第七話 平穏にさざ波立つ〈下〉




 忍び込むようにして日祈殿に上がり、兄の部屋へ行く。

 障子紙を貼った丸窓から灯りが漏れ、薄ぼんやりした人影が見えた。

兄様あにさま、入りますよ」

 一応にも呼びかけてから、野和は荷物を抱え直して中へ入った。

 取次ぎの者はいない。ここには下男、下女の一人も置いていなかった。

 神和人も野和と同じで、貴人でありながら貴人らしからぬ生活を送っていた。着替えを始めとして日常の殆どのことを一人でこなしてしまう。

 週に一度、都の屋敷の家令が来るので家事や雑用を任せている。それで事足りるようだ。

 人の出入り自体を嫌うので、部屋に入れる者も限られている。面倒な手続きを経ずにすぐ会えるのはありがたいが、些か不用心な気もする。


 住居といっても、小さな控えの間と執務室と寝所の三部屋のみだった。

 どの部屋にも必要最低限の家具しかない。

 野和も奥宮勤めとなって、初めて訪れた時は驚いた。

 引き取られて暮らしていた都の屋敷は使用人も多く、それなりに豪華な体裁を保っていた。当の主人は滅多に帰ってこず、長年留守の状態が続いている。さぞかし王宮での雅な生活が気にいっているのかと思いきや、下巫の大部屋と変わらない質素極まる部屋で寝起きしている。

 別に清貧を心がけたり、質素倹約を旨としているわけではなかった。

 彼は自分が楽しむための奢侈な生活や贅沢品には全く興味がなかった。美酒や美食、賭け事、女色など人の世に溢れる享楽にも関心がなかった。

 人付き合いもほぼないに等しい。政務以外で人に会うことはなく、臣下のいかなる招きにも応じない。友人もなく、趣味も持たない。王宮の行事や祭事の宴には一応出るものの、すぐに奥に引っ込んでしまう。

 家族すらも避けている節があり、団らんに加わろうとはしなかった。一族の冠婚葬祭にも名代を立てて顔を出さない。敬遠は同腹で唯一仲の良かった姉の弥佳みよしが亡くなると一層顕著になった。権力の中枢に身を置きながら厭世的ですらあった。

 弥央は「あの子は何が楽しくて生きているのだろう」と愚痴をこぼすが、野和もその気持ちはわからないでもない。

 兄の生き方は世俗に染まらない分、高潔であるかもしれない。だがあまりにも寂寞せきばくとし、孤高に過ぎるように思う。


 執務室に入ると、神和人は古い竹簡ちくかんや巻物の山に埋もれるようにして机に向かっていた。眉間に皺をよせ、難しい顔をして書き物をしている。

 深夜でも早朝でも、いつ訪ねても灯りがついている。夜が明けると内宮の大本殿に入って政務を執り行い、伊邪夜の補佐をし、夜更けまで働いた後も自室に戻って仕事をしている。

 特に今は北部の復興が急務だった。

 内戦が終結すると、神和人は南部の自分の領地を献上という形で女王の直轄領にしてしまい、弥隆の苛政と天災と内戦で荒れ果てた北部三県をそっくり引き受けた。人民の救済と町村の再興、難民の帰還指示、戦死者と遺族への保障、悪政に荷担した官吏の懲罰、荒れ地の潅漑かんがいなど問題は山積みで息つく暇もない。

 明けても暮れても政に精を出す兄を野和は尊敬する一方、この人は一体いつ寝ているのだろうと心配になる。この国の平和は、兄のいっそ悲愴なまでの忠義と献身で保たれている気がする。


「兄様」

 野和が再度呼びかけると、神和人は顔を上げた。

「主上はもう寝まれたのか」

「はい、今日はお早めに寝所に入られました」

「外にお出になったのか」

「はい、森へ。終日過ごされるということで、私にはお暇を」

 伊邪夜は普段からよく一人で北の森へ入ってゆく。

 よく知った庭のように、いや本来の家であるかのように闊歩する。

 森の神ゆえに人間には見えない世界を見、精霊の声を聞いているのだろう。散策の同伴が許されるのは神和人だけだった。

「そうか。ご苦労」

 神和人はそれだけ聞くと、再び紙面に視線を落とした。

 彼が野和に尋ねるのは、伊邪夜のことのみだった。

 それ以外のことは何も聞いてこない。野和自身にも興味がないようだった。必要なことだけ知ると、あとは空気のような扱いだった。

 野和は当初、兄のこの悪気のない透明な無関心さに傷ついた。

 これまでの人生において、人の悪意については大分慣れているつもりだった。幼少期の極貧生活では義父の暴力をはじめ様々な冷たい仕打ちを受けてきたし、宮仕えを始めた後も裏では婢の子と陰口を叩かれ、出世を妬まれた。

