2.8 解釈


一九七四年四月二六日 日本時間一八一五時

  茨城県鹿島臨海特別行政区 統合術科学校第一委員会棟第八多目的室前



 テルラさんに連れられ、たどり着いた先は、第八多目的室と書かれた部屋だった。


 他の多目的室はいずれも教室と同様、廊下側にも窓があるのだが、この多目的は窓枠に厚い板がはめ込まれていた。扉に関しては全く別のものだ。


 テルラさんは扉の隣にはめ込まれているボタンを押す。


 押すと言っても、単発的なものではなく、モールス信号の様な長押しと半押しの混じったものだ。


 すると、小さく鍵の外れる音がし、扉が開く。


 それと同時にピアノの音色が響き渡り、そして夏美先輩の姿が現れる。


 メガネの向こうから無感情な瞳をこちらに向けてくる。


「テルラ・フランクであります。ただ今、藤本純太郎を連れて参りました」


「分りました。お入り下さい」


「失礼します」


 どうやら、先ほどのボタンは内部との連絡を取るためのボタンであったらしい。


 扉は極めて厚く、恐らく防音材質。


 ちょうど、ボタンの反対側にはランプとブザーがついていた。


 恐らくそれで内部と通信を行ったのであろうが……俺ならマイコンに一定の信号が入力されたら解除する……つまりは暗証番号を入力する装置を取り付ける。


 それは置いといて――内部は完全な防音室であった。


 荷物は少なく、特徴的な物といえば中央にあるグランドピアノだ。


 そして、そのピアノには雪江先輩が座っており、鍵盤を叩いていた。


 風景としては机や椅子を取り払った音楽室に似ていたが、音楽の課業が存在しないこの学校においては、唯一の楽器演奏に適した場所であろう(防音性なら無響室があるが、あそこに重量物は置けない)


 にしてもなんで……


 色々と考えたが、その思考は室内を満たすピアノの音色によって解決された。


 雪江先輩の奏でるピアノの旋律。


 ただ一定の張力を持たされた金属弦の振動する音。それが、いくつも重なって、曲となる。


 フーリエ級数展開を行えば異なる位相差、振幅、周波数を持った純音の集合体で表されてしまうのにもかかわらず、それは曲として鼓膜を刺激する。


 俺もピアノ曲は聞いた事はあるが、今まで聞いた事のある曲と比較し、この曲は『速い』や『荒々しい』という印象は得る。だが、そもそも音楽に興味を持った事のない俺には到底理解できる次元の事柄ではなかった。


「フレデリック・ショパンの練習曲ハ短調作品一〇―一二。

通称、革命のエチュードと呼ばれる曲だ」


 雪江先輩が、ショートカットの髪を揺らしながら話し始める。


「この曲が作られたのは一八三一年の帝政ロシアによるワルシャワ進行とほぼ同時期。ショパンがその時の怒りを込めた作品だといわれている」


 なるほど、だからこんなにも曲調が荒々しいのか。


「先輩は、いつもここで弾かれているのですか?」


「時間が作れた時だけだ。弾く曲は必ずしもこれであるとは限らないが、最近はよく弾く。練習曲だからな」


 これ練習曲なのか。


 とは驚いてはみたものの、音楽の良し悪しがつかない俺にとっては、これが練習曲であってもそうでなくてもただの音楽としてしか認識することが出来ない。


 演奏は既に終盤に入っていたらしく、間もなく終了した。


「では、本題に入ろうか」


 くるりとこちらに体を向けた雪江先輩はその長い脚を組んで話し始める。


「これから話す事は少々シビアな内容になる。そして、手短に済まさなければならない。私も会議を抜け出している身だからな。いいかね?」


「はい……」


 反射的に答えたが、正直言って聞きたくなかった。だが仕方がない。聞かなければならない事だ。


「藤本君。君は『F機関』という名前を持つ特務機関を知っているかね?」


 思わず驚いた。てっきり、茜の件か何かについて話すと思っていたが、全く違った都市伝説に関する話だ。


「はい。昔一度か二度、都市伝説の紹介雑誌で読んだ事があります。第二次世界大戦中に日本が作った特務機関だとか」


 ある程度は有名な都市伝説だ。マレー半島上陸の情報収集にあたったとか、インドで反英国勢力を創設したとか、米戦略諜報局OSSに潜入してMI作戦における米航空機動艦隊の位置を正確に把握したとか、後付けの様な噂は結構ある。


