第五話 平穏にさざ波立つ〈上〉




 四年後、神和人は長年にわたる政敵で伯父の弥隆ひさたかを討った。

 弥隆は葦原の総代(長)であったが、邪智暴虐じゃちぼうぎゃくの人物で、政治を私物化し大いに乱した。金と権力をこよなく愛し、奢侈しゃしな生活を維持するために公然と賄賂を取った。おもねる者には利権を与え、逆らう者は罷免や追放で退けた。

 十三年前、弥隆は私兵を用いて王宮を占拠し、眞枝夜を退位させて幼い伊邪夜を王位につけようとした。しばらくは伊邪夜を傀儡かいらいとし、いずれは自らが王になる腹づもりだった。神和人は当時五歳の伊邪夜を抱いて祁幸来の森へ逃げ込み、企みを阻止した。数日後、王宮は駆けつけた王師軍によって奪還され、弥隆は女王叛逆はんぎゃくの咎で都を追放された。しかし、その後も自分の領地である北部三県を実行支配し、中央に納める国税を横領し続けた。総代である弥隆を庇う者も多く、神和人も伯父を罰するのは難しかった。


 伊邪夜の即位後、北部で大規模な旱魃かんばつが起きた。一滴も雨が降らず、大地は干からびて作物という作物は全て枯れ果てた。旱魃はあらかじめ御言霊で予言されており、神和人もその旨は北部に伝えた。飢饉に喘ぐ民のために国の穀倉を開き、大量の米や麦を送ったが民草に届くことはなかった。全て弥隆とその取り巻きに着服されて消えたのである。

 結果として北部は数万人の餓死者を出す惨事となり、悲嘆の声が満ち溢れた。そんな状況にも関わらず尚も民に重税や苦役くえきを課し、さらには王を名乗って国を二分しようとしたので、とうとう神和人は女王の勅命を以って弥隆の討伐を命じた。弥隆は徹底抗戦し、北部と王師軍との戦闘は半年あまり続いた。双方に多くの死傷者が出た。激戦の末に北部第一の都市・真唯天まいてんが陥落すると弥隆は捕らえられて処刑され、妻子らは国外追放となった。追放された者の中には、弥隆の娘で神和人の元妻である弥里みさとの姿もあった。

 北部動乱の終結と弥隆の死により、神和人が晴れて葦原の総代となり、名実ともに国の最高権力者となった。




「……よいしょっと」

 太陽がぎらぎらと照りつける夏の盛りに、野和のわは大荷物を背負って王宮へ続く石階を登っていた。まだ半分の百段ほどだが、既に息が切れている。

 少しでも背を大きく見せようと、頭のてっぺんで結った団子髪が揺れる。一段上がるごとに大きく息を吐いた。暑さと荷物の重さに閉口していた。

 荷物自体は食品で軽いはずなのに、素焼きのかめに詰められているのがよくなかった。厚手の布に包まれた瓶は三つもあり、ずしりとのしかかってくる。

 とうとう荷物を降ろし、都の方へ振り返った。

 石階の終点、赤の楼門の前に駕篭の担ぎ手や数頭の馬が見えた。

 下覡たちが一人で登っていった野和を見上げ、心配半分、面白半分に笑っている。少し腹が立った。だが、制止する彼らを「大丈夫」と振り切って登り始めた手前、すごすごと降りていくのも恥ずかしい。

「あーあ、またやっちゃった」

 雲一つない紺碧の空を見上げてぼやく。今更だが、馬か駕篭を使って登れば良かった。もしくは荷物を店に頼んで王宮に届けさせる方法もあった。

 野和は少々変わった女だった。

 貴人でありながら自ら店に行って買い物をしたり、石階を徒歩で登ったりする。

 義母の弥央に知られたら、大仰に嘆かれて、はしたないと小言を言われるだろう。

 身分の高い者は、用事は使用人に命じ、移動は輿、駕篭、馬を使うのが常識である。

 けれど、特殊な育ち方をした野和にとっては、何年経っても貴人の暮らしに慣れない。やりたいことは、人に命じるより自分でこなした方が早い。時々今日みたいに失敗もするが、それも良い経験だと思う。


