月の綺麗な夜に
絢斗
第1話
「私、結婚することにしたんです」
月の綺麗な夜だった。
悲しい程に、美しい声だった。鈴の音が静かな夜を擽(くすぐ)るかのように、儚くも綺麗な――。
彼女とは、もう一〇数年に及ぶ付き合いだった。僕は、この女性(ひと)が好きだった。いま想えば、一目惚れだったのかもしれない。いつでも優しく微笑む顔が、余りにも可憐で、いつの間にかその虜になっていた。
その彼女が、今度結婚する。
何と、答えれば良いか解らなかった。
静寂に包まれた夜。ここにいるのは、僕と彼女だけの二人きり。まるで時間すら静止したかのよう。だからこそ、その言葉を吟味するには余りにも優しすぎて――実感を湧かせるのに充分過ぎた。
彼女は結婚する。誰かと、結ばれる。
かつて僕は願った。祈りにも似ていた。君と一緒になれたら、どれだけ幸福(しあわせ)になれるのだろう、と。そんな、夢とも呼べる理想の未来を。
結局のところ、『運命』というものには無力でしかなかった。与えれた有限の記憶と時間。その中で、彼女と僕は、果たしてこれからどのように生きていくのだろうか。
〝いま〟が、残酷にも優しく、過ぎ去っていく。
怖かった。彼女が、そして僕が、変わっていくのが怖かった。この気持ちも、いずれ時と共に、ゆっくりと静かに消えていくのだろうか。
「その人のこと、愛してるのかい?」
震える声で、気づけば問いかけていた。彼女はこちらを見、にこっと優しく微笑んだ。その楚楚とした表情を、何度目の当たりにしても溜息が漏れる。身体の芯が熱くなる。
「ええ。誰よりも」
その言葉に迷いなどなかった。余人の付け入る隙も無い、完膚無きまでに深い愛だった。彼女は、〝その人〟のことを、確かに愛している――
「そっか……」
ぽつりと、思わず声が漏れた。
覚悟していたはずなのに――それでも、その言葉は容赦無く僕を貫く。
出来ることなら泣き出したかった。あられもなく喚きながら、彼女にしがみ付き、胸の内のすべてを吐露してしまいたかった。 僕は。ぼくは、貴方が――
「貴方には、愛してる人はいないの?」
「僕には――」
愛する人がいる。 温かくて。優しくて。誰よりも幸せになって欲しい人が。
それを口にすることが出来なかった。その代わりに、違う言葉が出ていた。無様に唇だけが痙攣していた。
「ねえ、知ってる? 僕は、君のことが好きだったんだ」
「……知ってるよ」
返事はそれだけだった。その響きのなんと空虚なことか。
彼女には愛する人がいて、そして見事結婚を果たす。それはとても素敵で、この上無く素晴らしいことのはずだ。 ならば僕がしなければいけないことはもう決まっている。僕は彼女を、真正面から祝福すれば良い。笑顔で、言祝げば良い。
なのになぜ、膝が震える? なぜ、喉許に息が詰まる?
彼女は、少しだけ震えていた。きっと、寒いからでは無い。
その姿にどんな声をかけるべきか、それすらも判らず僕は唇を噛む。
きっと――、賛辞も、労いの言葉も、もはやただの無意味な修辞でしか無かった。ならば、いまこの場で、多少なりとも意味を持つ言葉が有るとすれば――
「――ありがとう」
君を好きになれて、君を愛することができて、ありがとう――。
うん、と。彼女は小さく首肯した。彼女の頬に、一つの滴が月の光を反射させて、静かに流れる。睫が濡れていた。
でもそれは、悲しいからではない。
だって、彼女は、いまこんなにも、優しい微笑を浮かべているのだから。 僕が大好きな、清楚なる表情だ。悲しんでいるはずがない。
徐(おもむろ)に、彼女は僕に抱き着いてきた。これまでのこと、これからのこと、せめていまだけは忘れたいと言わんばかりに、彼女の細い腕に力が篭る。
どこか懐かしい香りが、鼻腔を甘く刺激する。
「私、結婚するんです……」
僕の胸の中で、自らに言い聞かせるように、彼女はそう告げた。弱弱しく、けれどしっかりと。
「知ってるよ」
一度だけ。一度だけ願いが叶うなら――僕は生まれ変わっても、また君に逢いたいと、そう、願う。
しばらく、僕らはそのままだった。なんて美しい夜だろう、と僕は思った。同時に、きっとこんな夜は、もう一生訪れないのだろうな、と直感した。
「幸せにして下さい」
彼女は、変わっていくのが怖かったのだろう。いまの自分が。結婚するそれまでの自分が。そしてそれからの自分が。だから結婚する最後に、僕に会いに来た。いまの自分を忘れないで欲しい、と。貴方を好きな私を忘れないで、と。
「私は貴方を――」
彼女は結婚する。
「 」
五文字が――たった五文字の言葉が、僕の耳だけに玲瓏に響いた。
月の綺麗な夜。
僕は、最愛の女性(ひと)と、結婚する。
静かで美しい、幻想曲のようなお話。
月の綺麗な夜に 絢斗 @absolute-ayato
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