階段を昇れば

 長い長い階段だった。見上げても階段の先はまるで見えず、どこまでも蜿蜒と続いている。後ろを振り返れば今まで昇ってきた階段がこれもまた下へ下へと続いていた。今まで何段上っただろう。昔はよく階段の数を数えていたものだが、今となっては数えるのも億劫になって、もう覚えていない。それだけ昇ってきたのかと考えると、一種の達成感めいたものも感じられるのだが、遥か上空にあるであろう、まだ見えぬ行き先を想像しながら見上げてしまうと、その達成感も空気の抜けていく風船のように急激にしぼんでいく。


 自分は一体どこに向かっているのだろうか。

 この階段を昇り始めた時は一段一段を踏み越えていくだけで楽しかった。しばらく経てば、「今日はどれだけ昇ろう」といった小さい目標も立てながら昇ったものだ。しかし、今はそんな目標を立てたところで、ゴールの無いマラソンをずっと続けているようで、空しささえこみ上げてくる。それでも尚、昇り続けているのは、自分の今までのこの努力を無駄にしたくなかったからなのか、この先に何かが待っていると期待しているからなのかは自分でもよく分からない。

 昇るのが馬鹿らしくなって今まで登ってきた道のりを引き返したこともあったが、すぐにあきらめた。降りているうちに階段はだんだんと道幅が狭くなり、いつの間にか通れなくなってしまっていたからだ。崩れ落ちるような不安定なその階段は昇るよりも骨がいりそうで、昇った方がはるかに楽に思えた。そしてまた足を上へ上へと動かしていくのだ。顔を上げてまっすぐと。

 そんな繰り返しを何十年も繰り返した時だ。もう体力の限界を感じた。足が重い。目も霞んで前が良く見えない。手をつき、息を荒くしながら四つん這いで上っていく。空耳か誘惑の声が聞こえる。耳にでは無い。頭の中で響くように。

「もうやめちまいなよ」

「休んだら楽になるよ」

「ほら、もう君はここが限界なんだよ」

 そうだ。その通りだ。周囲の声に従い、歩みを止めようとした――が、出来なかった。止めればどれだけ楽になることができただろう。そんなことは百も承知なのだ。頭で理解していても自分の心が、身体がそれを許さない。一瞬だけ後ろを振り返る。そこには確実に昇ってきた自分の証しが下へ下へと続いていた。

 今まで昇ってきた階段は、忘れてしまったことも多々あるけれど、戻りたい場所から、誇りへと変わった。

 これから昇っていく階段は、途方にくれるだけの存在から、昇りきってやるといった希望へと変わった。

 外見的には何の変化も無い。それどころか体力や外見的資質は衰えていくばかり。それでも心は確実に変化していた。

 そう感じた時、光が見えた。明るくて目を開けるには少し眩しすぎる光。暖かく、太陽のような抱擁感のある光。手を伸ばすと、掌の暖かい感触に、思わずぎゅっと掴もうとする。

 これが自分が昇り続けてきた答えか……。そう思うと、少しだけ涙がでてきた。霞んでいた視界が、涙で潤む。だが、その先に見えるものをこの瞳は確実に捉えていた。そこには――……。

 妻が微笑んでいた。

 娘が手を差しのばしていた。

 息子はまっすぐこちらを見ていた。

 孫が「あー、あー」と娘の腕の中で暴れている。

 ああ、自分が当ても無く目指していたゴールはこれだったのか。

 光の正体――ゴールに辿りついた自分は、ふっと柔らかく微笑むと、小さく「ありがとう」と呟いてゆっくりと瞳を閉じた。


 悩むこともあるだろう。

 逃げ出したくなることもあるだろう。

 立ち止まりたくなることもあるだろうし、生きていく意味を失うこともあるだろう。

 全てが正解だったのだ。自分の生きてきたこの人生に間違いなど無かった。だからこそのゴール。だからこその光。そう感じながら、ゆっくりと自分は最後の階段を――昇り終えた。

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