第3皿 ミツルと寧々


「三十路という歳まで男ができなかったおけげで、いっさいのけがれなく熟成された女肉にょにくに、怒ることによって少しずつ火照ほてりが生じ、熱がじわりじわりと内部まで伝わっていく。そして、喋るたびに口の中から溢れんばかりに出てくる唾液は、まさに女肉汁そのもの。まさに旨みの爆弾。ここから生み出される一品ひとしなは、最高級と言っても過言ではない熟成ローストビーフごはッ」


 ――ヘ、ヘンタイだッッッ!?


 彼女はそう思わずにはいられなかった。


 保科先生の堪忍袋の緒が切れた音が聞こえてからのことだ。

 机をはさんで反対側にいる男子生徒のことが気になって、目の前にいる先生の言うことが頭に入ってこない。

 見てはいけないと思いつつも、どうしても目がそちらに吸い寄せられてしまう。彼女は何度も飽きずにチラ見する。気にならないわけがない。

 身長は170センチくらい。ぼさっとした黒髪が、かさ増し効果で少し身長を高く見せている。肉付きはあまりよくなくちょっと痩せ気味か。あるいは胸板があまりないせいで痩せて見えるのか。

 顔もこれといって格好いいとは言い難く、どちらかといえば、パッとしない。とりあえずどこにでもいそうな男子高校生だ。


 ――外見は!


 頭の中が彼のことでいっぱいになってしまった。やはり目の前にいる先生そっちのけで彼のことだけを考えてしまう。


「あのー、納務さん、先生の話聞いてくれてましたか?」

「…………えっ!? あ、その……すみません。聞いてませんでした」


 不良になりきれない不良は頭を下げて謝った。

 おかげで彼女を呼び出した先生はとんとん拍子で口数を増やしていき、

 

「納務さんねぇ。人の話を聞かないのはあなたの悪い癖です。いいですか。あなたがそもそもここに呼ばれたのはですね――」


 長い説教が始まった。

 しかし、それすらも聞き流してしまう彼女――その名も納務寧々のうむねね

 結局のところ何の話をされたのか。そもそもなぜ職員室に呼び出されたのか。何もかもがわからないまま、寧々は職員室から出ていく羽目になった。

 扉の前でひとりたたずむ。


「でも、怒られたってのはわかる。いつもなら怒られても、まぁ仕方ないなぁって思えるよ。でもでも、きょうは全部アイツのせい。アイツがわるいぃぃぃっ」


 アイツとは無論ミツルのことである。

 言うまでもなく職員室から出た今でも、寧々の頭の中は強烈なヘンタイの存在で埋め尽くされている。もしあの男がここにまだいるのなら、ひと言物申してやりたかったが、自分が説教を受けている最中に足早に職員室から出ていってしまった。