 実利との破談の件にしても面白おかしく尾ひれがついて、さも野和の方に問題があったかのように噂されている。腹立たしいが、中傷にいちいち構ってはいられなかった。攻撃されるのも、相手が自分に関心を持っている証と知っていた。気になるからこそ、足を引っ張ってくるのだと。

 だからこそ、兄の無関心の方が余計に堪えた。

 実は嫌われているのかと思うと、心が奈落の底に沈むようだった。

 やがて兄が誰に対しても淡泊であり、それゆえに情に流されることもないと知るとそういう人なのだと思うようになった。

 兄にとって大事なのは、国と人民と人民の精神的支柱である女王のみ。

 もし嫌っているのなら、野和を大事な主の傍に置くはずがないし、職務であっても部屋に入れてくれないだろう。信頼してくれていると信じたかった。


「さてと、お茶でも淹れますね」

 野和は報告を終えた後も、しばらく兄の部屋にいるつもりだった。

 何も言われないのをいいことに茶を淹れたり、花を飾ってみたり、燭台に油を足したり、音をたてないように掃除したりもする。勝手な世話焼きは今や日課となっていた。

 気を取り直して、持ってきた瓶を開けた。小さな碗を取り出し、干し杏の甘葛煎漬けを盛った。

「これはお土産です。お茶うけにどうぞ」

 碗を机の端に置くと、神和人は少し驚いたような顔をした。

 紙に筆を走らせながらも、気になるのかちらちらと碗を見ている。

 野和は一旦部屋の外に出ることにした。

 内宮のくりやで湯をもらって戻ってくると、やはり我慢できなかったとみえて兄は菓子を口に入れていた。

 それを見て野和はホッとした。

 神和人はこの恐ろしく甘い干菓子を家令に命じて持ってこさせ、仕事の合間にちょくちょく食べていた。高価な蜂蜜や蔗糖しょとう(砂糖)を使った菓子だっていくらでも口にできるのに、安価な庶民の菓子を好んだ。

 先日、野和は何の気もなくそのことを伊邪夜に話した。

 伊邪夜は「女子供のようだな」と言って笑った。確かに菓子は女子供が食べるものとされている。成人した男が食するのは珍しい。

 伊邪夜が笑ったと伝え聞いた神和人は、何を思ったのか干し杏の甘葛煎漬けを口にしなくなった。が、この菓子をってからはどうも元気がない。仕事をしながらも、時折思い出したように溜息をついている。

