第19皿 妄想仲間


 ミツルはベッドを背もたれにし、全体重を預けてうな垂れている。

 雨に打たれてずぶぬれになった頭をタオルで拭いたあと、手近にあったジャージに着替えてひと休みというわけだ。

 

 にわか雨。

 風が吹いていないこともあり、窓の揺れる音はまったく聞こえてこない。そのかわり聞こえてくるのは、大きな雨粒が勢いよく地面に叩きつけられる音。ザーザーと相も変わらずうるさい。

 ミツルは窓から外を覗いた。するとすでに雨はやんでいた。

 しかし、まだザーザーという音は鳴りやんでいない。


「はぁ……どうしてこんなことになった」


 今もまだシャワーノズルがにわか雨を降らしているのだろう。

 そろそろやんでもおかしくない程度の時間はたっている。女の子とはいえ、赤の他人、しかも男子の家ともなれば早くあがるはずだ。

 ミツルの予想通り、バルブをキュッと閉じる音とともに、にわか雨がやんだ。

 風呂場と脱衣所をつなぐ扉が開く音がする。それから少しガサゴソ。聞き耳をたてなくても聞こえてくる衣類のこすれる音は、そこに美香がいるというだけで卑猥にさせてしまう。


 小さな足音が近づいてきたかと思えば、いったん止まり、ドアノブがガチャリ。

 美香が「シャワー貸してくれてありがとう」と言いながら顔を出し、髪の毛をタオルで拭きながら部屋の中へと入ってくる。ベッドに遠慮することなくどっしりと座ると、しまいにはミツル愛用のスウェットを着ている美香は「これちっちゃいんだけど」と文句を言うのだ。


 ――どうしてこんなことになったんだ!?



 時は30分ほど前にさかのぼる――。



「……私、実は、腐女子なの」


 ミツルはほぼ確信して腐女子と断言したわけだが、いざ美香に認められるとその現実を否定したくなった。

 腐女子だということをカミングアウトした女子高校生は美星学園のアイドルとして奉られ、チヤホヤともてはやされてはファンクラブがあるほど。同級生だけでなく、先輩後輩にも熱烈なファンがいるという。ミツルもこのことを知っているのだからよっぽどのことだ。


 いまだミツルに背を向けたままの美香は天を仰いだ。

 すると、それに呼応したかのように、雨が降り始める。小さかった雨粒が大きくなり、音を立ててアスファルトに叩きつけられる。

 雨脚が強くなってきた。

 しかし美香はその場からいっこうに動こうとはせず、雨を迎え入れるかのように空を見つめている。じっとしたまま感慨にふけっている。

 ミツルも美香を置いて帰るわけにもいかず、その場に立ち尽くす。が、このままでは埒が明かないので思い切って話しかけてみると、


「わしづ――」

「なんか不思議。すごくスッキリした」


 ミツルの声を遮り、美香は言葉を続ける。


「どうしてだろうね。ミツルくんにバレちゃったっていうのに、なんだか清々しいんだー。……へっくしゅん」

「さっさと家帰った方がよさそうだな」

「私の家、ここからまだ結構距離あるんだけど。私、電車通学だし」

「……は?」

「このずぶぬれたまま電車に乗れっていわないよね? あーあ。下着ブラもけっこう透けちゃってるしなー」


 と、ここでようやく美香がミツルに振り向く。

 ミツルは美香の胸に目が吸い寄せられそうになるも、そこは理性が勝利し、両手で両目を隠した。

 だがしかし、やはり気になるものは気になってしまうので、多少の『食材の乱獲』は覚悟するとして、ちょっと見るくらいなら許してはくれないだろうか――と、指と指との隙間を広げていった。

