第一幕


 第一幕     夜は来たりて



 眼に突き刺さるかのようなケバケバしいピンクや黄色に輝くネオン看板と、巨大な墓標の様に立ち並ぶ無数の雑居ビル郡。それらに囲まれながらふと頭上を見上げれば、ビルの隙間から僅かに覗く夜空に、白く冷たい満月が爛々と輝いている。

 三月も終わりを迎えようとしている、まだまだ寒風が肌に冷たい初春の夜。行き交う人波と喧騒の絶えない六本木中央交差点の一角で、大人と言うには未だ若干幼さが残るが、少女と言うほど子供ではない年頃の女性である周防舞夜すおうまいやは、ややもすれば手持ち無沙汰気味になりながら独り立っていた。

 ショートボブの長さで切り揃えてから軽く脱色された、やや硬めの頭髪。その前髪だけを纏めてかき上げ、後頭部で無造作にヘアクリップで留めた、雑な髪型。額と共に露わになったやや太めの眉と、化粧をせずとも目鼻立ちのハッキリとした顔立ちが、精悍であると同時に凛々しくもある。下半身はスニーカーとデニムジーンズ、上半身はフリース生地のパーカーと言うラフな服装も、健康で快活そうな印象を与えていた。

「おっかしいなあ……。この場所でいいんだよね……」

 小声でそう呟いた舞夜は、もう何度目になるのかパーカーのポケットから小さな紙片を取り出すと、そこに書かれた内容を確認し直す。

『三月二十五日 午後十一時 六本木中央交差点交番前 目立たず動き易い服装で』

 現在、時刻は既に十一時半。舞夜は紙片を再びポケットに納めると周囲を見渡してみるが、そもそもこの待ち合わせ場所に誰が迎えに来るのかを知らされていないので、その行為にあまり意味は無い。

 それにしても、流石は世界屈指の大都会東京の、それも指折りの歓楽街である六本木の中心地。平日の、それも終電間近の時分だと言うのに、街は溢れんばかりの人波で賑わっている。だが華やかに着飾って歩くカップルや陽気な酔客と違って、地味な服装でポツンと独り立つ舞夜は、自分がえらく場違いな存在に思えてしまっていた。そしてそれを意識しないようにするためか、彼女は無意識の内に目線を自身の足元へと向けて、じっと静かにうつむき続ける。

 吐く息の白さと所在無さが、無言の孤独となって、舞夜の背筋に忍び寄っていた。

「周防舞夜か?」

 低く野太く、それでいてドスの効いた声で唐突に自分の名前を呼びかけられた舞夜は、足元に向けていた視線を急いで上げた。するといつの間に近付いて来ていたのか、目の前に大柄な男がそびえるように立っていて、少し驚く。

 彼女よりもやや歳上、二十代後半くらいの歳であろうその大男の第一印象は、とにかくガラが悪そうだとしか言えなかった。決して小柄ではない舞夜よりも更に頭一つ分は高い身長と、乱雑に刈られた短い黒髪。それに加えて、眉間に皺を寄せた不機嫌そうな表情を浮かべる顔と目付きの悪さが、無言の威圧感を周囲に振り撒いているような大男だった。

「……周防舞夜だよな?」

「あ、はい、そうです。周防です」

 訝しげに聞き返して来た大男に、舞夜は焦りながらも、少し噛み気味に応えた。

 よく見ると大男は人違いでない事を確認するためか、舞夜に向けて一枚の写真を差し出している。そしてその写真に写っているのは、正装して固い表情で正面を向く、紛れも無い舞夜自身の上半身。記憶が確かならば、それはかつて大学の学生証用に彼女が提出した筈の証明写真だった。

「よし、それじゃあ付いて来い」

 人違いでない事を確認した大男はぶっきらぼうにそう言うと、くるりと背を向けて人ごみの中を歩き出し、舞夜は何が何だか分からないままにその後に従う。夜の歓楽街を連れ立って歩く男と女だったが、そこに色気の介入する隙は微塵も無かった。

 大男を追って国道沿いの歩道を歩きながら、それにしても日本人にしては随分と体格の良い男だなと、舞夜は感心する。経歴上、体育会系のマッチョな男は見慣れている彼女だったが、この大男ほど鍛え込まれた身体の持ち主にお眼にかかる機会はそうそう無い。

 頑丈そうな軍用ブーツと、ブーツカットのデニムジーンズに包まれた逞しい下半身。その下半身に支えられた上半身はミリタリーTシャツの上から分厚いフライト系の革ジャンを着込んでいるが、肩周りから背中、更に背中から太腿にかけて無駄な脂肪をそぎ落とした上でがっしりとした強靭な筋肉を纏っているのが、服越しにもハッキリと見て取れる。贔屓目に見ても、堅気の人間の体格とは到底思えない。 

「……ところで新入り、お前、どこまで聞かされてる? この仕事の内容に関して」

「え? あ、いえ、この時間に動き易くて目立たない服装でここに来いとしか……。それ以上は、何も」

 大男が歩きながら振り返って投げかけた問いに、舞夜は随分と不躾な物言いをする人だなと思いつつも、率直に答えた。そしてその返答に、嘘偽りは無い。実際問題として彼女は、先週執り行われた大学の卒業式の日に指導教官から渡された紙片に書かれていた以上の事は、何一つ知らされていなかった。

「そうか。……糞、上の連中め。面倒臭い事は全部現場に押し付ける気でいやがるな。……まあ、実際に見てみなきゃ信じられる筈も無えから、丁度いいか」

 不機嫌そうに何やらブツブツと呟きながら、大男はボリボリと頭を掻きつつ、歩き続ける。

 そんな大男の後を追っていた舞夜は急に不安を覚え、足が止まり、躊躇する。信頼出来る筋からの紹介とは言え、見ず知らずの、それもこんな見るからに不審そうな男の言う事を信用していいものなのだろうかと。

 だが思い悩む隙も与えず、大男は不意に立ち止まると、再び舞夜の方へと振り返って口を開く。

「こいつだ。乗れ」

 そう言うと大男は国道沿いに停められていたトラックの車体をバンバンと叩いて、それに乗るように顎で舞夜に促した。それは六輪仕様のあまり見た事が無い型だが、それでいて決して目立ちはしない、どこにでもあるような中型トラック。地味な紺色に塗られた車体には簡素な字体で『六本木清掃社』の文字が躍り、街の風景にひっそりと溶け込んでいる。

「清掃会社……?」

 その社名を見て、舞夜は少し驚いた。それはこの一週間、一体どんな仕事を斡旋されるのだろうかとあれこれ想像を巡らせてはいたが、まさか清掃会社と言うのは想像もしていなかったからに他ならない。だが動き易い服装で来いと言われていた以上は肉体労働である事は想定出来ていたので、多少拍子抜けではあったが、一応の納得をしながら彼女はトラックの後部に回り込むとハッチに続くステップに足をかける。

「暗いからな、足元に気をつけろよ」

 そう言うと、大男は後部ハッチから一足先にトラックの中へと消えた。その後に付いて行こうとした舞夜は、ステップに乗せた足をふと止め、再び躊躇する。今ならまだ引き返せるのではないか。このまま得体の知れない男と行動を共にするのは危険なのではないかと、今更ながらに逡巡したからだ。

 ゴクリと喉が鳴り、掌にじわりと汗が滲む。

 しかし全てを失った今の自分には、もうこれ以外に、選択肢は残されていないのだ。改めてそう覚悟を決めた舞夜は、思い切って一息にステップを駆け上ると、トラックの荷台へとその身を躍らせた。

 荷台の中は照明が消されているためか、確かに薄暗く、足元がよく見えない。それでも僅かに差し込む光によって、荷台奥にぼんやりと座席が並んでいるのが見て取れる。それを無言のまま指差す大男に従って歩を進めた舞夜が腰を下ろすと、静かにトラックの後部ハッチが閉められ、何も見えない完全な暗闇となった。そして次の瞬間、大男の手によって荷台の照明が点けられると、舞夜の眼前には信じ難い光景が広がる。

 トラックの荷台内。そこに存在していたのは、所狭しと並べられた銃火器類だった。

 左右の壁面にはそれぞれ三段に仕切られた金属製のラックが据え付けられ、その上段にはアサルトライフルやサブマシンガンや拳銃と言った小火器類。中段にはそれら銃器の弾薬や爆薬を中心とした備品の納められた棚。そして下段には重機関銃やRPGなどの重火器類がしっかりと固定され、それら火器の黒光りする銃身が無言の重圧と、ケミカルな機械油の匂いを漂わせていた。

「何……これ……」

 武器弾薬の類は見慣れている舞夜も、流石にそんな物が現代の東京の市街地で、しかも清掃会社を騙るトラックの中に積まれている状況を目の当たりにしては、驚きを隠せない。あまりにも驚いたためか彼女の思考は完全に停止し、只々ポカンと口を開けて、眼を見張る。

「驚いたかい?」

 不意に背後から声を掛けられ、舞夜は振り返る。見るとトラックの荷台と運転席を仕切る壁面に設けられた窓が開いており、そこから顔を覗かせた若い男が、呆気に取られている彼女に話しかけて来ていた。荷台に乗っている大男とはまた別の、やけに眼の細い、茶髪のヤサ男。歳の頃は大男と同じくらいに見えるが、こちらは人の良さそうな、そして少し悪戯っぽい笑みをその顔に浮かべている。

「え? あ……はい、え? えっと、あの、少し」

 自分の置かれている状況が今一つ飲み込めず、しどろもどろになりながらも相槌を打つ舞夜に、運転席のヤサ男は続けて語る。

「初めまして、俺は伊垢離。伊垢離大介いごりだいすけ。で、そっちのでかい男は久我有理くがゆうりだ。よろしくな、新入りさん」

「あ、えっと、周防舞夜です。よろしくお願いします」

 何が何だか分からないままに、伊垢離と名乗ったヤサ男と、久我と紹介された大男にぺこりと頭を下げる舞夜。大男も不機嫌そうな表情のまま軽く手を振って彼女に応えると、運転席に目線を送る。

