『ああ、物分かりの悪いガラテヤ人よ。十字架に架けられたイエス・キリストが、あなた方の前に描き出されたのに、一体誰があなた方を惑わせたのか』


(ガラテヤ人への手紙 3章 1節)



4


「先生、この謎の数字は、普通に読んだだけでは解けないんです。

この数字…同じ数字が二回繰り返されていますね? この『0310』の部分ですよ。実はこれが最大級のヒントでした。

この部分の意味が分かった時に、俺はパズルの難解な部分が外れ、全ての違和感が理路整然と繋がるのを感じましたよ。

まるでマジックミラーのガラスが砕け、虚像の向こう側に真実の景色が現れたようにね…」


「いい加減、もったいぶらずに私にもその真実の景色とやらを教えてくれないかね? それとも探偵というのは結論を急ぐ者をそうやって眺めては嘲笑うような人種の事を言うのかね? 私の嫌いな推理小説にはよく、そんな探偵が出てくるようだしな」


「相手の反応や出方を見て相手に合わせて有効な情報を開示するやり方もあるという事です。

生憎と俺は世話になった佐伯先生の反応を見て嘲笑うなんて大それた事はしませんから、このまま黙って聞いてもらう事にしましょう…」


赤い眼光も鋭く、探偵はそう言って私を牽制した。


やんわりとした口調ではあったが、この射るような視線は、ある意味で脅迫よりも効果的かもしれない。


整った顔立ちの有無をいわせぬ迫力に私は即座に黙ってしまった。蛇に睨まれた蛙とはこの事であろう。

探偵は続けた。


「先ほども言いましたが、この数字は普通に読んだだけでは解けないんです。

…逆にするんです」


「逆…? これを逆から読めというのかね?

『101305430130』

…数字の羅列という点では何ら変わっていないように思えるが?」


「その逆ではありません。確かに並びはそうなりますが、この場合は文字通り、逆さまにしてしまえという事なんです」


黒服の探偵は手近にあったカルテの裏側の白紙にポールペンで大きく数字を書くと、私に示してみせた。

ただし今度の数字は2つに分けられていた。


『0310345』

『03101』


「すまないが、君の意図している事が私にはさっぱり伝わらんよ」


「これでもまだ分かりませんか?それではこうしてみてはどうでしょうか?」


探偵は今度は数字の書き方を変えた。電卓や電子辞書などに表示される、切れ目がついて丸みがなく角ばった、いわゆるデジタル数字であった。


「これを文字通りひっくり返して読んでみましょう。面白いモノが見られると思いますよ」


ニヤリと笑うと探偵は、クルリとデジタル数字の書かれたカルテを逆さまにした。


「…あっ!」


私は思わずそう叫んでしまった。

そこにはあまりに意外過ぎる答えが待ち受けていたのだ。


「そうなんです。

これはデジタル数字に置き換えて、ひっくり返して読むのが正解なんです。

浮かび上がってくる文字は英語。小文字のhを含むアルファベットの並びです。つまり…」


『0310 345』

『DEID EhS』


『ShE  DIED』

【彼女は】 【死んだ】


「…そして、その後の数字はこうなります。これが最初の部分になる訳です」


『0310 1』

『DEID I』


『I    DIED』

【私は】【死んだ】


「…先生ならもうお分かりになったでしょう?

彼女はこの謎のメールを何人にも見せ、同じ話を執拗に何度も繰り返す患者だそうではないですか?

『私は死んだ』

『彼女は死んだ』

とね…。

つまりこれは彼女の罪の告白文なんです。

携帯のメールの送信記録や受信履歴を調べてみれば、あるいは分かるかもしれませんが、彼女は自分宛てにこうして何度も普通の読み方では意味不明のメールを送り、その内容を誰かに見せる事で、自らの心の均衡を保とうとしているんですよ。自分でも無意識に…」


ザワリと私の世界が揺らいだ。


「な、なぜだ!? なぜ彼女がそんな事を!?

彼女は一体、何を…。

い、いや…ま、待て!

それ以前に…か、彼女は…では…」


声がうわずった。もどかしい! 私を置き去りにして世界が目まぐるしく回っているような、そんな妄想さえ抱いた。


目の前の探偵はあくまで冷淡に続けた。


「…俺が最初に先生に面白いと言ったのは、彼女の、この世にもめずらしい症例の事だったんです。

この数字…デジタル数字に置き換えないと読めませんよね?