 ――が、手に衝撃が訪れたのと同時に、目の前が一気に真っ暗になった。


「いま、覗こうとしたよね」

「……い、いえ」


 美香が自分を見られまいとミツルの手を顔面もろとも押さえつけている。


「バレバレなんですけどー。はい、覗き魔は確保しまーす。それから連行しまーす……家どこ」

「そこの角を右に行ったらすぐそこにあるけど……えっまさか」

「よろしい」

「……って俺の家にくるつもり!?」

「当たり前じゃん。雨宿りよ、雨宿り。あとシャワー貸してねー」

「はぁ!? 女の子が男の家でそんないきなり――」

「なによ今さら! 人の一番恥ずかしくて知られたくないこと知っておきながらなにいってんの! もうシャワーされてるとこ覗かれようが、オナニー見られようが恥ずかしくないっての」

「……え、マジで?」

「……今のは言い過ぎた。聞かなかったことにして」

「わかった」

「早く案内して。ちょっと寒くなってきた」

「わかった」


 なかば同情するような形でミツルは美香を自分の家へ連れていった。


 そして今に至る。

 シャワーを浴びたばかりの女の子がベッドに座って両足をパタパタさせている。

 ――落ち着け。落ち着けよ、俺。

 ミツルは気を紛らわすように自分の手をじっと見た。

 あの時、確かに美香の手に触れた。しかし、卵豆腐を得るどころか、チェリーパイのもととなるさくらんぼすら得られなかった。どうやら直接目で見なければ『食材』を調達できないらしい。触るだけでは特異質は発動しないようだ。

 確実性はまだないが、考えられるひとつの可能性。

 これは特異質に抗うための第一歩になるのだ。


 ひと通り考えを整理すると、隣にいる美香が気になってきたミツル。

 けっして彼女のことを女の子として気になっているわけではない。

 ――彼女は実験において格好の獲物ではなかろうか。

 そこにいるのは寧々とは違い、本来なら食物となる者。そんな女の子が、自分の服を着た、風呂上がりの、学園のアイドルが、手を伸ばせば、届く距離に。


 見なければ特異質は発動しない――。


 それを確かめるにはうってつけの状況だ。

 来る日も来る日もこの特異質に悩まされ、女の子を食事対象としか見てこれなかった。だが、もしここで特異質を発動させることなく美香に触れることができたなら、そこから改善点を見つけることができるかもしれない。

 新たな一歩を踏み出すために、いざ参らん。


 ミツルは美香にバレないように、こっそりそーっと手を伸ばす。手の行き先は、とりあえずふくらはぎ――の予定。見ていないから何とも言えないが、一番手近にあるはずだ。


 傍から見ればただの変態行為。

 しかしミツルは真剣に自分の体質に向き合っているのだ。

 よって事は正当化される――わけもなく、美香に見つかってしまい、


「ちょっと、ミツルくん」

「……な、なんでしょう」

「私の脚触ろうとしてるでしょ」

「……バレちゃいましたか?」

「バレてたよ。だって息荒かったもん」

「つい出来心で」

「このヘンタイ。えっち。そんなに触りたいならお望み通り触らせてあげるよっ」

「……うぐぅ!?」


 首を絞めつけるのは美香の足。器用に両足だけでミツルの息の根を止め、命を刈ろうとしている。

 ミツルは美香の足を全力でタップする。――何も生成されない。

 こうして念願のふくらはぎに触ることができた。ミツルの実験は成功に終わったのだが、まさに命も終わろうとしている今、体質うんぬんに考えを巡らせている余裕はどこにもない。


「このまま殺しちゃえば私が腐女子ってことバレずにすむよねー」

 

 と言いつつも、美香は絞める足を緩めた。

 餓死寸前だったかのように空気を大量に食べるミツルは、数度むせながらも自分のやろうとしていたことの正当性を主張しようとする。


「断じて変態じゃないからな。それに美香に変態と言われる筋合いは――」

「こっそり人の足触ろうとしといてまだ言うか!! それとも腐女子の私に変態呼ばわりされたくないってことか!!」

「もういろいろごめんなさい!」


 美香は最後にもう一度ギュッと首を絞めてからミツルから離れた。

 ミツルからは魂が抜け出たように「んぐっ」と声が漏れた。丁寧に呼吸を整えるために深呼吸。

 すると、美香がベッドから降りて、ミツルの隣に肩を並べてきた。


「やっぱりさ、腐女子ってヘンタイなのかな」

「そりゃ腐女子って言ったらだって……いいや違う。……やっぱり人それぞれなんだよ。個性ってそのためにある言葉だろ」


 ミツル自身も人には言えないくらいの変態であることを思い出し、思わず言葉が強くなっていった。同情ではなく共感。もしかするとその言葉は、自分のことを擁護するための言葉だったのかもしれない。