「それじゃあ伊垢離、時間も無いし、そろそろ出してくれ」

「はいよ」

 久我有理の要請に応えて伊垢離大介がエンジンを始動させると、腹の底に響くような震動と共に、三人を乗せたトラックがゆっくりと六本木の街を走り出した。すると舞夜の隣の座席にどっかと腰掛けた大男が、彼女に問いかける。

「それでだ、新入り。お前、銃器を扱った経験は?」

「あ、はい。先週防衛大学を卒業したばかりなので、在学中の訓練で一通りの種類をそれなりに扱った事はありますが……それだけです。えっと、久我……先輩」

「なんだお前、防衛大の出身か。それなら慣れているこいつがいいな。先月までこのチームに居たお前の前任者が使っていたお古だが、今日からはお前が使え」

 そう言うと久我有理は、荷台の左右のラックから二丁の銃と、そのホルスター等の付属品を抜き出して舞夜に手渡した。それはスケルトンストックの八九式自動小銃に、SIGP220オートピストル。防衛大学出身の彼女にとっては使い慣れた陸上自衛隊正式採用の銃火器だが、手に持ったそれはズシリと重く、冷たい。試しに弾倉を抜いて中身を確認してみると、真鍮製の薬莢が鈍い金色に輝く実弾が詰められている。間違い無く、正真正銘の実銃だった。

 あまりの異常事態に、舞夜は頭の中が混乱して軽い眩暈を覚え、声も出ない。喉もカラカラに渇き、手が微かに震えてすらいる。だがそんな彼女の内心を察する素振りも無く、大男は更に口を開く。

「よし、それじゃあこれから行く現場で、死なない程度に戦ってくれ。配属初日だからな、そんなに活躍する事は期待してないから、無理はするな。……本来は五人一組で出動する規定なんだが、今は一人、他所に出向していてな。そんな状況だってのに先月の出動で二人殉職しちまったもんだから、急遽追加人員が必要になったんだ。まあ、俺の後ろで自分の身を守りつつ、同士討ちにだけ気を付けて援護してくれれば、それでいい。簡単なもんだろ?」

 そう言うと、自分の装備らしきアサルトライフルをラックから取り出して整備しだす久我有理。そんな大男に、ようやく我に返った舞夜が噛み付く。

「ちょ、ちょっと待って下さい! 一体全体、これは何なんですか! こんな街中で実銃が満載されたトラックに乗せられて、それでいきなり戦えって、どこで何をしようって言うんですか! どう考えたって法に触れる行為でしょう? 一体あなた達は何者で、これは何の仕事だって言うんですか! ……降ります。あたし降ります! ここで停めてください!」

 狼狽しながらも一気にまくし立てた舞夜が、車体をドンドンと叩いて、運転席の伊垢離大介に停車を求める。するとそれに応えてか、トラックはゆっくりとその動きを止めた。

 静かになった車内に、舞夜の荒い呼吸音と、未だ稼動しているエンジンの震動音だけが反響する。

「……分かった分かった。面倒臭えけれど、簡単に説明してやるよ」

 キッと睨み付けて来る舞夜に、大男は溜息を漏らしながらも、やれやれと言った面持ちで口を開く。

「俺達は公式な記録上は存在しない、特殊な作戦を遂行する非合法な国家機関だ。トラックの車体に書かれた清掃会社なんて言うのは当然偽装で、どこに居ても目立たないための嘘っぱちに過ぎない。自衛隊にもそう言った特殊部隊が存在するから、まあだいたい、お前にも想像はつくだろ?」

 こくりと小さく、舞夜は頷く。勿論実際にその眼で見た事は無いが、自衛隊内での非公式部隊の存在は、彼女も噂に聞いて知っていた。

「俺達がやっている事が合法かどうかって聞かれたら怪しいところだが、別段テロや犯罪の片棒を担がせようって訳じゃない。俺達は上からの命令に従って極秘裏に任務をこなす、れっきとした公務員だ。これら銃火器類も、見た目は何の変哲も無いが実質中身は装甲車並みの強度を誇るこのトラックも、税金で買われた正真正銘国家の財産であると同時に、国民に奉仕するために使われる。何もやましい事は無い」

「……公安か警察の、特殊部隊みたいなものですか?」

「ま、そんなところだな」

 顔には不機嫌そうな表情を浮かべたまま、諭すように、言い聞かせるように、久我有理が言葉を並べた。最初は不信感を露わにして聞いていた舞夜も、次第に警戒を解き、その表情を和らげる。

「……分かりました。で、この組織の所属と名称は何なんですか? 一体何をする組織なんですか? これから一体、どこに向かうんですか?」

「残念ながら、今はまだそれは明かせないな」

 舞夜の当然の疑問に対する返答を、大男はさらりと拒否した。

「存在自体が極秘にされている組織だ。正式な構成員以外に、その詳細を教える訳にはいかないんでね。……それに口で言ったところで、はいそうですかと納得出来るような内容でもないしな」

 久我有理は、軽く嘆息しながら続ける。

「まあ今夜はあれだ、体験入隊みたいなもんだな。これから向かう先で俺達の活動を見て、それで仲間になる決心が付いたってんなら改めて教えてやるし、とてもじゃないがこんな組織に手は貸せないってんなら、その時はそれでお終い。ここで見たもの聞いた事、その全てを忘れてもらってお別れだ。それでいいな?」

「……分かりました」

 まだ完全に不信感が払拭出来ていないながらも舞夜が了承すると、装甲トラックはゆっくりと再発進し、夜の街へと溶けて行く。

 空には氷の様に白く冷たい満月が、変わる事無く輝き続けていた。


   ●


 時間にして、一時間程が経過しただろうか。エンジンが切られると同時に訪れた静寂が、装甲トラックが目的地に到着した事を無言で告げていた。トラック後部の座席に座る舞夜の心臓の鼓動も、否応無しに早くなる。目的地の詳細に関しては、彼女にはまだ告げられていない。

「よし、行くぞ新入り。装備の最終点検をしろ」

 舞夜にそう告げると、久我有理は座席から立ち上がって自身の装備の最終点検を始めた。トラックの荷台後部のハッチが開いて伊垢離大介も合流し、てきぱきと装備を整え始めると、舞夜も遅れじと身に着けた装備一式を点検する。ここに到着するまでの間、三人に会話らしい会話は無かった。 

 各自の装備は、以下の通り。手には、細かい作業がし易いように人差し指と親指を切り落とした皮手袋。腰に巻いたピストルベルトには、予備弾倉の詰まったポーチとタクティカルナイフ。更に拳銃の収められたホルスターを右太腿にしっかりと固定し、背中にはスリングに吊ったアサルトライフル、もしくはサブマシンガン。火器の種類等に多少の差異はあれど、三人とも概ね同種同様の装備を整えている。

「ああそうだ、これも忘れずに装備しておきな、新入りさん」

「これは?」

 伊垢離大介が差し出した、二つのガジェット。一つは薄い、直径十㎝ほどのリング状のフィルムで、もう一つは一見すると携帯電話の様な小型の機械。それらを受け取った舞夜はその正体が分からず、尋ね返した。

「薄い輪っか状のやつは、高性能の無線機さ。首周りの皮膚に貼り付けるように装着すれば、喉の振動を感知して音声を送信し、骨を直接振動させて受信も出来る。……まあ要するに、頭蓋骨をマイクとスピーカー代わりにして内緒の会話が出来る、優れ物さ。で、小さい機械の方はRFN《高周波ノイズ》ジャマー。一定範囲に高出力の磁界を発生させて、保護シールされていない機械の電磁信号に一時的にノイズを発生させる。EMP《電磁パルス》ほど強力じゃないが、これを身に着けておけば監視カメラの前を通っても画像はノイズだらけになって証拠は残らないし、携帯電話やパソコンの類も使用不能になって、通報される可能性はグッと下がる。俺達みたいな秘匿部隊の作戦遂行には、絶対に必要不可欠な代物だよ」

 自身の分を実際に装着しながら解説するヤサ男に倣って、舞夜も無線機を首に、RFNジャマーをベルトのポーチに収めて起動させた。見かけ上は、特に何も感じない。だが試しに自分の携帯電話を開いてみると、確かに液晶画面がブロックノイズだらけで表示が読み取れず、ボタンを押しても何の反応も返って来なかった。

「よし、それじゃあ行くぞ、新入り。俺達と一緒にやって行けるか、しっかりとレクチャーしてやるからな」

 舞夜に向けてそう言うと、久我有理は荷台の照明を消し、トラックの後部ハッチをゆっくりと開けた。暗くてよく見えなかったが、舞夜にはこの大男が心なしか笑っているように見え、少しばかりゾッとする。

 果たして車外に広がっていたのは、薄い月明かりに照らされた閑静な住宅街。つい一時間ほど前まで居た六本木の喧騒が嘘の様に、見渡す限り人影も無く、しんと静まり返っている。無人の遊具がどこか不気味に見える小さな児童公園の前の路面に音も無く降り立った三人は、その隣に佇む、中規模な建造物へと続く門の前に歩を進めた。

「老人……ホーム?」

 その門に掲げられた看板を目にした舞夜は、ポツリとそう呟いた。確かにそこに彫られている文字は、『特別養護老人ホーム あけぼのの里』とある。そして門の向こうにそびえ立っているのは、鉄筋コンクリート造り三階建ての、タイル張りの壁が上品で落ち着いた雰囲気を漂わせる建造物。その周囲には芝生の張られた広い庭と駐車場とで充分なスペースが確保され、天気の良い昼間であれば、暖かくてゆとり有る空間を演出しているのだろう。だが照明が落とされた今は、逆にそれが寒々しい印象を与え、まるで不毛の地に置かれた暗く冷たい石の箱の様にも見える。

