返し、口を開く。

「そう言う事なら、あんまり期待通りの話は出来そうもねえな。俺はこんな、ケツの青いガキ相手に興奮するロリコンじゃねえんでね」

「あら、残念。こんな若い子を喰える機会なんてそうそう無いんだから、食わず嫌いしてないで、さっさと膜をぶち破っちゃえばいいのに。……ま、実年齢はユーリ、あなたの方が歳下でしょうけれどもね」

 黒髪の少女の頭を小突きつつ応える有理に、エカテリーナは母親とは思えぬ、更に下品な返答をかぶせてケラケラと笑う。大男の暴力行為に涙眼のオリガの頭を撫でてやりながら、来々部長は咳払いを一つすると、ナイトドレスの女に尋ねる。

「最後に確認しておきたいのだが、この子……オリガお嬢さんの処遇は、どうするべきだろうか。現在は我々が保護しているし、今後もそれを継続する用意がある。それが認められるのならば、交渉を行う上での大使として、相応の扱いは保障しよう」

 その言葉に、オリガはまず来々部長を、次いで有理とエカテリーナを、交互に何度も見つめ直した。どうやら王子様と母親の、どちらに付いて行くべきか困惑しているらしい。そしてそんな娘の処遇に関して、母は提言する。

「そうね……今はあなた方人間に預けておく事にするわ。太陽の光の下では生きられないあたし達と一緒では何かと不自由でしょうし、戻って来たところでどうせまた、急進派の子達に幽閉されるのが眼に見えているものね」

「母様……」

 母の残酷な答えに、眼に涙を浮かべるオリガ。その紅く柔らかな頬を、エカテリーナはそっと伸ばした手で優しく触れて、愛おしげに囁く。

「ごめんなさいね、オリガ。母様だってあなたの事を心の底から愛しているし、出来る事ならば、ずっと一緒に居てあげたい。でもあなたは、呪われたあたし達と違って、太陽に許された特別な子なの。だから今は、これが最善の選択だと信じて、我慢してちょうだい。きっといつか、一緒に暮らせる日が来る事を信じて」

「うん……母様がそう言うなら、オリガ我慢する!」

 愛する母の言葉に、オリガは零れそうになる涙をグッとこらえて、笑顔を作って見せる。そして母もまた、それに負けず劣らずの笑みをもって返すと、娘と熱い抱擁を交わした。隣に座るイライダが、その顔に僅かだが、苦々しげな表情を浮かべたのには気付かずに。

「これは、我々の分のお代だ」

 別れを惜しむ母娘に水を差さぬよう、暫しその姿を見守っていた来々部長は、懐から財布を取り出すと万札を一枚抜いた。そしてそれを、テーブルの上にそっと置く。

「あらそんな、お金なんて要らないわよ? この店を選んだのはあたしなんだから、最初から全部奢る気だったし。そうでないと、食事を勧めたあたしがなんだかカッコ悪いじゃない?」

 万札をつき返そうとするエカテリーナ。だが来々部長も、引き下がらない。

「そう言う訳にもいかない。我々も国家機関に所属する公務員である以上、その辺りのけじめは付けなければならない。それに何よりも、敵に借りを作るのは私の性分的に許せないものでな。第一に奢ると言ったところで、真っ当な手段で得た金ではないのだろう?」

 妙齢の女二人の視線が絡み合い、互いに何か含みを持たせた、腹の内を探り合うような笑みを浮かべる。やがてエカテリーナが折れ、万札を摘み上げると、隣に座るアルトゥールに手渡した。

「それじゃ、今回は受け取っておいてあげるわね、強情な部長さん。ただしこちらも借りを作る気は無いんで、次回はちゃんと奢らせてもらうわよ?」

「分かった。その時を、楽しみにしておこう」

 そう言うと座敷から降りて靴を履き、店を後にしようとする来々部長の背中に、エカテリーナがたった今思い出した事の様に付言する。

「そうそう、部長さん。店の周りに部下を沢山配備しているけれど、尾行してあたしの隠れ家を抑える気なら、無駄足に終わるから止めといた方が良いわよ? 下手な事をして怪我人が出るのは、お互いのためにもならないじゃない?」

「……まったく、食えん女だな」

「それは、お互い様。……でしょ?」

 エカテリーナが来々部長に向けてウインクするが、ビジネススーツの女は振り向きもせずに、二人の部下と一人の少女を従えて店の敷居を跨いだ。途中でオリガが背後の母に向き直り、お互いに小さく、手を振り合う。最後尾を務めていた舞夜が後ろ手に閉めた、店の扉。そこから表通りに面した門構えまでの石畳を歩きながら、来々部長は有理に尋ねる。

