『狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。

しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない』


(ルカによる福音書 13章24節)



3


全てを語り終えると彼女は沈黙して、グラスの中のアイスコーヒーに口をつけた。若い患者が白い包帯で右目と頭部をぐるぐる巻きに覆い隠した姿はやはりどこか凄惨で痛々しかった。


残った左の目に宿る光はやや虚ろで、よほど疲れたのか、表情もどこかぼんやりとしていた。


執拗に、何度も繰り返し話している内容とはいえ、これ以上はさすがに患者である彼女の負担になりかねない。


私がそう思った時、彼女の向かい側に座った女性は壁際のガラスの方を見やり、こちらにそれとなく合図を送ってきた。


私は予定通りに彼女がきちんと仕事をこなしてくれた事に満足すると、大きく頷いてみせた。


…もっとも、マジックミラーのガラスはこちらから向こう側は見えても、向こうからこちらの方は見えはしない。彼女達の方からはただの鏡だ。私の姿は彼女達には見えていないはずだ。


患者の前に座っている女性は私服を着た看護師だ。若いながらもベテランの彼女は患者を気遣い、友人として接し、様々な話を引き出す術を心得ている。


優しく生真面目で、聞き上手な性格の上に童顔な顔立ちをした若い彼女は、こうした芝居も演じられる強かさも併せ持っていた。


医者から患者への形式じみた問診ではなく、彼女には友人として聞き役に徹してもらうという変わった方法を今回は採用したのだが、思った通り、この方が患者へかかる負担は少ない。


ただし、今度の患者は非常に特殊なケースだ。一時的な記憶障害を抱えている患者でなければ、この方法はまず通用するまい。


看護師の彼女は車椅子に座り、包帯だらけの、まるでホラー映画に登場するミイラ男のような患者を伴い、清潔感のある白い内装のカウンセラー室を出ていった。


精神・神経科第1病棟の私の部屋の隣にある、このカウンセラー室は喫茶店風の内装に設えてもらっている。先ほどオレンジジュースとアイスコーヒーを運んできたウェイトレスの女性も、実は看護師だ。


少なくともこの場面だけを切り取って知らない人が見れば、ここは病院の喫茶店であり、二人は親しげに話す友人同士にしか見えないことだろう。


…少なくとも入院患者である彼女にはそう思わせる事には成功したようだ。患者を騙しているようで気は引けるが、患者のプライベートな問題に立ち入り、余計な負担を与えない為のこうした配慮は大事な事だ。


私は、傍らにいた友人に意見を求めた。


「…さて、どうかね?

彼女が阿部沙夜子…。問題の死者からのメールに悩まされ、今もこの帝都大学病院に入院している私の患者だよ」


私は続けた。


「彼女は1ヶ月前のあの銀座のホテル火災で生き残った患者であり、今もあの通り、引き続き入院加療中の身でもある。

全身に及んだ火傷の方は外科処置である皮膚の移植のおかげで何とかなったのだが、あの通り事故の影響なのか、精神に非常に不安を抱えていてね…。傷の治りも通常より遅い。そこへもってきて、いきなり正体不明のあの謎のメールだ。

そこで神経科医の私の所へ回されてきた。

ノイローゼ気味で多少、神経が過敏になっている事を除けば、至って普通の高校生に見えた事だろうと思うんだが?」


そう問いかけると傍らにいた友人は、

「佐伯先生の仰る普通がどんな基準かはともかく、まぁ普通のようですね。普通過ぎて俺にはそこが少し妙に思えますが…」


と、ややぶっきらぼうで粗野な口調で言った。


白衣姿の私と違い、彼はこの夏場の暑い真昼時だというのに上下黒のスーツに身を纏い、赤いネクタイまで着用している。


こう言っては本人は大いに気分を害するだろうが、服装や仕草だけを見れば深夜のホストクラブで働いている人間にしか見えない。


しかし、作り物の蝋人形のように白い、彼の端正な顔立ちと艶々とした鴉の羽のごとき色合いのサラサラとした黒髪は、どこか人間くささを感じさせない不思議な魅力を持っていた。


