第八話 意思なき罪悪




 小照は手籠め同然に帆波と契ってしまった。

 春先の荒々しい突風に揉まれるように、何もわからないまま純潔を失ってしまった。男の腕の中で震え、朝まで泣き濡れるしかなかった。帆波の方も、小照の無知につけこんで通ってきた節があった。

 翌朝、小照の部屋に男がいることに気づいた彦摩呂と律は腰を抜かさんばかりに驚き、娘を掠め取った帆波に怒り狂った。しかし、小照が部屋に入ることを許したと知ると、その場にへなへなと座りこんだ。律はしばらく放心した後、声を殺して泣き始めた。

 小照はそこで初めて、男を部屋に入れるのは共寝の合意と見なされることを知った。部屋に入れてしまえば既成事実があろうがなかろうが、世間的に婚姻が成立してしまうのだと。結婚は身分の上下に関わらず、男が女の家に通うのが一般的である。一夫一婦の場合は大抵婚姻後に同居する。小照は望まずに帆波と夫婦になってしまった。


 渋る帆波を一旦帰した後で、彦摩呂は小照に涙声で詰め寄った。

「なんという軽率なことをなされたのか。今はかようなあばら家にお住まいでも、あなた様は女王陛下の妹御。いずれは葦原様が良き縁談をお持ちくださったものを。あんなどこの馬の骨ともしれない異国の男と通じるとは、どうお詫び申し上げたらよいのか」

「葦原様……。父様が?」

「そうです。本当のお父君です」

 彦摩呂は拳を床に打ちつけて悔しがった。

 彼は彼で娘はやんごとなき御方のご落胤なので、村の男たちに決して夜這いをかけぬよう徹底周知していた。男たちも彦摩呂を葦原の縁者と知っていたので、小照に近寄らなかった。

 さらには先日、都から使いが来た際に使いの上司の佐野という男から「近々、小照様に初蔓ういつる絡みのご沙汰がある。本決まりになるまでは伏せるように」と言伝ことづてがあった。佐野は神和人の都の屋敷の家令だった。

 初蔓とは、婚姻の遠回しの表現である。実際に小照の縁談を進めていたのは弥央だったが、下々の者にとっては神和人の意向と変わりなかった。

 弥央は息子に認知されない小照の行く末を考え、成人後に葦原の一族の男と結婚させるつもりでいた。小照の素性は王宮では公然の秘密であるし、王妹との結婚を断る者はいない。正式に縁談が決まれば、小照は貴人の妻になれたはずだった。まさか神葛の人間でもない一介の傭兵に奪われるとは、誰も夢にも思わなかった。

 小照は内々に縁談があったという事実を知って愕然とした。その場に打ち伏してさめざめと泣いた。自分は養父母や実父の期待を裏切り、とんでもない過ちを犯してしまったと思った。失ったものはあまりに大きく、後悔してもしきれなかった。彦摩呂は悲嘆にくれながら、小照が縁づいてしまったことを人を介して佐野に伝えた。

 それからも、帆波は足繁く小照の元に通ってきた。

 帆波自身は小照を手に入れたことと、神葛での拠点ができたことに満足していた。彦摩呂らと小照は仕方なく帆波を婿として受け入れた。

 彼は仕事を探していると言いつつも、金に困っている様子はなかった。都へ頻繁に出かけ、数日おきに玻里に戻ってきて小照に土産や小金を渡した。

 都では日雇い仕事をしていると言ったが、彼が実際何をしているのかはよくわからなかった。



 神葛の北部三県は、弥隆の治世の下で長年汚職が横行しており、神和人の管轄に入った後も改まる気配を見せなかった。何をするにしても収賄が当たり前で、官吏も人民も悪しき慣習に慣れきってしまっていた。

