国道246号線沿い下り山北SS

深爪之人

国道246号線沿い下り山北SS

 ディーゼル確認とオーダーの点呼がこじんまりとした空間に響き、二人の業務員が走って、2tトラックと乗用車の間を縦横無尽に駆け回る。若い従業員と、白髪の多い店長。店長は足が悪いから、その分若い従業員は多めに動かなきゃならなかった。

こうした光景は、ド田舎の山北町でも珍しい光景で、県内ではさながら珍境のようである。そうとも知らず、もはや常連以外の客はなくなってしまったので、旅行帰りか帰省帰りか何かの車がやってくるとすぐわかってしまうのである。

「おつかれさまです」

「うん、満タンで、あぁ、レギュラーね」

 何が珍境か。今時、個人経営のガソリンスタンドでもセルフサービスで、人件費削減の徹底が行われている。こうなってしまうのはガソリン価格の売上が、リッターごと一円とか何銭という計算だから、足しにもならなくて、黒字にするには油外の物を売るか、人を減らすかのいずれかである。淘汰されたわけではないが、少しずつ、セルフ以外のガソリンスタンドは消えていって、個人営業でセルフじゃないスタンドといえば、探す方が難しい。客は誰も意識はしないだろうが、最近になってようやく理解が広まってきたようだ。

「ねぇ店長、ここも来月でとっぱらうらしいね」

「誰に聞いたんだそんなの」

「本店。数少ない従業員の間ではもう知らない人はいないさ。この会社、来年までに油屋はとっぱらって、若い俺たちは閉店業務のあと、会社ごと異動になるんだと」

「ああ、やっとお前にもそんな辞令が届いたか」

 若い従業員は帽子をとって、整った髪を両手で掻きながら背伸びをして、

「もったいねぇよ。県道利用者だっていないわけじゃないし、この町でスタンドったら三件しかないし。ここから一番近いので、国道分岐のとこでしょ。爺さん婆さんが灯油を買うのに一苦労だ」

 近くを走る御殿場線の特急あさぎりの警笛が、他人事のように山にこだまする。ついでに雪が降ってきて、ストーブが恋しくなって、二人して事務所に入った。あさぎりが通るから、午後四時を回ったところ。

「ちと早いが、シャッター閉めて水撒きするか」

「そっすな。もう大型もこねぇでしょ」

 ピットのシャッターがするすると、錆がこすれた音をたてながら降りていく。このピットも、月に一回使うかどうかってところだから、普段は自分の車の車庫のように使っている。持ったなぁ、と、二人は思って、タイヤチェーンだけを外に出して店の明かりを消した。

 若い従業員が大型窓洗い用のホースを巻いて、ピットのシャッター前にすっと置いて、事務所で書類を済ませる。店長が先に書類を終わらせるから、すぐにゆったりとした時間が流れる。若い従業員はそれが好きだった。

 決して沈黙の空間ではなかったが、今日のこの日からはどこか、背中が涼しい時間がすぎる。

「んねぇ、店長は、ここ閉めたあとどんな仕事すんの。本社で背広着て、重役として定年までって、本店のやつら言ってるけど」

「俺はやだよ。三十年、まだここに人が賑わってた時からいるのに、いざ離れて机の上で業務なんて考えられん」

「その三十年が、本社からしたら店長を大御所に仕立てなきゃならん理由でしょ。店長の意思がどうあれさ」

「よしてくれよ」

 でも、まんざらでもなさそうだった。若い従業員からすれば、この店長は古参の将軍、英雄、そんなような印象が強かったから、人生で華々しい何かがなくても、尊敬するに値する人でその人の職の最後が、せめて華やかなものになるならそれ以上の望みはなかった。

「生涯油売り、なんて小さなことかもしれねけど、同じ仕事してる俺からすれば、よく三十年も続けたと思うけどね」

「小さなことなら誇っても仕方ねぇだろ! サァサ、俺は本社に連絡しなきゃならん、お前は今日は帰りな。新婚だろ」

「新婚じゃねぇって! まだ同棲しはじめただけだっての!」

 

 夜八時頃になって、事務所の明かりが消えてなく、外には車が一台も走っていなかった。だからか、静けさや孤独感を一層強くさせる自然の演出に、本社との電話を終わらせた店長は、いよいよかと寂しさを一人で感じていた。

 やっと若い者にも正式な辞令が来たから、どうなることかと思っていてほっとしていたところである。吐いた息が白く、いつの間にか雪が積もってきたから、感慨に浸ってる暇はないと思った。それでも、まだ帰る気分にはならない。

 誰もいない、電車の汽笛すらないその空間に、ようやっと自分以外の一人が現れた。十八リッターの、灯油を買い求めてきた婆さんが、暗がりから姿を現した。

「おや、やってなかったかい」

「運がいいね婆さん、まだ、油を売ることはできるよ」

「そりゃよかったよぉ。もう時間が遅いもんでねぇ」

 

 慣れた手つきで、灯油ノズルの安全装置を解除して缶に差し込んでノズルを握る。暗いもので、どれくらい入っているかわからなかった。

「婆さん、ここもさ、来月には閉めちゃうんだよ。悪いんだけどな」

「あらそう。どこも遠いもんだから、ついここを選んじゃったのだけどね」

「はは、そういうお客さんがまだいるのに、もったいねぇことだと思うんだけどな、本音は」

「そうだねぇ、この街も若い子がいなくなってきたから」

「違いねぇけど、いざ割り切れって言われるとなぁ」

 ガチャンと給油が止まって、視認せずとも重さで満タンとわかるものだから、ノズルを置いた。

「うん、また来なよ」

「ありがとねぇ」

 婆さんはお金だけ払って、道脇に停めてあった車を走らせてすっと消えた。はじめてくるお客さんかねぇ、そう思って、店長も雪の中を帰った。

 