おまけに彼は目に赤いカラーコンタクトまで装用しており、その射るような眼光は異様なほどの鋭さを持っていた。


妙だと語った言葉とは裏腹に、すこぶる機嫌のよさそうな彼の変わった反応を見て私は言った。


「話を聞いている分には夏場によくある怪談話とも受け取れるが、どうにも不可解な事だらけだ。

この件は現職の探偵である君の意見をぜひ聞いてみた方がいいと思ってね。すまないとは思ったが、わざわざ君にこうして来てもらった訳だよ」


私がそう友人に振ると、彼はニヤリと笑った。


「こんな嬉しいお招きなら、世界中のどこからでも飛んで駆けつけますよ。

不可解な謎はいつだって孤独なパズルです。解き明かされないままに一人ぼっちで、ただ時が過ぎ去るのを待つだけでは余りにかわいそうですからね。

密室から消えた家族と炎に消えた記憶、ですか…。

まるでガラス一枚隔てて推理小説の問題編が提示されたような気分ですね。確かに非常に面白いケースです。考えるだけでワクワクしてきますよ」


彼は不敵にもそう言った。


奇妙な謎に対し、まず『面白い』とくる所がいかにも彼らしいと私はそう思った。

不謹慎な態度ではあるが、私の知る限り、彼は知的好奇心を刺激するものに目がないだけなのだ。


彼は学生時代は理学研究室の生徒で、当時はまだ医学部の助教授(当時そう呼ばれていた)であった私の所に、いつも風変わりな質問を持ってくる妙な生徒だった。


やや変わった学生であった事は当時から知っているが、常人とは目のつけどころが違う、彼の一風変わった並外れた特別な才能に私はかねてから一目置いていた。

私は言った。


「見ての通り、彼女は体中ひどい火傷を負い、車椅子の生活を余儀なくされ、顔も包帯だらけの入院患者でいながら、それが大した怪我ではないと言い切っているね。

しかも肝心な部分はあの通り、綺麗さっぱり忘れてしまっている。ヒントといえば、彼女に送られてくる『031034503101』という数字だけで訳の分からない謎のメールだ。

彼女は果たして何を見て、何を忘れてしまったというのだろう?

彼女の家族は、ホテルの一室からどこに消え失せてしまったのか?

彼女の携帯電話に送られてくる謎のメールの送り主の正体は?

あの謎めいた数字は果たしてどんな意味を持つのだろうか?

…君は推理小説の問題編と言ったが、残念ながらこれは夏場にありがちな怪談で片付けられる話ではない。今も現在進行形でああして苦しんでいる現実の患者のケースだ。

少なくとも、これら提示された謎に全て答えてもらわなければ、解決編とはいかないね」


私は挑発するように、腕を組んで彼の反応を窺った。


彼は黙って白いタバコの箱を取り出すと中から一本口にくわえ、シャボン玉のような不思議な色合いをしたジッポーのオイルライターを取り出した。


ピンという軽い金属音。そしてボッと炎の灯る微かな音がした。


不確かな紫煙の流体が、部屋に漂い始める。


私にあてられた私室だとはいえ、病院であるからこの部屋も本来は禁煙だ。私もタバコは吸わない方だが彼のヘビースモーカーぶりは知っていたから特別に許可したのだ。


黙ったまま思考している彼に、私は続けた。

「聞くところに因れば君は『新宿の解体屋』とも呼ばれている凄腕の私立探偵だそうじゃないか?