携帯電話が普及した今でこそ、携帯電話のメールやパソコンなどのeメールで絵文字やアスキーアートを使ってメールを送る人はいるし、我々の普段使っている数字はアラビア数字が当たり前になっていますが、ほんの一昔前までは、こうしたデジタル数字が携帯電話同様に生活に密着していた時期というのが実はあったんです」


彼が何を言わんとしてるのか、私には皆目、見当もつかなかった。


「言うまでもなく、それはポケベル…ポケットベルの事ですよ」


探偵は逆さまに書かれたデジタル数字をトントンと指で示した。


「これは一昔前に流行したベル文字と呼ばれるものなんです。

日本人の大多数がメールを送ってメッセージをやり取りするという習慣がまだなかった当時、高校生ぐらいの若者達を中心に広まった若者文化の一つです。

当時のポケベルはほとんどが呼び出し専用。

液晶の表示に発信者の電話番号やポケベルの端末番号が表示されるタイプで、呼び出す側も数字しか送れなかった、そうした時代だったんです。

そこで考え出されたのがベル文字…つまり数字の読み方だけで意味が通じるようなメッセージを互いに送りあった訳です。

これはその亜流。

ベル文字を逆さまにして読ませる一種の暗号なんですよ。

…ベル文字には例えばこんなのがあります。

『4285』なら『し・ぶ・や・ご』

…『渋谷で5時』。

『88951』なら『は・や・く・こ・い』

…『早く来い』

『10194』なら…『い・ま・い・く・よ』

…『いま行くよ』

といった具合にね。

…さて、一般市場ではもう出回っていないポケベルの、今や馴染みの薄いこの数字のカラクリを、どうして今時の高校生で、あの通り携帯電話も持っている彼女が使っているのでしょうか?」


放心している私をよそに、探偵は続けた。


「ポケベルが最も流行したのは1990年代の初頭から1995年にかけてなんです。1997年にショートメールサービス機能が内蔵した携帯電話や電子メールが登場すると契約者は徐々に減り始めました。

当時売り出し中の芸能人をテレビCMに起用して梃入れするなど、話題にはなりましたが需要は激減し、1999年10月末には、加入者は約280万件まで落ち込んだといいます。

この頃から自動販売機やタクシー、バスなどの車内に端末を設置し、配信されたニュース速報や緊急防災情報、広告等を電光表示板として使用するという、今でこそ当たり前な使われ方に転用されるようになりました。

そのため、NTTドコモでは2001年1月に、それまでの、『ポケットベル』という名称を『クイックキャスト』という呼称に変更します。

しかし携帯電話や新しいモバイルツールの進化により、国内単位では唯一ポケベル事業を手がけるNTTドコモも、2004年6月30日で新規契約者の受付は終了し、2006年10月に解約金を無料にし、そして2007年3月31日…つまり一昨年をもって完全にサービスを終了したのです。

まぁ、そこはそれです。

流行の最先端に敏感なのは、いつだって女子高生を中心とする若い世代です。

その当時、ベル文字の使い方を知り得た女子高生でなければ、応用編ともいえる、この亜流のベル文字を使いこなすのはまず難しいと言っていいでしょう…」


「ま、まさか…」


「…そう。そのまさかです。

ここまでくれば、もうお分かりでしょう。

…彼女は阿部沙夜子ではないんです。

あの阿部沙夜子と名乗る包帯だらけの入院患者の本当の名前は、阿部佳恵といいます…。

包帯だらけで声も火事の時の影響で、すっかり変わってしまっていますが、本当は阿部沙夜子の母親の方なんです」


「な、なんだって…」


思わぬ死角から、いきなり頭を殴りつけられたような感覚だった。


「…なんて事だ…。俄かには信じられん…」


驚愕する私に向け、探偵はやんわりと言った。


「驚かれるのも無理はありませんね…。俺だって最初は信じられませんでしたよ。しかし、全ての違和感が導く解答は、これ以外にありえません。

あらゆる可能性を排除していって最後に残った受け入れ難い真実…これが唯一無二の俺の出した解答なんですよ、先生…」


私は今や暗澹とした負の領域と化した場に、ひたすら無表情になっていた。


底知れぬ深い闇の真相を見抜く黒服の探偵は、その赤い瞳に怪しくも強い光を湛えて言った。


「しかし、これはただの前提であって驚くのはまだまだ早いんですよ、先生。

彼女は娘の阿部沙夜子ではなく母親の阿部佳恵…。このとんでもない解答が導く不可解な闇は、ほんの入口でしかないんです。

先ほども言いましたが、この事実に気づけば現実の事態はより切羽詰まった、のっぴきならない状態である事が判るんです」


探偵は射竦めるようなその鋭い視線を、私へ向けた。


「ここからは推理もそうですが、俺の想像もある程度、含まれると思うのでどうか先生、そのつもりで聞いて下さい…」


探偵は静かに席を立ち、悠然と部屋の中を巡り出した。


「彼女が阿部沙夜子ではなく母親の阿部佳恵だとすれば、全ての違和感が綺麗に片付くんです。まず一つめ…。俺が感じた違和感の第一はあの一泊二日の家族旅行そのものについて、彼女が語っていた部分です」


コツコツと、リノリウムの床を歩く探偵の足音だけが響き渡る。


「彼女の話では部屋は二つに分けて予約してあったそうですね?