 都からの指示だけでは到底正せないと感じた神和人は、現地の声を聞くために北部に視察に出かけた。これまでも地方へ出ることはあったが、今回の民情視察は長かった。

 神和人が北部へ発って十日も経つと、伊邪夜は心にぽっかりと穴が空いたようになった。森を歩いても木精の声を聞いても、心の隙間は埋まらなかった。

 伊邪夜は小照を呼ぶことにした。

 小照の、神和人に似た顔を見れば心が慰められるだろうと思った。

 いつものように玻里に使いを出した。


 結婚以来、小照は村でとても肩身の狭い思いをしていた。

 帆波を婿にしたことはすぐに村中に知れ渡り、「貴人のご落胤が傭兵とつがうのか。百姓以下の婿とはお安い姫よ」と笑い者にされていた。屈辱的な噂に耐える養父母を見ているのも辛かった。

 あまりに恥ずかしくて王宮にも行きたくなかったが、女王の召し出しを断ることはできない。

 小照は消え入りたい気持ちで王宮へ参った。

 野和に案内されて内宮の廊下を渡っていると、曲がり角で「もし」と小さな声がした。立ち止まって声がした方を見ると、官服を着た青年が立っていた。

「八兄様」

 野和が青年を見て言った。

 神和人の七番目の異母弟で、野和の直近の兄である香柏こうはくだった。香柏は小照の顔をじっと見て、遠慮がちに口を開いた。

「すみません、未練がましくもついお声がけを。ですが、小照様に一言お詫び申し上げたく」

「私に?」

 小照は戸惑った。香柏が自分に何を詫びるのか見当もつかなかった。

「先日の初蔓絡みの件です。主上の寵愛篤き小照様をいただけるとは身に余る光栄と喜び、多忙な神和人様に代わってしっかりとお世話して差し上げたいと思っておりました。万全の状態でお迎えすべく屋敷も増築させていたのです。ですが、その間に他の方に縁づかれたと知り……誠に残念極まりなく。もっと早くに文を差し上げるべきでした。あなた様をいつも遠くから眺めるだけだった己の小心を恥じ入るばかりです」

 香柏は不手際を詫び、悲しそうに肩を落として去っていった。

 野和は簡潔に香柏のことを話した。小照は縁談の相手が香伯であったことを知った。香柏は二十歳で妻はなく、おとなしいが真面目な性格だった。貴人の結婚は相手が親族の場合、甥よりも従兄弟、従兄弟よりも叔父と、親に親等が近いほど格が上がる。野和も密かに良縁だと思っていた。

 小照は結婚の格付はわからなかったが、父の弟である香柏は申し分のない相手に思えた。少なくとも、彼は自分をだまし討ちのように襲ったりはしなかっただろうと思った。

 小照の声は微かに震えた。

「葦原の皆様は、私のことを思っていてくださったのですね」

 野和はどう答えていいものか迷ったが、自分の気持ちを正直に告げた。

「その、私どもも以前から小照様とお近づきになりたいと考えていたのです。兄の妻になられれば、親族として行き来が可能になりますし。色々と楽しい行事もご一緒できたかと……」

 小照は再び深い悲しみに沈んだ。香柏と結婚すれば、自分は葦原の一員になれた。村を出て都で暮らせた。得られるはずだった幸福を、自ら逃してしまったのだと思った。


 いつもの部屋に通された後、伊邪夜が来て二人は対面した。

 伊邪夜は憔れた小照の顔を見て不審に思った。心なしか痩せたようにも見えた。

 野和に命じて、小照の好きな蔗糖を使った干菓子や茶を出させた。

 しかし、小照は喉を通らない。

 先程の香柏との縁談を思うたび、著しい後悔がこみ上げてくる。

 母は神葛の女王。父は葦原の総代で実質上の統治者。

 国で一番二番の高貴な二人の間に産まれたからには、自分の結婚相手は最低でも殿上人でなければならなかったはずだ。

 それなのに、自分は好きでもない下賎な傭兵と契ってしまった。抵抗すらせず、大事な操を安売りしてしまった。きっと宮中でも散々笑い者になっていることだろう。

 何より、父の愛情を無下にしてしまったことが辛かった。


(父様には嫌われていると思っていたけれどそうではなかった。この上ない立派な縁談を用意してくださったのに、そのお気持ちを踏み躙ってしまった。きっと大変に浅ましく情けないことと怒っておられる。もう私には愛想を尽かされたに違いない)


