短編集【語り部の止まり木】

歌野裕

ぶらんこ

 男は家路を急いでいた。腕時計を覗くと、時刻は零時をとうに過ぎている。これほどの時間まで残業をしたのは初めてだが、きっと気丈な妻はまだ起きていて、自分の帰りを待っていることだろう。そう考えると、走るペースも速くなる。

 帰り道も終盤に差し掛かると、雑木林を含んだ公園が見えた。

 この道は通勤時、毎日通る道だが、朝と夕暮れ時にしか見ることのなかった公園は漆黒の闇に包まれた異様な光景だった。

 公園の奥を見ると、昼間には子供たちが無邪気に遊んでいるぶらんこやすべり台、シーソーはもちろん、更に奥には雑木林が一層黒く染めている。

 いつもの男ならそのまま公園の横を素通りしていたはずだ。しかし、今回は勝手が違っていたのだ。

 男は公園の奥に構える雑木林の更に奥――自宅のマンションを眺めて少し考える。


 ――――いつものように公園の横を通れば、公園の向こうにある自宅に着くのは二十分くらいかかるだろう。しかしこの公園の雑木林を突っ切れば、十分足らずで着くのではないだろうか。


 そう考えた男は腕時計を再度確認した。時刻は零時十分。「よし」と心の中で決意し、公園の横を通ろうとしていた足を公園の入口へと変える。そのまま入口に建てられた門をくぐり、雑木林へと向かった。

 ざっざっざっ……

 足元で枯れ木を踏みしめる音が響く。それ以外は無音で、広がる暗闇が音すらも吸い込んでいるようだった。

 男は自分の判断を少しだけ後悔したが、もう後戻りはできない。ここで引き返せば更に時間の浪費になる。男は何も考えず、ただまっすぐ雑木林を突っ切ることだけを念頭に足を動かした。


 ぎぎ……ぎぎぎ……


 男は立ち止まり、周囲を見渡す。視界に映るのはただ蜿蜒と連なる木々のみ。

 ――気のせいか。

 そう自分に言い聞かせて、男はまた走りはじめようとした。


 ぎぎ……ぎぎぎ……


 また聞こえた。どうやら聞き間違いでは無いようだ。男は周囲に目を走らせ、音のする方向を探す。逃げ出したい気持ちが大半を占めていたが、男にとってその音を気にも留めずに走り去ることの方が勇気のいることだ。

 音のする方向を捉えると、その方向へと向かう。

 その音は何かが擦れるような、引っ張っているような音だった。男が近づくにつれ、それはだんだんと大きくなっていく。

 辿りついた男の目に飛び込んだのは――ゆらゆらと前後に揺れるぶらんこに加え、それに乗って遊んでいる小さな男の子。ぶらんこは木製の板を太めの縄で繋いで木の枝に括ってあるようだ。男の子が乗っているぶらんこを吊るす木は人一倍大きく、そして高い。ぴんと引っ張られた縄は途中で闇へと消えてしまっていた。

「おじちゃん。そんなに急いでどこに行くの? おじちゃんも遊ぼうよ」

 その声を聞いた男は背筋を凍らせる。別段なんの不思議も無いまだあどけなさの残る子供の声だ。そしてその声の通り、男の子がぶらんこを揺らしている。青色の半袖のTシャツにカーキ色の短パン、そして黄色いスニーカー。どこにでもいそうな男の子は無邪気に笑いながらこちらに手招きをしている。しかし、男は身体を思うように動かせずにいた。

 もしそちらに近付いたら、もう戻ってこれない気がしたのだ。もちろんそんなフィクションじみたことが起こることなどにわかでは信じられない。だが、明らかにあの男の子は異質だった。