片方は娘用にシングルルームを。再婚したばかりの夫婦の部屋はダブルベッドの部屋を。どちらも帝銀ホテルのロイヤルスイートルームです。

俺は彼女の話を聞いていて、どうにも不可解だったのは、彼女は自分に充てられた部屋が最高の待遇であるにも関わらず、それを不満に思っていた事なんです。

全国でも指折りの高級で有名な帝銀ホテルのロイヤルスイートルームなんですよ?

それを中学を卒業したばかりの一介の高校生が、果たして不満に思えてしまうものなのでしょうか?」


探偵は続けた。


「彼女は両親が離婚するまではこう言っては何ですが、それまでホテルに泊まった経験すら少ない家庭…いわゆる中流の家庭で生まれ育っている。

離婚した父親は板金工場で働く技士…こう言ってはなんですが、暮らし向きはお世辞にもよかったとは思えない。

それに彼女の本当の父親は酒癖も悪く、酔うと事あるごとに自分や母親に暴力を振るう、最低な父親だったとも言っていましたね?

父親のせいで母親と自分の人生は滅茶苦茶にされたも同然なんです、とも語っていました」


「それのどこがおかしいというのだ? ちょっとした齟齬だし、ホテルがいかに高級であろうと、要は気持ちの持ちようというだけの問題だろう。

君自身の想像も含まれると先ほど君は言ったばかりだが、彼女の人格を悪戯に傷つけるような言動はよしてもらおうか」


探偵は私の出方を既に予期していたのか、静かに首を振った。


「違和感はもちろん、これだけではありません。話を聞いていて、佐伯先生は不思議に思いませんでしたか?

一見、あの話は高校生である沙夜子の視点による独白のように思えます。

しかし、実は彼女の話した内容のほとんどは娘の側と同様、母親の視点から見た独白という形にも置き替える事が可能なんですよ。

…当然ですよね? 娘ではなく、彼女は実は母親の方なんですから。

そこで先ほどの疑問点に立ち返ります。

彼女が高級ホテルに泊まる事が本当は嫌だった、という違和感とこの事実を考え合わせると、ある可能性が浮上してくるんですよ…」


彼の鋭い眼光は私には見抜けない、この世ならざる彼女の世界を正確に捉えているようだった。


今や彼の語る言葉はことごとく私が彼女に思い描いていた人物像を破壊し、彼女の闇を次々と解体する為に存在しているといってもよかった。


これが『新宿の解体屋』と呼ばれる、この男の手口なのだろう。


不吉な言葉を告げる男は案の定、とんでもない事を言い出した。


「彼女はおそらく、あのホテルの部屋で見てしまったのではないでしょうか? 年の離れた再婚相手である自分の夫と、高校生になったばかりの自分の娘の淫らな行いを…」


「な…!」


『鼻にかかった厭らしい吐息を女は漏らした』


呆気にとられている私を尻目に探偵は続けた。


「そう考えると、先ほどの疑問に辻褄が合うんです。

大好きな父親と楽しみにしていた旅行が、本当は嫌だったという矛盾も、全国でも指折りの高級ホテルが忌まわしい場所だと感じてしまった理由も、旅行自体は楽しみだったが何かが起こりそうでとても不安だった、と語っていた理由も…」


「ま、まさか…。…い、いや!

そんな馬鹿な事があるものか!

か、彼女は…い、いや阿部沙夜子はまだ16才なんだぞ!

最近の中高生がいくら大人びているとはいえ、たとえ血は繋がっていなくとも親子で…そ、そんな、ふ、不倫だなどと…そんな馬鹿な事があって堪るか!