 そう思うと、堪えきれず涙がぽろぽろと溢れた。

 小照が突然泣きだしたのを見て、伊邪夜は動揺した。

 なぜ小照が泣くのかわからなかった。伊邪夜は物心ついた時から一度も泣いたことがなかった。人の心を、人の複雑な感情を持っていなかった。

 分身で半分は精霊である小照もそうだと思っていた。

「小照、どうした」

 伊邪夜が尋ねると、小照はああと両手で顔を覆った。

「……主上、お許しください」

 小照は立ち上ると、逃げるように部屋を飛び出した。

「小照様?」

 入口近くに控えていた野和が、慌てて後を追っていった。


 しばらくして野和が戻ってきた。

 小照は気分が悪く、控えの間で休んでいるという。

 それも伊邪夜にとっては不可解だった。自分も小照も人型を持ってはいるが、人と同じからだではないはずだった。体調不良になることはあり得なかった。

 伊邪夜は半時ほど経ってから、小照が寝ているという控えの間へ入った。

 小照は几帳の影に敷かれた布団の上に仰向けで横臥していた。泣き疲れて寝てしまっていた。

「小照、寝ておるのか」

 伊邪夜は小照の傍へ行き、膝をついて顔を覗きこんだ。

 白い頬に涙が伝った跡があった。きつく閉じられた瞼に、隠しきれない苦悩が滲んでいる。その顔を見ていると、しみじみと憐れみ深い気持ちがこみ上げてきた。

 伊邪夜はそっと顔を近づけた。

 哀れな小照の唇に、己のそれを重ね合わせた。

「……っ!」

 唇と唇が触れあった瞬間、伊邪夜はハッとして身を離した。

 自分は今、何をしたのか。小照の口を吸ったと気づくと気が遠くなった。

 指先で唇を押さえた。柔らかくも生々しい感触と体温が残っている。

 弾かれたように立ち上がり、唇を押さえたまま部屋を飛び出した。

 なぜこんなことをしたのかわからなかった。

 戯れか。気の迷いか。

 いや、そうしたかったから口づけたのだ。

 小照が愛しいのか? 違う。

 分身に触れたのは、究極の自己愛の表れか? 違う。

 ぎゅうと着物の衿を握った。息が苦しくなった。

 違う。違う。違った。そうではなかった。

 伊邪夜は、今こそ心に奥底に潜む真なる願望を知ってしまった。

 自分が惹かれているのは、小照の内にある人間の因だった。

 求めているのは、その因の持ち主だった。


(小照ではない。あれは身代わりだ。我は、我の本当の望みは……)