「おじちゃん。このぶらんこに乗って遊ぼうよ」

「君……親御さんたちは?」

「おじちゃん。このぶらんこに乗って遊ぼうよ」

「お父さんやお母さんが心配しているんじゃないか?」

「おじちゃん。このぶらんこに乗って遊ぼうよ」

「おうちはどこ?」

「おじちゃん。このぶらんこに乗って遊ぼうよ」

「……わかった」

「やったあ。おじちゃん。ありがとう」

 ゆっくりと一歩一歩を踏みしめながら、男の子の元へと向かう。

 男の子のそばまで寄ると、そのぶらんこの異様さが際立っていた。

 ずんと佇む大木の遥か上部から吊るされているであろう縄は近くで見上げても尚、先端を確認することは出来ない。しかし、ぶらんこ自体は丈夫なようで、どれだけ男の子が揺らしてもぎしぎしと嫌な音を立てるだけで、縄が切れる雰囲気はまるで無かった。

「さあ、おじちゃん。乗って乗って」

「ありがとう……っ!」

 男の子はぶらんこから降り、男に双方の縄を譲る。男はそれを受け取った瞬間、上に勢いよく引っ張られるような感覚を覚えた。

「危ないなあ。ちゃんと持たなきゃダメだよ」

「あ、ああ……」

 男は曖昧に返事を返すが、この奇妙な感覚を覚えてしまった以上、不安が一層募る。

 この上に持ち上げられるような感覚は何なのだろうか。まるで遥か上空から何者かに引っ張られている感じだ。男は気を取り直し、両手で強く縄を握ると、どっしりと板の上に座った。先程まで男の子が座っていたというのに、板は外気を十分に含んでおり、スラックスの上からでも冷たさを十分に感じた。

「さあ、おじちゃん。勢いが大事だよ。揺れて揺れて!」

 座った瞬間、男の子が乗っていた時よりも一段ぶらんこの高さが低くなった気がしたが、男の子に急かされるがままに、後ろにぶらんこを引き、重力と遠心力に身を任せてぶらんこを漕ぎ始めた。


 ぎしぎし……ぎしぎし……


 縄が擦れる音は男の子が乗っていた時よりも数段大きくなっていた。男はぶらんこを止めようとするが、止めようとすると、何故か子供の視線がやけに気になって躊躇してしまい、なかなか止められずにいた。そんな自分の気弱さに腹立ちながらも、ちらりと男の子を見やると、やはり彼に纏う異質な雰囲気はどうにも立ち向かう勇気を削ぐのに十分なほど威圧感があったのだ。

「おじちゃん、座って漕いでばっかじゃつまんないでしょ。立ち漕ぎをしてみせてよ。おじちゃんは大人だから出来るでしょ?」

 男の子は男の滑る様子に何故か次第に興奮していき、リクエストまでし始めた。

 言われた通り、男は器用に板の上に立つと、また数センチだが、ぶらんこががくりと下がった。なんとかバランスを保ち、スクワットをするようにリズムよく身体を上下にさせながら、ぶらんこに勢いをつけさせる。


 ぎしぎし……ぎしぎし……


「たかぁい! たかぁい! もっともっと!」

 男はなりふり構わず、言われるがままにぶらんこの勢いを上げていく。

 高く高く――

 上へ上へ――


 みしみし……みしみし……


 縄を擦る音は徐々に音質を変え、ぶらんこの高さも漕ぐ度に低くなっていたが、男の耳にはもう届かないし、男にそれを気にする余裕は無い。男は今、男の言葉しか聞こえておらず、ぶらんこを高く高く、上に上にあげることしか頭に無かったのだから。

 ぶんっぶんっと下支点に達する度に空気を切るような音が低く太く響く。男は感覚が麻痺したのかそれすらも心地良く感じるようになっていた。


 そして気分が絶頂に達した時――――、


 みしみし……ばきんっ!