君の想像だとしてもあまりにもひどい!」


必死な思いで私は彼の言葉を否定した。しかし、探偵はそんな私の反応など、とっくに想定内の出来事だったようで、表情一つ変えはしなかった。


彼のそんな不吉な、ある意味で余裕すら感じさせる態度に私はひどく不安になった。

思うに、彼は既に最強のラストカード…この事件の決定的な切り札になるようなロジックを隠し持っているのだろう。


「まぁ、道徳や社会的な常識に照らせば、かなり頂けない内容ですし、認めたくないというのなら、それはそれで構いません。

確かに娘と父親に肉体関係があったという直接的な証拠は何もありません。この事実は言ってみれば前振りですよ…」


憎らしいほどの余裕に満ちた態度で、探偵は椅子に座り直した。


「それでは先生、この開かれた扉に従って、次の謎解きへと参りましょう。

では、火災前のホテルで本当はあの時、何が行われていたのか…?

…実はこれも彼女の独白によって、既に明らかになっているんですよ」


探偵は何かを思い出すようにして、こめかみの辺りに人差し指を押し当てた。


「彼女は事件の時にはホテルの部屋にいたくなかったと語っていました。

理由は『新しい父親とホテルで顔を合わせるのは何となく気恥ずかしく、それに夫婦水入らずを邪魔したくなかった』

…と言っていましたね。近くに東急ハンズやドン・キホーテがあって買い物にでも行ってこようか、とも話している。

家族旅行でホテルに来てお祝い旅行の最中に娘が一人でショッピングに行くというのも考えてみればおかしな話ですが、夫婦水入らずを邪魔したくなかったという表現は明らかに少し変なんです」


「な、なぜかね? ちっともおかしな風には聞こえないぞ! 新しい両親を気づかう優しい娘ならではの言葉ではないのかね?」


「いいえ、忘れてもらっては困ります。彼女にとって新しい父親は『理想のお父さん』であると同時に『誰にも渡したくないタイプの男性』だったんですよ?

この言葉の真の意味…。

今ならわかるはずですよ。俺には幾分、悪魔的な響きに聞こえます…」


「そ、それは…」


私は今や絶句してばかりの木偶の棒だ。


「不可解な点は、まだまだあります。それは彼女のこうした独白にも現れている。

『夜の闇が怖いんです…。黒い色は嫌いです。怖いから…』。

『黒い炎が背中に迫ってきて怖かった…』。

『ホテルはシックな白と黒い外装がオシャレな洋風の建物でした…』。

『遠くには、東京タワーの黒い影が上空を貫くように聳え立っていました』。

『スイートルームの並んだ最上階は廊下も豪華で、黒い高級なペルシャ絨毯のカーペットが敷かれ、銀色の甲冑まで置いてある豪華で綺麗な、中世のお城のような場所でした』

『あの火事に遭ってから、自分がどす黒い塊になって黒い血を吹き出して、バラバラにドロドロとした暗い穴に吸い込まれていく悪夢ばかり見るんです…』

…さて、いかがですか?

黒、黒、黒…。

彼女の語る独白の世界は執拗なほど黒い色ばかり、おかしなところで強調されるんです」


その通りだった…。

その違和感には私だけではなく、臨床心理士も看護師達もしきりに妙だと言っていた部分でもある。


探偵は言った。


「…黒い煙が迫ってきて怖かった、というならまだしも『黒い炎』というのは表現としてもおかしいし、宿泊した部屋はスイートルームでお城のようなホテルと聞けば、大抵我々は豪華なレッドカーペットの敷かれた廊下とかを想像しませんか?

…なぜ、こんな違和感だらけの矛盾が、彼女の中では平気で起こり得てしまうのでしょうか?」


「それは…それこそ彼女の火災の時の恐怖体験がいかに凄まじく恐ろしかったかを物語る証拠だろう?

あの大火災で生き延びた事すら奇跡的だ。

全身に火炎を浴び、黒い煙を吸い込んだ時の凄まじい苦痛と恐怖体験が彼女の心的外傷後ストレス…いわゆるPTSDとなって残っているに違いない」


「ところがそうはいかないんですよ。

あのグラスに入ったオレンジジュースに到っては口をつけるまでアイスコーヒーだと気付かずに、飲むような勘違いさえした。看護師の戸田さんも、あれにはさぞかし驚いたことでしょうね。

…この事実は普通ならありえません。

彼女がいくら傷の治癒が遅いとはいえ、あれほど流暢に話せるほど体調も万全な状態だったなら尚更です」


探偵は再びの鋭い視線を私へと向けた。彼の赤い瞳のこの視線は、人に宿る潜在的な恐怖や不安感をやたらと煽る。


「彼女はおそらく、視覚に致命的な障害を負っているんですよ。

はっきりと症例を言ってしまえば後天性の赤緑性色覚異常…。

つまり赤い色が黒い色に見えてしまう…。

だから彼女にはオレンジジュースはアイスコーヒーに、レッドカーペットは黒いペルシャ絨毯に、帝銀ホテルの赤レンガの外観や東京タワーは黒い色に見えてしまっていたんです。