 正直な事を言えば、舞夜は自分の置かれている状況に、ひどく拍子抜けしていた。それもその筈。銃火器で武装して非公式な極秘作戦を行うとの久我有理の説明に、てっきりもっと危険な場所、例えばテロリストやマフィアのアジトを強襲するような展開を想像していたのだから。

 それがこんな住宅街の中に在る老人ホームの前に連れて来られては、何だか自分の手の中に有るアサルトライフルが急に現実感の無い場違いなオモチャの様に思えて、全てが馬鹿馬鹿しくすら感じられる。だがそんな彼女の心中を察する事も無く、久我有理と伊垢離大介の二人は門を乗り越えて老人ホームの敷地内に侵入すると、舞夜に手招きして早く来いと促した。

「あの、ちょっとちょっと、こんな所で一体何をする気なんですか?」

「いいから黙ってついて来な、新入り。それと俺が合図をするまでは、その長物は背後に隠しておけ」

 先行する男二人の後を追い、躊躇しながらも門を乗り越えた舞夜は、大男の言葉に従って長物――つまりはスリングで肩に吊るした八九式自動小銃――を背後に隠す。自動小銃はストックを折り畳んでいるので、舞夜の体格でも正面から見れば完全に身体のシルエットに隠れてしまう。残り二人も同様の方法で長物を隠し持つと、老人ホームの建屋本体に向けて歩を進めた。

 やがて満月と星が輝く春の夜空の下、窓の明かりの消えた老人ホームの玄関前に、三人は辿り着く。

 当然だが、正面玄関の扉は既に施錠されていた。観音開きのガラス扉には、『本日の面会時間は終了いたしました ご用の方はインターホンを押してください』と書かれたコルクボードが吊るされている。扉のガラス越しに見ると、玄関の向こうにはもう一枚扉が存在し、その向こうが施設全体のロビーになっているらしい。

 すると、裏口にでも回り込むのだろうとの舞夜の予想に反して、久我有理は躊躇無くガラス扉脇のインターホンを押した。

「え? ちょっと、何してるんですか」

「いいんだよ、回りくどいのは俺の性に合わねえ」

 狼狽する舞夜など意に介さず、大男はあっけらかんと言い放つ。

 やがて少しの間を置いてから、ロビーと玄関の照明が灯されると奥の扉が開き、白い制服に身を包んだ介護師らしき小太りの中年男性が姿を現した。若干顔色が悪く、生気の無い様子の中年男性。彼はガラス扉の鍵を開けて顔を覗かせると、目の前に立つ不審な三人組を無感情な眼で見据えて声をかける。

「何の御用でしょうか?」

 しかし、久我有理はその言葉を無視するかのように中年男性の肩を掴んで脇に押し退けると、無理矢理に身体をねじ込んで建屋内へと侵入した。伊垢離大介も、そして何が何だか分からないままに付き従っている舞夜もそれに倣って、下足箱とスリッパが並ぶ玄関内に足を踏み入れる。

「すいませんが、本日の面会時間は終了したんですよ。もう時間も遅いですし、皆さんお休みになられてますから……」

 深夜の不審な来訪者の先頭に立つ大男にそう説明して、お引き取り願おうとする中年男性。だがしかし、尚もそれを無視した大男は背後を振り返ると、舞夜の眼をジッと見据えて口を開く。

「さあて新入り、レクチャー開始だ」

 そう言った、次の瞬間。久我有理は右腰のホルスターから自動拳銃を引き抜くと、素早く中年男性の両膝頭に一発ずつ、計二発の銃弾を撃ち込んだ。パパンと言う乾いた銃声と共に血飛沫が白いタイル敷きの床に飛び散り、一拍遅れて二つの空薬莢が、キンキンと軽い金属音を奏でて転がる。

「な……」

 呆気に取られて声も出ない舞夜の眼前で、膝を撃ち抜かれた中年男性がガクリと、その膝を落とした。すると大男は、拳銃を左手に持ち替えてから右手で腰後ろのナイフを抜き、その場でクルリと身体を一回転させた勢いでそれを横薙ぎに振り抜く。

 眼にも止まらぬ見事なナイフ捌きにより、中年男性の頚部が刃渡り二十㎝のタクティカルナイフによって、ズパリと切断された。脳からの命令を失った小太りな身体は膝立ち姿勢からドサリと仰向けに倒れ、完全には切り落とされずに文字通り首の皮一枚だけを残して本体に繋がったままの頭部が、床に打ち付けられて半回転する。

 一拍の間を置いて、切断面から噴き出す鮮血の赤。斜めに入った刃によって表面の皮が削がれ、剥き出しになった下顎骨の白。紅白の奇妙なコントラストを見せる凄惨な光景を前にして、舞夜は眼を見開いたままガクガクと膝を震わせた。

「あ……あ……そんな……」

 言葉にならない声が、口から漏れる。眼前で一体何が行われているのか、さっぱり理解出来ない。あまりの恐怖に、急激に体温が下がるのを感じる。膝から力が抜けて、まるで雲の上に立っているかのように身体がふわふわし、顔からは血の気が引いて歯の根が合わず、ガチガチと音を立てるのを止める事が出来ない。

 だがそんな彼女を意に介さず、中年男性のピクリとも動かぬ身体を片足で踏みつけた久我有理は、皮一枚でその身体と繋がったままの生首の頭髪を鷲掴みにした。そしてその生首を、本体から力任せに引き剥がし始める。ブチブチと言った音を立て、僅かに残っていた皮膚が引き千切られると、中年男性の身体と頭部は完全に分断された。

 手にした生首を、理解の範疇を超える事態に混乱する舞夜の眼前に突きつけると、大男は語りだす。

「まずは、レクチャーその一。こいつは、『屍人ズール』だ。安心しろ、人間じゃない」

 常軌を逸した説明。一体全体、この大男が何を言っているのか訳が分からない舞夜は、反論しようと試みた。だが顎に力が入らず舌は乾き、思うように声が出せない。そんな彼女に構わず、久我有理は続ける。

「正確には、『只の人間』じゃない。元は人間だったが、今は生きながらにして死んでいる、人間の皮を被った奴隷かロボットみたいな存在だ」

「ななななな、な、何を、何を言っているんですか! こ、ここ、こんな、こんな事していいと……」

「いいからほら、よく見てみな、新入り」

 震える喉に全身の力を込めて、ようやく声を発した舞夜。そんな彼女を制して、大男は更に生首を突き出して言い放った。そしてその言葉の意味を、舞夜は思い知る。

 信じられない事に、とうに絶命して動く筈の無い生首の眼が動き、キョロキョロと舞夜達を見回す。眼球だけではない。肺と声帯を失っているために声は出せないようだが、その口もまたパクパクと、何かを訴えるかの如く動き続けていた。

「な? こいつは俺が首を切り落とす前から、既に死んでいたんだ。そしてそれ故に、もうこれ以上死ぬ事の無いバケモノ、言わば『動く死体』だ。だからどんなに切り刻もうが、動き続ける。なんせ、死体は殺せないからな」

 大男の説明も、どこか遠くで鳴り響く雑音の様に、舞夜の耳には届かない。いや、耳には届いているのだが、脳がそれを理解する事を拒んでいると言った方が正しいのだろうか。もはや彼女には何が何だか訳が分からず、只々目の前で起こっている異様な光景に驚愕し、狼狽するだけだった。

「殺せないなら、それじゃあどうするか? 答は簡単、こうすればいい」

 その言葉と同時にパンともう一発銃声が鳴り響き、久我有理が中年男性の頭に拳銃弾で穴を穿った。そして穿たれた穴からどぽどぽとミンチになった脳髄を垂れ流す生首を、床に放り捨てる。硬い頭蓋がタイル敷きの床に当たって、ごちんと鳴った。

「こうして脳を破壊しちまえば、こいつらも死にはしないが、一応は動きを止める。だから撃つ時は、頭を狙え。それ以外の場所は、いくら破壊しても無駄だ。何せこいつらは、痛みも恐怖も一切感じないからな」

 無残に転がる首の無い中年男性の身体に、動く生首。血にまみれて赤黒く光るナイフの刃と、床に零れ落ちた血と脳漿。舞夜の眼にはその全てが、現実感の無い夢の中の出来事の様にすら映る。だが彼女が一番の異様さを感じていたのは、中年男性の首を切り落とした瞬間から終始、久我有理の表情が笑顔に満ち溢れている事だった。白い歯を剥き出し、口角を吊り上げてニヤニヤと笑う口元と、眉間に皺を寄せながらもギロリと見開かれた眼。それはゾッと背筋が冷たくなるような、何とも不敵で、かつ攻撃的な表情。猟奇的な笑みを浮かべたその顔が、何よりも恐ろしかった。

「さあて、異変に気付いてこいつの仲間がすぐに駆けつけて来るぞ。この建物は、奴ら屍人ズール共の巣だからな。驚いている暇は無いぞ、新入り。さっさと覚悟を決めて、戦うか逃げるかの準備をしろ」

 そう舞夜に告げた大男は笑みを浮かべたまま、背後に隠していたアサルトライフルを手に取ると、コッキングレバーを引いて初弾を薬室に装填した。そしてロビーへと続く扉を蹴り開け、土足のままズカズカと中に踏み込んで行く。

「なあに、新入りくん。すぐに慣れるさ」

 ヤサ男の伊垢離大介もそう言うと、舞夜の肩をポンと叩いてから、大男の後に続く。彼女もまた、未だ膝がガクガクと震える脚をもつれさせながらもその背中を追って、ロビーに侵入する事しか出来なかった。

 柔らかな蛍光灯の灯りに照らし出された老人ホームのロビーは広く、数脚の頑丈そうなテーブルと独り掛けのソファ、それに観葉植物が幾つか並んでいる以外には、特にこれと言った家具は無い。玄関扉の正面には面会希望者用の受付と、その奥には職員の待機所か事務所らしきスペースが、ガラス戸越しに見て取れる。左手には上階へと続く階段とエレベーター、右手には等間隔に扉が並んだ長い廊下が続き、どうやらその一つ一つが入居者の個室へと続いているらしい。