 半刻ほどして、野和が小照が目覚めたことを伝えてきた。

 伊邪夜は会わなかった。あんなことをしておいて会えるはずがなかった。

 何も知らない小照は、自分の無礼に姉は怒ったのだと思った。

 何度も非礼を詫び、またべそをかきながら帰っていった。






 ……。

 …………。

 ………………。

 ――どこからか、押し殺すような呻き声が聞こえる。

 シャッ、シャッと何か手荒に打ちつけるような音も。

 伊邪夜は不意に覚醒した。そこは自分が住まう藤尋殿の中だった。

 部屋は違うが、御帳台があり寝所のようである。

 隣りの間には灯りがともり、淡い光源で周囲の様子がわかった。

 伊邪夜は素肌に薄物一つ羽織っただけのしどけない姿で立っていた。手に何か固いものを握っている。床には衣類が散らばっている。

 目の前には、全裸の男が背を向けて踞っていた。男の背中は真っ赤な血を噴き、幾つも傷をつくって腫れ上がっていた。

 伊邪夜はその背中に、鋭い棘の生えた野茨のばらの枝を振り下ろした。

 棘が男の皮膚を裂き、新たな傷を作った。男がううっと呻いた。

「主上……」

 許しを乞うように後ろを振りむいた。

 それは今よりも若い神和人だった。髪は乱れ、こめかみを冷たい汗が伝っている。苦悶に顔を歪ませている。

 伊邪夜は驚愕した。なぜ自分がこんなことをしているのかわからなかった。

 打擲をやめようとした。しかし、からだは自分の思い通りに動かない。

 操られているように、何度も何度も神和人を打った。そんなことはしたくないのに打った。神和人はそのたびに低く呻いた。よくよく見れば、彼の背中には無数の傷痕があった。初めての折檻ではなかった。