そして彼女は自分自身の身体の異変に関わる、そうした自覚症状が一切ない…。

その事自体を忘れてしまっているんです。

この事が全ての違和感に繋がっている。

感じ方には個人差がある症例なのですが彼女の世界には今や“赤が存在しない”と言い換えてもいいでしょう。

…さて、彼女の語る登場人物の中にたった一人だけですが、視覚に障害を患っている可能性がある人物がいましたね…」


「ま、まさか…」


彼の言わんとしている事が私には即座にわかってしまった。


「ここで改めて思い出してみてほしいんです。再婚相手である父親と、自分の母親は何がきっかけで知り合ったと彼女は言っていましたか?」


「こ、交通事故…だったというんだな…? 彼女は…あ、阿部佳恵は今年に入って車で接触事故を起こしていた…」


喘ぐような私の呟きに、彼は大きく頷いた。


「その通りです。あの言葉こそ重要なキーワードだったんです。

俺はあの言葉で、沙夜子と自分で名乗った彼女自信が、実は決定的な矛盾を持った存在である事に気付いたんです。

…彼女は車の事故自体はたいした怪我もなく、結果的にはそれがきっかけで夫でもある芸術家、高城智治と出会った。

しかし、彼女が視覚に障害を負った直接的な原因こそ、交通事故による一時的な接触が原因だったのではないでしょうか?

これは同時に、彼女が記憶を失していても、娘の記憶として置換可能な事柄でもあるんです。母親の命の恩人でもある新しい父親は、娘にとってもヒーローだったに違いありませんから…」


光のない闇の底から、人の暗闇を躊躇いもなく引きずり出していく探偵は、再び続けた。


「…そんな娘と夫が同時に自分を裏切った。

…理由はわかりません。

『今回の旅行を考えついたのはお母さんでした』…と語る彼女の話が本当だとしたら、予め事件の火種になりそうな、何らかの出来事が起こっていた可能性も否定できない…」


『鼻にかかった厭らしい吐息を女は漏らした』


「愛する娘と命の恩人である夫がまさかの不倫…。何も知らなかったのは、自分だけ…。

事故で目に一生消す事のできない障害を負っている自分だけ…。

今や赤い色を認識できない、彼女の目に写る世界はその時、一体何を映していたのでしょうか…。

孤独と裏切りを最も愛する者から受けた彼女の心情はいかばかりだったのでしょうか…。俺には想像もつきません…」


『深く、深く、もっと深く…もっと深く…』


「予め後ろ暗い何らかの計画はあったのでしょうが、犯行自体は突発的な衝動によるものだった可能性が高い…。

でなければ、部屋に入った瞬間に『即座に異変に気付いた』はずがないし、あの土壇場で『従業員に部屋の中、特にベッドの周りを見られるのも何となく嫌でした』という言葉は出てこない。

彼女は最初から部屋で夫と娘の間に何が行われるはずだったか、知っていた事になる…」


『私にはすぐに分かったんです!お父さんとお母さんに、きっと何かあったんだって!』


「…ここまでくれば、あの密室だった部屋で実際には何が行われていたのか…そして、それを引き金に何が行われたのか…。

もはや想像する事は容易い…。

火災が起こる前、彼女は不在にしていた…。

帰ってきたら三人でレストランに出掛ける約束をしていたはずなのに部屋からは誰も出てこない。

従業員のイギリス人女性と共に部屋を探してみるも、両親はどこにもいない…。

部屋で眠っていた時に突然、火災報知器が鳴り響き、火災発生を告げる館内放送が流れる。

今にも『黒い炎』が背中に迫り来るような煙の渦の中で、彼女は父親と母親を必死で探した…。しかし、二人はどこにも出掛けた様子はなく、どこにもいない。

自分の部屋はもちろん、トイレにもバスルームにも誰もいない…」


よく通る探偵の声が徐々に低くなっていく。


嫌な予感がしていた…。

私はそれでも懐疑的な姿勢は崩さなかった。


「そ、その通りだ。

彼女は心細くなってホテル中を探し、最後まで宿泊客の退避を手助けしていたフロントの人に部屋を開けさせ、ベルボーイまで駆り出して一緒に捜したが、誰もいなかったのだろう?」


「誰もいなくて当たり前ですよ。その時にはとっくの昔に全て終わっていたはずですからね…」


「終わっていた…!? お、おい…君はこの上、またさらに何を言うつもりなんだ? 

彼女は炎が自分の身を、あ、あの通りボロボロに焦がすまで…ギリギリまで従業員と共に部屋の中を探しているんだぞ?