 耳を疑うような熱い言葉に目を丸くする美香。そのままの顔でミツルの横顔を見つめる。


「ミツルくんさ、このこと誰にもいわないでね」

「言わないよ。バレたら苦労するってのはよくわかるからさ」

「……ん? もしかしてミツルくんにも誰にも言えないような秘密あるの?」

「あるけど? ……あれ?」


 売り言葉に買い言葉。どうして口走ってしまったのかわからない。

 思わず口をついた言葉は美香の瞳に炎をともした。その炎は全身にも伝わったようで、勢いに火のついた体でそのままミツルに馬乗りした。手綱となったミツルのジャージの襟をグイッと引き寄せては顔と顔の距離をつめる。

 

「なになになになに!?」

「寄るな近寄るな視界に入るな」


 ミツルは条件反射のごとく目をつむる。

 ギリギリ間にあったようだ。何も生成されていない。


「……そこまで邪険にしなくてもいいじゃん。これでも私、人には好かれるタイプだと思うんだけどなぁ」

「自分で言うのかよ」

「これは百々ちゃん先輩のおすみつき。それよりも、秘密ってなにッ!!」


 とにかく近い――。

 美香の髪から漂ってくる匂い。女の子の匂いと自分の使っているシャンプーの匂いがあわさって、まるで美香と絡み合っているような甘く淫靡な錯覚を生み出す。

 目をつむるのは危険だ。しかし、目を開けるのも危険だ。

 自分の顔と数センチの距離に美香がいる。

 彼女の熱量が。彼女の息づかいが。彼女のまばたきする音さえもが。彼女のすべてが伝わってくる。感じてしまう。

 文句を言おうにもこれ以上口を動かすのは危険だ。

 少しでも口を動かしてしまえば、唇と唇が重なってしまいそうな気がする。

 うしろに身を引こうとしても、背中にあるベッドが邪魔をしてこれ以上どこにも逃げることができない。


「ミツルくん……もしかして、待ってる?」

「……ん?」

「……だ、だって、め、とじてるし」

「そんなんじゃねぇ!!」

「ちょっ!? ツバかかった!?」

「わかった。秘密教えるから。教えるからどいて!?」

「ふふ……勝った」


 ミツルはまだ目を閉じたまま。しばらく開けるつもりもない。

 だから知るよしもない。

 美香は頬だけではなく、耳の裏も首筋も真っ赤に火照ほてらせている。相当恥ずかしかったようだ。それでも、そこまでしてでも自分の秘密を守ろうと必死だったのだ。

 美香がミツルに並んでベッドに寄りかかる。うな垂れて目を閉じると、両腕で隠すように顔を覆った。しばっていない髪がミツルのベッドの上に散らかっている。


「いつも家にいる時はね、髪の毛をヘアバンドでくくって眼鏡をかけてパソコンとにらめっこしてるの」

「……一気に腐女子っぽくなったな」

「でしょー。にっしっし」

「……本当に言わないとダメ?」

「だめ」


 ミツルは観念するほか選択肢が見当たらなかった。

 長いため息をつきながら言葉を選ぶ。説明を間違えればうまく伝わらないことは寧々で実証済みだ。伝わらないどころか勘違いすら生じてしまう可能性がある。あれは馬鹿だったからで例外か。