 野和は、神和人の一番下の異母妹である。

 神和人の父が屋敷の下女に手をつけて産ませた子だが、老いてできた子を恥じたのか認知せずに母子を捨ててしまった。

 野和の母は仕方なく子連れで別の男と結婚した。

 義父は酒乱な上に働かず、酔っては暴力を振るうどうしようもない男だった。

 野和が七歳の時、母子は暴力に耐えかねて逃げだし、住み込みの下働きを始めた。野和も母を手伝って懸命に働いたが、やがて母は苦労がたたったのか病に倒れてしまった。たちまち母子は貧窮し、野和を妓楼に売ることを考えるほど追いつめられた。

 そこに救いの手を差し伸べてくれたのが、兄の神和人だった。

 話を聞くと、使用人に命じて二人を都の自分の屋敷へ引き取り、生活の面倒をみた。

 野和は妹と認知され、末席ながら貴人に列せられた。衣食住の心配がなくなった彼女は、母の看病をしながら読み書きや行儀作法を覚えた。命の恩人である兄を慕って、何度もお礼の手紙を書いて送った。返事は来なかったがそれでも良かった。

 二年後、母が亡くなった。娘に労わられての安らかな死だった。十歳になった野和は一念発起して、王宮に暮らす兄に会いに行った。

 丸二日待たされた後で、初めて会った兄に野和は「王宮で働きたい。どんな仕事でも構わないのでここに置いて欲しい」と頼みこんだ。元来、からだを動かすのが好きだし、葦原の姫としてお屋敷暮らしをするのは性に合わなかった。王宮で働くことで、少しでも兄の役に立ちたかった。それが恩返しになると信じた。

 野和は王宮勤めを許され、一番下の大部屋暮らしの下巫かふとなった。早い話が下女、雑役婦である。貴人としてはありえない待遇だが、野和はすぐに溶けこんだ。元が都の貧民街育ちなので共同生活も全く苦にならなかった。どんな雑事も厭わず、朝の掃除から始まって洗濯、買い出しとなんでもこなし、身を粉にして働いた。明るく気さくな性格で、おごることもなかったので同僚に好かれた。


 神葛は神が君臨する国なので、政をつかさどる高級官吏から下働き、門衛まで全て神職の扱いである。

 女の神官を、男の神官をといい、両方合わせて巫覡ふげきという。

 巫もそれなりにいるが、神の尖兵たる王宮付きの兵士や軍門は男のみで構成されるため、数としては覡の方が圧倒的に多い。

 覡は本人の資質に合わせて、文官と武官に分かれる。

 武官の覡は祇候さもらいと呼ばれる。王宮を警備する皇宮兵こうぐうへいは祇候の精鋭である。

 文官の巫覡を束ねるのが特品覡とくほんふ(巫)、祇候を束ねるのが大祇候おおさもらいであり、彼らの上に神祇官かみづかさの長である神和人が立ち、女王を補佐する。

 野和は二年後には上級の四品巫しほんふ、三年後には三品巫さんほんふとなった。

 四年後には二品巫にほんふとなり、ここで初めて殿上が許され女王への拝謁が叶った。野和は名誉なことと喜び、一層職務に励んだ。

 昨年、二上品巫にじょうほんふに命ぜられ、伊邪夜付きの侍女となった。藤尋殿にへやを賜って暮らすようになった。現在は空席である一品巫いちほんふが女官長なので、僅か六年で破格の出世をした。

