2.7 変動
四月二六日 一七三五時 第四教育棟一般治療室
茜の横たわるベッドは、夕日で赤く染め上げられていた。
大気中の塵によるレイリー散乱により、可視光の中では波長の長い赤色のみとなった太陽光が茜の頬を照らす。
茜の容体は懸念すべきほど悪い訳ではない。
救護の先生曰く、ただの貧血等による気絶だと。
本当に、それだけか?
先生には、俺や波音さんと話している時に突然倒れたとしか言っていない。
波音さんもそれで良いと快諾してくれたし、何より事を大事にしたくない。(公安委員会の職務中に何もしていない生徒に銃を突きつけたのだから、発覚したらただでは済まない)
なので先生も貧血程度にしか思わなかったのだろうが……いや、確かにそれ以外に要因は無いのだろうが、やはりあの言動はきになる。
今でも耳に残る茜の声。
あの声は、訓練の時に発声するただ馬鹿でかい声とは違った。
実際に聞いた事はないので比較はできないが……兵士が戦場で放つ声に似ている。
勿論、茜は戦場に出た事は無い。親父さんから戦場話を聞かされた可能性は十分にあるが、それだけであのような声が出るわけがない。
それに、気がかりな台詞もいくつかある。
清水体調とは誰だ?
隊長以下五名の死亡とはどういう意味だ?
分らない。
少なくとも、軍事学部には清水と呼ばれる教員はいないし、一年の頃に茜が所属していた分隊の隊長も清水という名前ではない。
もっと明確な事は、機兵科に要人護衛の科目は存在しない事だ。
では茜のあの発言は何だったんだ?
『二重人格』
一瞬、脳裏にその言葉がよぎったが、すぐさま消える。
あれは二重人格ではない。たしかに、あの茜の言動は普段の茜ではなかったが、同時に茜とかけ離れたものでもなかった。
強いて言うなら、茜の性格を内包した集合体であるような気もする。
茜を内包する集合体において、茜を含む複数の要素を抽出した標本であると仮定すれば……
「何考えているんだ俺……」
苦笑する。
だめだ、工学から逸れると何を考えていいのかわからない。
頭を抱える。
答えの無い問題ならいくつも解いてきた。研究や製作の世界ではそれが常だ。
「純……太郎?」
しかし、それらは全てパラメータとして、誰しもが同様に理解できる絶対的な物として表す事が出来た。
いわゆる定量的評価というやつだ。
科学と言う物は、そのように再現性を持たせる事と定量性を持たせる事と言っても過言でない。
「純太郎? 聞こえている?」
回転磁界中における導体の挙動や、化学エネルギー弾頭のメタルジェットによる装甲の溶融過程。量子加速器中における電子の質量増加すら、的確に表し理解する事が出来る。
しかし、ひとたび数値や数式の消えた、感情や勘といった非科学的、非論理的、抽象的、定性的要素が入ると、読み取れなくなる。
「おーいっ。もしもし?」
それはまるで、0と1のみの信号しか受け取らないデジタル回路に、無限段階に分けられたアナログ信号を入力するようなものであった。
当然、デジタル回路でもアナログ信号を受ける事は出来る。しかしそれには離散化を行わらなくてはならず……
「純太郎!」
「おうっ!」
突然の大声に体がのけぞった。
「茜……起きたのか」
「さっきから起きていたわよ」
そう返事をする茜の瞳は、普段の活発さのある瞳にもどっていた。
「そうか、すまない。それより、茜は大丈夫なのか? その、さっきの件」
「うん……大丈夫」
一瞬、表情が曇った。
何か嫌な事を思い出したような表情だ。
「そうか、なら良いんだが。とりあえず今日の委員会業務は……」
「そうよっ!」
背筋がピンと伸びる。
「純太郎、今何時?」
「一七四〇だけど……」
「あちゃぁ……どうしよう。大遅刻だわ」
「遅刻って――まさか、行く気なのか?」
「まさかって何よ? 任務を放棄してだらだらと寝ているつもり?」
勢いよくベッドから降りると、傍らに置かれていた腕章とホルスターを手に取る。
「いや、今日は休めよ。外傷はないとはいえさっき倒れたばっかりなのに……」
「今日は観閲式典前最後の委員長級会議よ。変な過激派が来るかもしれないし」
「でも、もう委員会には俺の方から休むって……」
「土壇場でキャンセルするのは失礼だけど、キャンセルをキャンセルするのは問題ないわ。それに、護衛は多いいに越した事がないし。何事も任務が第一よ」
《任務も重要だけど体も大切にしましょう》
茜の台詞の直後に、一週間前の言葉が自動再生される。
拳銃をホルスターにしまった茜は、やや急ぎ足で病室を後にした。
「……」
何かが変化した。
ノイズによる計測誤差ではない。
インピーダンス整合の取れていない分布常数回路における反射波による歪でもない。
しかし、完全に変わったわけでもない。
あの瞳は確かに茜のものだった。
非論理的な事ではあるが、俺は未だ茜が残っていると感じた。
何が残っている物なのか、そして何が代替された物なのか?
それに関して仮定は愚か、概念としても定義する事ができない。
しかし、茜の中に茜が残っている。この、概念だけは明確に定義する事が出来た。
「あなたも、気付いたたのね」
病室に透き通った声が伝播した。
振り向くと、入り口に一人の女子学生が立っていた。
最初に目に留まったのは、極めて摩擦係数の低そうな、さらさらとした長い銀髪。そして、俺を見つめる青い瞳だった。
瞳はチェレンコフ放射光の様な美しい青さであるのに対し、頬は白い。
いや、それどころか制服の袖から延びる手、襟に彩られた首筋。スカートとニーソックスの間の太もも、それら全てが白かった。恐らく、メラニン色素が少ない体質なのだろう。
「初めまして。テルラ・フランクです」
クリスタルの様に透明な声で自己紹介を行う。
顔立ちからもある程度予想はついていたが、やはり外人であったか。
この学校には日本国籍所持者以外は入学する事が出来ない。理由としては多々あるが、その根幹にある根拠は国益の保護の為だ。国会議員や官僚の三割が本校出身者といわれているのだから当然と言えば当然の事であるが、それでも入学を許可されているという事は、思い浮かぶ制度は一つ、『特ユ移民入学制度』だ。
特ユ移民自体は大戦中に日本で制定された移民制度で、本来は大戦中、迫害されていた特定の民族の科学者を限定としていたが、改正により『我が国を唯一の祖国とし、我が国に対し多大な貢献を行う者及びその第二親等者まで』に日本国籍の取得権利が得られており、近年ソ連系科学者を中心に適用が進んでいる――というのが、教科書に書いてあった事だ。
それにしてもこの青い瞳、どこかで見た事がある……そうか、思い出した。
「君……一週間前の野外訓練の時もいたよね?」
「うん。でも、それだけ」
「それだけ?」
俺の返答を聞くなり、彼女の白い頬に笑みが零れる。
「私は、あなた達の護衛。それだけ」
そういえば、俺たちに護衛がつくという話は当初から聞いていた。一度も姿を見る事は無かったが、本当についていたのか。
「護衛……でも、それだったら何故事件前の訓練にも君はいたんだ?」
「それは言えない。でも、矢倉茜は前から監視の対象だった。でも、もうその必要がなくなった。それだけ。」
「どういう事だ?」
「これから説明する。ついてきて」
くるりと身を翻すと、テルラさんは部屋を出て行った。
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