М氏が初老の男と出会ったのは何の変哲も無い会社の帰り道だった。

「どうも」と低いハスキーな声でМ氏に呟くと、胸ポケットから小さな機械を差しだしたのだ。

「ちょっと待ってください。あなたは誰ですか?」

 男はこちら側の意思などお構いなしに進めていく男に少し苛立ちを含めて非難したが、男はまるで気にした素振りは見せず、自分の話を続ける。

「この機械は、中央にあります赤いボタンを押しますとその際、頭に描いていた人が実際にあなたの前に現れるという不思議なボタンなんです」

 そこまで説明すると、М氏のポケットにその『ボタン』を押し込んだ。

「それでは、ぜひ様々な有効活用をしてください」

 そう言って男は闇の中へと消えていった。

 周囲を見回したが、もう男の姿はどこにも見えず、М氏の視界に映るのは、いつもの賑わいを見せる歓楽街だった。

 自宅に帰ったМ氏は早速『ボタン』を手に取り、細心の注意を払いながら拝観する。傍から見たその『ボタン』は別段おかしな点は特に無かった。敢えて挙げるとすれば、『ボタン』単体として存在している事ぐらいであろう。あとは本当にこの『ボタン』が男の言っていた《頭で思い描いていた人物を呼び寄せる》ことが出来るのかどうかだ。М氏は半信半疑だったが、男の有無を言わせぬ、圧力じみた話をどうも嘘っぱちと投げやることが出来ず、なんとかこれが本物か偽物かを判断しなければならない。

 М氏はダメで元々、一年前に付き合っていた彼女の顔を頭に浮かべてボタンを押してみることにした。そう言えば一ヶ月後は彼女の二五歳の誕生日なのを思い出したからだ。きっと彼女はもう他の男と付き合って、結婚も考えていることだろう。

 ピンポーン

 押した瞬間、玄関のチャイムが響く。М氏はまさかと思いながら、玄関のドアを開けた。

「突然ごめんなさい。私、なんでか分からないんだけど、なんか急にあなたの家に行かなければというか、行きたくなっちゃって……こんな私、変かしら?」

 玄関に立っていたのは案の定、当時の彼女――A子だった。しかも、М氏が頭に描いた通りの格好で現れたのだ。М氏は手に持っていたボタンを慌ててポケットにしまいこみながら、A子を部屋の中へと案内し、お茶を楽しんだ。

「今日はごめんなさい。たぶんもうここに来ることはないから」

 A子はそう言ってМ氏の部屋を後にした。М氏の予想通り、A子曰く、もう彼女には新しい彼がいて、結婚を前提に付き合っているそうだ。だからこんなことはもう出来ないし、するつもりも無いと彼女はきっぱりと言った。

 A子の言葉にМ氏は幾ばくか心を痛めたが、頭の中には『ボタン』のことでいっぱいだった。これがあればМ氏はいつでもA子を呼び出すことは可能だ。そうすればいつかA子はきっともう一度俺の方を振り向いてくれるに違いない。М氏は来る日も来る日もA子のことを思いながら、ボタンを押した。

 そんなA子との密会も一ヶ月が経とうとしたある日のこと。

 いつものようにA子を思い浮かべながらボタンを押すと彼女はやってきた。彼女はいつものようにМ氏の希望(想像)通りの格好で来てくれた。しかし、今日はМ氏にとっていつもとは違う特別な日でもある――そう今日はA子の誕生日なのだ。

「誕生日おめでとう」

 М氏は予め買っておいたプレゼントを渡した。シルバーのネックレスを付けた彼女は素直に感謝の気持ちを表す。

「さあ、君の二五歳の誕生日を祝して乾杯しよう」

 しかし、そう言った時、彼女はきょとんとした表情を見せた。

「……え? 私は今二三歳よ?」

 М氏はそんなことは無いと思ったが、その場は取り繕い、彼女が帰った後、共通の知人に電話をした。

「おい、A子って今、何歳だ?」

「何だ、急に。お前がブルーになるのもわかるけどな。そうだなあ……今日で二五歳だよ」

 М氏は友人の言葉を聞いて、安心と一種の疑問を浮かべる。しかし、友人は奇妙な発言を最後に残した。


「まあ……一年前に事故で死んでなければ……だけどな」

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短編集【語り部の止まり木】 歌野裕 @XO-RVG

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