一昨年に目黒区で起こった、あの学園の事件では大層な活躍ぶりだったと花屋敷君に聞いているよ」


花屋敷というのは我々の共通の知り合いで、警視庁の捜査一課に勤めている花屋敷優介巡査の事だ。彼も大学時代には私の教え子であった。

非常に大柄な男で、今は捜査一課強行犯一係に在籍する現職の刑事である。


私は刑事である彼に、彼女の両親の捜索をそれとなく依頼していたのだった。


花屋敷刑事はニヤリと笑うと、


『それなら、まさにうってつけの奴をご紹介しますよ』


と彼が紹介してくれたのが、この風変わりでぶっきらぼうな旧知の探偵だったのである。


「ふん…しばらく会っていない、あのデカブツが佐伯先生に何を話したのかは知りませんが、あの時の事件に比べれば謎が明確な分、かなりわかりやすい事件といえそうですね」


大胆不敵にも現実の探偵はそう言ってのけた。私は眉をひそめて尋ねた。


「事件…ときたか。

どうやら君は推理小説の名探偵よろしく、先ほど私が提示した謎の全てに答え、この場でこの不可解なケースに解決編を与えてくれるつもりでいるようだね」


「そんな大それた問題ではないでしょう? 彼女の話をちゃんと聞いていれば事実はあまりにも明確ではありませんか?」


そう言って彼は深く紫煙を吸い込んで吐き出すと、いかにも不味いという表情をしてから言った。


「そう。答えはあまりにも明確です…。

それではあまり気は進みませんが、先ほど先生が挙げた問題点を一つ一つ解消していくとしましょうか」


「自信たっぷりといった所だな。

『新宿の解体屋』の手並み…この目でとくと拝見させてもらうとしよう」


「その前に、いくつか質問します。確認したい事があるのです。俺がこれから質問する事に答えてもらえるなら、先生に俺の考えを話す事も可能でしょう」


そう言うと、探偵は今度はやや目を細めて低めの声で続けた。


「ただ…先生。あくまでまだ予測の域を出ないのですが、これから聞く事がもし俺の想像通りなら、あまりよくない状況が訪れるとだけは先に言っておきましょう…」


「よくないだと? それはどういう意味かね?」


「これはね、先生。後味がよくないという意味です。彼女にとっても…そして先生や俺にとっても。出来れば俺の杞憂に終わってくれる事を祈るばかりです…」


血の通っていない蝋人形のごとき探偵はそう言うと、こちらが思わずぞっとするような視線を向けてきた。

彼は頭が切れる上に慎重な男でもある。一体、彼女の話で何を予測したというのか?


私は射竦めるような彼の視線に、微かに動揺を覚えながらも従順に答える事にした。


「わかった。やはり、君は頼もしい助っ人のようだな。彼女の事なら、私に何なりと聞いてくれたまえ」


「わかりました。

…まず先ほど先生がヒントと仰った、この携帯電話によるメール。先生はこれを誰かによる悪戯のメールだと思いますか? 彼女に言わせれば、送信者は死んだ彼女の母親だという事ですが…」


「何だ、そんな事か!?

君はあの数字に何か意味があるというのかね?

誰か悪意ある何者かが、いたずら目的で彼女に送りつけているに決まっているじゃないか。

彼女が以前、付き合っていた男性…。女子高生を専門に狙うストーカーや変質者という線だってありうる。もっと単純に彼女の友人かもしれん」


「…なぜそう思うのです? 送信先まではっきりしているのでしょう?」


「彼女がそう言っているだけだ。おそらくは事故の一時的なショックで記憶が混乱しているんだよ。事故の前の何らかの出来事と混同しているに違いない。

女子高生がパパと呼ぶ人間は、世間にたくさんいるじゃないか?

記憶障害を抱える彼女がそうだったとは言わないが、女子高生を狙う不逞な輩はどこにでもいるし、彼女はあの通り、どこに行くにも携帯電話を手放さない。

インターネットの書き込みや出会い系サイト、援助交際にまつわるその種のトラブルだって、どこかであった可能性がある」


私はそう答えた。

ノイローゼや鬱病を抱える彼女ぐらいの若い患者は実際に多い。

原因の大半が家族や学校や職場での人間関係。男女関係のトラブルや過度なストレスだったりする。私は続けた。


「それが事故から1ヶ月も経って死んだ母親からメールが来たなどと荒唐無稽もいいところだ。最初は我々をからかっているのではないかと本気で疑ったよ」


「違ったのですね?」


「ああ、彼女が執拗に何かを恐れているのは間違いない。あの異様な恐がり方は尋常ではないからな。

よって我々を騙しているとは思えない。

彼女の恐怖を取り除くには彼女自身がそうしているように、誰かに語る事で彼女自身が癒やされ、こちらは原因を探りながら経過を静かに見守っていけばいいと、そう考えた訳だよ」


「懸命な判断ですね。記憶障害者…それも包帯だらけの入院患者というだけで、勝手な判断や差別をされては堪ったものではありませんからね」


私は頷いた。


「そもそも、彼女が入院していると知っている人間なら、何の意味もないメールを彼女に延々送りつけてくるような行為など、常識ではありえん事だ。

そうなるとあのメールの送信者は当然、彼女の母親からのものではないことになる。

第一、彼女の母親はホテル火災の折に現在の父親共々、失踪しているのだ。あの火事の中では、おそらくもう…」


私は思わず言葉尻を濁した。

もしこの世に神が存在するなら、あまりに酷く残酷な仕打ちだ。


生きている分、彼女にはまだまだ希望やチャンスがある。私も医師として、一人の大人として彼女の力になってやりたかった。


「今時の高校生と言ってしまえばそれまでだが、病室に携帯電話を置かせるのだって、私は当初は反対だった」


「医療機器に悪影響を与える恐れがあるからですね。携帯電話を堂々と病院に持ち込む患者がいるなんて随分変わった病院だと感じたんですが…。あれは先生の指示だったんですか?」