 上空から何かが弾けるような音が聞こえたのと同時に、男の乗っていたぶらんこは床へと叩きつけられた。必然的に男も同様に床に転げ落ち身体を強く打った。

 そしてその衝撃に我に返った男は周囲を見回した。

 周囲には先程まで無邪気に「高く! 高く!」と叫んでいた男の子の姿はない。公園の街灯も申し訳程度しか届かない雑木林の中は男一人だった。

 男は全身が粟立つ恐怖を感じながら、一心不乱に雑木林の中を駆け抜けた。途中、風の音、足元で踏みしめる草木の折れる音、虫の鳴き声――どれをとっても自分を嘲笑っている感じがして、彼は両手を前後に思いっきり振りながら、公園を突き抜けた。

 ようやく抜けたそこにはいつもの川が流れ、川を挟んだ向こうに自宅のマンションが男を出迎えていた。八階建ての最上階に住む男の部屋には電気が付いており、妻が自分の帰りを待っていることを知らせてくれている。


「ただいま」

「おかえりなさい。あら? どうしたの? すごい汗だくじゃない」

 家に着いて早々に妻から詰問されたが、男には答える気力などとうに無く、そのまま倒れこむように布団に入って熟睡を始めた。

「あんなに汗だくで本当にどうしたのかしら?」

 男の妻は、男の態度に少し不安を感じたが、時間も時間のため、自分もとりあえず寝床に着くことにした。

 そうして男にとって長い夜が終わった。


 翌朝、何事も無かったかのように男は目覚め、いつものように妻の淹れたコーヒーとトーストを頬張ると、いつものように会社へと向かった。そして今日も男の足は通勤経路である公園の横を通る。すると、そこにはいつもとは違い何やら人だかりが出来ていた。

 常に時間に余裕を持って行動をしていた男は時刻を確認し、まだ余裕があることを確認すると、人だかりの方へ足を向けた。

「何かあったのですか?」

「実は、あの向こうの雑木林で男の子の死体があったそうなんです。怖いわねえ」

 ――男の子?

 ――死体?

 男の体は心臓を握りしめられたようにびくんと跳ねた。

「ちなみに……どんな男の子でした?」

 なるべく平常心を装いながら、震える声をなんとか堪えて野次馬の一人に話しかける。

「どんな子? 青色の半袖にカーキ色のズボンだったかしら? なんか首に絞めつけられた跡があったらしくて、そばには縄で作られたぶらんこのようなものがあったらしいわよ。怖いわねえ」

「そ、そうですか……」

 男は野次馬の言葉を途中から茫然と聞き流し、ふらふらと歩き出した。

 そんなはずはない……そんなはずはない……。

 公園を後にしようとすると、ちょうど死体と思われるものが載った担架が大きめのバンに乗せようとしているのが目に入った。警察官らしき人物が担架を勢いよく上に上げると、その拍子に担架に被せられた白い布から何かがはみでて、ぽとりと落ちた。

 それは――黄色いスニーカー。

 男は突然目眩がしたかと思うと、腹の中で何かがぐるぐると渦巻き、腹の中のものを全て吐き出して気を失った。


 目を覚ますと、清潔感溢れる純白の天井が視界を覆った。

「あなた! 気が付いたのね? 良かった……」

 男はまだくらくらする頭を押さえながら、状況を確かめる。

 どうやら自分はあの時倒れて気を失ったため、病院へと運び込まれたらしい。

 ゆっくりと周りの様子を確かめると、ここは大部屋のようで淡い桃色のカーテンで六つに仕切られており、満室の状態のようだ。

「本当に気を付けてよ。明日には退院できるそうだけど、過労死も流行っているんだから、もっと自分の体調に気を使ってちょうだい」

「ああ、すまないな」

「まったく……ああ、そうだ。お隣の患者さんが、まだ子供だから話し相手になってあげてね」

「子供……?」

 また妙な胸騒ぎを覚えたが、まさかと自分に言い聞かせ、妻には「わかった」とだけ返し、カーテンを開けた。

 隣で寝ていた子供――男の子は首に包帯を巻き付け、服は病院の服では無く、青色の半袖のTシャツ――……。

 明らかに身体を震わせながら汗を噴き出す男に妻は不思議がっていたが、子供の方に向き直ると、優しく声をかけた。

「ぼく――、おじちゃんは明日まではいるから、仲良くしてあげてね」

「うん! おじちゃん、よろしくね。ところでおじちゃんって――……」

 子供は、顔全体で優しさを前面に押し出した笑顔を込めると、優しい声で、甘える声で、撫でるような声で、無邪気な声で、言葉を続けた。



「……――ぶらんこは好き?」

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