「一体、ぬしほどの傲岸な人間があろうか。天恵森羅てんけいしんら神夫かむつまに選ばれながら、一徹して魂で拒み通す。不敬な。なぜ、なぜしょうを受け入れぬ」

 伊邪夜は神和人を罵った。声は確かに伊邪夜と同じながら、伊邪夜が発したものではなかった。

 伊邪夜は気づいた。これは自分ではない。自分と同じ形をしたものであると。

 ……眞枝夜だ。伊邪夜は眞枝夜の中にいた。からだが思い通りに動かないのは、過去の眞枝夜の記憶であるからだった。

 眞枝夜の心は荒れ狂い、烈火の如く怒りに燃えていた。

 怒りに任せ、何度も何度も神和人を打ち据えた。手ごたえが生々しく伝わってきた。やめよ、やめよと伊邪夜は声にならない声で叫んだ。

「この人でなしめ。ぬしの子を生んでやったのに喜びもせず。寵愛に応えもせず」

「……っ」

 神和人は荒い息を吐き、黙って耐えている。

「応えよ!」

 眞枝夜は叫んだ。一際強く打った。酷い音がした。皮膚が切れて新たな鮮血が滲み、堪らず神和人は口を開いた。

「どうか、どうか……お許しを。私は主上の寵幸ちょうこうに値しません。御伽おとぎの務めを果たすことは叶いません」

「許さぬ。許せたら、許せたらどんなに良かったか……。ぬしを諦められたらどんなに……」

 眞枝夜はそこで打つ手を止めた。

 忠実ではあるが、決して自分を受け入れようとはしない男を見つめた。

 目の前の背中は全身全霊で自分を拒んでいた。

 嫌だと、身も心も触れ合いたくないと語っていた。

 それが否応なくわかってしまうのだった。眞枝夜の心は、悲しみに引き裂かれた。

「妾に触れよ」

 そう言われた瞬間、神和人は怯えたように両手で耳を塞いだ。悲痛な声で叫んだ。

「おやめください。その声はおやめください! 主上!」

 伊邪夜は目を閉じたかった。もう何も見たくなかった。何も聞きたくなかった。

 眞枝夜が神和人に何をしようとしているのかわかってしまった。

 心が沿わないと知りつつ、眞枝夜は神和人に奉仕を命じた。人には抗えない神力を以って――。



 場面が変わった。

 伊邪夜はまた眞枝夜の中にいた。今度はどこかの一室で神和人と揉みあっている。

 眞枝夜は部屋の外へ出ていこうとし、神和人はそれを必死に押しとどめていた。眞枝夜の腕を掴み、何がなんでも外へ出すまいとしていた。

 眞枝夜は神和人に縋りついて叫んだ。

「伊邪夜を、伊邪夜を連れて参れ」

「なりません主上」

「なぜだ。我が娘ぞ。母が娘に会って何がおかしい」

「なりません。どうか気を落ち着けて、何卒お鎮まりください」

 神和人は眞枝夜のただならぬ殺気に気づいている。伊邪夜を連れてくれば即刻殺されるとわかっていた。

「だめだ。殺さねばならぬ。あれを殺さねば、妾が殺される。あれはいずれ妾を殺しに来る」

「そのようなことはありません。どうかお気を確かに」

「馬鹿な。伊邪夜、あれは妾だ。あれも同じだ。ぬしを愛してしまう。……違う、違う! 伊邪夜は妾ではない。妾ではない。別の女だ。ぬしをたぶらかす魔性だ」

「何を仰っておられるのですか」

 神和人の顔に困惑が滲む。眞枝夜が口走ることは狂言としか思えない。

「ぬしはなぜ伊邪夜を庇う。あれを好いておるのか。妾より若く美しいあれを。そうか、今から手なずけて我が物にしようという魂胆か。自ら弄るだけでは飽き足らず、夜毎に金を取って手下に売るつもりなのか。薄汚い人間どもめ。伊邪夜も慰み者にするつもりなのだな」

「そのようなことは考えたこともございません」

「嘘をつけ。弥隆が謀反を起こした時も、ぬしは伊邪夜を連れて逃げた。妾を見捨てた。主である妾より伊邪夜を選んだ」

「伊邪夜様は幼子にございます。自分の身を守れぬ幼子の安全を優先するのは当然ではございませんか」

「いいや、騙されぬ。ぬしは伊邪夜に物を贈った。人形や櫛や動物を。妾よりも余程あれを大事にしている」

「誰でも贈っております。他愛のない子供の遊び道具でございます」

「伊邪夜に会いにいくではないか。そんなに妾の傍にいたくないのか。そこまで厭うのか」

「……母に呼ばれて行くだけでございます」

 神和人の声には例えようのない深い疲労が滲んでいる。

 こんな不毛な会話を一体幾度繰り返してきたのだろう。

 些細なことを嫉妬され、詰られ、罵倒され、裸にされて打たれて辱しめられる。彼は眞枝夜の傍で、針の筵の上を歩くような艱苦かんくの日々を送っていた。

「違う。ぬしはあれに惹かれている。わかる。嫌でもぬしの心がわかる。嫌だ。絶対に嫌だ。裏切り者、裏切り者め。死ね。死ね。死んでしまえ!」

 眞枝夜は惑乱し、叫びながら神和人の胸を叩いた。その頬を打った。何度も殴りつけた。

 もう神の威容も女王の威厳もなかった。

 いくら愛しても報われない想いに苦しみ、自分と同じ容姿を持つ娘に嫉妬し、怒り狂うただの女だった。

「伊邪夜を殺す。ぬしは絶対に渡さぬ。奪られる前に殺す」

「なりません。伊邪夜様は神葛の後継でございます」

「小照を王位につければよい。ぬしの子ぞ。ぬしの子が王になるというのになぜ喜ばぬ。この毒性め。薄情者め」

 罵られた神和人はぶるりと総身を震わせた。歯を食いしばり、大きく首を横に振った。完全なる否定だった。

 一言一句を搾り出すように、呻くように言った。

「……違います。小照様は私の子ではありません。あれは……私が生んだ罪悪です。主上をこんなにも苦しめる、私の意思なき罪悪です。望んだことなど、ただの一度もなかった……。私は人間の出来損ないです。その出来損ないが神であるあなた様を穢してしまった。あの子は生まれてきてはいけなかったのに」

 伊邪夜は、目の前の男の悲しみに押し潰されそうになった。

 犯されているのは彼の方なのに、虐げられているのは彼の方なのに、結果として神を、眞枝夜を孕ませてしまった。子を望まなかったのに、小照は生まれてきてしまった。その事実にどれほど苦悩したのだろう。