火災の前と後でホテルの人間が三人も部屋に入っているんだぞ。いわば決定的な証人だ。何を言いたいか知らないが、忘れてもらっては困る」


「…先生こそ、お忘れですか?

彼女は自分で沙夜子だと名乗っている。

しかし実際には、彼女は火災の折には夫といたはずの阿部佳恵ですよ。

…この決定的な矛盾こそが、全てを物語っている。

母親が娘に成り変わり、娘の視点で自らの恐怖を独白しているというのなら、彼女は事件の時には本当は現場であるホテルに…あの部屋にいたという事になる…」


「で、では二人は一体どこに消えたというんだ?

ホテルのフロントの目を掠め、火災の前にホテルから二人がいなくなる事は事実上、不可能だ。

ホテルの密室からいきなり神隠しに遭ったまま、炎と共に消えたとでもいうつもりか?」


「神隠し…ある意味でその言い方が一番マシかもしれませんね。それこそ彼女が一番、心の底から望んでいた事でしょうから…」


「ふざけないでくれ!

神隠しなどこの世にあって堪るものか!」


「ふざけてなどいません。

文字通り二人は消えてしまったんですよ…。

…いや、正確には消されたといった方が正しいんですがね…」


「け、消された…!?

おい! はっきりと言ってくれ!私はもう、どうにかなってしまいそうだ!」


もはや半狂乱の体で私は彼に懇願した。


「何度も彼女は自分で答えを叫んでいますよ…。

『私は死んだ』

『彼女は死んだ』と…。

阿部沙夜子と阿部智治…佳恵の新しい夫と娘は、おそらく彼女によって殺されたんです…」


「な…!」


『この一突きが…』

『この一突きが…』

『この一突きが…』

『この一突きが…』


「ば、馬鹿な!そ、それでは死体は一体どうしたというんだ!?

防犯の行き届いた高級ホテルの密室から、忽然とどこかに消えてしまったというのか!?

火災と共に死体ごと行方不明になったというのか! 骨まで跡形もなく燃えてなくなったとでも言うつもりか!?」



「…解体したんです」



さあっと、私の目に暗いカーテンが降りた。


「な、なんだって…」


「実際の犯行現場はおそらく沙夜子の部屋でしょう…。

彼女は殺した二人の死体を沙夜子の部屋のバスルームでバラバラに解体し、トイレの便器に流したのです。

それ以外に現場の目撃者でもあるフロントの女性と客室係、それにベルボーイの三人までもが、二人の客が密室からいなくなったと大騒ぎしていた矛盾を解消する答えはありません。

彼女は実際には32才…。

娘の私服を着てメイクで偽装すれば、外国人のフロントの人間ぐらいなら騙しおおせる自信があったのでしょう。なにしろ沙夜子と佳恵の親子は体格もほぼ同じで彼女に言わせれば、かなり似ていたのですからね…。

外出をし、彼女はその為の道具を用意した。

…すなわち、二人分の死体を短時間で解体する為の道具です」


「俺が何らかの計画はあったが、犯行は突発的なものだったと断定した理由はここにあるんです。

チェックインを終え、沙夜子の部屋に智治が向かったと仮定すれば、この推理は自然と導ける…。

先生ならご存知でしょうが、人間二人分を解体するとなると、量販店の普通のナイフや肉切り包丁程度では、かなりの時間がかかってしまうことでしょう。

刃には血や脂がひっきりなしに付着するし、切れ味も落ちる…。

しかも彼女は外科医ではなく素人です。鉈や鋸やチェーンソーのようなものがあれば話は別ですがね…」


『この一突きが…』

『この一突きが…』

『この一突きが…』

『この一突きが…』


「う、うぅっ…」


ひどい嘔吐感を覚えた。

喉の奥に無理やりゴムの塊を押し込まれたような気分だった。


そんな私をよそに、躊躇う事なく探偵は続けた。


「高層ホテルに限らず、最近のビジネスホテルやラブホテルでは防火やセキュリティーの観点から、廊下やロビーや駐車場に予め防犯カメラの設置を義務づけ、フロントにもモニターがあり、客もそれを予め知らされ、確かめられるようになっている所も多い。

彼女の凄まじい執念は、それすら利用した事にあるんです…。

事件の時は火災…大多数の人間が避難している中、犯行の隠蔽工作に従業員を使えるという、彼女に訪れた千載一遇のチャンスでもあった。

彼女の暗い憎しみは、自らの身体がズタズタになる恐怖をも凌駕していた…」


『胸の奥を妬きつくすような。煉獄の想いと共に…』


「だ、だとしても死体を解体したという証拠はあるのかね!? それがなければ君の推理は突拍子もない、ただの飛躍に過ぎない!」


「…残念ながら、それも傍証があるんです」


「な、なんだと…」


 この男はどうしてここまで平気でいられるのだ!