 家に帰ると、大学生の甥っ子が、鍋を煮込んで待っていた。小田原の学校に通うために、東京から下宿にこっちに来ていて、今三年生。まずい鍋を作るのが得意分野だが、いつもより遅く帰ってしまったから、晩飯はこれしかない。

「おじさん、仕事やめるの?」

 食卓を囲んで、甥っ子が聞きにくそうに聞いた。甥っ子は去年まで本店でアルバイトをしていて、バイト雇用がなくなったので、仕事を変えているが、元従業員の噂は流れが早いらしい。

「やめるわけじゃないよ。ただ、今の仕事から離れるってのが現実味沸かないだけさァ」

「でもおじさん、スタンド店員か本社勤務か、……って言ったら、年なんだしわざわざ現場仕事続けることもないのに」

「この家で一人暮らししたいのだろ」

「ばれたか」

 本社勤務になると、横浜の子安にある本社に務めることになる。そうなると、山北のこの家から出て、横浜の方に住むことになるから、甥っ子はこの家での一人暮らしも考えているのだろう。

「でも、俺はおじさんが油売りをしているとこ見るの、嫌いじゃないんだけどな」

「はぁ、どっちに説得したいんだ」

「わかんねぇさ。みんなおじさんのこと尊敬してるから、おじさんが本社行くなら、本店のみんなも喜ぶけど。それでも、おじさんが輝くのは今の仕事してる時だけなんじゃないかって、それの答えがさ、つかめないんだよね」

「わかんね、か」

 もとより、油売りとしての自分を考えたこともなかったから、油売り以外の自分なんて、もっと検討がつかない。自分がどう思われているかなんて、考えたこともなかったから、どう思われたいと考えたこともなかった。ただ夢中で、楽しいとは感じなくても仕事をしていたから、別に褒め称えられることでもない、そんな風にも思えるのである。

(やあ、俺は、別になぁ)

 自分が何をしていたか、なんてことを、三十年間があっという間だったかのように忘れ去ってしまっていた。でも周りの評価が改めて聞こえると、それは自分のことじゃないかのようで、違和感がある。

 雪が積もる。すると、翌日からの出勤で、屋根のなくなったガレージが雪に埋もれて面倒くさくなると思って、簡易的に屋根を作ろうと思って、車一台分は入る板を何枚かのっけた。まさか雪で崩れることはないだろう。三枚目の板を乗っけて、降りようとした時に、足を滑らせて後ろ向きに落ちた。やっちまったと思って、立ち上がろうとすると、履いていた長靴が油まみれで、滑りやすくなっていたことに気付く。お湯で落とそうとしてもなかなか落ちないから、いつしか諦めていたものだ。

「俺は変わらんなぁ」

 その場に寝そべって、何度かこの油で足を滑らせていたことを、順を追って思い出していく。くすぐったくなってしまって、自然に笑ってしまって、背中が解けた雪で冷たくて仕方がなかった。

「変わらんね」

 唐突に、どこからか、そう聞こえた。女の声で、誰の声よりも優しく聞こえたから、反射的に誰の声かわかる。わざわざ振り向いたりしない。

「いつから、みとった」

「ずっと前からみとった」

「お迎えじゃないだろう」

「そんな年じゃないだろう」

 他所からみれば、自問自答なのだろう。でも確かにこの声は聞こえるし、言葉が返ってきている。

「おれが、油売りとしての自分を知り始めたから、怒って出てきたのか」

「そういうわけじゃないさ。雪も降ってるし、脅かすつもりで出てきた」

「はは、お前こそそういうところ、変わらんじゃないか。変わるはずもないけど」

「私はね、生涯油売り、って言われてた頃のあんたが好きだったよ。格好よくはないけど、人として、格好よかったから」

「儲からねぇのにな、天職だと思ってたよ。昔から」

「それでもだよ、何があってもその天職、ずっと気にしてて捨てられなかったから、悩んでるんでしょう」

「ああ、ずっと、仇だったのになぁこの仕事」

「でも安心してるんよ。ようやっとね、自分で生きられるじゃないの。何かに振り回されないで、何かに縛られないで。本当はあんたが望んでたことでしょう?」

「はは、それでもやっぱり、右足が動かん」

 雪がどっさり、作った屋根の上から、どっさりと。どれくらいの時間横たわっていたのかわからないくらいだったが、気分がよくなって、すっかりと。

 

 

 翌日の出勤はなにも変わらず、若い従業員が眠そうな顔をしてやってくる。開店した途端に、上の道は事故だかで大慌てらしい。それでか大渋滞している高速から逃れるように大型が入ってきたものだから、店長はぎゅっとノズルを握っていた。

「やっぱり、誰にわからんでもさ、絵になるよ店長は」

「はは、見せ物にもならんて、だからぁ」

「俺たち若い衆はね、ガキの頃から油売りの店長を知ってるやつも多いからさ」

「はは、生涯の油売りな」

 店長はキャップを締めたのを二度確認して、三度確認をして、伝票を若い従業員に渡す。

「俺も、そうなりたかったのになぁ、なんて」

「んでは、そりゃ家族をなくしてまで目指すもんかかね」

「じゃねさ。かっこいいもの。だってさぁ」

 若い従業員は全力疾走で、伝票を大型の運転手に渡して、ペコリと礼をしてその一連の作業を終える。今日も一日決まった時間に訪れる顔なじみの客と、決まった時間にならすあさぎりの汽笛を聞きながら、県道沿いの小さな店の油売りは、短い一日を過ごしていった。

 

                  おしまい

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