 神和人は心こそ沿わずとも、眞枝夜を裏切ってはいない。そのことを何度も何度も伝えているのに、眞枝夜には届かない。届くはずもない。

 中にいる伊邪夜にはわかった。眞枝夜はもう狂い始めているのだと――。



 また場面が変わった。今度は玉座の間だった。

 そこは一面血の海だった。赤い絨毯をさらに赤黒く染めた上に、無数の死体が積み重なっていた。

 死体は全員が女だった。お目見え以上もお目見え以下も女官も下巫も関係なく王宮内の女が集められ、兵士たちに次々と首をねられている。

「主上、主上。お許しを!」

 伊邪夜は目の前で悲鳴を上げ、泣き叫んで許しを乞う女たちを見つめた。

 殺したくなかった。だが、眞枝夜は許さない。冷徹極まりなく次々と処刑を命じてゆく。鮮血が飛ぶ。首が転げる。阿鼻叫喚の地獄絵図だった。

 兵士たちの目は一様にどろりと濁り、あらぬ方向を向いている。聖来の蔓で操られている。

「主上、おやめください! 主上! どうかお鎮まりください」

 神和人の声が聞こえる。彼もまた打たれたのか額から血を流し、兵士たちに取り押さえられていた。必死に身を捩って、眞枝夜の暴虐を止めようとしている。

 兵士に腕を掴まれ、新たな女官が引き立てられてきた。

 眞枝夜は女官を注視し、歌うようになめらかな声で言った。

「……この売女め。神和人に色目を使うたな」

 女官の顔が絶望に歪んだ。

「主上、主上……! わかりませぬのか。私をお忘れになったのですか。どうして弟に色目を使いましょうや」

「殺せ」

 眞枝夜は容赦なく命じた。女官は神和人に向かって叫んだ。

「一臣、実利をおねが……」

 だが、声は途中で途切れた。

 無情に振り下ろされた斧が女官の首を断ち切った。首は真っ赤な血を噴きながら、ごろごろと絨毯の上を転げた。

「姉さん!」

 悲痛な声がこだました。

 眞枝夜は、長年自分に仕えた弥佳をも殺してしまった。

 伊邪夜は思った。もうだめだ。眞枝夜は狂っている。完全に狂っている。

 彼女はなるべくしてこうなってしまった。己と伊邪夜と小照とで自己は三つに分裂し、娘たちは年々自意識を増してゆく。娘という名の別の人格に精神を侵され、さらには適わぬ愛にもがき苦しんだ。

 行き場のない嫉妬に我を忘れ、王宮にいる巫を、女を全員殺すつもりでいる。

 女という女を殺しつくせば、王宮の外の人民に手をかけるかもしれない。

 もはや眞枝夜は人間に災厄しか齎さないまがツ神に堕ちようとしていた。


 尚も淡々と殺戮は続いた。

 放り出された弥佳の上に、さらに死体が折り重ってゆく。

 玉座の間に女たちの姿が消えると、眞枝夜はふらふらと神和人の前へ行った。アハハハハと狂気の滲む声でひとしきり哄笑した。

「喜べ、神和人。ぬしにたかる小蠅どもを退治してやったぞ。許さぬ。ぬしに近づく女は全て殺してやる。呪うてやる」

 伊邪夜は鏡を見ずともわかった。

 眞枝夜は、天稟の美貌を持ちながら世界一醜い顔をしている。愛する男の前で、そうとは気づかずこれ以上とない惨めな醜態を晒している。

「主上……」

 神和人は悄然と呟いた。

 その澄み通った瞳は、もう眞枝夜に何の言葉も届かないことを理解していた。

「さあ、伊邪夜を殺す。ぬしが止めるなら小照も殺す。構わぬ。娘などいらぬ。ぬしさえいればよい。この身が裂けようともまたぬしの子を生む。何人でも生んで殺してやる」

 眞枝夜が笑いながら言ったその瞬間だった。

 神和人の目に涙が溢れた。

 彼は眞枝夜の前で初めて泣いた。頬を幾筋も涙が伝った。

「殺してください……」

 神和人は泣きながら哀願した。眞枝夜は笑うのをやめた。

「神和人……?」

「……なぜ、私を殺してくださらぬのです。なぜ私以外の者を隠されるのです。私は王宮へ死ぬために参ったのです。人の世界に迎合できず、神の御園に参ることだけが今生の願いでした。賜死ししこそがまことの慈悲です。神の至上の愛です。なぜ私には賜わしてくださらないのです」

