『なぜ私達は獣のように見做されるのか。なぜあなた方には穢れてみえるのか。怒りに任せて己を引き裂く者よ』


(ヨブ記 18章 2節)



5


「よぉ、依頼は無事に果たしたようだな。…本当にお疲れさん」


警視庁捜査一課の刑事、花屋敷優介はそう言って友人を出迎えた。綺麗で優しげな名前とは似ても似つかない、雲を突くような無骨な大男である。


彼とは対象的に整った顔立ちをした黒服の探偵は、そんな友人には一瞥をくれただけで、歩みも止めずに悠然と歩き出した。


花屋敷は彼の態度にやや憮然とした表情をしながらも、彼の横に黙って並んで歩いた。


帝都大学病院からほど近い並木道通り…。


木漏れ日の合間から燦々と降り注ぐ午後の陽光が眩しい。今日も東京はうだるような灼熱の暑さだったが、木々の合間を通り抜ける夏の風は穏やかだった。


花屋敷がまずはぽつりと呟いた。


「佐伯先生…落ち込んでいたな。真相がこれじゃ無理もないが…」


「ああ…」


探偵は相変わらずの、ぶっきらぼうな口調でそれだけを言った。


「これでいいのかよ? 本当の事を言わないままで…」


「…何の事だ?」


「しらばっくれるなよ。

阿部佳恵が犯した罪は、殺人だけじゃないかもしれないと俺に電話で言ったのは、お前だろうが?」


「そうだったかな…」


探偵はあくまで、そう言ってとぼけた。


ベビーカーを押した若い母親や並んで歩く老夫婦とすれ違い、自然と暫くの間、花屋敷は黙った。


出火場所が特定できたんだよ、と花屋敷は今度は語気を強めた。


「やはりお前の睨んだ通りだったよ。出火した場所は阿部沙夜子のいた、9階の913号室に間違いない。夫婦が宿泊していたと思われる、同じ階のダブルベッドのある902号室は、ちょうど反対側の別の部屋だった。

彼女は始めから最悪の場合は、娘に放火と殺人の罪を着せるつもりだったようだな。

密室となった部屋から両親がいなくなったと主張する為に娘に変装し、イギリス人の従業員の持ったマスターキーで部屋を開けさせ、母親と父親が部屋のどこにもいない事を主張する。

鍵はもちろんこの時、娘に変装した佳恵が隠し持っていた。部屋の中で懐から取り出して発見してみせて、さも中から両親が鍵を掛けたように見せかけたんだ。密室からの消失をより印象づけた訳だ。

この事件の最大のポイントはここだな。実際にはバスルームで死体を解体し、トイレに流した後に密室に見せかけたのは、実は娘の部屋だったという事だ。

ホテルの従業員に変装や事件の存在を疑われる前に、火災という最悪なハプニングを発生させ、殺害現場とその周辺をカオス状態にさせてしまった。木の葉を隠すなら森ごと燃やしてしまえって訳だ。

お前…よく記憶障害者の語ったあれだけの情報で、そこまで見抜けたな?」


花屋敷は感心したように、無表情に淡々と歩道を歩くぶっきらぼうな友人の顔色を伺った。


銀座ホテル火災事件の行方不明者について、彼には佐伯教授より少し前に電話で相談していた事ではあったのだが、まさか久しぶりに会って早々に殺人事件の存在と、その犯人の目星までつけていた事に花屋敷は驚かされていた。


花屋敷も彼女の事は佐伯教授にそれとなく聞いてはいたが、真相など何もわからなかったに等しい。


花屋敷はここ2、3日の間は彼が電話口で語った推理を裏付けるべく、同僚と共に証拠固めに奔走し、つい先ほど証拠となる物証の存在を、所轄の銀座中央暑の鑑識課に提示してきたのだった。


彼の予測は悉く当たっていたから、確認作業にあたっては、さした時間もかからなかった。この男は返す返すも抜け目がない。


もっとも、彼は肝心な部分は恩師には話さなかったようだが…。


「…なぁ、あの火災が意図的で故意のものだと、なぜすぐにわかった?」


探偵は微かに溜め息をついてから答えた。


「最上階に泊まっていたという彼女の話が嘘だというのはすぐに気付いた。

帝銀ホテルは上の階の大部分は焼けずに残った火災。なのに彼女はあの通り全身火傷を負っている。

彼女の独白によれば、彼女は係員の制止も聞かずにペガサス模様のエレベーターのゴンドラに乗り、上階に上がったという。その後に爆発が起こって気を失った、と。これは常識的に考えてあり得ないだろ? そもそも火災の時にはエレベーターは自動で停止するものだ。

荷物の搬入用に従業員が使う業務用のエレベーターなら動いているかもしれないが、これとて初期消化の為に自衛消防隊の到達を速やかにする為には一次消防運転という専用運転に切り替える必要があるんだ。この矛盾は火災現場に近い場所に最初からいて、火災にいち早く気づける立場にいなければ起こりえない」