 ロビーは、そして老人ホーム内は、不気味なほどに静かだった。すぐ隣の玄関ホールでは首無し死体と生首が転がり、床に血と脳漿がぶちまけられている事が信じられないほど、清潔な建屋内は静まり返っていた。頭上の蛍光灯が立てる小さなジジジと言う音が、妙に耳障りに聞こえる。

「来るぞ」

 ボソリと、久我有理が呟いた。それを合図にしたかのように、廊下の奥の個室から、正面の事務所から、そして階上から、一斉に様々な音の波が舞夜の鼓膜へと押し寄せて来る。扉を開ける音、人の足音、何かを引きずるような音。だが彼女が最も恐ろしいと感じたのは、多くの人の咆哮と唸り声だった。感情を伴わない、それでいて憎悪と絶望に満ちた奇妙な声が、絡まる蔦の様に建物全体を包み込んで行くのを感じる。

 異様な不協和音を奏でながら、数多の人間の波が、このロビーを目指して迫り来つつあった。いや、久我有理の説明によれば、それはもう人間ではないらしい。だが今の舞夜には、そんな事を一々気にかけている余裕は既に無い。そして間も無く、我先に砂糖に群がる蟻の如く、右手の廊下からロビーへと小柄な人影が次々と押し寄せて来た。また僅かに遅れて、階段からも雪崩を打って襲来する人の波。

 手に手に得物――折り畳み椅子、松葉杖、陶器の花瓶、鋏、ボールペン――とにかく手近に有った物を手当たり次第に武器にした老人の群れが、その老いを感じさせない俊敏な動きでもって、舞夜達三人に迫り来る。その姿は異様で、まるで出来の悪い悪夢さながらの光景だった。

「さあて新入り、レクチャーその二だ! 俺達の仕事はこいつら屍人ズール共を薙ぎ払い、その背後に隠れている奴らを炙り出して狩る事だ! さっきのレクチャーを良く思い出して、しっかり戦え!」

 そう叫ぶや、久我有理の、そして伊垢離大介の銃が火を噴き始める。

 轟く銃声。輝くマズルフラッシュ。板張りの床に転がり落ちる空薬莢から漂う、ニトロセルロースの焼ける匂い。そして老人達の喉から発される咆哮と、断末魔の絶叫。いきおい戦場と化した、老人ホームのロビー。その片隅で混乱して立ち尽くす舞夜を尻目に、押し寄せる老人達――久我有理によれば屍人ズール達――が、次々と鉛弾に頭蓋を吹き飛ばされては人から肉へとその姿を変貌させ、血と脳漿をぶちまけながら崩れ落ちる。

「今夜の獲物はジジババばっかりで、手応えが無ぇなぁ!」

 そうぼやきながら久我有理は、ドットサイトとフォアグリップを装着した愛銃SCAR-Hの撃ち終えた空弾倉を抜き取る。そして腰のポーチから取り出した予備弾倉と素早く交換すると、コッキングレバーを引いて弾丸を再装填した。その一連の動作は極めて良く訓練されており、一切の無駄が無い。そして再び、パパンパパンと指切りでの二点バースト射撃で、老人達の頭部を破壊する作業に戻る。

「仕方無いだろ、ここは老人ホームなんだから、老人ばっかりなのは当然の道理さ! むしろ楽な仕事だと思って、少しは喜べよ!」

 大男のぼやきに応えた伊垢離大介もまた、手にした伸縮ストック式のMP5サブマシンガンで屍人ズール達を蹴散らし、一定の距離以内に近付けさせない。

 手馴れた男二人と違い、未だ状況が飲み込み切れていない舞夜は手にした八九式自動小銃を構えもせず、眼前で繰り広げられる凄惨な光景を只々見ている事しか出来なかった。

 壁には血飛沫の絵画が描かれ、床には頭部の吹き飛ばされた老人の死体が次々と積み上がる。そんな地獄絵図の最中で大男とヤサ男の二人は、ゆっくりと前進を開始する。屍人ズール達の勢いが弱まって来たために、防戦一方ではなく、積極的な狩りに移行したのだ。

 その刹那、突如として三人の背後の扉――玄関ホールからロビーに続くガラス扉――が勢いよく開いた。独り遅れを取っていた舞夜がそちらを振り返ると、手に無人の車椅子を持った若い女が、今まさにロビーへと侵入して来るところだった。

 介護服を着た、三十歳前後と見られる女。その女は舞夜の姿を見据えると、かなりの重量がある筈の車椅子を軽々と持ち上げ、大上段に振りかぶる。舞夜の脳天を、その車椅子でもって叩き潰さんとするかの如く。

 無意識の内に舞夜は、八九式自動小銃を構えて発砲していた。迫り来る女の腹に、二発のライフル弾が撃ち込まれる。だがそれは狙って撃たれた訳ではなく、急襲された事に対して、反射的に引き金を引いてしまっただけであった。それ故に、発砲した当の本人もまた、自身の行動に驚く。

 二発の銃弾。その小さな鉛の塊が女の腹に穿った二つの丸い穴から、ジワリと血の染みが広がって白い介護服の中央を赤く染めた。だがそんな、致命傷である筈の傷を意に介する素振りも無く、女は信じられない膂力で振り上げた車椅子を舞夜めがけて振り下ろす。

「うわったっ!」

 身体を捻って、車椅子による一撃を回避しようとする舞夜。だがしかし、未だ心の混乱から膝に力が入り切らない脚はもつれ、迂闊にも転倒する。倒れた彼女の顔面から僅か数㎝離れた床に車椅子が叩きつけられて、フローリングの床板を抉りながらバウンドした。直撃していれば命に関わったであろうその威力に恐怖を覚えるが、今の彼女に、それを反芻している暇は無い。

「う、動くな! 動かないで! 動くと撃ちます!」

 床に転がったままそう叫びながら、舞夜は介護服の女に銃を向けた。先程とは違い、今度はしっかりと狙いをつけて自動小銃を構え、女の顔を見据える。そして女と眼が合った瞬間、久我有理の言っていた言葉を、舞夜は本当の意味で理解した。

 女の顔には、表情と言うものが無かった。感情の機微も、人間的な自由意思も、それらが一切感じられない死体を思わせる顔。単純な無表情ともまた違う、血色が悪い訳でも肌に艶が無い訳でもないが、完全に魂が抜け落ちてしまった顔。それはまるでマネキン人形の様な、生きた人間を模した作り物だった。

「何これ……」

 空虚にこちらを見つめる、その眼差し。それは舞夜を物理的に『見て』はいるが、心は一切『感じて』はいない、光を失った死人の眼。大男が言っていた、『生きながらにして死んでいる存在』とは何なのかを舞夜は一瞬で理解し、戦慄した。だが今、その戦慄を味わっている暇は無い。

 女が再び車椅子を振りかぶったのを見た舞夜は、心の中で小さく「ごめんなさい」と呟いてから、自動小銃の引き金を引き絞った。パンと一発の乾いた銃声が轟き、マズルフラッシュで彼女の視界が一瞬、真っ白な光に包まれる。そして発射された一発のライフル弾は、女の右眼の僅かに上に穴を穿つと、後頭部から血と脳漿を飛び散らせながら抜けた。そして貫通した鉛の塊は、背後のガラス扉を粉々に砕く。

 糸の切れた操り人形の様に力無く、手にした車椅子と共に、介護服の女はガクリと膝から崩れ落ちて床に転がった。床から半身を起こした舞夜の足元に横たわる、頭の後ろ半分を失った物言わぬ死体。それを前にして、彼女の心臓は早鐘を打つ。

 舞夜の着ているパーカーにはべったりと、女の返り血が付着していた。例えそれが生きていようが死んでいようが、初めて生身の人間を撃った恐怖に、心も身体も動揺を隠せない。膝がガクガクと震えて呼吸は荒く、全身にじっとりと汗が吹き出て、腰が抜けたように立ち上がる事が出来なかった。

「大丈夫かい、新入りくん。立てる?」

 背後から声をかけられて、恐怖で視野が狭くなっていた舞夜が振り返ると、頭上から一本の手が差し伸べられていた。その手の主は、軽い笑みを浮かべた茶髪のヤサ男、伊垢離大介。

「だ、大丈夫です。このくらい、何ともありません。自力で立てます」

 精一杯強がってみせたその言葉通り、まだ膝が笑ってはいるが、舞夜はなんとか自力で立ち上がってみせた。そしてぎこちない笑顔をヤサ男に向け、虚勢を張る。だが次の瞬間、突然胃が裏返るような強烈な吐き気を覚えてうずくまると、その場で盛大に嘔吐した。

「うっ……げええええええぇぇっ……」

 フローリングの床に広がっていた介護師の女の鮮血に黄土色の吐瀉物が混じり、紅く滲む。胃の内容物を全て床にぶちまけて多少は楽になったのか、舞夜は口元を拭いながら、先程までよりもしっかりとした足取りで立ち上がった。

「はあーっ……はあーっ……」

 未だ呼吸は荒いが、顔色は幾分マシになっている。

「とりあえず、第一関門は無事通過だ、新入りくん。誰だって最初の一発目はそうなるものさ、気にするな。……まあ、アイツに限っては、初出動からああだったがな」

 舞夜の背中をさすりながらそう言って、伊垢離大介は背後を指差す。そこではアサルトライフルを手にした大男がゲラゲラと笑いながら、飛び掛かって来る老人達の頭を次々と、そして正確に、強力な7.62㎜NATO弾で吹き飛ばしていた。舞夜の眼に映るそれは、只ひたすらに血生臭く、これまでの人生で見て来た日常の光景とは遠くかけ離れた、狂気と猟奇の入り混じるグロテスクで凄惨な世界に他ならない。