 そこで野和は気づいた。干し杏の甘葛煎漬けは、酒を飲まず女とも遊ばない兄の唯一の楽しみであったのだと。

 これは悪いことをしたと思い、暇のついでに都で買ってきたのだった。


 野和はお茶を淹れて差し出した。

 早くも碗が空になりかけているのに気づき、また瓶から足した。

「兄様、まだまだありますから。気にせず食べてください」

「……」

「主上だって、男らしくないという意味で笑ったんじゃないと思いますよ」

 神和人は顔を上げ、怪訝そうな声で言った。

「そうなのか?」

「そうですよ。とてもお優しい笑みでしたし」

 野和は伊邪夜の天福としか表現できない微笑を思い出した。

 兄の話をすると伊邪夜は笑う。花のような唇がふわりと上向きに反って、美貌が際立つ。

「卑しいものを好むと思われてないだろうか」

「大丈夫ですって」

 尚も気にしているのに、野和は思わず吹き出しそうになった。案外、可愛い人だと思った。

 神和人は仏頂面のまま、碗に手を伸ばしながら言った。

「私がまたこれを食べたことは主上に申し上げるな」

「言いませんてば。これからは私の名で買って持ってきますから。安心してください」

「……頼む」

 兄に頼りにされて、野和はすっかり嬉しくなった。

 いつもは何を言っても答えないのに、今夜は珍しくよく話す。菓子の効果かもしれない。重たい荷物を持って帰ってきた甲斐があった。


 下官から預かった文のことも思い出し、いそいそと文箱を持ってくる。

 今日の分も入れておこうと蓋を開けると既に恋文でいっぱいだった。そんな暇もないのだろうが、相変わらず読んでいないようだ。

 仕方なく箱に押しこみながら言った。

「兄様。兄様は好きな人と結婚してくださいね。お金とか地位目当てじゃなくて、兄様を真実愛してくれる人と」

 微かに嘆息する気配がした。

「また母から何か言われたのか」

「違います。これだけ国のために尽くしているんですから、結婚くらいは好きな人としないと。私は兄様に幸せになって欲しいんです」

「……誰とどうなる気もない。見せられたものではない」

「え、何がです?」

 何が見せられないのか気になったが、それに対する返事はなかった。

「でもその気がないなら、お断りの返事くらいは出した方が良いのでは。私が口を挟むことじゃありませんけど、皆さんお返事を待っているみたいですよ」

「そのうちまとめて実利に代筆させる」

「代筆……。ってそれですよ、それ! 実利に書かせているから誰も諦めないんですって」

 野和は断っても断っても恋文が途切れない原因がわかった。

 実利が返事を代筆しているからだ。達筆だが、あの遊び人のことだ。断るにしてもさぞかし思わせぶりな、相手に期待を持たせるような文を書いているに違いない。

「だめですよ。実利に書かせても意味ないです。延々と文が続くだけですから。こうなったら私が書きます。それはもうきっぱりいなと。妻も側女も愛人もありえなしと」

 張りきる野和だったが、少しして神和人は呆れたように言った。

「お前は字が汚い。最初に来た手紙など何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。実利を見習うように」

「今は上達しましたよ。そんな昔のことを言われても……」

 と言いかけて、野和は気づいた。

 最初に来た手紙……それは王宮へ来る前に兄に送ったお礼の手紙のことに違いなかった。どうせ読まずに捨てられたのだろうと思っていたがそうではなかった。神和人は八歳の妹から来た手紙を読んでいた。

「……そっか。読んでくれていたんですね」

 文箱に手を入れたまま、野和の声は掠れた。

 文を整理する振りをして、くるりと背を向けた。目頭がじんわりと熱くなった。

 自分は今までとんでもない思い違いをしていた。そのことが恥ずかしくて仕方なかった。

 兄は淡泊ではあっても、決して妹に無関心ではなかった。

 もし本当に無関心であるなら、困窮した母と自分を助けたりもしなかったはずだ。

 兄が助けてくれなかったら、今ごろ自分は都の片隅で物乞いか娼婦となって惨めな人生を送っていただろうに。


 野和は気づかれないように、そっと涙を拭った。

 どうにも胸が苦しかった。今更ながら、自分の本当の気持ちに気づいてしまった。

 野和は親子ほども歳の離れた兄が好きだった。好きだからこそ、兄の関心を得たかった。嫌われたくなかった。

 兄と血が繋がっていることが嬉しかったし、同時に繋がってなければ良かったと思った。

 もし他人であれば、想うだけは自由だった。

 妹であるゆえに、初恋は気づいた瞬間に泡沫うたかたの夢のように散ってしまった。

 それがどうしようもなく悲しかった。





 ***





 世間の神和人に関する噂は二極化していた。

 葦原のお大尽様は政をよくし、無私無欲かつ公正明大な方である。

 葦原のお大尽様は総代になるために無益な戦を起こし、実の伯父を討った冷酷非情な方である。

 小照にとっては、神和人は後者であるように思われた――。



 成人した小照は、相も変わらず玻里にて百姓の子として暮らしていた。

 さすがに十四にもなると、彼女も自分の置かれた複雑な状況を理解していた。

 幼い頃から、彦摩呂夫妻の本当の子でないことは知っていた。

 数ヶ月に一度、都から使いがやってきて家にまとまった金子を置いていくことも。そのお金のおかげで、親子三人不自由なく暮らせることも知っていた。

 小照は他の百姓の子とは違って毎日米の飯が食べられたし、働かされることもなかった。自分の身の回りのことだけをしていればよかった。

 彦摩呂らは小照が王女と知ると、態度がよそよそしくなった。

 秘匿されているとはいえ、彼らに王女の養育は些か荷が重すぎた。神の子である娘をどう扱えばいいのかわからなかった。とりあえず小照を隣り村の私塾に通わせ読み書きを習わせた。それくらいしか思いつかなかった。小照も養父母が自分を持て余していることは肌で感じていた。