 怒りのやり場に困ってしまう。むしゃくしゃしてどんどん腹が立ってきた。


 キュルキュルキュルキュル――。


 寧々の腹の音だ。

 どうやら腹の方も同じく怒っているらしい。これはやけ食いしかない。

 だが、十時頃に早弁をしてしまったせいで食べ物を何も所持していない。

 昼休みも残すところ十数分。

 怒りはともかく実際のところ腹が減ってきた寧々は、何としてでも食料を調達したいところである。


「アイツが何者なのかはいったん置いといて……この時間から購買に行って、授業に間にあうかどう……って違う。少しくらい遅れたってへっちゃらよっ」


 寧々はてくてくと歩き始めた。

 それも束の間、廊下をダッシュで走り始める。こうなってしまえば、寧々を止められる者は誰もいない。おてんば娘、ここに参上。


「もしかしたら、もうパン売り切れちゃってるかもっ。いそげいぃっ!」


 ――と、その時、寧々が人に激突した。

 曲がり角の死角から現れた人物に気づかなかった寧々。

 彼女はぶつかった反動で尻餅をつき、ふっ飛ばされた人は顔面から床にダイブしていた。

 誰なのかわからないが、突き出して向けられている臀部でんぶを見るに、少なくとも男子生徒だということはわかった。スカートではなく、ズボンを履いている。

 それにしても、女子でさらには体格の小さい寧々よりも激しく吹き飛ぶ男子。これはいったいどれほどの軟弱者なのだろうか。


「…………あのー、大丈夫ですか」


 ここで『いてぇだろうが』などと罵声を浴びせないあたりが、不良になりきれない不良としての寧々を形作っているのだろう。


 二、三秒待っても返事がない。

 そのかわり、何やらチョロチョロと液体が漏れる音が聞こえてきた。


「…………気のせいか。よかった」


 男の股間部あたりはまったく濡れていない。

 痛みのあまり失神し、失禁してしまったのではないかと寧々は一瞬疑った。が、どうやらその心配も杞憂に終ったようだ。

 ――が、念には念を入れ、一応においを嗅いでみる。

 クンクン、クンカクンカ。

 ――が、すぐにやめた。本当に失禁していたのなら、男の尿の臭いを進んで嗅いだことになる。その行為は女の子として、人間としてあるまじき行為だ。

 自分のやった行為を否定するかのように顔を大きく左右に振ると、栗色の癖のある長い髪がぽわぽわと可愛らしさを撒き散らかした。


 頭を振りすぎて頭が痛くなってきた。動悸も激しくなってきたような気がする。

 落ち着こうと深呼吸しようとするも、これもまたすぐさまやめる。男が失禁していないとわかっていても気が進まない。

 確かに尿独特の臭いはまったくしなかった。どちらかといえば、ただよってきたのは尿の臭いというより血の臭い。


「……血の……におい?」


 寧々は慌てて立ち上がり、見えなかった男の顔を覗きこんだ。

 寧々からは男の後頭部しか見えないが、


「あわわわわああわあわああ」


 臭いの根源が確かにそこにあった。

 男の頭を中心にして広がる血の海。リノリウムの床を赤く染め上げては、赤い海が陸地を次々に侵食していく。

 どうすればいいのかわからない寧々は、無我夢中で男をゆすった。

 ゆするたびに血の海からビチャビチャと不快音が響き、それは波を打ち、波紋が広がっていく。


「……ん? トマトジュース?」

「大丈夫ですか!?」


 意識を取り戻し顔をあげた男に寧々はすかさず声をかけた。


「……ん?」


 素っ頓狂な声を出す男は、自分の身に何が起きたのか理解できていない。


 男の額が血で赤くなっている。

 不良としての心得を勉強していた寧々は、額に傷がつくと派手に出血するということを学んで知っていた。なにやら細かい血管が多いのと皮膚が薄いことに原因があるらしい。


 勉強する真面目な不良。

 他人を気遣う優しい不良。

 だから誰もが微笑ましく彼女を見守るのだ。道を踏み間違えないように先生方も注意せずにはいられない。


 たっぷりと数秒。

 パッと見ではわからなかったが、よく見れば見覚えのある顔だった。

 職員室でチラ見していた顔であり、怒りの源となっていた人物の顔だ。


 この男が――あのヘンタイだ。


「…………あのっ、す、すみませんっ!」


 しかし、今では怒りの面影すらないわけだが。

 寧々は相変わらずどうすればいいのかわからず、目をキョロキョロ泳がせては焦りや戸惑いを隠しきれずあらわにしている。もはや彼女に正常な判断は期待できない。

 二人の間に訪れる沈黙。

 のんきに『トマトジュース』ととぼける男――矢吹ミツルはというと、せわしない寧々の足のつま先から頭のテッペンまで目で舐めた後、顔、太もも、胸、と順にじっと見つめた。

 そして、目をカッと見開く。


「…………な、ないだと……?!」


 沈黙を破ったのはミツルだった。

 寧々は一瞬何を言われたのかわからなかったが、とあることに気づく。

 ミツルの視線が胸元に寄せられている。その寄せることのできない慎ましやかとも言えない貧相な胸元に。残念ながらわずかな脂肪すら持ちあわせていないそれは、もはや胸とは言えない。これは俗にいう『まな板』だ。


「しししし、失礼な! このヘンタイっ」


 寧々は自分のない胸をとっさに両手で隠す。

 胸元に立派なものがあろうがなかろうが、女としては条件反射のごとくとらなければならない動作だ。

 納務寧々には胸がない――。

 何度も語るのはかわいそうなので、胸の話はここまでにしておく。打ち止めだ。


 またもや沈黙。


 ミツルは寧々の動作に身動ぎもせずに、凝視をまだ続けている。ない胸に視線が吸い寄せられたまま動かない。


「……ど、どうせ隠すような胸なんてないわよ!!」

「…………あ、いや、確かにないけど、問題はそこじゃない」

「はぁあ!? マジこいつ最低。人のコンプレックスを……コンプレックスを……よくもよくもよくもよくも」

「何言ってんの?」

「何言ってんのだと!? 胸のこと言ってんだよ……男が大好きな……お、おっぱいのこと言ってんだよっ。……っざっけんなよっ。人に……お、おっぱいとまで言わせておいて。このヘンタイ、バカっ、死んじゃえっ。どうせペッタンコですよ……まだ高校一年生だもん。きっと……絶対おっきくなるもんっ。大丈夫だもんっ!」


 怒りはむなしく空回り。

 自らをさげすみ、自爆し、ミツルにやつあたり。最終的には自分で自分をなぐさめる始末。大きな両目に涙を浮かべるも、すぐさまそれをぬぐって悔しさを否定する。


 口をキュッと結び、ミツルを睨みつけるも羞恥心には敵わなかった。

 寧々の顔が血の色に負けじとたちまち赤くなる。そこで張り合っても何の意味もないのだが。


 羞恥の渦に飲み込まれる――が、ふと我に返った。目の前には、血、血、血。

 唐突に怖くなってきて、手先が小刻みに震え始める。いろいろ勉強はしているものの、実際に本物の血を大量に見るのは初めてだった。

 どうにかしなければいけない、と、とった行動は、


「し、失礼します! ごめんなさい!」


 この場からの逃走――。

 気が動転してしまった寧々は現実から目をそむけるかのごとく逃げ出した。


 一方、ミツルは寧々の存在に圧倒され、動けずにいた。

 一体何が起こったのかわからない。それはミツルにとっていまだかつてない、味わったことのない事象だった。


「ま、ちょ、ま、待ってくれ! ……あ、な、名前、教え……て」


 隠せない動揺の色は言葉にも表れ、すべてを言い切る前には寧々の姿はもう見えなくなっていた。


 味わったことのない――それは、味わったことのない『食材』とも、味わったことのない『料理』とも表現できなかった。

 どうしてなのか。

 それは、いつもならそこにあるはずの『食材』が何も存在していなかったからだ。

 食べるべきものが彼女には何も存在していなかったからだ。

 けっして魅力がないわけではない。むしろミツルは、今日の昼に食した女子二人組に負けず劣らず可愛いと思ったくらい。

 だからこそ、妄想が駆り立てられない現実に、目の前にいた一人の女子に気圧けおされてしまった。


「の、の、の、納務寧々ですっ。すみませんでしたああぁぁあっっっ」

「……聞こえてたのか」


 姿は見えないが、乱暴ながらも返答がきた。

 わざわざ答えてくれるとは律儀な女の子だ。

 ミツルは聞いた名前を噛みしめるも、そこからは何の味も触感も得られなかった。

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