「彼女がペントハウスのような最上階に上がれたはずがないわな。両親を探す為というもっともらしい嘘の為に、決定的な嘘をついてしまった訳か。これは放火した犯人が彼女に他ならないからで、現場から少しでも遠ざかりたいって心理がそんな辻褄の合わない嘘になったのかもしれんな」


花屋敷は頷いた。


「それに、今回と発生の仕方が非常に似ている過去の事件を知っていたのさ。

1982年の2月8日…ホテル・ニュージャパン火災事件さ。時期こそ違え、火災の規模や死傷者の数、ホテルの内装や火災設備の位置、消化の規模や火災の起こった時間などから推察すれば、彼女の話はあまりにもタイミングがよすぎる。

まるで最初から後ろ暗い秘密があったとしか思えなかったのさ。

…お前の方こそ、めずらしくきっちりと仕事してきたようだな」


こうした彼の皮肉混じりの口調には平素から慣れている花屋敷は、ふんと鼻息を漏らした。


「火災の時に消火にあたった消防士にも聞いてきたからな。

なんでもああしたホテルなどの高層建築の内部で火災が起こった時に出火場所を特定するには、被害が最も大きい箇所から延焼した部分はもちろん、火災で起こる爆発現象であるバックドラフトが最も顕著に現れている箇所が疑われるらしいな。

バックドラフトは室内など密閉された空間で火災が生じ、不完全燃焼によって火の勢いが一旦衰え、一酸化炭素という可燃性のガスが溜まって、ある時期を超えた時に空間に溜まったガス自体が、吹き込んだ酸素によって一気に爆発する現象だな。

火災による熱で可燃物が熱分解し、引火性のガスが発生して室内に充満した場合や、天井の内装などに使われている可燃性素材が輻射熱などによって一気に燃え広がるフラッシュオーバーと呼ばれる現象とも合わさった、最悪な火災だったと消防士は言っていたよ。

…ほとんどお前が言った通りに消防士が語ったもんだから、そっちの方が薄気味悪かったくらいだ。

阿部沙夜子のいた部屋が火元だが、部屋には発火装置の類はなく、ガソリンをベッドやカーテン、絨毯の撒かれた部屋のあちこちに染み渡らせた上で、自分達の部屋に置いてあったマッチをトイレットペーパーか何かを時限式の導火線代わりに使い、部屋の外…つまり廊下側のドアの隙間から火をつけたというのが真相だったようだ。

消防士の話じゃ、夏場の暑い時期に、エアコンも切った密閉された部屋で揮発したガソリンが燃え広がる時間は正に一瞬…。あっという間だそうだぜ。

彼女にとって誤算だったのは火災の規模があまりにも大きく、火の回りがあまりにも早過ぎた事だ。

バックドラフトによる爆発のせいで部屋のあった階は当然、無茶苦茶になっていたが、娘のいた部屋からはブレード型のナイフの破片らしき金属片も新たに発見されている。

阿部佳恵の指紋が出るかどうかは微妙だが、柄の部分は残っていたから入手ルートを探るのは、そう難しくはなさそうだ。

死体を解体したバスルーム…そして死体を処理したトイレの陶器の破片共々、鑑識に詳しく調べてもらっているが、ルミノール反応が出次第、直ちに彼女には逮捕状が請求されるだろうな」


「そうか…」


探偵はそう呟くと、そばにあった街灯に寄りかかって黒いスーツの懐から白いタバコの箱と愛用のジッポーライターを取り出した。


「まだ俺の質問に答えてもらってないぜ。

…なぜ先生にまで嘘をつく必要があったんだ?

来栖要ほどの男が、15人も死に追いやった肉親殺しの放火犯にまさか同情した訳じゃないだろう?

あのまま放っておいた方がよかったと、後悔でもしてるのか?」


逆だよ、と探偵はタバコを口にくわえた。


「何もかも忘れてしまったとはいえ、大量殺人犯の人生に引導をくれてやった事は、少しも後悔しちゃいないさ。

こう言っちゃなんだが、無関係な人間まで殺めた彼女は、これから生き続けていく限り、苦しむべき存在なんだと思う。

せめて被害者のやるせない思いと帳尻を合わせる為には俺でなく、お前ら警察組織が彼女に直接引導を渡した方がいいんだ。

ただな…明日、必ず訪れる破滅を心のどこかで今か今かと待ち続ける苦痛や恐怖は実際、死ぬより辛い地獄だろうと思っただけさ。

ただじゃ生きられないのと同様、ただじゃ死ねないのも世の理だ。

罪の意識からの自殺であれ社会的な制裁による死刑であれ、死という選択肢は最も確実で最も楽で、そして最も安易な道でもあるんだ…。

彼女は最初から炎の中で死ぬつもりだったのかもしれない。大量放火の殺人犯人で肉親を殺めた殺人者って現実から解放される為にな。自暴自棄が生んだ嘘の真相は要するに死にたかったから逃げなかったんだろう…」