 一度に端的に言わず、徐々に理解を深めていってもらおう。


「じゃあ心して聞けよ。……まず、妄想癖がある」

「まずっていくつもあるの!? 私たえられるかな……」

「ひとつしかないから! 順を追ってく必要があるの!」

「いいからさっさと言ってよ」

「……よしわかった。言ってやるよ」


 美香の挑発的な態度にミツルはむきになってしまった。


「俺にはな、妄想の中で人を料理して食べちゃう癖があるんだよッ!」

「……思ってたのよりとんでもないのがきたなー」

「鷲塚に言われる筋合いはないからな。てかお前に俺をなじる資格はない」

「まあ、そうかもしれないけどさ、ミツルくんの妄想ってかなり猟奇的じゃない?」

「なんで?」

「だってそうでしょ? 妄想とはいえ人を食べるんだから」

「人は食べてないよ? その人を特徴づけるような食材が頭の中にインスピレーションされて、それを料理して、それを食べるんだ。……例えば、白井先輩ならモモ肉のステーキだったし、保科先生ならローストビーフとハンバーグだったし」

「うえぇ。具体的で気持ち悪くなってきた。ちなみに、ステーキとハンバーグってなんの肉だったの?」

「ハンバーグは牛、ステーキは……なんだろ?」

「ほら人の肉じゃん」

「違うってば。たぶんあれは鶏だよ、鶏。鶏もも肉っていうくらいだから」

「……ふーん。じゃあ私からはなにができて、どう料理したの?」

「……さくらんぼでチェリーパイを作った」


 本人が隣にいるのであえてチェリーパイを具体例に挙げなかったことがあだになった。こう改めて言及されて、ミツルは耐えがたい恥ずかしさに悶え死にそうになっている。

 健全な一般男子の話に置き換えて例えるなら、美香に『私を使ってどんなオナニーしてたの?』と面と向かって言われているようなものである。

 恥ずかしいわけがない。

 いっそのこと殺してくれて懇願してもおかしくはない。


 そんなミツルの思いを美香は知ることもなく、顔を覆っていた腕を下ろし、自分の胸を揉み始めた。

 指の間から惜しみなく肉が溢れ出ている。確かにそのような大層な代物をさくらんぼのような小さいものと例えられて不服なのは何となくわかる。が、そのさくらんぼの中には多くの男子の夢がギュッとつまっているのだ。


「私のおっぱいってそんなにちっちゃいかな」

「……いろいろあったんだよ」

「おっぱいってことは否定しないんだ。やっぱりミツルくんにとっての私の特徴って、このおっぱいだったんだー」


 これ以上ミツルを傷つけけてしまうと、男として、人としての尊厳を保てなくなってしまいかねない。どうか観念してあげてほしい。


 ミツルは最後の力を振り絞って反撃に出る。


「……あと鷲塚からはもう一品。ゲロまずい腐った卵豆腐。これがきっかけでお前が腐女子だってことに気がついたんだ」

「……それって妄想っていうよりも、もはや心眼だね。信じられないけど」

「心眼? この妄想が? ふざけんなよ。俺がどれだけこの妄想に悩まされ続けたと思てんだよ」

「だってそうじゃん。ミツルくんのそれがあれば、盗撮犯だって見つけられるかもしれないじゃん」

「……はい?」


 ミツルと美香はこれから30分ほど話し合った。

 ミツルは自分の視界に人が入ると『妄想料理クッキング』を始めてしまうということを伝えると、美香は『背中合わせ』を提案してきた。互いに背中をくっつけて体育座りをして話す。まさか人肌を感じながら話をすることになるとは思いもしなかった。


 話し合っているうちに、美香が自分と同じ土俵にいるのだと理解した。

 ――妄想を餌として生きる。

 だからこそ同族に気が緩み、自分にも秘密があるということを口を滑らせて言ってしまったのかもしれない。


 帰り際に連絡先を交換し、ミツルの電話帳に初めて家族以外の名前が登録された。


「じゃ、似たものどうし、これからがんばろうねっ」


 と言って、美香はミツル宅から帰っていった。

 もちろん雨はもう降っていない。




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