「いかにも。都市伝説を抜きにしても、F機関という機関の存在は一昨年、機密指定解除により政府が正式に認めており、その発表によると五一年に創設された内閣情報調査局の下部組織、軍令部中央情報局に吸収合併されたという事になっている。詳細な活動内容は非公開であるが、主な活動は現地情報収集と協力員の獲得。有名な所ではインド国民軍の創設だろう」


 そこまで話した所、で少々微笑む。


 何が言いたいのか分らない。


「公式に認められているという事は初めて知りました。ですが、それを知らせるためにこの様な場を設けたのですか?」


「当然、それだけではない。今のは背景説明の様なものだ。問題なのがこれから。これは日本政府は公式に認めていない事だが、F機関は未だに存在しているらしい。秘密機関として」


 どこぞの都市伝説にも出てきそうな設定だ。


「まぁ、君は信じていないだろう」


「いえっ、そんな滅相もありませんっ!」


「当然の反応だ。こんなの週刊誌にも出てきそうな内様だ。しかし、実際にその存在を突き止めようとした人がいた。それが南條千春だ」


「南條――という事は書記長閣下の……」


「いかにも、私の母上だ。我が南條家は昔から軍や政界と関係が強い事もあり、母上は事務長としてだが軍令部中央情報局で働いていた。そこで母上は、何かを突き止めたらしい。そして、その三日後に交通事故で亡くなった」


「……」


 あまりにあっさりとしていた。


 最後の言葉の意味を理解するのに三秒程かかっただろうか?


 あんぐりと口を開ける俺をよそ目に、雪江先輩は淡々と説明を続ける。


「目撃証言によれば、信号無視のトラックが突っ込んできたらしい。母上は見るに堪えない姿となり、トラックはその場を逃げ去った。後日、ひき逃げでトラックの持ち主がつかまり、有罪判決を受けたが……その裁判がひどい茶番出来だったよ。」


 口調は極めて穏やかであった。身内の出来事を語っているとは思えない素振りだったが、瞳だけは空を泳いでいた。


「トラックの運転手は居眠り運転であった事を認め、その供述は警察側の論証とぴたり一致していたが、目撃者が証言した状況とは違っていた。それに、トラックが衝突直前に急カーブしてわざわざ母上に向かった理由も『思わずハンドルを切ったら逆に切ってしまった』というだけだ。酷いものだ。しかしながら、証拠もあり、被疑者もいて、容疑を認めている以上、裁判所も被疑者を犯人として認める他あるまい」


 暗殺……?


 一瞬その言葉が思い浮かんだが、それはあまりにも短絡的思考だ。確かに雪江先輩の母親が公に知られてはいけない秘密を握ってしまったのなら分るが、それも確定的ではない。


「そこで、出てくるのが先ほどの『何か』だ。事件後、母の日記帳を見つけた所、母が『F機関』と『J部隊』についての事を調べていたという事までは分ったが、それより詳細は不明。詳細は手帳に記されていたらしいが、見つからず、遺留品にもなかった。紛失か、取られたか……」


 一瞬、先輩が唇を噛む。


 しかしながら、直後には再び冷静な表情を見せていた。


 やはり内心は怒りや悲しみがあるのだろうか? しかしながら、表情からはその内面を知る事は出来ない。中央委員会書記長の立場に立った人間だ。感情を表面に出さない技能は持っていてもおかしくない。


「それからだった。叔母上である菅原真紀子高等監察官が出世したのが。事件当時はただの事務員であった南條真紀子が、わずか七年で内閣府直属の諜報機関、内閣情報調査機構の高等監察官にまで上り詰めたのだよ。普通はありえない事だ。女性初の調査機構の人間であり、女性初の高等監察官であり、歴代五位の若さでの高等監察官だ。それから私は調べられる限り調べた。あの女が何をしてきたのか。何が原因であの地位まで上り詰めたのか、そして何が起こっていたのか。そして、判ったのだよ」