「違う、違う……。神和人、そんな……やめよ」

 眞枝夜は神和人の涙にひどく狼狽した。

 嫌だった。この男が泣くのは嫌だった。愛されないことよりも何十倍も何百倍も辛かった。悲しみを直視できなかった。

「やめよ、泣くな。神和人、泣くな」

「私を愛しておられるというなら、どうか殺してください。あなた様を鎮められない以上、存えていても仕方ありません。殺してください」

「嫌だ。嫌だ。嫌だ。ぬしは殺さぬ。殺せぬ!」

 眞枝夜はだだをこねる幼子のように首を振り、力の限り叫んだ。

 震える手で頭に挿していた金の簪を引き抜いた。

「違う、違う。そんなつもりはない。許せ……許せ。ぬしが好きだ。本当に好きだ。好きと言ってもらえなくても好きだ。ぬしさえいれば良かった……。妾のためにぬしが泣くなら……妾が去る。妾が去ればよい」

 眞枝夜は喉に簪を突きつけた。死ぬことは怖くなかった。

 ただ、目の前の男をこれ以上泣かせたくなかった。悲しませたくなかった。愛していた。ひたすらに、心が壊れるほどに、壊れてしまってもこの男を愛していた。

 眞枝夜は簪を握った手に力を込めた。

「主上!」

 最後に神和人の声が聞こえた。

 喉に鋭い痛みが走り、伊邪夜の視界は真っ暗な闇に包まれた。



「……神和人!」

 伊邪夜は叫び、寝台の上に跳ね起きた。

 からだが発火したように熱い。全身から汗を噴いていた。

 胸のうちに、怒りとも悲しみともつかない激しい衝動があった。

 伊邪夜は何かに憑かれたように立ち上がった。寝巻きの小袖一枚のままで、脱兎の如く部屋を飛び出した。

 裸足のまま庭へ降り、庭を突っきって北の森へと走りこんだ。

 狂ったように走り続け、奥のけやきの大木の前まで来ると力尽きて崩れ落ちた。しばらく地に突っ伏し、それから太い幹に抱きつくようにして縋りついた。

 ……知りたくなかった。こんなことは知りたくなかった。

 眞枝夜は十数年に渡って神和人に同衾を強要していた。

 拒まれると打擲し、聖来の蔓で操って陵辱していた。罵倒し、暴力を振るい、散々に苦しめていた。

 眞枝夜の悲しみも知ってしまった。彼女はただ、愛する男に愛されたいだけだった。愛して欲しい一心で小照を生んだ。世間の男がそうであるように、子を生めば自分に振り向いてくれると思ったのだろう。それが更に神和人を苦しめるとは知らずに……。

 男恋しさのあまり、伊邪夜を生んでから十二年も存えた。一心に愛し続けたのに報われず、最後は狂って破滅した。眞枝夜は人間を愛したがゆえに滅んだ。

 伊邪夜は幹に縋りながら震えた。

 案の定、自分は眞枝夜が恐れた通りになっている。

 また同じ男に惹かれ、同じ過ちを繰り返そうとしている。


(嫌だ。こんな思いをするなら人の形などいらない。樹に戻ってしまいたい。大霊樹に還ってしまいたい……)


