第六話 平穏にさざ波立つ〈中〉




 野和は人の多い内宮へ入ると、自然と足を速めた。

 内宮よりさらに奥、奥宮の最深部にある藤尋殿まではかなり距離がある。幾つもの社殿と廊下と内門を越えていかなくてはならない。

 特に急いで戻る必要はなかったが、この辺りにとどまっていると色々面倒なことが起きる。途中で何度か「お荷物をお持ちします」と声をかけられたが丁重に断った。荷物の中身を知られたくなかった。

 だが、急いで歩いても面倒ごとは避けられなかった。

 野和の姿を見るや、建物から人が飛び出してくる。砂利道を走ってくる者までいる。野和はあちこちで呼び止められてはふみを渡された。

 渡してくる者は年頃の姉妹がいる若い覡か、妻子決したる中高年の覡だった。

「野和様、お待ちください。何卒これを神和人様にお渡しくださいませ」

「どうかお取次ぎをお願いしたく。お部屋の掃除係で良いのです。娘をお傍に置いてくだされば」

「野和様、先日も文を差し上げたのですが一向にお返事がありません。妹は一日千秋の想いで待ちわびておりまする」

 と、必死の形相で縋ってくる。

 野和は男たちに囲まれ、荷物に加えて文まで抱える羽目になった。

 文は全て兄の神和人に宛てたものだった。どれも薄桃色や若葉色の紙に書かれ香が焚きしめられている。花の枝に結んだものもあり、一目で恋文だとわかる。

 神和人は十代半ばから独り身を貫いており、側女も置いていない。

 国一番の実力者であり、心身共に健康でありながら妻や側妾が一人もいないというのは一種異様な事態だった。本来は何人持っていてもおかしくないのである。

 皆も表だっては何も言わないが、小照の存在は知っている。

 結婚歴があり、子供がいるなら女が嫌いということはないだろう、子種もあることだし……と身内を売り込もうと必死なのだった。娘や姉妹に手がついて子が産まれれば、葦原の権力の恩恵に預かれる。出世の道も開けるからである。

 野和は職務上、神和人に許可なく会える。現にほぼ毎日のように会っていた。

 なので、謁見が許されない下官は本人が書いたか他の者が代筆したかの恋文を野和に托し、さらには聞いてもいないのに娘の容姿や心延こころばえが良いことを強調してくるのだった。

 野和は内宮を通るたびに、彼らの対応に苦慮していた。

 渡された文はきちんと届けているが、兄は返事どころか開封すらせず放置している。送った方はやきもきして再び野和に訴えてくる。その繰り返しだった。


 なんとか彼らを振りきって大本殿へ入ると、またもや「野和様!」と追いすがってくる者がいる。今度は二品覡の滝見たきみだった。

 白髪の彼までもが、派手な萌黄色の文を持っているのを見て野和はげんなりした。とはいっても滝見は高官である。無下にはできない。諦めて担いでいた荷物を足もとに降ろした。

 滝見は平民出身ながら、四十年以上かけて二品覡まで出世した叩き上げだった。野和もその点は好感を抱いているものの、この老人はやたらと話が長い。

 案の定、滝見も神和人に娘からの文を届けて欲しいと言った。

 野和は、はてと首を傾げた。

「あれ、滝見様は娘さんがいらっしゃいましたっけ? お孫さん?」

「いえいえ、最近養女を貰いまして。これがもう大層美しゅうて、ぜひとも神和人様に差し上げねばと思った次第なのですわ。親の贔屓目と笑うてくださいますな。歌も踊りもよくしますし、一度お会いくだされば必ずやお気に召します。そもそも、娘との出会いは――」

