明日を信じて
「さようなら」
それだけを残して彼は私に背中を向けた。
頬を寄せた背中。抱きついた背中。私のすべてを背負ってくれると思っていた背中。
私はじっとその背中を見つめる。あれだけ感慨深かったはずの彼の背中はよく見ればただの背中にしか見えなくなっていた。
彼の背中が見えなくなってからも、まだしばらくそのまま立ち尽くしていた。
《まもなく、1番線に列車参ります。白線の内側までお下がりください――》
聞き取りにくいホームのアナウンス。今日はいつにも増して私の心を逆撫でしてくる。
ホームには私以外に次の電車を待つ人は2人程度しかいなかった。パーン、と乾きながらも身体の内側にまで響く音を鳴らして電車が姿を見せた。
最前列に立っていた私の真正面にのそのそと鉄の塊はやってきて、錆びた鉄が擦れ合う音を立てながら扉を開ける。そのまま入ろうとしたら、降りる乗客の男の腕が私の肩に当たった。男は一瞬だけこちらを見たが、すぐに何事も無かったかのように歩き出していってしまった。
私は男の去っていく背中を目を吊り上げて睨む。男の背中もまた彼の背中と同じだった。
しばらく電車に揺られようと決めた私は、開閉扉のすぐ近くの隅の席に座り、ただぼんやりと外の景色を眺めた。ちょうど日が沈みかけており、空を鮮やかに紅く染めあげている。下に視線をずらすと、見慣れた街並がぐんぐんと速度を上げて私の視界から現れては消える。
次の停車駅に停まった電車は言わずもがな扉を開ける。開いた瞬間、外気が車内に流れ込み、私は身震いする。その時、何故か入ってきた女性の乗客と目が合った。女性は小さく頭を下げ、「すいません」とだけ告げ、向かいの席に座る。女性はかなり手慣れた手つきで鞄からウォークマンを取り出し、イヤホンを耳にかけ、自分の世界へと入ってしまった。
発車ぎりぎりで飛び込んできたのは男性の乗客だった。男性は息を切らしながら扉の前で深呼吸をして息を整えている。そして周囲を気にしながらそそくさと空いている席へと座った。それを見届けると、私はまた外へと視線を戻した。
それから電車は停車する度に、同じような光景を私に見せた。
降りる乗客がいるのにも関わらず、堂々と乗車しようとする人。
周囲のことなどお構いなしにウォークマンを大音量で垂れ流している人。
ぺちゃくちゃと無駄に広がりながら大声で会話をする人。
それを我関せずと、読書や音楽、はたまた居眠りにかこつける人々。
姿かたち、性別の違いはあれど、私の目に映った人達は大体同じような人たちばかりだった。そしてその中には私も入っているのだ。
確実に変わっていったのは外の景色くらいか――しかしそれもまた時が来ればまた同じことの繰り返しなのだろうけど。
全て同じことの繰り返し。何も変わらない。何も変わってなどいない。私は何も変わっていなかった。変わった気になっていただけ――……。
電車を降りた私は、随分と遠く離れてしまった自分の家まで歩いて帰ることにした。別にこれといった理由は無い。ただいつもと違うことをしたかっただけ。
二時間かけて自宅に着いた私は、パンパンに腫れた足と少しだけ赤くなった親指と小指をさすりながらベッドに横たわる。
明日になったら、今日のことは忘れよう。まずは彼のモノを全部捨てて、笑顔で出勤しよう。友達とご飯でも食べにでも行こう。スイーツがいい。そう言えば駅前に新しく店が出来たらしい。そうだ、そうしよう。だから今夜だけは――……。
私はその晩、一頻りに泣いた。
変わらずやってくる明日のために。
明日の私は今日の私と一味違うと信じて――。
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