「自分がどす黒い塊になり黒い穴に次々にドロドロと吸い込まれていく悪夢…というのがありましたね?

…これが実は間接的にその事を指し示していると思われるのです。

彼女は色覚異常。赤い色が黒い色に見える…。

ならば彼女の見ている黒の悪夢は、実は赤い光景と言い換えるのが正しいのではないでしょうか?

…これは真っ赤な血を吹き出し、バラバラに解体した死体が次々にドロドロと血まみれの便器に流されていく様子…と言い換えてもいい。

…つまり彼女が死体を解体した時に、見ていた光景そのままなんですよ。

彼女自身の行った恐ろしい行為が、記憶障害となった今でも彼女に悪夢という、いびつな形をとって現れているんです」


『私…何かが欠けているんです』


「し、しかし物的証拠は皆無だ!そうだろう!?」


「そう…。その事で俺は実は先生に一つだけ、謝らなければならない事があるんですよ」


「な…! こんな時にいきなり何を言い出すんだ…!?」


「最初に俺は、一つだけ先生に嘘をつきました。

…実は花屋敷から三日前に電話を貰いましてね…。確かに俺はアイツとはしばらく会ってはいないんですが、電話では話しているんですよ」


「は、花屋敷君が君に…?

け、刑事が君に電話でか? な、何を…?」


「アイツは電話でこう言っていました。

『先生に頼まれて銀座ホテル火災事件の行方不明者の継続捜査をしているんだが、状況はさっぱり変わらなくて、先生にどう報告すりゃいいか困ってる。

ただ…火災現場で血のついた鋸の破片と思われる金属片が発見されたんだ。

厄介な殺人事件の可能性がある。近いうちにまたお前の手を借りる事になるかもしれない』

…とね」


私は我知らずデスクにガクリと肘を付いて頭を抱えていた。


「何という…事だ…。私の患者は…彼女は…」


暗澹とした思いだ。精神科医である以前に、私は人として最も基本的な事を軽んじていた。


人の抱える心…その深淵に広がる闇の深さを。


「騙し討ちのような形になって、本当に申し訳ありません。俺も彼女の話を聞くまでは、彼女がまさか殺人者だったなどとは知らなかったのです…。

…いや、これはやはり言い訳ですね。俺はただの卑怯者ですよ…」


「いいんだ…。君は何も悪くない。私が何も気づけない駄目な医者というだけの事だ…」


探偵は悔いるように暫しの間、私から目を逸らしていたが、再び静かに立ち上がった。


悠然と歩いて窓辺に致ると、彼は静かにガラス窓を押し開けた。


さあっと新鮮で涼しげな風が一時、暗い室内に吹き込み、柔らかで薄い白のカーテンを揺らした。

漆黒の闇に淀んだ空気を、そっと攫ってくれるような風だった。


燦々と降り注ぐ午後の陽光が、やたらと私の目に沁みた。


「続けてくれるかね?」


自嘲的な私の姿を気遣うように、彼はゆっくりと静かに頷いた。


その所作は優しげで、こうして改めて見ると、ぶっきらぼうな言葉遣いや尊大な態度とは裏腹に大層な優男なのである。


「先生には、今さら釈迦に説法でしょうが…」


真実を告げる役目を負った探偵は言った。


「俺達がたった今見て認識しているこの世界は…我々の現実を構成しているものは、五感を通して得た情報を、我々の脳が目にも止まらぬスピードで電気的に処理し、脳が再構成して見せている世界…言ってみればヴァーチャルリアリティと殆ど変わりのない世界なんです。

俺達は自分の意志で生きているようで、実は鏡のような脳の奴隷であり、その内側から出る事は決して叶わない。いつだってマジックミラーを通して、見えていない世界を片側から認識しているようなものなんです。