 一瞬口を閉じると、その凛々しい眼差しで俺の瞳を凝視する。


「あの女が出世する前には、必ずと言っていい程誰かが死んでいた。それは時に茶入れ程度の事務員の時があれば、米ソに派遣した密偵スパイからの情報を集約する事務員であったりもした。だが確実に、彼らは事故死をし、そして確実にその数日前にあの女は出勤せず、そして確実に、追跡不能な金の流れがあった。

 そして一つだけだが、去年の春に駆逐艦の艦長が強盗に襲われて殺害された事件で、関与したと思われる証拠を発見した。それに使われたと思われる資金の調達ルートもだ。

 確かにこれだけでは完全ではない。しかし、私はこの事を報告書として書き上げ、日曜日――観閲式典の時にお見えになる鮫島大佐に提出する予定だ。幸い、父上との古い友人で私も幼い頃は遊んでもらった事もあり、更には作戦参謀として、調査機構と太いパイプを持つ人物だ。この報告書が提出されれば簡易的であれ調査が行われる筈だ」


 それを言い終えた雪江先輩は再び微笑みを浮かべたが、それと同時に隣に立つ夏美先輩はひどく悲しそうな表情を浮かべた。


「前置きが長くなってしまった。そこで、前述の様に私は報告書を提出する予定だが、母上がそうであったように、私にも邪魔が入る可能性が高くなった。幸い、私はこの鉄壁の守りが敷かれた校内に身を置いているが、それを逆手にとり、内部に工作員を忍び込ませて襲撃する可能性が浮上した。先日のソ連系工作員の様にな」


 ふと、記憶がよみがえる。


 最近様々な事があって半ば忘れいていたが、確かに俺は工作員と戦った。あの謎の機兵があったからこそ生還できたが、もしもなかったら工作員たちは目標を達成してソ連へと逃げていただろう。


 確か、そのあとは警察の方に管轄が委任されたが、ソ連と直接結びつける証拠が見つからず頓挫しているとか。


「調査対象は数百名に上った。成績、性格、日ごろの言動、デモの参加経験、三親等までの経歴。それらを調べ上げた結果、五名までに絞り上げる事が出来た。その一人、そして現在最有力とみなされているのが矢倉茜。君の友人だ」


「はい?」


 状況を理解するまで時間がかかった。茜が工作員? 意味が分からない。


「ちょっと待って下さい。茜が工作員だなんて……だって、そんな茜は確かに機兵を操る能力に関しては優秀ですが、勉強はあんまり良くないですし、第一あいつが工作員なんかに……」


「君のその性格、成績の根拠はどこからだ?」


「それはだって、茜とは小学校からの友人です。小さい頃から知っています」


「しかし、それは矢倉茜が君に対して見せていた姿他ならない。訓練された工作員ならちょっとやそっとの性格偽造を行える。テストの点を故意に落とす事など造作でもない」


 雪江先輩の視線が夏美先輩に向くと、鞄から一枚の紙が手渡された。


「君にこれを見せよう」


 その紙が手渡される。


 書いてあったのは、規則性のない数字の羅列……いや、テストの点数だ。


「入学当初から昨日に至るまでの彼女の成績だ。いやはや、確かに彼女は機兵の実技に関しては極めて優秀だ。今すぐに戦場に送り出しても戦えるだけの能力はあるだろう。しかし、それ以外に関しては、入学以来特記するべき事は無かったのだが……」


「国語九五点、英語九〇点、数Ⅰ九二点、数Ⅱ……一〇〇点?」


 文系学科ならいざ知れず、軍事学部ではこのような点数を取った人は見たことがない。


「正直、軍事学部にいるのが惜しい程の秀才だ。本校のテストで、小テストであってもこれだけの点数を取れるのなら日本全体で考えると極めて優秀な部類に入る頭脳の持ち主となるだろう。そもそも、この学校に入学出来た時点で一般人からしたら並外れた頭脳の持ち主であるがね」


 愕然とした。


 ほんの一週間前、たった一週間前の茜の数学のテストをみた事がある。点数は四八点。


 本テストなら赤点の点数だが、あの点数を取る人は珍しくない。


「他にも不可解な点があった。彼女の父親、矢倉勇少尉は確かに陸軍及び陸上自衛軍に所属しており、長春防衛戦において戦死した事が確認されているものの、その父親である矢倉源蔵及び母親の矢倉トメ子、そしてその生家は戸籍上存在するが実在しない事が確認された」