「彼女は自分からメールは見せたがろうとするのに、誰かが携帯を触れたり取り上げようとすると滅茶苦茶に暴れるのだよ。

大人しい患者なのだが、その点だけは異常なほどヒステリックな反応を示す。とはいえ、彼女はもう天涯孤独の身だ。

父方の親戚は東北の方にいるようだが、それは半年前に離婚した父親の方で元々疎遠だったのか、前の父親がいなくなってからは、今や連絡すら取れない状態らしい。

母親の方の親戚は、彼女が既に生まれた時から交流などない。彼女が語っていたように、両親は元々、駆け落ちに近い形で東京に来たらしいのだ。

そういった経緯もあって入院中の手慰みになればと、携帯電話だけは仕方なく許可したのだ」


「何の意味もないメールを仕方なく許可した…という事ですか。なるほど…」


そう言うと、探偵は深い溜め息をついた。

彼の赤い瞳は気付かなければ見逃してしまいそうな程の一瞬だけ、酷く悲しげな光を帯びたように私には思えた。

整った顔立ちで普段の言動が淡々としているだけに、彼は喜怒哀楽の表情のパターンがなかなか読み取りにくい。


私は言った。


「言い訳がましく聞こえるかもしれないが、私は彼女がいくら記憶障害を抱えている若い患者だからといって、本来そうした特別扱いはしたくない。携帯電話は今や万能な情報の塊だ。多感な時期の若い患者に悪影響を及ぼさないはずがない。

…しかし君、あんな数字だけの意味もないメールに何かこだわる必要があるというのかね?」


「…もちろんですよ。

俺は彼女の話を聞きながら、ずっとこの数字の羅列の意味を考えていたんですが、彼女や先生の話を聞くにつれ、ようやく一つの結論に至る事ができましたよ」


そう言うと探偵は考え深げに眉をひそめ、再び表情を険しくした。


「先生の前ですが正直、この先を話すのは俺としては、かなり気が引けます…」


「君も妙な男だな。先ほどの口ぶりでは事件の解決編を示してくれるつもりではなかったのかね?」


「…そのつもりでしたが、事態は思った以上に深刻なようです。そして俺の予測は残念ながら当たってしまったようです。

それも最悪な形で…」


「随分と慎重な上に思わせぶりな事ばかり言うんだな。携帯電話に関する事と、彼女の係累が今やほぼ絶えているに近い事。これらが今の彼女にさらに深刻な事態を齎す事になるというのかね?」


「ええ…。俺がこれから話そうとしている事は、彼女の不幸をただ闇の底から引きずり出すだけの行為だという事が判ったからです。誰も、何も救われない。

より一層の閉塞感に苛まれる結果に繋がる。

少なくとも俺は今日、一人の人間に確実に不幸な引導を渡す事になってしまうかもしれません…」


突然の豹変といってもいい彼の苦悩は私には理解できなかった。

それは恐らく、私が未だ至れぬ領域に彼が難なく踏み込めた証でもあり、彼女の心の闇を覗いたが故の苦渋でもあるのだろう。


人の心の闇を覗こうとする行為と自分の暗部を直視する行為は本質的には同一なのだ。

ただ一つの救いは彼が悪人ではないという、それだけに尽きた。


ふと思い立ち、私は急に考えに沈み込んだ彼に切り出した。


「…覚えているかね?

昔、君が私の研究室に始めて訪れた際に、私にしてきた質問を…」


「……!」


はっとしたように彼は赤い瞳を大きく見開いて私を見つめてきた。


「君はこう言った…。

『学究の徒に限らず、真実を読み解こうとする者はいつだって孤独で受動的で妄従的でしかありません。この世に絶対的な真実など存在しえないなら、出題者の悪意に歪められた問いに真っ正面から答える事に何か意味などあるのでしょうか?』

とな…。

あの時の私の答えを君は覚えているかね?」


私の言葉に呼応するかのように彼は口元に手をあて、猛然と何かを思考していた。しばしの逡巡の後に彼は呟いた。


「………。

『与えられた命題がいかにアンフェアなものであれ、たとえその解答が受け入れ難い真実であれ、その答えが唯一無二の解答ならば、解答者は迷わず決断しなければならない。

そして、解答者は常に出題する側に敬意を払わなければならない』

そうか…。そうでしたね…」


そう一人呟くと、探偵は深く、淡い色をした赤い瞳をゆっくりと閉じ、たっぷりと間を持たせてから私に告げた。


「わかりました…」


探偵は真実を見抜くその瞳を再びゆっくりと見開いてから言った。


「…どうやらここに、結論を導く材料はすべて出揃ったようです。俺の考えを述べさせてもらいましょう。それが、どうやら俺に与えられた役目のようです…」


黒衣の探偵の赤い瞳が俄かに冷たく、そして妖しげな光を帯び始めている。


虚空の一点を睨みつけ、迷いの一切なくなった彼の整った表情は、正に死神のごとき凶相だった。


そして…私はなぜか残酷で無慈悲きわまりない終末の到来を予感していた。

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