友人の深い見識と思慮に改めて感服しつつも、花屋敷は溜め息をついた。


「ところが彼女は死ねなかった。死ねなかっただけじゃなくよりによって記憶まで失して娘に生まれ変わっていたとはな…。

彼女自身があの不可解なメッセージを残していなかったら…。そして、お前がいなかったらと思うと正直ぞっとする…」


探偵はやんわりと首を振った。


「いや…遅かれ早かれ、彼女は記憶を取り戻していたはずだ。

整形手術に自家移植…。スキンバンクから提供された皮膚だって、そう長持ちはしない。顔の形状がいくら生まれ変わっても、彼女は実際は30代…肉体そのものに刻まれた年齢までは消せないさ。

顔の包帯が取れ、自分の顔や体を鏡で見れば、そのうち嫌でも彼女は気付いた。湖塗された偽りの自分も必ず蘇る…。

先生はもちろん、病院側だってこの違和感にはとっくに気付いていただろうさ。医療は常に現実の現場と戦う仕事だからな。

死にたいという彼女本来の人格が内部告発したからこそ、記憶を失しても罪の意識は消えなかった。

動機もなしに、身勝手な理由で人を殺す奴もいる。罪の意識があっただけ彼女はマシ…。そこだけが唯一の救いさ…」


暗澹とした口調で探偵は呟いた。


花屋敷は頷いた。


「犯罪を犯す瞬間、人は人じゃなくなる。常々そんな気がするな。

後悔や悲痛…被害者へ申し訳ないと思う気持ち…。そうした人間らしい感情は大概、心に湧いた、自分じゃどうにもならない破滅的な感情が去ってから訪れるんだからな…。そういや、通り魔ってのは通りモノっていう化け物が語源らしいな」


花屋敷の言葉に探偵は再び溜め息をついた。


「今さらだな。人こそが神だよ。鬼でもあり、悪魔でもあり死神でもある。人類史上最高のトリックってのは、人間に神様の存在を信じさせた事らしいぜ」


探偵は冒涜的な事をさらりと言ってのけた。


「刑事なんかやってると嫌でもぶちあたるらしいな。心神喪失者による犯罪か。何度聞いても厭な響きだ」


花屋敷は大きく溜め息をついた。探偵も頷いた。


「ああ…。人のやり場のない怒りや孤独な悲しみが無作為に、時には無差別に誰かを巻き込むことがある。いきなり事件の被害者として呆気なく死ぬなんて、この世で最も不幸な災厄かもしれない」


探偵は他人事のようにそう言ってタバコを踏み消した。


探偵は眩しそうに夏の大空を見上げた。


「現代人が抱える心の闇ってのは俺達が想像している以上に底なしの暗闇なのかもしれないな…。

目に見えず冷たく乾いていて、耳には聞こえない叫びがあちこちでこだましてるそんな世界さ…。

願わくば人の作りし法や裁きの庭には、せめて人間らしい血が通っていてほしいと願うばかりだ…」


「お前のような探偵ってのも因果な商売だな。他人の悪意を食う為に生きてるようなものだな」


「ふん…。殺人事件の度に顔を合わせる刑事なんかには言われたくないぜ。とっとと桜田門に帰って次の死体の相手でもしてきたらどうだ?」


「言われなくてもそうするさ。

…新宿のモグラも今回はめずらしくお疲れみたいじゃないか」


「死んだ人間を生き返らせる手助けなんて、もうたくさんだよ。

…地中のモグラに夏の暑さは堪える。そろそろ涼しい塒に帰らせてもらうとするぜ」


「ああ、あの占い師さんにもよろしくな。

ま、お疲れさん。色々とあったが助かったぜ。あとは例によって俺達に任せて、お前はゆっくり休んでくれ」


「ふん…。殊勝な事を言ってるようだが、いずれ訳のわからん事件が舞い込んだ時には、お前はまた俺に泣きついてくるんだろうが。今回は佐伯先生に免じて勘弁してやるが、ただ働きは金輪際ごめんだからな」


ひとしきり軽口の応酬を続けた所で、二人の友人達は顔を見合わせてニヤリと微笑んだ。


並木道の通りが終わり、二人の前には雑踏にひしめく交差点が徐々に見え始めてきていた。


「じゃあな…あばよ」


そう言って来栖要は涼しげにもう一度微笑むと、バサリと黒いスーツを翻し、花屋敷に背を向けた。


ちょうど信号が青に変わった。交差点には再び流れる人の波。絶える事なく雑踏を行き交う人混み。


花屋敷はふと抜けるような青い空を見上げた。都会の灰色の景色は今日もひどく蒸し暑い。


ギラギラとビルの合間から照りつける太陽と、生温く湿った都会の風に、花屋敷は再び大きく溜め息をついた。


後ろの街路樹を吹き抜ける風が、ほんの一瞬だけ涼しげな風を運んでくる。


陽炎のような熱気がアスファルトからユラユラと立ち昇る、白昼夢のごとく霞む午後の街並み…。

花屋敷が目を戻した時、雑踏に紛れた黒い影は、いつの間にか見えなくなっていた。


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