「お? 新入りの奴は、まだ生きてるか? 上等上等、この程度でくたばっているようだったら、うちのチームじゃ生きて行けないからな!」

 舞夜の方を振り返った久我有理が、弾倉を交換しながらそう言い放った。次の瞬間、彼の背後で何かが光るのが舞夜の眼に映る。

「危ない!」

 咄嗟に舞夜が叫ぶと同時に、その光が久我有理めがけて振り下ろされた。だがしかし、まるで背中にも眼が付いているかの如く、大男は信じられない反射速度で飛び退るとそれを間一髪でかわしてみせる。そして体勢を整えながら、叫ぶ。

「やっと出て来たか、待たせやがって! あんまり遅いから、今日もまたハズレを引いたかと思ってウンザリしていたところだったからな!」

 光の正体は、長さ数十㎝はあろうかと言う、鋭い鉤爪。蛍光灯の明かりを反射したそれが、大上段から大男めがけて振り下ろされ、今しがたまで久我有理が立っていた場所の床板に深々と突き刺さっている。そして、その鉤爪の持ち主が、ゆらりと姿を現した。それは老人や介護師の屍人ズール達に混じった、上下共に黒いジャージを着込んだ、一人の若い男。それが鋭い目付きでギロリと、久我有理を苦々しげに睨み付ける。

 短い髪を、老人ホームには似つかわしくない派手な金色に染めた、目付きの悪いジャージ男。その外観は一見すると、どこにでも居るようなガラの悪い若者にしか見えない。体格も、久我有理よりも一回り小さく、平均的な中肉中背の肉付き。だがその右腕だけは左腕に比べ、肩口からの長さにしておよそ倍、容積にすれば十倍近くに膨れ上がり、ジャージの袖口を突き破っている。更にその右腕は、まるで理科室の人体模型の様に筋繊維が剥き出しになって赤黒く輝き、先端の五指には長く鋭い鉤爪が鎌の如く生えていた。例えるならば、皮膚を剥かれた巨大な熊か何かの猛獣の腕にも似ている。

 この異様な姿のジャージ男。それは明らかに、人間とは異なる存在。片腕だけが異常な筋肉質に肥大化した、酷くアンバランスなシルエットの異形がそこに居た。

「きっさまらあああぁぁぁぁっ!」

 怒声を上げながら、再びジャージ男の右腕が鋭い弧を描いて横薙ぎに振り抜かれた。久我有理がギリギリで飛び退いてかわしたその鉤爪は、近くに居た老人二人をズタズタに引き裂いてから、ロビーの壁を柔らかい豆腐の様にいとも容易く抉り取る。とばっちりを食った屍人ズールの新鮮な臓物が血飛沫と共に床一面にバシャリとぶちまけられ、生臭い匂いが、より一層強く室内に充満した。

「どうした? そんなにトロくちゃ、いつまで経ってもこの俺は倒せねえぞ?」

 白い歯を見せて笑いながら手招きし、余裕を見せつける久我有理。それに対してジャージ男は、額に血管を浮かび上がらせて怒りを露わにすると、単調で大振りだが当たれば一撃で致命傷は免れない斬撃を繰り返す。そのジャージ男に向けて、素早く八九式自動小銃を構えた舞夜は照準を合わせようとするが、至近距離で身体を入れ替えて戦う大男に流れ弾が当たりかねず、発砲を躊躇する。

「いいんだ、手を出すな」

 そう言うと舞夜の自動小銃を、隣に立つ伊垢離大介の手が制した。

「あのバケモノは、有理に任せておけばいい。俺達は近寄る屍人ズール共を始末して、加勢させない事だけを考えればいいのさ」

「ですが!」

「大丈夫。アイツの身体能力は、バケモノ以上だ。それを信用しな」

 舞夜を諭すかのように、笑みを返して来る伊垢離大介。確かに彼の言う通り、凄まじい速度で鉤爪の生えた右腕を振るうジャージ男の猛攻を、大男はそれ以上の速度でもって、しかも笑いながらかわし続けている。その巨体に似つかわしくない、華麗かつ見事なステップワークとフットワーク。それを支える反射神経と動体視力と、筋肉と腱の強靭さ。そして何よりも、命の奪い合いの場においても一切の迷いを生じさせない精神力。それら全てが人間離れした域に達している事は、舞夜の眼にも疑いようが無かった。

「いいか、新入り! これがレクチャーその三だ!」

 よほど余裕があるのか、生死を賭けた戦闘の最中にもかかわらず、久我有理は舞夜に目線を送りながら叫ぶ。

「こいつは『従鬼ヴァレット』! 『屍人ズール』とは別の種類のバケモノだ!」

 言われて初めて舞夜は、このジャージ男の眼が屍人ズールである老人達とは違い、怒りと焦燥の色に満ちている事に気付いた。それは生きながらにして死んでいる者達の、光を失い、濁り切った眼差しではない。人間であるかどうかはともかく、確固とした感情を持った生き物の眼だった。

「こいつは見ての通り、身体の一部を戦闘用に変異させて人間以上の力を出せるバケモノであり、『不屍鬼ノスフェラトゥ』の一端を担う存在だ! そして同時に、人間の命を喰って屍人ズールに変え、操っている張本人でもある! 要は、屍人ズール共の親玉だな!」

 久我有理のレクチャーは続く。

「俺達の仕事は、その『不屍鬼ノスフェラトゥ』を狩る事! なあに、変異した部分がちょいとばかり硬くて厄介だが、決して倒せない相手じゃあない!」

 そう舞夜に叫ぶと大男は、従鬼ヴァレットと呼ばれたジャージ男が横薙ぎに振るった鉤爪を、上半身を後ろに反らして避けてみせた。更にそのままブリッジの体勢から、左腕一本を支えにバク転して距離を取ると、右手でアサルトライフルを構えて照準を合わせる。そして間髪を容れずに、素早くセミオートで五発正射。だがジャージ男は、筋繊維が剥き出しで肥大化した腕を盾の様に構えると、その銃弾を難無く受け止めた。僅かな血飛沫を上げながらライフル弾がめり込み、全くダメージを与えていない訳ではないらしいが、効果は薄い。

「てめえ、ちょこまかと避けやがってえぇっ! 正々堂々と、正面からかかって来いやコラああぁぁっ!」

 怒声を上げながら、尚も鉤爪による攻撃を敢行するジャージ男。外見に似合わず格闘には不慣れなのか、その動きは腕を振るうだけの単調なもので、それを完全に見切っている久我有理はいとも容易くそれをかわしてみせる。そして大男は膝を落とし、足の親指の付け根に重心を移動させると、笑みを浮かべながら口を開く。

「それじゃ、お言葉に甘えて」

 小さくそう呟いてから腰のナイフを抜くと、素早く踏み込み、一瞬にしてジャージ男の懐に飛び込む久我有理。その勢いのまま、大男の全体重を乗せたステライト鋼製のタクティカルナイフが、刃を上にしてジャージ男の肥大化した右腕の付け根に深々と突き立てられた。

 血と臓物まみれの老人ホームのロビーに訪れた、静寂の一瞬。全ての動きが止まった、その刹那。久我有理は歯を剥いて猟奇的な笑みを浮かべ、それとは対照的に、ジャージ男の顔は恐怖と驚愕に引き攣る。

 そして次の瞬間。担ぎ上げるように上段に振り抜かれたナイフの刃は、天井に向けて弧を描くような血飛沫を残しながら、ジャージ男の巨大な右腕を根元から切断した。

 切り落とされた腕が、宙を舞った後にフローリングの床に落下する。

「どんなに硬くても、変異していない根元から切り落としちまえば、後は普通の人間を相手にするのと大差無い……。さあて、これからがお楽しみの時間だ。ゆっくりと全身をバラバラにしてやるから、覚悟しな」

 舞夜に向けて言ったのか、それともジャージ男に対してか、もしくは独り言か。そのどれにせよ、久我有理は不敵な笑みを浮かべながら、心底楽しそうに呟いた。

 そんな大男の足元にゴロリと転がる、ジャージ男の変異した右腕。陸に打ち上げられた大型魚の様にバタバタと暴れながら床板に鮮血を塗りたくったそれは、次第に鉤爪の生えた異様な姿から普通の人間サイズの腕に縮まると、やがてその動きを止めた。それはもはや、何の変哲も無い只の人間の片腕に過ぎない。

 一方で、その右腕を切り落とされたジャージ男はと言えば、欠損して血が噴き出る自らの肩口を左手で押さえながら「信じられない」と言った表情を浮かべて膝を突く。そんなジャージ男の顔面に、久我有理は休む暇も与えず強烈な前蹴りを叩き込んだ。

「おぷぉふっ!」

 頑丈な軍用ブーツの爪先に鼻っ柱を蹴り潰され、折れた前歯交じりの鮮血と共に、ジャージ男が悲鳴とも嗚咽ともつかない奇妙な声を噴出した。

 蹴られた衝撃で仰け反って倒れ、後頭部を床板に勢いよく打ち付けるジャージ男。その顔面を踏みつけた久我有理は、ジャージで覆われた無防備で柔らかな男の腹に、SCAR-Hアサルトライフルの弾丸をフルオートで撃ち込んだ。盛大な銃声とオレンジ色に輝くマズルフラッシュの花が、ロビーの中央で咲き誇る。

「どうしたあっ! さっきまでの威勢の良さはどこに行ったあぁっ!」

 その顔に不敵な笑みを浮かべながら叫んだ久我有理は、装填済みの弾倉に残っていた全弾を撃ち尽くすと、素早くそれを交換。更に一弾倉分の弾丸を撃ち込むと、ジャージ男の腰骨を勢いよく蹴り飛ばす。至近距離から強力な7.62㎜ライフル弾の乱射を浴びてズタズタになった男の腹部は簡単に分断され、下半身が上半身から引き千切られる。そして千切れた下半身は、ピンク色の小腸一本だけが上半身と繋がったままゴロゴロと転がり、やがて剥き出しの骨盤を壁に激突させて止まった。