 と、おそらくは金を積んで縁組みした養女のことについて話し出した。

 野和はハイハイと適度に相槌を打ちながらも、キリのよいところで話を遮った。

「……あの、すみませんが。滝見様でしたら兄に直接会ってお渡しになれると思いますので」

 やんわりと文渡しを断ったが、滝見は引き下がらなかった。

「神和人様は政務以外のことでは決して臣下にお会いになりません。ですので、儂は恥を偲んで野和様にお願いしておるのです」

 野和は無理矢理にも笑顔を作った。

「その、申し上げにくいのですが兄は文を読まないかと。なにぶん多忙な身ですので」

「でしたら、野和様が神和人様の前で読み上げてくださいませ」

「……はぁ? なんで人の恋文を朗読せにゃならんの。恥ずかしすぎる」

 思わず地が出てしまった。すると滝見はくわっと目を見開いた。

「ではどうすればよいのですか。どうすれば神和人様に娘の委細を伝え、その気になっていただけるのか。よもやあのお歳で枯れたとは言わせませんぞ。儂にさえ成人したばかりの若妻がおりますのに」

「知りませんよ、そんなこと! 私は男ではありませんし」

 滝見はハッとして、袖で口もとを覆った。

「もしや、先の主上に操を立てておられるとか? さすがに主上ほどの女性にょしょうは無理ですぞ。人ではありませんし。国色天香こくしょくてんこうの神ですし。どうかそこは人間の女で我慢していただきたく。さあ野和様、教えてください。若い女がいいのか、年増がお好みなのか。幼妻? 玄人女? 経産婦? それとも男を好まれるのか。それならそれでよい者を見繕って参ります」

「だから知りませんてば。本人に聞いてください! というか兄にだって選ぶ権利があるんですから。押しつけられたって嫌がりますよ」

「何を仰る。葦原の長たる尊い方なればこそ、一人でも多くの女に種を蒔いていただかねば。もはやこれは義務でございます。全く、神和人様も来る者拒まずだったお父上を見習うべきです」

 もう勘弁して欲しいと野和は思った。

 大体、縁談というのなら何年も前から弥央が山のように縁談を持ちこんでいる。しかし、兄はそれらも一蹴している。最近は応対するのも面倒なのか完全無視を決めこんでいる。実母の言うことさえ聞かないのに、妹の言うことなど聞くはずもない。


「とにかく何がなんでも神和人様に読んでもらってください。儂の渾身の作でございますから」

「滝見様が書いたんですか!」

 尚も滝見と押し問答していると、いつの間に傍へ来たのか突然滝見の背後から若い男が顔を出した。

「や、野和叔母上。と滝見様」

 男の顔を見た瞬間、野和は思わずゲエッと叫びそうになった。

 片手を上げて、にっこりと笑ったのは実利さねりだった。神和人の姉の子で、歳は十八になる。野和にとっては年上の甥だった。

 実利は権三品覡ごんのさんほんふで神和人の書記を務めている。流れるような美しい字を書き、法令や書簡の清書、代筆も行う。歌や舞も上手い。歌舞に秀でることも巫覡の重要な職務なので、なかなかに優秀な男だった。