 村人たちからは、特異な容姿を気味悪がられた。

 特に紅紫の瞳はあやかしの色だと言われ、誰も近寄ってこなかった。

 小照はいつも一人だった。彼女は寂しくなるといつも歌を口ずさんだ。

 なぜだかわからないが、歌うことが好きだった。歌は下手ではなかったが上手でもなかった。


 小照は定期的に伊邪夜に呼ばれて王宮へ参った。

 目立つ容姿を気にして目深に頭巾を被り、馬に乗って祁幸来へ赴いた。

 王宮に着くと内宮まで入ることを許された。無位無官であるため、宮廷では「存在するけれど見えない御方」として扱われた。皆は小照を王妹と知りつつも知らない振りをした。

 いつも奥まった一室で姉と会った。

 二人は共に食事をしたり、囲碁や双六をして遊んだ。小照は市井で流行っている歌をよく披露した。伊邪夜は歌わず、いつも黙って聞いていた。

 他の者がいる時は伊邪夜を「主上」と呼んだが、二人きりになると鼻にかかる声で「姉様あねさま」と呼んだ。伊邪夜も小照の甘えを許した。


 王宮に通ううちに、小照は自分の父が誰であるかも知ってしまった。

 これまでも王宮内で神和人と顔を合わせることはあったが、彼が小照と個人的な交流を持つことは一度もなかった。対応こそ至極丁寧なものの、親子の名乗りを許さない鉄壁の拒絶が全身から滲み出ていた。

 小照は次第に姉と父のことで悩むようになった。

 人の噂によれば、姉の伊邪夜の父もまた神和人であるという。

 同じ父母から生まれた姉妹であるらしいのに、片や女王、片や村の百姓の子。

 この差は一体どういうことなのだろう。

 何が同腹の姉と自分をここまで分けたのだろう。

 姉ほど美しくないからだろうか。あやかしの色を持つからだろうか。

 だから父に嫌われたのだろうか。顔は自分の方が余程似ているのに……。


 ある時、小照は伊邪夜に思いきって尋ねた。

「姉様。葦原のお大尽様は……神和人様は姉様にお優しいですか」

 伊邪夜は少し考えてから言った。

「あれが優しくなかったことはない」

 姉の率直な答えに、小照は打ちひしがれた。


(父様は姉様のみが大事なのだ。私のことはどうでもいいのだ……)


 姉の成人の儀は、国を挙げて盛大に祝われたという。

 女王として君臨し、絢爛豪華な王宮で女官に傅かれ、贅沢三昧の日々を送っている。民に崇拝され、父にも愛されている。

 対して自分は生まれてすぐに郊外の村に捨て置かれた。

 成人しても何の沙汰もなく、王妹を名乗ることも許されず、これからも村で孤独に暮らすしかない。

 そう思うと、悲しくて惨めで仕方なかった。

 薄紫の髪を厭い、都で木の根を煮詰めた毛染め薬を買った。

 姉が持つ練り絹のような美しい黒髪になりたかった。

 庭先で染めたものの、髪は黒くはならず汚い茶色になってしまった。小照は泣きながら染めた髪を切った。



 母の眞枝夜は既に亡く、父には嫌われている。

 小照にとって頼れるのは姉の伊邪夜だけだった。

 姉の関心を失ってしまえば、王宮に入るどころか橋の前の身上改所すら通れない。

 姉に嫌われないようにと、宮中で使われる言葉や立ち居振る舞いを必死に覚えた。生まれながらに女王となるべく育てられた伊邪夜は誰よりも上品じょうほんで、所作の一つ一つが凛として優美だった。絶対的な高貴にあふれていた。姉のようになりたかったし、できることなら成り替わりたかった。