「久我。あの女、どう思う」

「……あんたが最後に言った、食えん女ってのが正直な感想だな。人間と争う気は無いってのはおそらく、口からでまかせではないだろう。だが腹の底では何を考えているのか図りかねるタイプだ。そしてこれは間違い無いが、相当に強い。そうでもなきゃ、敵を前にして、あんな余裕はかません」

「そうか、だいたい私と同意見だな。……とにかく今は一旦、本部基地に戻って方針の建て直しを図ろう。連中の言う急進派とやらへの対応策を、一から検討し直さねばな。まったく、面倒臭い事だ」

 懐から取り出した紙巻き煙草を咥えて火を点けると、肺胞の末端まで浸透させるように大きく息を吸い込み、メンソールの味を堪能してから紫煙と共にそれを吐き出す来々部長。本部基地の在る地下では自由に喫煙も出来ないために、彼女は戸外に出た際には、ここぞとばかりに煙を嗜む。

「店の周囲の情報班はどうする? あの女には見破られてたが」

「一応、尾行させるさ。おそらくは無駄足に終わるだろうが、だからと言って、やらん訳にはいかんだろう。悔しいが、四十年間も所在を掴ませなかった女だ。そうそう簡単に捕縛出来るとは思っていない」

 堪能し終えた煙草の吸殻を携帯灰皿に捻じ込みながら、来々部長は答えた。そして達観したような笑みを口元に浮かべると、天を仰ぐ。頭上には春の夜空が広がり、どこからか舞い落ちて来た桜の花弁が、冷たいアスファルトの上に転々と散っている。

 表通りに出た一行は、そこで待っていたリムジンと装甲トラックに分乗した。来々部長が乗るリムジンを先頭に発進すると、交差点で無理矢理Uターンを行い、進行方向を西に向けてから言問い通りを直進する。

 装甲トラックの車内では、まだ悲しげな表情を浮かべて押し黙っているオリガの肩を、隣に座る舞夜が優しく抱き締めていた。幼い少女にとって、母との別れが与える喪失感は、耐え難いものだろう。

「で? どうだったよ、交渉の成果は?」

 運転席でハンドルを握る伊垢離が、視線は正面に向けたまま、背後に座る面子に尋ねた。長時間トラックで待ちぼうけを食わされていたためか、マイペースな彼にしては珍しく、若干不機嫌そうにも見える。

「成果が有ったような無かったような、微妙なところだな。それと一応、このガキが本当に開祖の子供、子供達チルドレンだってのは確認出来た」

 有理がオリガの頭を小突き、嘆息しながら応えた。

「ま、とりあえず待望だった『開祖オリジン』とのコンタクトに成功したのだけは、大きな成果だな。だが結局、それだけじゃ問題は解決しないってのが露呈したのは、今後の課題だろう」

「具体的には?」

「向こうさんにも、ボスの意に反して全面戦争を望んでいる勢力がいるのが分かった。俺としちゃあ、そう言う連中とこいつ片手に殺り合ってる方が、性に合ってるんだがな。……特にあの白んぼのクソガキと、白スーツのキザったらしい喋り方をする野郎だけは、いつかぶっ殺してやりてえ」

 伊垢離の問いに、有理はおでん屋では使う機会の無かったM500リボルバーを抜いて答えた。勝利の瞬間を想像してか、その顔には不敵な笑みが浮かぶ。

「でも悪そうな人達には見えませんでしたよね。……いや、厳密には人間じゃないんでしょうけれど。オリガちゃんもそうですけれど、あたし、不屍鬼ノスフェラトゥって言うのはもっとおどろおどろしい人食い鬼みたいなのを想像してましたから」

 オリガの艶やかな黒髪に包まれた頭を優しく撫でながら、舞夜が呟いた。思い出しているのは、先程まで向かいの席に座っていた髭の巨漢アルトゥールの、虫も殺せなさそうな優しい笑顔。

「そりゃまあ別に、俺達は安っぽい勧善懲悪に基いて戦ってる訳じゃねえんだから、当たり前だろ。どっちが悪だとか正義だとかじゃない、単に食物連鎖と弱肉強食のバランスを取ろうって話だからな。……まあ、悔しい事に向こうの方が強者で食う側だってのが、癪に触るが」