 見目もよかった。葦原一の美男子と称され、女たちの間で人気がある。

 端麗たんれいな容姿は、野和の亡くなった実父とよく似ているらしい。

 顔がよいことと強壮であること以外取り柄がなく、出仕もせず、日々女と遊んで暮らしていたという実父の顔を、野和は実利を見てなんとなく知った。

 確かに貴人らしい上品な顔だちとは思う。だが、それだけだった。野和は実父に対しては何の感慨もない。兄はいてくれて良かったと思うけれど。

 実利は滝見に向かい、恭しく礼をした。

「滝見様。お話中のところ申し訳ありませんが、叔母に用がありまして。急を要するものでなければ私にお譲りいただきたく」

「ううむ。それなら野和様、また日を改めまして」

 滝見は悔しそうに唸り、文を持って去っていった。



 滝見の姿が見えなくなると、実利はヒュウと口笛を吹き、軽薄な笑みを浮かべた。

「滝見の爺さんも必死だね。ま、叔父上と縁づかないことにはこれ以上の出世は無理だろうしなあ」

 野和は黙ったまま、持っていた文の束を胸元に押しこんだ。実利が来て助かったものの、実は今一番会いたくない男だった。

「にしても叔母上はもてるねぇ。こんなに文を貰ってさ。二上品巫様は違うなあ」

「馬鹿なこと言わないで。じゃ、私はこれで」

 ふざける実利に、野和はつっけんどんに返した。

 実利は年上だが、甥なので敬う必要はない。実利も野和には気安い口をきく。

「待てよ。用があるってのは本当だ」

「だったらそれ持って」

「これ? しょうがないな」

 実利は言われた通り、野和の荷物を担いでついてくる。

 細身だが力はあり、瓶の重さによろけたりもしなかった。野和もそういうところは頼りがいがあると思っている。


 歩きながら、野和は言った。

「で、用って何?」

「先日の破談の件。叔母上には直接会って話さなくちゃいけないと思ってさ」

「いいわよ、そんなこと」

 野和は尚のことげんなりした。

 兄の次は、自分の結婚に関することだった。

 実は先日、野和にも縁談が来た。その相手は実利だったのである。

 叔母と甥の結婚になるが、別段珍しい話ではない。

 実利は、性情は祖父に似たのか大変な女好きで、宮廷でも数々の浮名を流している。それこそ女官から婢、人妻、寡婦まで節操がない。週七日は朝帰りし、女の房から出仕し、女の家へ帰っていく有り様だ。手を出すだけ出しておいて責任も取らない。

 弥央は実利の乱れた生活を案じ、しっかりした女と結婚させて落ち着かせようと思ったらしい。それで野和に白羽の矢が立った。

 話が来た時、野和は驚いたものの結局は承諾した。そうするしかなかった。実利が好きなわけではないが、親代わりの義母に嫁げと言われれば逆らえるはずもない。

 そもそも貴人の結婚とは、政略か一族の財産を守るためのものである。野和も恋愛で結びつくものとは思っていない。実利はとんだ女たらしだが、まだ知っている人間で良かったと思ったくらいだ。

 ところが、実利の方がこの縁談を断ってきた。

 野和としては、意図せず振られてしまった形となる。

 断った理由は不明だが、会って気まずいのは確かだった。

「悪かったよ、叔母上。恥をかかせてさ」

「いいってば。もう終わったことだし」

 と言いつつも、野和の声には自然と怒りが篭る。

 断るなら自分が返事する前にして欲しかった。気があったと思われるのは癪だった。

「別に叔母上が嫌だったわけじゃない。むしろ好みな方」

「あ、そう。それはどうも」

「でもさ、結婚は無理なんだ。俺は祝夫ほうりふになりたいんだよ。あれは妻帯してちゃなれないからな」

「は? あんたが祝夫?」

 野和は思わず足を止めて振り返った。

 実利は不敵に笑い、なぜか嬉しそうに首を縦に振った。

 祝夫とは、跡継ぎをもうけるために女王の枕席に侍る男たちのことである。

 志願制で、独身、身体頑健、品行方正、眉目秀麗などの諸条件があり、大抵は複数人が選ばれる。祝夫に任ぜられると、俗世との縁を切って神和人の養子となる。奥宮に房を賜り、指名を受けると女王の寝所へ通って夜伽を務める。