 伊邪夜に会うたび、小照は嫉妬を込めて美貌を褒めそやした。

 寵愛を試すように、伊邪夜が身につけている絹の衣や髪飾りや装身具をねだった。伊邪夜はそれらを惜しげもなく小照に与えた。

 物をねだってくる者はこれまで一人もいなかったし、物自体に執着もなかった。

 自分を着飾らせるのは人間たちの見栄にすぎない。

 絹の着物も金の簪も扇も宝飾類も全て献上品であって、自ら欲した物は一つもない。小照が、なぜこんな物を欲しがるのか不思議でならなかった。

 宮中では、主上は小照様へ毎回高価なものを下賜なさるので寵愛が深いということになった。

 しかし、いくら稀少な宝物を得ても小照の心は満たされなかった。

 王妹であることを公言できない以上、貰ったもので着飾れるのは王宮内でのみだった。持ち帰っても自室の行李に仕舞っておくしかなかった。使えない物が増えても虚しいだけだった。




 ――その日も小照は王宮へ行き、夕刻玻里へ戻ってきた。

 馬を村の井戸へ連れて行くと水を飲ませた。

 頭巾を取って人心地ついていると、背後から近づいてくる足音がする。

 村人だろうかと振り返ると、ここいらでは見かけない男が立っていた。

 がっしりとしたからだつきで、精悍な顔は陽に灼けて黒い。

 腰に長剣を携え、荷物を積んだ馬を引いていた。男は小照を見て、人懐っこく笑った。

「この村の人かい? 祁幸来の都へ行きたいんだが」

 どうやら旅人のようだ。南の閏胡蛇から来たという。

 小照は男に聞かれるまま祁幸来への道のりを教えた。

 村々を回る旅芸人や歌い手以外で、異国の男を見るのはこれが初めてだった。教えた後で親切心から忠告した。

「でも今から向かっても都に着く前に陽が暮れるわ」

「そうか。じゃここらへんで休むよ。村に宿屋はある?」

「宿屋はないけど、里長の家に行けば泊めてくれると思う。一番大きな家だから行けばわかるわ」

「ありがとう」

 男は礼を言い、そこで初めて逆光になっていた小照の顔をまじまじと見た。

 髪と瞳は不思議な色だが、なかなかに綺麗な顔だちをしている。

 村娘にしては品があり、優しく垂れた目になんともいえない色気があった。

 小照は男の視線に戸惑った。気味悪がられるのには慣れているが、男の顔に嫌悪の念は浮かんでいない。ただ自分を見て、何か訝しんでいる。

「私の顔がどうかした?」

 男は顎に手を当て、うーんと唸った。

「変なことを聞くが、あんたは女だよな。花鼓はなつづみじゃないよな」

 花鼓とは女装して春を売る少年のことである。

 男娼の中でも成人していない者、十代の者を指す。市井にもいるが、主に女のいない戦場いくさばにて重宝されている。見目のいい少年兵が花鼓を兼ねることも多かった。

 小照は意味がわからなかった。異国の言葉だろうかと思った。

「女よ。花鼓ってなに?」

「わからないならいい。女か。悪かった」

 男は謝ると、身を翻して去っていった。



 数日後、男は再び小照の前に現れた。

 今度は男の方が小照の家にやってきた。

 庭にいた小照は、垣根の向こうに立つ男に気づくと傍へ行った。

「あなたは先日の」

「やあ、都へは無事に辿りつけたよ。里長のところへ寄ってあんたのことを聞いたらここだっていうから。これは礼だ」

 男は小照に小さな紙包みを差し出した。小照が開けると中には、髪を結わえるための緋色の組紐が入っていた。

「俺は帆波ほなみ。あんたは?」

「……小照よ」

 帆波はぐっと身を乗り出して、小照の顔を覗きこんだ。

 値踏みするようにじろじろと見た。紅紫色の双眸が神秘的な光を放っている。紫水晶を連想させる美しい色だった。

 改めて見るととても価値があるように感じた。この娘をさらって南で売れば金になるだろうなと思った。だが、彼は小照に別の興味を抱いていた。


 帆波は仕事を求めて神葛へ来た傭兵だった。

 傭兵とは各国の正規軍には属さず、戦の都度金で雇われる兵である。

 若く見えるが今年で二十七だという。帆波は少し誇らしげに、自分は十歳の時から戦場を駆け巡っていると言った。

「親父も兄貴も弟も爺さんも、そのまた爺さんも傭兵。代々そういう稼業なんだ。ここ十年ほどは閏胡蛇にいたんだが、最近は悶着もなくて稼げない。それでこっちに流れてきたんだが……」