「ああーっ! ああああぁーーっ!」

 己の下半身が有った筈の場所に内臓がぶちまけられているのを驚愕の表情で見つめながら、絶叫するジャージ男。だが笑う大男の責め苦は、まだまだ終わる事は無い。ジャージ男に残された唯一の四肢である左腕を掴むと、ハンマー投げのハンマーよろしく上半身ごと振り回し、遠心力で床から浮いたそれをロビー中央に立つコンクリートの柱に全力で叩き付けた。

 ビシャリという奇妙な水音と共に、柱の表面に血飛沫が放射状に広がる。二度、三度、四度と、叩き付けられる度にジャージ男の上半身は、血を吸わせたボロ雑巾の様に無残な姿へと変貌を遂げた。

 やがて六度目の激突音がロビーに反響した後、久我有理はようやく満足したのか、ジャージ男の左腕は掴んでいた手を放した。そして恍惚の笑顔を浮かべた顔に浴びた返り血を、革ジャンの袖で拭い取る。

「たしゅけて……おねがい……たしゅけて……」

 大男とは対照的に、血みどろの床に転がされたジャージ男の上半身。そのズタズタに引き裂かれた断裂面から血と内臓を噴出しながら、虚空に向かって助けを懇願する。だがそれに耳を貸す者は、当然ながら、この場には存在しない。

 血まみれのジャージで出来たボロ雑巾が荒い呼吸をする度に、無残に露出した肋骨と横隔膜が、ゆっくりと上下するのが見て取れる。元は金色に染められていた筈だが今は血で真っ赤に染まった獲物の頭髪を、久我有理は左手で鷲掴みにして上半身ごと持ち上げた。そして、あまりにも凄惨で暴力的な光景に言葉を失っている舞夜に向けて、そのボロ雑巾と化したジャージ男の上半身を突き出し、叫ぶ。

「新入り! レクチャーその四だ! こいつの傷口をよく見てみろ!」

 言われて初めて、舞夜は気付いた。ジャージ男の失われた右腕が、下半身が、僅かずつだが再生を始めている。ズタズタになって肉と骨が露出した傷口からは、赤い網目状の血管が土中を進む植物の根の様にジワジワと伸び、その周囲に薄いピンク色の新しい細胞がブツブツと生まれ始めていた。それはまるで肉の泡が沸き立っているかのようにすら見える、何とも言えずグロテスクで、おぞましい光景。

「動く死体でしかない『屍人ズール』共と違って、こいつらは俺達がいくら肉体を破壊しようとも、こうして復元して何度でも蘇る! 死ぬ事も老いる事も無く、若く健康な姿を維持し続ける、まさに不老不死の存在! それがこいつら、『不屍鬼ノスフェラトゥ』共だ!」

 恐怖と嫌悪に再び胃が持ち上がる感覚を覚えながらも、舞夜は目が離せない。そんな彼女の眼を見据えて、大男のレクチャーは尚も続く。

「そしてレクチャーその五! 不老不死のこいつらだが、殺す方法が二つだけある! 一つは太陽の光を浴びせて、全身を焼き尽くしてやる事! そしてもう一つは……」

 そこまで言うと久我有理は、着ている革ジャンの懐に右手を差し入れる。舞夜は気付いていなかったが、大男は自動拳銃を収めた腰のホルスター以外にも、左脇にもう一つのホルスターを装備していた。そしてそこから、やけに大きな回転式拳銃、リボルバーを引き抜く。

 久我有理に頭髪を掴み上げられた上半身だけのジャージ男は、そのリボルバーが何を意味するのかに気付くと、焦点の合わない眼を恐怖の色に染めた。そして全ての前歯を失った口の端からゴボゴボと血の泡を吹きながら、か細い声で命乞いを始める。

「やめてくれ……嫌だ……死にたくないぃぃぃ……せっかく……せっかく若返ったのにいぃぃ……」

 空しい懇願が、静けさを取り戻したロビーに響き渡った。

「なるほど。老人ホームなんてえらく趣味の悪い場所をねぐらにしていると思ったら、さてはお前、元々はここに住んでいた老人だな? この派手な金色に染めた髪はあれか? 若返ったついでに、若者気分でも味わってみようと思ったのか?」

 そう言うと、ジャージ男の背中の中央に撃鉄を起こした右手のリボルバー――S&W社製M500――を押し当てた久我有理は、心底楽しそうに悪戯っぽく笑った。その一方で大男に生殺与奪の権利を奪われた獲物は、絶望に満ちた表情で泣き喚く。

「お願いだあぁぁぁ……見逃して、見逃してくださいいぃぃぃ……」

 尚も命乞いを続けるジャージ男。だが背後で笑う大男は当然ながら、それが通用する相手ではない。

「駄目だね。同じ老人ホームの住人を屍人ズールに変えてこき使い、自分はのうのうと長生きしようなんて不良老人を許す訳にはいかねえからなぁ。……さあ新入り! もう一つの、こいつらを殺す方法を教えてやる! それは太陽が沈んで月の出ている夜に、こいつらの心臓に直接、純銀の弾丸をぶち込んでやる事だ!」

 そう言い終わると同時に、大男はリボルバーの引き金を引き絞った。

 閃光と共に、ドンと一際大きな銃声が空気を震わせると、リボルバーの銃口から五十口径のマグナム弾が発射される。その鉛と純銀の塊はジャージ男の背中から体内に侵入し、心臓を貫通してから、鮮血と共に胸を突き破って体外へと抜けた。

「ああーっ! ああああぁーっ!」

 この世のものとは思えぬ悲痛な絶叫を、喉が張り裂けんばかりの大音量でぶちまける、ジャージ男。その頭髪を掴み上げていた手を久我有理が放すと、自由になった右腕の無い上半身だけが、ドサリと床に転がり落ちた。そして剥き出しの背骨を芋虫の様にのたうち回らせ、横隔膜に開いた食道裂孔から飛び出た食道と胃と腸をピンク色の尻尾の様に震わせながら、狂ったかの如くバタバタと暴れ回る。既に血染めのボロ布と化していたジャージの上着は脱げ落ち、その胸郭がバックリと露わになっていた。

 呆然と見つめる舞夜の眼前で、ジャージ男の全身が、ドス黒い色へと徐々に染まって行く。まるで心臓が血液の代わりに墨汁を全身に送り出しているかのように、胸から血管を伝って全身へと、植物の葉脈の様な黒い筋が皮膚の下を拡がって行くのが見て取れた。それはまるで、死そのものが、男の全身を這い回るかの如く。

「死にだぐないぃっ! じにだぐないいいいいいいいぃっ! いやだああああああぁっ! じぬのはいやだああああああぁっ!」

 恐怖と絶望に満ち満ちた断末魔の悲鳴を喉から漏らしながら、ドス黒く変色して行くジャージ男の上半身。次第にその声も小さくかすれ、そして遂に全身がくすんだ黒色に染まり切ると、完全にその動きを止めた。

 やがてジャージ男の身体は、焼けた炭がそうであるように、次第に黒から灰色へとその色を変える。そして最後は燃え尽きたように真っ白な灰の塊となって、静かに自重で、くしゃりと崩れ落ちた。

 それと同時に、ロビーの床一面に転がっていた老人と介護師の死体の山もまた同様に、黒く色を失ってから真っ白な灰へと姿を変えて崩れ落ちる。音も無く、静かに。

 後に残されたのは人のシルエットを象った灰と、それを包む、持ち主を失った衣服の山。床に、壁に、天井に、おびただしい量が付着していた筈の血と臓物も、その全てが灰塵と化し、抉り取ったような銃弾の痕だけが残された。あれだけ充満していた血生臭い空気もどこかに消えて、硝煙と金属の焼ける匂いだけが漂う。

 舞夜のパーカーにあれだけ付着していた筈の返り血も、今は只の白い灰と化し、手で二・三度軽くはたき落とすと、そんな物は最初から存在していなかったかのように消え失せた。全てが悪い夢の如く、宵闇に消えて行く。

 再び訪れた静寂に包まれる、老人ホームのロビー。すっかり忘れられていたが、未だに頭上の蛍光灯が点滅しながら、ジジジと耳障りな音を立てていた。

「よーし、これで十三匹目。記録更新だ」

 満足そうにそう呟いた久我有理は、先端に純銀を埋め込んだホローポイント弾が装填されたリボルバーを左脇のホルスターに収めると、パンと一回手を叩いた。それはまるで、宴の終了を告げているかのように。

「どうだった、新入り? 初仕事を終えた感想は。死なないように注意してさえいりゃあ、そんなに難しいもんでもなかったろ?」

 舞夜に向けてそう問いかけながら、大男は眉間に皺を寄せ、白い歯を剥き出して笑う。子供の無邪気さと殺戮者の残虐性を併せ持った、猟奇的な笑み。そんな不敵な笑みを浮かべた久我有理の問いに対する舞夜の返答は、床に向けての二度目の嘔吐だった。


   ●


 桜の匂いが微かに漂う春先の空を、深い闇が包み込む。時刻は一日で最も気温が下がる、日の出直前の頃合。東京西部、青梅街道沿いに建つファミリーレストランの店内は、戸外の肌寒さとは対照的に温かい光に満ちていた。

 ガラガラに空いた駐車場の片隅に停められているのは、『六本木清掃社』と書かれた中型トラック。この時刻では街道の車通りも少なく、広いファミレス店内も、客はまばらにしか存在しない。休憩するタクシーの運転手と、始発電車待ちと思しきタクシー代の無い若者達が、思い思いに時間を潰している姿がちらほらと見受けられる程度である。

 そんな客層の中で唯一、窓辺のテーブル席で本格的な食事を摂っている三人組は、周囲から少しばかり浮いていた。

 三人組の一人である周防舞夜は、老人ホームでの二度に渡る嘔吐によって胃の中が空っぽにもかかわらず、食欲が一向に湧かない。その結果として、グラスに注がれた冷水をチビチビと飲みながら、軽い物なら喉を通るかと思って注文してみたうどん膳がゆっくりと冷めて行くのを、只々静かに見つめていた。