 主上のお召しが重なり寵愛が深まると祝大夫ほうりたいふと呼ばれる。これが通称「良き人」で女王の内縁の夫である。

「そう、祝夫。名誉ある神の情人さ。叔父上はいつ選定に入るんだろうな。主上が成人したら置く習わしらしいのに。来年の藤尋祭には決まるかな?」

 野和は汚らわしいものでも見るように、露骨に顔を顰めた。

 祝夫の制度を否定するわけではない。それに志願しようとする実利に嫌悪感を抱いた。

「ちょっと冗談はよして。なんであんたみたいな下半身ゆるゆる男が、主上の伴侶に志願するのよ」

「その下半身ゆるゆる男と結婚しかけたのはどこの誰だよ」

「私は命じられて、ものすごーく嫌々ながらです」

 実利はフンと鼻を鳴らした。

「嫉妬するなって」

「毛虫の涙ほどもしてない」

 実利は野和の耳もとに顔を近づけ、熱い吐息と共に囁いた。

「ごめんよ、叔母上。俺のせいで悲しい思いさせて。結婚はできないけど、寂しい時はいつでも抱いてあげるから。男女は寝てみないことには分かりあえないしな」

 野和はぞわっと鳥肌が立つのを感じた。

「気持ち悪い。あんたと寝るくらいなら、滝見様とどうにかなった方がまし」

「ひどいな。まあいいさ。選ぶのは叔母上じゃないし」

「えっ、本気で選ばれると思ってるの? あんたの女癖の悪さは王宮じゅうに知れ渡ってるのに? 頭大丈夫?」

 野和は半ば本気で憤慨した。

 主の伊邪夜だけでなく、祝夫を選ぶ兄をも馬鹿にしていると思った。

 実利は自信満々に言い返してくる。

「選ばれるさ。俺だって葦原の一員だ。血筋も歳も容姿も何一つ問題ない。叔母上も含めて女に振られたこともない。主上も俺を寵愛なさるに決まっている」

「無理。絶対無理。あんたには誠意がないもの」

「祝夫になったら主上一筋になるさ。そもそも、女と遊ぶのも主上のためなんだからな。今のうちに場数をこなして床上手になっておかないと」

「あ~そうですか。余計に気持ち悪い」

「それに、主上が絶世の美女であることは間違いないようだし。早くお目見えしたいもんだ」

「はいはい、できるもんなら……え、お目見え?」

 そこで野和は声を詰まらせた。

 頭からすうっと血の気が引くのを感じた。しまったと思った。

 実利は未だ伊邪夜のお目見えを許されていない。彼は先程の野和と滝見の会話を聞いていたのである。

「ちょっと実利。あんた、主上のことを外部に漏らすのは」

「言うわけないだろ。競争相手が増えるだけだ」

 野和が牽制すると、そこはわかっているのか実利は悪戯っぽく笑った。

 唇に人差し指を当ててうそぶいた。

「叔母上、俺は政にはさして興味がない。けど、国のために役立ちたい気持ちがないわけでもない。だから祝夫になる。主上のために歌って踊って、閨房でかんを尽くす。主上を悦ばせ、俺も悦ぶ。官吏じゃなく、男として最高の栄誉に預かりたいのさ」

 野和は呆れ果てた。もう勝手にしろと言いたかった。

 ただ実利の、伊邪夜に恋い焦がれる気持ちはわからないわけでもなかった。

 もし自分が男であったら、やはり誰とも結婚せず祝夫に志願したかもしれないと思う。あの高貴で美しい女主人を一夜でもいただく。考えるだけで畏れ多くて目眩がするけれど。

 伊邪夜が己の為すことを喜び、笑ってくれるのならどんなことでもするだろう。

 神の微笑ほほえみは、巫覡にとって最も尊い僥倖ぎょうこうなのだから――。



 なんだかんだで、野和は奥宮の手前まで実利に荷物を運んでもらった。

 そこで伊邪夜をひと目見たがる実利を追い返し、藤尋殿に戻ったその後はいつも通りに職務に励んだ。

 夜が更けると寝所の支度を整えた。夜四つ(二十一時)頃に伊邪夜は寝所へ入った。

「本日も主上に置かれましてはつつがなくお過ごしになり、誠に結構なことでございました。夏暁あけまでするするとおやすみなさいませ」

 野和は言上ごんじょうを終えると、音を立てないようにして自分の房へ戻った。

 戻ってもすぐに寝るわけではない。まだひと仕事残っている。

 昼間、都で買い求めた瓶の一つを開封した。中には干し杏の甘葛煎漬けがぎっしり詰まっている。毒見も兼ねて一つ食べてみた。

「……うわ、甘っ」

 味に問題はなかったが、あまりの甘さに咽せた。口が溶けそうになる。噛んでいるのも辛いので、水を飲んで呑みこんでしまった。

 干し杏だけで充分甘いのだから、何も甘葛に漬けなくてもいいのに……と思いながら、瓶と下官らから預かった文を抱えてそっと廊下へ滑り出た。

 誰もいないのを確認して、内庭に降りる。廊下を渡っていくより庭を突っ切った方が早い。

 やましいことをしているわけではないが、警備の兵士らには見つかりたくなかった。

 向かう先は奥宮の一番外側にある日祈殿ひいおりでんだった。そこに兄の神和人が暮らしている。

 闇夜の下、ぼんやりと灯籠の赤い灯が浮かんでいる。野和は灯に吸い寄せられるように小走りで兄のもとへ向かった。



  

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