第9皿 寧々が来ない


 今日という一日もあっという間に過ぎ去り、チャイムと同時に終礼も終わった。


 疲れがたまっているせいで睡眠。

 寝ても取れることのない疲れのせいでまた睡眠。

 ここ数日の授業は半分以上寝てすごしている。一週間前まではこんなことはなかった。何が原因なのかはわかっている。それ以前と以降で変わったことといえばただひとつ。


 納務寧々の存在だ。


 少しでもあの少女に出会えたことを感謝したのが間違いだった。

 最悪だった日常が、より最悪に。最悪という言葉には際限はなく、底が見えないということを実感した。


 昼休みですら休む暇もない。

 昼休みが始まるや否や、今日も寧々が「先輩、ごはん一緒に食べましょう!」と一年生であるにもかかわらず、上級生のクラスに堂々とやってきた。

 ミツルの前席にいる先輩から、寧々は椅子を奪う。

 授業が延長されていてもお構いなし。寧々の餌食えじきになった生徒は、授業中に立たされるという屈辱を、辛酸を味わう。しかし怒ることはできない。寧々の目の前にいるのは、学園最狂の不気味番長だ。逆らえばどうなるかわからない。実際はどうにもならないのだが。


 こうして休む間もなく、終始寧々に翻弄され、息つく暇もない。


 ミツルは寧々に今までの日常を食われた。

 寧々は不良ではない。ただのはた迷惑な問題児だ。


 だからこそ、鬱陶しい新たな日常に少しでも違和感があれば、すぐに気づいてしまう。不本意ではあるけれども。


 寧々が放課後になったというのに現れない――。


 いつもはすっ飛んでくるはずなのに、寧々の姿が見えない。


 もはやこのクラスの名物となりつつある『寧々チャイム』が響いてこない。そのせいでクラスメイト(仮)たちも違和感を抱いている。チャイムが鳴って放課後になったのに寧々が来ないのかと。

 そこそこ可愛いせいで、クラスの一部ではマスコットキャラのように人気があったりもする。寧々本人にとっては不本意だろうが。


「あの不良ちゃん来ないのかなぁ。せっかく今日もお菓子あげようと思ってたのに」

「へぇ、アンタ餌づけしてたんだ」

「違うよ!? だってあの子、小動物みたいで可愛いから、つい……」

「それが餌づけっていうのよ」


 と、男子からだけではなく、こんな感じで女子からの人気も手厚い。

 

 かれこれ10分がたった。

 寧々は相変わらず姿を現さない。そういえば、今日は日直だ、と言っていたことをミツルは思い出した。おそらくその仕事で来るのが遅くなっているのだろう。


 さらに30分たった。

 まだ来ない。日直の仕事というのはそれほどまで時間がかかるものではない。その日の出来事をまとめた学級日誌と、ランダムに発生する担任の雑用をある程度こなせば終わるはず。

 そうだ。職員室で説教を食らっているのかもしれない。それなら遅いのも頷ける。


 そして放課後になって一時間が経過した。

 どうして寧々が来ない。さすがにそろそろ来てもいい頃だ。教室にはもう自分を除いて誰もいない。部活に行ったり、下校したりと、誰も彼もがいなくなった。連絡先くらい交換しておけばよかったと後悔してもどうしようもない。


「なんで来ないんだろ」


 そう言った瞬間、ミツルは、あることに気がついてしまった。

 右頬が不気味に引き攣り、口角が不自然に上がる。その顔のまま背もたれに全体重を預け、教室の天井を仰ぎ見た。


「俺、期待してたのかよ」


 どうして今まで待ち続けていたのか。

 鬱陶しい、邪魔、疲れる、わずらわしい、腹が立つ、騒々しい。

 ここ一週間でそう思うことは多かった。いや、そう思ってばかりだった。

 しかし、いざ寧々がいないとなると、どうしようもなく寂しくなる。自分でも気づけなかった本心は、一緒にいることを望んでいた。


 そもそも寧々に会おうとした理由は、友達になれるかもしれないと思ったからだ。

 ここ最近、ずっと散々振り回され、ささやかな日常さえも壊され、根本的なことを忘れてしまっていた。


「今思い返すと、それなりに楽しかったな。こんなの小学校ぶりだったし」


 この一週間はとても濃かった。

 中学生活三年と高校生活一年の計四年。それよりもたった一週間という七日間での出来事がより鮮やかで、より楽しみに溢れ、本能的に触れないようにしていたが、すべてが心地よかった。

 寧々のせいで、とばかり卑下してきたが、それ違う。


「あいつのおかげか」


 寂しさを胸に大切に抱きながら、ミツルは席を立ち、鞄を手に持つ。

 今日はもう仕方がない。

 歩き出せば教室、廊下、階段に冷たい足音が響く。この音を聞くのも久しぶりのような気がする。いつもは寧々が側にいてぎゃーぎゃーうるさかったから聞くことはなかった。


「……って、いつもってなんだよ」


 寧々がいること。それが当たり前の日常にすり替わっていた。

 寧々のいない登下校、昼休みというのが想像できなくなっている。


 少し大げさに聞こえるかもしれないが、これが日々ぼっちでいた人間の心根だ。

 ひとたび友達といる感覚を知ってしまうと、味を占めたかのように、その旨味から逃れなくなってしまう。

 寧々本人からは食を調達できなかった。

 しかし、確かにミツルは寧々の味の虜になってしまっていた。友達という存在に飢えていたミツルに、友達がいることの楽しさを味わわせてしまった。


 玄関につき、自分の下駄箱のふたを開ける。

 ――と、スニーカーの上に一枚の手紙が置いてあった。手紙というにはいささか雑なもので、ノートの切れ端を四つ折りに畳んだものだった。

 もしかすると、寧々の置手紙なのかもしれない。

 そう思う気持ちがミツルをはやらせ、慌てて紙を開いて内容を確認する。


 中には確かに『納務寧々』という文字が書かれていた。

 しかし、内容が内容だったために、ミツルは血相を変えることになる。



 ――納務寧々を返してほしくば、廃墟になったあの結婚式場に矢吹一人で来い。



 たった一行の殴り書き。それだけでことは急を要することを理解した。

 何がどうして寧々が危険なニオイ漂う状況におちいっていってしまったのか。ただひとつだけわかることがあるとすれば、ミツル自身が行動を起こさなければ、寧々の無事は確実にないということ。


 ミツルは下駄箱からスニーカーを取り出し、上履きをしまうことなく玄関から外へと飛び出した。

 地平に足をつけている夕日が頬を痛く照らしつけてくる。それでもミツルの頬はあたたかくならない。落ち着かない心が真っ青に冷えきっていたから。

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