 叶わないと知りつつも、伊邪夜は古木に触れながら祈った。

 もはや人型そのものが厭わしかった。




 小照を呼んだ翌日から、伊邪夜は部屋に閉じこもり一切外へ出なくなった。

 野和は突然にも引き籠ってしまった主のことが心配でならない。

 食事を運んでも手をつけた様子はない。何度声をかけても返事がない。

 もしや荒魂になる前兆なのかもしれないと思ったりもした。

 頼みの兄は視察で留守にしている。

 もし伊邪夜が怒ったら自分に鎮める力はない。その時は隠された姉たちのように率先して死ななければならないと思い、息を詰めて隣室に控えていた。

 だが伊邪夜は終始ぼうっとしているか、滾々と眠るばかりで荒ぶることはなかった。


 十日後に神和人が王宮に帰還すると、野和は外宮まで飛んでいって伊邪夜の不調を伝えた。

 神和人は着替えもせずに、そのまま藤尋殿に参った。

「主上」

 彼は緊急事態と思ったのか、入室の許可も得ずに部屋に入ってきた。

 部屋の隅に踞った伊邪夜の傍までくると膝をついた。

「主上、野和から聞きました。具合がよろしくないとか」

 伊邪夜は閉じていた目を開けた。

 冬眠するように精神の底に沈んでいたが、神和人の声に呼び覚まされた。

「……大事ない」

 努めて素っ気なく答えたものの、あてどない喜びが声に滲んでしまった。

 いけないと思いつつも、神和人が帰ってきたことが無性に嬉しかった。

 彼の清廉な気がどうしようもなく心地よかった。この気はいつも自分を安らがせる。傍に置きたいと思ってしまう。

 ふと、幼い頃に可愛がっていた四十雀のことを思い出した。

 綺麗な小鳥だった。毎日手ずから餌や水をやり、手や肩に乗せて遊んでいた。鳥が欲しかったわけではなかった。神和人がくれたことが嬉しかった。だからこそ傍に置いて大事にしていた。

 あの当時から、伊邪夜はこの男に惹かれていた。この男が欲しかった。

 もし自分に神力があったなら、眞枝夜を殺してでも奪い取っていただろう。そういう生き物なのだ己は。


 伊邪夜は力なく呟いた。

「神和人、許せ」

「何を許せと仰るのです」

「……昔、其方がくれた鳥を池に沈めた」

 それしか言うことができなかった。

 眞枝夜の狼藉のことを詫びるのは、この男を辱しめることになる。

 神和人の背中をはじめとして、からだに残る無数の傷痕。眞枝夜が他の女を抱けないようにと執拗に打ってつけた傷だった。本人にとっては、誰にも知られたくない恥部に違いなかった。

「むごいことをした。許せ」

 神和人も当時のことを思い出したのか、少し俯いた。

「……これはまた昔のことを」

 心を欠陥し人が愛せないといっても、感情がないわけではないだろう。

 恬淡としていても、彼もまた眞枝夜の暴虐や身内の死を悲しんできたはずだった。

 悲しみながらも、必死に伊邪夜を守ってきた。伊邪夜は国の、神葛の後継だった。

 伊邪夜はしみじみと問いかけた。

「悲しかったか」

「……はい。沈められたのは私の心かと。ですが、主上がそう仰ってくださって長年の胸のつかえが取れました」

 神和人の口もとが微かに緩んだ。薄く笑った。

 伊邪夜もつられて笑った。心には、静まり返った湖面のような諦念があった。

 神和人は眞枝夜を愛さなかった。いや、どう努力しても愛せなかった。

 あまりにも魂が潔癖すぎた。愛せない代わりに、忠義を以って誠心誠意眞枝夜に尽くした。他の女にも触れず貞潔だった。それでも眞枝夜は狂ってしまった。

 この男は毒なのだ。清浄なる毒。

 誰よりも国と人民を思いながら、清廉潔白でありながら、神を狂わせ意思なき罪悪を犯してしまう人間の毒。

 彼に触れてはならない、伊邪夜はそう自分を戒める。

 どんなに惹かれても、どんなに胸が苦しくても。

 そうしなくては自分もまた愛欲に溺れ、嫉妬に狂い、人間たちを祟ってしまう。


 伊邪夜はゆるゆると息を吐き、きっぱりと命じた。

「下がれ。明日は外に出る」

「いいえ、今日はお傍に。荒魂になられては困りますので」

「荒ぶりはせぬ。其方の顔を見たら気が晴れた」

「それならば、お食事をしていただきませんと。野和も疲れているようですので一旦休ませます。しばらくは私がお世話いたします」

 神和人は珍しく強情だった。その後もなんだかんだと理由をつけて伊邪夜の傍を離れなかった。

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