そして人間の経験的記憶を司る脳のある器官は、自らが体験してきた現実すら改竄し、時には丸ごと塗り替えてしまう…。

心因性の記憶障害や心的健忘は、時に記憶喪失などと軽々しく誤解を招くような言い方をされますが、記憶は実際にはなくなってしまう訳ではない。

ただ人が生命活動を維持する上で、どうしても都合の悪い情報や記憶は、意識の舞台に上らなくなるというだけです」


窓辺に立った探偵は茫洋とした表情で続けた。


「佳恵は炎の中で生き残ってしまった…。

彼女の意識下に眠る深層は失意と絶望の中で罪の意識から逃れる為に、自分の存在そのものを消す事を選択したんです…。

血を分けた娘と最愛の伴侶と信じた二度目の夫を殺した事は、彼女にとって最大のタブーでした。

全てを忘れたい…。

自分を消したい…。

ならば…全て何もなかった事にすればいい…」


探偵の情け容赦ない解体は、いよいよ終末へと近づいているようだった。

私は瞼を閉じた。


「彼女にとって一番いいのは彼女が望んだ現実のままで、今いるこの時間と地続きになっている世界…。

幸せの絶頂の中で最愛の夫と死んだ世界…。

愛する自分そっくりの若い娘は生き延びて爛れた過ちなどけっして犯さない…。そんな現実…。

そんな世界だったんです…」


私は静かに頷いた。


「そうか…彼女が何度も語っている死んだ母親からのメールとは、そういう意味なんだな…?」


探偵は大きく頷いた。


「…お察しの通りです。

彼女は一人の娘として生まれ変わった。そこは自分の母親は既にいない世界なんです…。

阿部沙夜子とは、失意の阿部佳恵が作り出した彼女の愛しい娘の名前を持つ悲しくも孤独なもう一人の別人格…。

罪を悔いる本来の人格は告発者としてメールを彼女に送り続ける。その行為は、彼女の中では意識されないんです。

…なぜなら彼女は既に死んでいるから…」



「死者からのメール…か」



脱力したように私は静かにうなだれるしかなかった。


窓から射し込む光が眩し過ぎて、自分がひどく惨めに感じた。


「私は医師として彼女の担当医として、これからどうするべきなのだろう…。

やはりこの件は花屋敷君に引き渡すべきなのだろうか…。

彼女は殺人犯として捕まっても、頑なに自分は阿部沙夜子だと名乗り続けるのだろうか…?

世間で言う所の心身喪失者による犯罪…。そんな風に後ろ指を指されて孤独に生き続ける、この世の生き地獄をさらに味わうというのだろうか…」


私は失意の闇に未だに捕らわれていた。目隠しをされ、がんじがらめに縛られたような感覚だった。


「与えられた命題がいかにアンフェアなものであれ、解答が受け入れ難い真実であれ、真実を探ろうとする者は迷わず決断しなければならない。

そして解答者は常に出題する側に敬意を払わなければならない…」


ハッとして、私は彼の端正な顔を見つめた。


「…迷うなど、先生らしくありませんよ。俺のよく知る佐伯隆助教授は、『真実を知る事は、生きる事と同様に戦いだ』と俺を導いてくれた最高の恩師なんですから」


「く、来栖君…」


彼は静かに微笑んだ。


『新宿の解体屋』の二つ名で呼ばれる腕利きの探偵。

彼の名は来栖要(くるすかなめ)。


推理小説というジャンルは嫌いだが、私が知る限り彼は最高の名探偵である。

彼は言った。


「生きている限り、彼女も先生も、そして俺も答えを探し続ければいいんです。死は終わりであって真実ではないでしょう?

最後まで生き続け、導かれるように出した解答こそ、その人にとっての唯一無二の真実です。真実とはどこにもないようでいて、実はそうしたものですよ。そう…」


「真実はいつだってあなたと共にある…」


その言葉に私はようやく闇から解放された。


座右の銘といってもいい、そんな捨て台詞を聞くのも随分と久しぶりだった。

探偵になっても変わらずに、私がかつて生徒達に向けて言った言葉を使ってくれている彼に、私は知らず微笑んでいた。


「…警察病院に連絡する事にしよう。但し、阿部佳恵の皮下移植手術と整形手術が終わってからだ。花屋敷君には、君からそう伝えておいてくれたまえ。

彼女の記憶が蘇ったら、精神的なケアをするのは私の仕事だ。どうやらそれが、私に与えられた役目のようだからな…」


そう言って微笑んだ私に向け、彼はようやく表情を緩め、再び微笑んだ。


私は表情を読ませまいと努める、彼の感情の機微がほんの少しだけわかるようになってきている。


さあっと吹き抜ける夏の風が、涼しげに私の部屋へと吹き込んだ。


病院の中庭に、阿部佳恵と看護師の戸田恵梨子君の姿が見えた。


車椅子に座り、青い空を見上げる患者の姿を眺めながら私は思う。


人の抱える心の闇がいかに深くとも、真実の片鱗はいつか必ず顔を見せる時が来る…。真実とはきっと、今ここにいる自分なしにはありえないのだろう。


そう考え、私はようやく深く、長い溜め息をつく事ができた。

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