 そこで帆波はふっと顔を曇らせた。小照は気になって尋ねた。

「都で仕事は見つかったの?」

「いや。門衛にでも雇ってもらおうと思って王宮に行ったが、けんもほろろに追い返された。神官じゃないと王宮には勤められないんだと。どうやったら神官になれるのか聞いたら、この国の戸籍を持った上で神官の家系と縁を結ぶか有力者の紹介状がないと無理だと。閉鎖的だよなあ。腕には自信があるんだがなあ」

 帆波はひとしきり愚痴をこぼした。他にも用心棒や護衛など色々探したが、異国人であることを理由に断られた。まだしばらくは探すつもりだが、都は物価が高いので玻里まで戻ってきたという。

 帆波の話がひと段落すると、小照はポツリと言った。

「あなたは変わった人だわ。私を気味悪がらないのね」

「気味悪がる? なんでだ」

「みんな、この髪や瞳はあやかしの色だって言うわ」

「あやかし? 化け物ってことか? 確かに紫は珍しいが、あやかしとは思わないな。南の方じゃ赤毛や茶髪はごろごろいる。茶色や緑の目もな。俺は見たことないが、金や銀の髪を持つ人間もいるそうだ」

「そうなの?」

 小照にとって異国の話は新鮮だった。

 帆波が小照を色で差別しないのは、閏胡蛇で様々な人種を見てきたからだった。

「で、俺のことはひととおり話したよな。今度はあんたのことを聞かせてくれよ。コレはいるのか?」

 帆波はにやりと笑い、右手の親指を立ててみせた。

「コレってなに?」

「コレはコレだろ。寝床でおっ立つもんだよ」

 小照は意味がわからずポカンとした。あまりの初心うぶさに帆波は苦笑した。

「男だよ男。旦那。通ってくる男はいるのかってこと」

「父さんのこと? 父さんならいるわ。父さんと母さんと三人暮らしよ」

 家族構成を聞かれているのかと思い、小照は養父母のことを話した。

 ふうん、と帆波は目を細めた。

「未通なのか。ここいらの男は見る目がないな。最もあんたはいい意味で女らしくない。俺も始めは男かと思った」

「何それ……。私は男じゃない」

 小照は憤慨した。

「怒るなよ。あんたは綺麗だ。男と女、両方のいいところがある」

 また来ると言って、帆波は垣根からからだを離した。

 手を振りながら悠々と去っていった。



 その三日後の夜だった。

 昼間から強い風が吹いていて、しきりに屋根や壁を揺さぶった。

 彦摩呂は村の寄合に出かけ、律は夕餉を終えると頭が痛いと言って早々に寝てしまった。

 小照は自室に戻り、寝る支度をしていた。

 不意にコツンと音がした。外からだった。

 風の音かと思ったが、またしばらくしてコツンと音がする。

 なんだろうと思い、小照はそっと引き戸を開けてみた。

「小照」

 今度は小さな声がした。垣根の向こうに人影があった。

「俺だ」

 声は帆波だった。どうやら壁に向かって石を投げていたらしい。

 小照は身を乗り出した。こんな夜更けに何の用だろう。

「帆波……? なに?」

「話がある」

「え、話って?」

「部屋に入ってもいいか」

 暗くて帆波の表情はわからない。小照は問いかけの意味がわからなかった。

 風に髪がなぶられる。帆波も立ち話は辛いだろう。部屋で話を聞いてもいいと思った。

「いいわ」

 そう言うと、帆波は木戸を開けて庭に入ってきた。

 足音をたてず、小照の部屋の前まで来るとさっと中に上がりこんだ。

 小照は帆波を入れると、引き戸を閉めた。

「白湯でも淹れるわ。待っていて」

 小照はとりあえず帆波を待そうと立ち上がった。土間へ行って湯を沸かすつもりだった。

 だが、彼女は部屋を出ることができなかった。

 突然、腕を掴まれ引っ張られた。

「えっ」

 小照は何が起きたのかわからなかった。

 気がついた時には帆波に抱きすくめられ、床に押し倒されていた。

「な、なにを……」

 小照は声を上げようとした。が、すかさず大きな手で口を塞がれた。

 悲鳴はこもって声にならなかった。

 彼女は、自分にのしかかる男を茫然と見つめた。


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