 返答してみせた有理の顔を、舞夜は驚きを隠せない表情で見つめる。

「意外。有理先輩って、そんな難しい事もちゃんと考えてたんですね」

「あ? 何だお前? 俺の事を、何も考えないで暴れてる血に飢えた殺人鬼だとでも思ってたのか?」

「まあ、だいたいそうです」

 頷く舞夜の後頭部に、素早くスパンと、大男の突っ込みの平手打ちが炸裂する。それを見て、オリガが少しだけ笑顔を浮かべた。

「ところで、ちょっとだけ気になったんですけれど」

「何だ?」

 叩かれた後頭部をさすりながら尋ねる舞夜に、頷き返す有理。

「こっちの尾行がバレてるのはハッキリしましたけれど、こっちが向こうに尾行されてる可能性は無いんですか?」

 素朴な疑問を口にする舞夜を、有理は小馬鹿にしたような眼で見つめながら返答する。

「尾行されるも何も、六本木の本部基地の所在なんて、とっくの昔にバレバレだよ」

「え? じゃあどうして……」

「『どうして基地が襲撃されないんですか』、だろ? 答えは簡単。襲撃して俺達を皆殺しにしたところで、意味が無いからだ。……いや、切りが無いからと言った方が、正解かな」

 首を傾げながら、意味が分からないと言った表情で見つめ返す舞夜。それを横目に、有理の話は続く。

「構成員の数に限りのある民間組織ならば話は別だが、俺達は親方日の丸の公務員だからな。仮に不屍鬼ノスフェラトゥの襲撃を受けて基地が壊滅したとしても、数日後には新たな人員が補充されて、仕事を引き継ぐだけだ。つまり、この国の国家体制そのものを滅ぼしでもしない限り、俺達異形管理局の構成員の数は実質無限大って事になる」

 大男は不敵な笑みを浮かべながら、尚も語る。

「だがそれに対して、奴らの数は有限。子供達チルドレンは増えるにしても、せいぜい年に一人か二人が関の山だ。しかも唯一子孫を残せる開祖オリジンを殺されちまったら、一巻の終わりと来てる。つまり数の勝負では圧倒的に不利だから、襲われた時にだけ対処療法的に戦っているだけなのさ、奴らは。……分かったか? 新入り」

 解説を終えた有理に向けて小さく手を上げ、再度の質問の意思を示す舞夜。大男がそれに対して無言で頷くと、舞夜は問う。

「理屈は分かりましたけれど、もしも、もしもですよ? 正面切っての全面戦争になったら、あたし達に勝ち目ってあるんですか?」

 大男はニヤリと笑うと、恐る恐る質問して来た後輩に、あまり耳障りの良くない答を返す。

「そうなった場合は今説明したように、人海戦術でいつかは必ず人間が勝つ。まあ俺やお前は、その前に駒の一つとして殉職するだろうがな」

 聞くんじゃなかったとでも言いたげな表情で、嘆息する舞夜。それを面白がるように、有理は笑みを浮かべる。会話の内容が難しくて良く分からなかったオリガは、不思議そうな表情で二人を交互に見渡してから、運転席に座る伊垢離の肩越しに見える車外の風景を眺める作業に戻った。

 やがて言問い通りを走る二台の車輌は、入谷交差点に差し掛かると信号を左折し、南へと進路を取る。そのまま入谷出入口から首都高速一号上野線に合流すると、ここに来るまでに取ったのと同じルートを逆走して、六本木の異形管理局本部基地への帰還を目指した。

 黒塗りのリムジンと、その後ろをピッタリ追走する装甲トラック。下の一般道から八~十mの高さを走る高架に乗り入れた一行は、夜の高速道路に向けて南進する。

 やがて料金所を通過し、更に数分ほど走り続けてから御徒町に差し掛かる辺りで突然、前方を走っていた乗用車の一台が吹き飛んだ。いや、一台だけではない。対向車線も含めた走行中の車輌が次々と、強烈な突風に煽られた玩具の車の様に弾き飛ばされては浮き上がり、転がり、横転する。紙屑のようにひしゃげた車体が路面に激突するたびに高架が大きく揺れ、やがて一際大きな震動と共に、片側二車線の高架道路が崩落した。

「危ねえ!」

 有理と伊垢離が同時に叫び、舞夜はとっさに、隣に座るオリガをかばう。前を走るリムジンは急制動をかけると車体を大きく右に揺らし、中央分離帯に前輪を乗り上げると、そのまま浮かび上がって横転。装甲トラックはリムジンとの衝突を避けるために左方向に向けてハンドルが切られ、壁高欄に車体を擦り付けながらも何とかバランスを保ち、崩落現場の二十mほど手前で停車した。この辺りは背の高い防音壁が設置されていないので、もう少しスピードを出していたならば、壁を乗り越えて転落していただろう。