 浮かない顔の彼女とは対照的に、向かいの席では久我有理が、更にその隣では伊垢離大介が、何事も無かったかのように遅い夕食を堪能している。特に久我有理は注文したリブロースステーキを早々に完食し、現在は追加注文したマグロ丼を、半分ほど片付けたところだった。彼曰く、「マグロ丼は熱くないからデザート」なのだそうだが、その理屈なら寿司も蕎麦もデザートなのかと舞夜は尋ねた。すると大男は、「お前、何馬鹿な事を言ってんの?」とでも言いたげな表情を無言で投げかけて来たので、彼女もそれ以上は追及しない。

「おい新入り、それ食わないのなら、俺が食っていいか? 勿体無い」

 マグロ丼を完食してからそう言って健啖家ぶりを見せ付ける大男に、舞夜は無言のまま、うどん膳の乗った盆を彼の方に軽く差し出す事で了承の意思を表す。ほんの二時間ばかり前に自分の眼で見た筈の光景が、彼女には未だに現実だとは思えなかった。

 二時間前、老人ホームのトイレで口内に残った吐瀉物を洗い流し終えた舞夜は、「それじゃあ後は処理班に任せて、俺達は帰るか」と言う久我有理に従い、その場を後にした。ホームを去る途中、同じ『六本木清掃社』のロゴが描かれたトラック数台とすれ違ったので、おそらくはあれが大男の言うところの『処理班』なのだろう。

 そこからこのファミレスまでの道中のトラック内で、舞夜は一体自分が見た物は何だったのかの詳しい説明を受けた。だがしかし、そのあまりにも突拍子も無い内容を一概に信じる事は出来ず、只々頭が混乱するばかりだった。

 そして今、街道沿いのファミレスのテーブル席。そこに腰掛ける舞夜の頭の中は、未だに混乱したままである。自分の置かれた状況が理解し切れずにいる彼女は、うつむきながらもう一口グラスの水を飲むと、何気無くパーカーのポケットに手を突っ込んだ。その指先がカサリと何かに触れたので取り出してみると、それは小さなメモ書きの紙片。思い返せば、全てはこの紙片を受け取った瞬間から始まったと言える。舞夜はこの紙片を受け取った時の事を、ゆっくりと心の中で反芻した。

 今から約一週間前の、防衛大学校の卒業式の当日。四年間の学業と訓練の集大成としてこの晴れの日に臨んだ舞夜だったが、その胸中は、決して晴れやかとは言えないものだった。

 防衛大の卒業生は、本人が別の道を歩む事を望まない限り、基本的には全員が自動的に陸・海・空いずれかの自衛隊に任官する。当然ながら舞夜もまた、その進路に進むつもりでいた。成績優秀であった彼女は、士官候補生として海上自衛隊への任官を希望し、将来は女性初の統合幕僚長を夢見る若者であると同時に、指導教官の信頼も厚かったが故に。

 しかし新年を迎えたばかりの三ヶ月前に、状況が一変する。

 一身上の都合で、突如として自衛隊への入隊が難しくなった舞夜。しかし当然ながら、彼女は民間企業への就職活動等は一切行なっていなかった。その結果として、春以降の進路が一瞬にして白紙になってしまったのだ。

 そんな状況で卒業式を迎えた舞夜に対して、恩師であった指導教官が閉式後に手渡したのが、このパーカーのポケットに入っていた紙片に他ならない。

 おそらくは彼女の境遇を不憫に思った教官が、せめてもの情けと思って伝を頼り、就職先を斡旋してくれたつもりなのだろう。しかしそこに書かれていた内容に従ってみた結果が、訳の分からない連中と一緒に訳の分からない殺戮劇に付き合わされると言う、今夜のこの惨状だった。勿論舞夜に、これをきっかけとして教官に恨みを抱く気は毛頭無い。だがあまりにも常軌を逸した事態に直面させられた彼女は、怒りともまた違う負の感情が心に沸き上がると、その紙片を手の中でクシャリと握り潰す。

「さて新入り、それじゃあもう一回、簡単に説明してやるぞ」

 眼の前に並んだ皿と椀を全て空にし終えた久我有理が身を乗り出して口を開き、下を向いていた舞夜が顔を上げた。そして、大男の言う『説明』が始まる。

「これは老人ホームでのレクチャーで既に言ったが、俺達の仕事は、『不屍鬼ノスフェラトゥ』と呼ばれる不老不死のバケモノどもを狩る事だ。で、奴らには序列に応じて、四つの種類が存在する。上から順に『開祖オリジン』、『子供達チルドレン』、『従鬼ヴァレット』、そして『屍人ズール』だ。正確に言えば『不屍鬼ノスフェラトゥ』と呼ばれているのは上位の三種類だけで、最下位の『屍人ズール』は『不屍鬼ノスフェラトゥ』じゃない。理由は、こいつらだけは太陽の光の下でも活動出来るからだ」

 ここまでの説明を聞いた段階で、既にまともな話ではない。どう考えても酔っ払いの与太話以下だと舞夜も思うし、実際にそのバケモノが暴れている現場を見ていなければ、頭のおかしい妄想癖の戯言と切り捨てていた事だろう。だがしかし、大男の言葉を否定する事は出来ない。否定してしまえば、彼女自身の眼と精神状態をも否定する事になってしまうからだ。

 そんな舞夜の苦悩を察する素振りも無く、大男はテーブルに備え付けられていた紙ナプキンとボールペンで図解しながら、尚も説明を続ける。

「で、『開祖オリジン』の産んだ実の子達が、文字通りの『子供達チルドレン』。その『子供達チルドレン』に命を差し出した見返りに不老不死になったのが、『従鬼ヴァレット』。更にその『従鬼ヴァレット』に命を喰われて操られているのが、『屍人ズール』だ」

 そう説明した久我有理は、紙ナプキンに蜂の絵を描く。それは彼の外見に似つかわしくない、意外と可愛らしい蜂の絵だった。

「こいつら『不屍鬼ノスフェラトゥ』共は、上位の者には絶対服従の封建的な主従関係で行動し、例えるなら女王蜂と働き蜂みたいな関係だ。……まあ、働き蜂が更に貴族蜂、騎士蜂、奴隷蜂の三種類に別れてはいるがな。ついでに蜂に例えたのには、もう一つ理由がある。女王蜂しか卵を埋めないように、奴らも最上位の『開祖オリジン』しか、不老不死の子を産めない。『子供達チルドレン』は子孫を残せないし、『従鬼ヴァレット』が子供を産んだ場合には、それは只の人間になる。理由は、知らん。とにかくそうなっているんで、ネズミ算式に『子供達チルドレン』や『従鬼ヴァレット』が子を産んで増えまくるって事は無いらしい」

 蜂の絵を描いた紙ナプキンをクシャクシャに丸めて空いた皿の上に捨てた大男は、一旦水を口に含んで喉と唇を潤してから、再び口を開く。

「これら『不屍鬼ノスフェラトゥ』は、元々は日本には存在しなかった、ヨーロッパ産のバケモノだ。ところが四十年ほど前から急に、東京を中心にポツポツと、奴らは出没し始めた。その理由はおそらく、何が目的かは分からんが、奴らの親玉である『開祖オリジン』が日本に渡って来たのだと推測されている。……で、最終的にはその『開祖オリジン』を確保するのが俺達の目的だが、残念ながら、未だにそいつの居所すら分かっていない。それどころか、俺達の部署が発足してからの五年間で、その下の『子供達チルドレン』を補足出来た事すらたったの二回だけだ。しかもその二回とも、結局は取り逃がしちまったと来ている」

 肩を竦めて嘆息し、やれやれと言った感情をジェスチャーで表現して見せる久我有理。それに対して舞夜は、容易には受け入れ難い話の内容に、軽い眩暈を覚える。

「まあそんな訳で、俺達は今夜の老人ホームでの一件みたいに地道に下っ端の『屍人ズール』と『従鬼ヴァレット』を狩って、上の連中の手がかりを追っているってのが現状だ」

「……あの、一つだけ質問してもいいですか?」

 舞夜が軽く片手を上げ、口を開く。

「そんなバケモノの存在も、それを狩っている組織の存在も、つい今しがたまであたしは知りませんでした。どうして世間には公表されていないんですか?」

「そりゃお前、「世の中には不老不死のバケモノがうじゃうじゃ居て、夜な夜な人間の魂を喰らい、それを専門に狩る国家組織があります」なんて公表してみろ。はいそうですかと信じる奴の方が、頭がおかしいだろ? だいたい、俺がこんなファミレスの店内で堂々とこんな話をしているのは、どうしてだか分かるか? それはたまたま聞き耳を立てていた奴が居たとしても、こんな馬鹿げた話を信じる訳が無いと確信しているからだ」

 久我有理は舞夜の質問に答えると、こめかみの横で人差し指をクルクルと回すジェスチャーをして見せた。そして、隣に座る伊垢離大介を指差しながら続ける。

「まあ俺だって、最初にこの伊垢離から同じ説明を受けた時は、「何言ってんだこの馬鹿は」と思ったもんだけどな。そのくらい、公表する事に意味は無いって事だ。……それに万が一公表して世間が信じたとしたら、それこそ中世ヨーロッパの魔女狩りばりに、隣近所の人間が実はバケモノなんじゃないかって疑心暗鬼のパニックになっちまう。そんな事態は、避けるべきだろう?」

 大男の理路整然とした説明に、舞夜は尚も食い下がる。

「……でも、今夜みたいに沢山の人が死んだら、流石に騒ぎになるでしょう?」

「日本では毎年、十万人近い人間が行方不明になっているのは知ってるか? 悲しい事に、結構な数の人間が消えて居なくなったところで、ニュースにもなりゃしないのが現実なのさ。それに人外の存在、いわゆる狐狸妖怪の類に喰われる人間ってのは、昔から一定数は存在したんだ。公表こそされてはいないが、国もそれは把握しているし、それらは地震や台風等と同じ自然災害の被害者って扱いで黙認されている」