「――どういう事です?」


「簡単に言えば、彼女の父は突如としてこの世界に出現したのだよ。勿論それはあり得ない事なので何等かの理由によりその社会的情報を消されたのだと思われるが、現時点において矢倉少尉の詳細な生い立ちに関する情報は存在しない。つまり、彼女の家系がそれだけ秘匿された存在なのだ」


「まさか……」


 反論しようと記憶の限りを振り絞ったが、何も出なかった。


 俺自身、茜の家について何一つ知らなかった。


 小学生の頃、親父さんには会った事がある。台所に立って調理を手伝う姿が、部屋に飾られた軍服姿の写真と正反対であった事を思い出す。


 しかし、それだけだった。祖父母に関しては会った事はおろか、話題に出てきた事すらないのでとうの昔に亡くなっていたものだと思っていた。本当に知っていたのはそれだけで、詳しい事は何一つ……


「そして、最後に彼女の卓越した戦闘能力だ。君も見たのだろう。これは存在しなかった事にしているが、矢倉茜は本日一六四〇時、公安委員会の職務中に突如として女子生徒に拳銃を突きつけた」


「違う!」


 思わず叫んだ。


「あれは……あれは茜が望んでやった事じゃない!」


 定性的な発言ではないと自覚していた。自身の主観による感情的判断であったが、抑えることができなかった。


「望んで? 確かにあれは意図して行ったものではない。そうだなフランク」


 視線がテルラさんに向く。


「肯定であります」


 無表情で答える。


 あの場面も……見られていたのか。


 彼女の言葉は続く。


「矢倉茜の動作は、要人護衛のマニュアル通りの動作でありましたが、その動作は新兵の動作ではなく、訓練を受けた兵士そのものでした。私は制止に入るつもりでしたが、不可能判断しました」


不可能?


「私には矢倉茜を殺傷せずして抑えることは不可能であり、また、矢倉茜の動作は敵を殺害するためではなく無力化、拘束を行うためのものであり、生徒の身に危険が及ぶ事が無いと判断しました」


 報告を終えたテルラさんは、一歩後に下がる。


「ありがとう。つまり、矢倉茜は機兵科の授業科目に存在しない要人護衛の技能を習得している事が確実という事だ。これが意味する事は一つ。彼女は過去に特殊訓練を受けていた事がある。彼女が口にした『清水隊長』とは、この事だろう」


「そっ……そんな、ありえませんよ! 茜が特殊訓練? おっ、俺は小学生一年生の頃から茜を知っているんです。あいつは習い事をしていた事は何度かありましたが、特殊訓練を受けていた事等一度もありません」


 これで否定しきったつもりだった。しかし……


「彼女は中学時代、部活に所属していなかったそうだが、それについては何か聞いているかね?」


 雪江先輩は、全てを調べ上げていた。


「それは――病気で母親が倒れたから、その看病にと。祖父母がいなければ父親もいませんから」


「では君はその病床の母親を見た事があるのかね?」


「ありません……」


「矢倉茜の母親、矢倉美和子は現在も存命であり、医療データからは持病はあるものの、過去に大病を患った形跡がない。症状は軽いが長引くといった病気にかかっていた可能性も否定はできないが、同時に矢倉茜が嘘をついていたという可能性も否定できない」


「……」


 何も言えなかった。反論する根拠が見当たらなかった。


 雪江先輩の言っている事は状況のみで推察した証拠の無いものだが、根拠はある。


 それは俺も同じで、証拠はなかった。


「結論へと移ろう。矢倉茜は何等かの機関。恐らくはF機関の工作員であり、近日襲撃を行う可能性が高い。可能な限りこちらの方で事態を収拾させる予定だが、藤本君。君には、矢倉茜が本当に工作員であった時、彼女を制止させてほしい。幼馴染である君からの言葉なら、彼女もとどまるかもしれん」


「――茜は工作員なんかじゃありません。その必要はありません……失礼しました」


 雪江先輩に背を向けた俺は、静かに部屋を出た。

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