「全員無事か!」

 有理が叫び、それに三人の同乗者が頷いて応えた。乗員の無事を確認した大男はトラックの後部ハッチから逸早く飛び出すと、今度は車輌の安全確保に努める。しかしそこは、頑丈なフレームと装甲板が施された装甲トラック。見かけこそ何の変哲も無い中型トラックだが、この程度の衝撃ではびくともしていない。

 次に有理は高架の崩落現場に駆け寄ると、その損害の規模を計る。崩れ落ちた路面の長さは、およそ三十m。数台の一般車輌が崩落に巻き込まれて落下し、重量数十tのコンクリートの破片に押し潰されて、飴細工の様に捩じれ曲がっていた。

 そして、再びの震動。震源の方向である背後を振り返った大男の目に写ったのは、先程まで自分達が走っていた後方の路面もまた、ガラガラと轟音を立てながら崩落する瞬間だった。

 これで、逃げ道も断たれた。二つの崩落箇所に挟まれた、原形を留めている長さ百mほどの高架道路は、完全に陸の孤島。そこに残されたのは横転したリムジンと、壁高欄にもたれかかるように停車した装甲トラックのみ。他の車輌とその乗員は、全て落下したようだ。

「おい来々! 生きてるか!」

「進堂部長!」

 状況の把握を終えた有理が、リムジンに駆け寄る。既に伊垢離と舞夜の二人も駆けつけており、横倒しになった車輌のドアを、なんとか開けようと奮闘していた。だがこのリムジンもトラック同様、特殊な防弾装甲が施されたVIP仕様。横転しても原形を留めている頑丈さが仇となって、中の来々部長達を救助しようにもドアが開かない。

「二人とも、下がってろ!」

 突然の怒声に伊垢離と舞夜が振り返ると、装甲トラックからSCAR‐Hアサルトライフルを持ち出した有理が、それをリムジンの車体に向けて構えていた。そしてパンパンパンと三発、7.62㎜ライフル弾がリアガラスに撃ち込まれると小さなヒビが入り、そこに勢いよく銃床を叩き込む大男。だがしかし、割れない。更に二発三発とライフル弾を叩き込んでも、ヒビ割れが多少拡がるばかりで、対物ライフルの直撃にも耐えられる防弾仕様のリムジンは微動だにしなかった。

「糞! 駄目か! ……おい新入り! 確かトラックの中にバールが有った筈だ! 取って来て、お前も手伝え!」

「は、はい!」

 有理の指示を受けて舞夜がトラックに向かおうとしたところで、ガチャリと言う音と共に、リムジンのドアのロックが外された。車体によじ登っていた伊垢離がドアを引き開けると、そこに覗くのは、頭から一筋の鮮血を滴らせた来々部長の姿。眼鏡は割れて呼吸は若干荒いが、意識はハッキリとしているようだった。

「進堂部長、ご無事でしたか!」

「……ああ、私は大丈夫だ。運転手も気を失ってはいるが、息はある。すまんが、頭と肩を打ったらしくて左腕が上がらんので、引き上げてくれるか。……それにしても一体、何が起こったんだ?」

 伊垢離の呼びかけに来々部長が返答した、次の瞬間。ドンと言う破裂音と共に周囲が閃光に包まれ、次いで膨張した空気の圧力と熱が、異形管理局の面々を襲った。高速道路の前後ともに、崩落に巻き込まれて下の一般道へと落下した車輌が次々と爆発炎上し、火柱を高々と吹き上げる。

 オレンジ色の光と黒煙に挟まれて、高架上に取り残された一行はますます孤立する。そんな彼らと、崩落した穴を挟んで対峙する二つの人影があった。ゆっくりと近付いて来る、二人の不屍鬼ノスフェラトゥの姿が。

「……伊垢離、新入り、来々の救出はお前らに任せた」

 有理が、手にしたアサルトライフルを構え直す。その得物の狙い定められた先、炎上する車輌から発せられた陽炎の中にたゆたうのは、一組の男女の姿。黒いドレスを纏った二つ結いの髪の少女、子供達チルドレンのイライダと、白スーツに身を包んだその従鬼ヴァレットであるヴラジーミル。

「なかなか、俺好みの展開になって来たじゃねえか」

 そう呟くと、大男は猟奇的な笑みを浮かべた。

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