 もう一口水を飲み下した大男は、小さなゲップをしてから続ける。

「ところがここ最近になって、理由は分からんが『不屍鬼ノスフェラトゥ』による被害者が、もはや無視出来ないほどにまで増加しているらしい。そこで俺達の所属する組織が、それに対処する事になったって訳だ」

 そこまで言うと突然、久我有理は立ち上がった。そして何事かと思った舞夜に「便所」とだけ言い残して、店内奥に向けて歩み去る。後に残された舞夜と伊垢離大介はその背中を眼で追い、大男がトイレに消えて行くのを見守った。

「無茶苦茶な男だろ、アイツ」

「あ、はい」

 ファミレスに入店してからこっち、料理を注文した時を除けばほぼ無言を貫いていた伊垢離大介。そんな彼が、今しがたまで大男の座っていた舞夜の正面の席に移動して口を開くと、突然声を掛けられた彼女は少し上ずった声で応えた。

「とにかく自信に満ち溢れていて、何をやるにも無理矢理で強引で、礼儀も糞もあったもんじゃない。俺の方が歳上で先輩なのに、初対面からいきなり呼び捨てにされたしな」

 そう言うと伊垢離大介は、軽い笑みを舞夜に向ける。これまでは大男の方の印象があまりにも強くて気に留めていなかったが、改めて舞夜は、この茶髪のヤサ男を観察してみた。

 背は決して低くはないが、久我有理に比べると体格は小柄で、着ているツナギがダブついている分を差し引いてもやや細身に見える。吊り上がった眼は細く、口元には常に笑みをたたえ、人が良さそうに見える反面、ややもすると軽薄そうな印象を与える事は否定出来ない。

 大男の方がどっしりとした威圧的な動きなのに対して、このヤサ男は身振り手振りから歩き方までもが飄々とした、体重をあまり感じさせない不思議な動きをする。しかし老人ホームで見せた立ち回りの機敏さから察するに、戦闘経験が豊富であろう事は想像に難く無い。

 薄茶色に脱色された頭髪と、細面な輪郭に細長い釣り眼。そして身軽な動き。舞夜は何と無く、この男の立ち居振る舞いは狐を連想させると感じた。狡猾で抜け目の無い狐。それが伊垢離大介と言う人間を評する、的確な言葉なのかもしれない。だがそうして観察を続ける舞夜を気に留める事もなく、ヤサ男は久我有理に関する話題を続ける。

「でもあの男は、その自信に見合っただけの実力と結果を出しているんでね。あれでも、名実共にウチの組織のトップエースなんだよ。……実はこのチームの隊長は先輩の俺の方なんだけど、アイツは他人の言う事を聞かずに勝手に動くんで、実質アイツがリーダーみたいな状況になっちまってるんだけどさ。昔の話だけれど、こう見えても俺、一応は陸自のレンジャー資格も持ってるんだぜ?」

 笑いながら少し困ったような、少し楽しそうな、そして何かを諦めたかのような口調で伊垢離大介は語った。

「陸自のレンジャー資格って、自衛隊のエリート隊員じゃないですか! そのエリートが、そんな状態でいいんですか? こんな仕事をしているのに、上下関係がハッキリしていないと危険でしょう?」

 問い詰める舞夜。だがヤサ男は飄々と語る。

「いいんだよ、ウチの組織は行き場を失った人間の溜まり場なんだからさ。過去の肩書きや、細かい事情にはこだわらない。その代わりに、死んでも文句は言わないってのがモットーさ。……新入りくん、キミだって、人には言い難い事情があってウチを紹介されたクチだろ?」

 ヤサ男の言葉に、舞夜はテーブルの下で拳をギュッと強く握り締める。彼女には思い当たる節が、確かにあった。

「ついでに言えば新入りくん、キミは親兄弟のいない、天涯孤独の身だ。そうだろう?」

「……どうして知っているんですか?」

 伊垢離大介が彼女を指差してさらりと言った言葉に、舞夜の拳は更に強く握り込まれる。

「ウチにスカウトされて来る人間は、全員そうだからさ。当然ながら、俺も有理も例外じゃない。非公式な作戦行動で不審な死を遂げても、それを追求して来る遺族が居ない人間。そんな連中が、消耗品として危険な任務をこなす。それがウチの組織なのさ。……まあ碌でもないと言えば碌でもないが、その分給料は良いし、辞めたい時にはすぐに辞めさせてくれる。その辺さえ割り切れれば、結構気楽な商売さ」

 ヤサ男がそこまで説明し終えたところで、久我有理がトイレからテーブル席へと戻って来るのが二人の眼に入った。すると伊垢離大介は元居た自分の席へと腰を戻し、代わりに席に着いた大男が口を開く。

「さて、それでどうする、新入り?」

 舞夜の眼をジッと見据えながら、久我有理がその意思を尋ねた。

「このまま正式にウチの組織に入隊するか、それともここでおさらばして、二度と会う事は無いか。来る者拒まず、去る者追わず。常識外れの危険な仕事だ。無理に引き止める気は無いから、ゆっくり考えろ」

 大男の言葉に舞夜は視線を落とし、暫し逡巡する。

 確かに得体の知れない、しかも命を危険に晒す仕事には違いない。まともな神経の持ち主であれば、とっととこの場を立ち去って、今夜見た事は全て忘れてしまうべきなのだろう。だが仮に立ち去ったところで、他に行く場所が、果たして今の自分に有るのだろうか。過去と未来の全てを失った今の自分を受け入れてくれる、そんな都合のいい場所など、他に有りはしない。舞夜の胸中に、消去法で選ばれたとは言え、確固たる決意が固まる。

「……やります。あたし、入隊します」

 顔を上げると、覚悟を決めた眼で久我有理の瞳を見据える舞夜。その眼差しにはもう、微塵も迷いは無い。そんな彼女の瞳を見つめ返す大男とヤサ男の口元に、猟奇的ではない普通の笑みが浮かぶ。

「それじゃあ新入りくん、改めて自己紹介だ。俺は、伊垢離大介。一応このチームの隊長を勤めている。童顔だと言われるが、これでももう二十七歳だ。よろしく」

「あ、周防舞夜です。大学卒業したての二十二歳です。よろしくお願いします」

 自己紹介と共にヤサ男が差し出した手を舞夜が握り、握手を交わす。次いで大男の方も、それに倣って手を差し出した。

「久我有理、二十歳だ。久我って名字は自分じゃあんまり気に入ってないんで、これからは下の名前で呼べ」

 大男の自己紹介を聞いて、舞夜の手がピタリと止まる。

「……歳下?」

 ある意味、今夜最も彼女が驚いた瞬間だった。

「よし、そうと決まったらそろそろ行くか。夜も明けた事だしな」

 握手を交わすとそう言って席を立った大男の言葉に、舞夜は窓の外に見える空が、うっすらと白み始めている事に改めて気が付いた。

 長かった夜は終わり、太陽の下で生きる事を許された者達の時間が始まる。


   ●


 再びの、東京都港区六本木。時刻は、早朝五時を回った時分。日本最大級の歓楽街とは言えども、流石にこの時間では人通りもまばらで、朝焼けに照らし出された街並みは寂しげですらあった。

 数時間前に舞夜と有理が出会った中央交差点からほど近くにそびえ立つ、一際大きな真新しい建造物、東京ミッドタウン。三人の男女を乗せた装甲トラックは、その地下駐車場へと進路を取る。やがて散在する車輌の間を走り抜けて辿り着いたのは、施設の最奥にひっそりと設置された、大型シャッターの前。

「ここは……?」

 トラック内から疑問を口にする舞夜の眼前でシャッターがゆっくりと開くと、伊垢離は軽くアクセルを踏み込み、シャッターの先へとトラックごと進入する。果たしてそこに広がっていたのは、普通乗用車ならば軽く十台は格納出来る、広範なスペース。その中央ほどでトラックを停車させると、有理が後部ハッチから車外へと歩み出て、壁面に設置されたパネルのボタンを操作した。すると一拍の間を置いてから、ガクンと地面が下がり始める。

 この広範なスペースの正体は、車輌ごと昇降出来る大型エレベーター。その規模の大きさに、舞夜は改めて息を飲む。

「公式には、この東京ミッドタウンは地下五階までしか存在しない事になっている。だが実際には、更にその下が存在するのさ。その地下施設には公に出来ない国家機関が数多く入っていて、ウチの組織もその一つって訳さ」

 呆気に取られている舞夜に、運転席から伊垢離が解説する。

「元々ここは、2004年に工事が始まる前までは、旧防衛庁の庁舎が在った所なのさ。で、都心部でこれだけの敷地が新たに確保出来る場所が他に無かったんで、工事のどさくさに紛れて、当局が秘密の地下施設を作り上げたって訳さ。どうだい? 驚いたかい?」

 驚かない訳が無い。舞夜も過去に、ミッドタウンを観光気分で訪れた事があったが、その地下にまさかこんな施設が在るなどとは思いもよらなかった。この辺りは複雑に入り乱れた地下鉄の密集地帯になっている筈だが、ヤサ男の言を信じるならば、更にその下に広大な空間が広がっている事になる。

 舞夜が驚いている間にも、壁面の構造材が剥き出しになった暗く無骨なシャフト内を、エレベーターはぐんぐんと下がり続ける。そして約一分後、その動きを静かに止めた。

 壁面の液晶パネルに表示された階数は、地下十二階。再びゆっくりとシャッターが開くと、その向こうから明るく暖かい光が漏れて来る。後部ハッチからトラックの車外へと降り立った舞夜は、足元からその光を浴びた。

「ようこそ、新入り。内務省異形管理局第四部、通称『不屍鬼ノスフェラトゥ対策部』本部基地へ」

 今日からここが、自分の居場所。その思いを胸に抱く舞夜の耳には、歓迎する有理の言葉すらも、どこか遠い場所からの幻の様に聞こえていた。

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