 これは野和が葦原の一員であること、実直かつ勤勉な性格であることも幸いしたが、神和人が伊邪夜の身辺に歳の近い侍女を置きたがったという事情もある。

 伊邪夜も、清らな気を持つ野和をいとわなかった。近くに置いて身の回りの世話をさせた。

 野和は伊邪夜と神和人の連絡係も務めた。やっと兄の役に立てるようになり、忙しいながらも充実した日々を送っていた。



 野和は刺すような陽光に目を眇めた。

 見上げた空を、鳥が悠々と横切ってゆく。

 再び荷物を背負い、頑張って石階を登ろうとしたその時だった。

「おーい、姫様ァ! その場でお待ちを。今そっちに行きますので!」

 石階の途中で立往生したと思ったのか、太刀をいた大柄な男が叫びながら石階を駆け上がってくる。

 巨躯に似合わない童顔に見覚えがあった。同期の勇人はやとだった。

 勇人は野和と同い年で、ほぼ同じ頃に下覡となった。二人は毎日のように顔を合わせて務めに励み、同じ釜の飯を食って暮らした。野和は力仕事では随分勇人に助けてもらった。

 勇人は体格が良かったので、二年後に軍属を命じられて祇候見習いとなり、祇候になった後は地方へ配属された。先の北部の内戦にも動員されたが、その後都に戻ってきていた。

 勇人はすぐに野和に追いついた。

 軍で鍛え抜かれたからだは息一つ乱れていない。六尺近い彼を、小柄な野和は首を突きだすようにして見上げた。

「姫様、足腰がひけましたか。身どもがおぶって差し上げましょうか」

 勇人の声は震えた。笑いをこらえている。野和は憮然として言った。

「私はいいから。荷物を運んでちょうだい」

「承知。身どもにお任せあれ」

「……あと王宮に着くまでは軽口叩いていいから。あんたに敬語使われると、背中がむずむずする」

 途端、勇人はパッと顔を輝かせた。ほんの数年前まで野和とは「あんた」「お前」と呼び合う気安い仲だった。今や人の羨む殿上人になってしまったが、野和の性格は変わっていない。そのことが純粋に嬉しかった。

「じゃ、遠慮なく。俺も野和を姫様と呼ぶのはしんどい。姫ってガラじゃないしな」

 と、失礼なことを言いながら大笑した。野和もつられて笑ってしまった。自分でも、とんだ雑草が葦原に混ざってしまったものだと思う。

「荷物があるのに、徒歩で登ったのはなんでだよ」

「……最近運動不足だから」

「都には何しに行ったんだ?」

「ちょっとお暇をもらって母さんの墓参り。あと買い物」

 勇人は頼んだとおりに、野和の荷物をひょいと担いだ。

「これか。……ってやけに重いな。何が入ってんだ」

「干しあんず甘葛煎あまづらせん漬け」

 甘葛煎とはツタの樹液を煮詰めた甘味料である。

 甘葛煎も杏も各地で盛んに作られており、手頃な甘味として市場に流通している。干した杏を甘葛煎に漬けて乾かしたものが干し杏の甘葛煎漬けで、庶民の菓子だった。干菓子なのでかなり日持ちする。味はとてつもなく甘い。

「なんでそんなもん買ったんだ」

「なんでって、私が食べるためよ」

「杏なんて好きだったか? 初めて聞いたぞ」

「最近好きになったの!」

 野和は不自然なほど強く言いきった。

 二人は並んで石階を登り始めた。勇人は気を使ってか、野和の歩調に合わせた。

 今度は野和が尋ねた。

「あんたはいつまでこっちにいるの。王宮勤めになったの?」

「いや、もう少ししたら東の国境へ行かされそうだ。最近きな臭いんだとよ」

「国境が? どうして?」

「賊が国境に近い村をたびたび襲っているらしい。その賊ってのがやたら統率が取れてやがる。どうも賊に扮した琉斌の正規軍の仕業じゃないかって話だ」

「琉斌の軍……? まさか」

閏胡蛇うるうだへの侵攻が失敗したからな。次はこっちに手を出そうって腹かもしれない」

 閏胡蛇は神葛と琉斌の南にある国である。強大な国だが多くの異民族を抱え、何かと内紛が絶えない。近年は琉斌と戦をし、これを撃退していた。

 野和は一瞬、この話を兄に告げようかと考えた。だが、末端の勇人が知っているくらいだ。とっくの昔に上層に伝わっているだろう。

「ま、俺としちゃ、国境警備より王宮勤めの方がいいんだが。早く出世して皇宮兵になりたいもんだ」

 なあ、と勇人は期待を込めて野和の顔を覗きこんだ。

「野和は主上にお仕えしてるんだろ。どういう御方なんだ? 俺はどうせ一生お目見えは叶わない。凡人が見たら目が潰れるっていうしな。けど、話を聞くくらいならいいだろ」

 勇人は、女王を直接見ようものなら失明すると信じている。

 傍で仕える野和が失明しないのは、葦原の一族であるからだと。

 勇人だけでなく、民衆は神の血族たる葦原にも神の力があると考えていた。

 野和もそれを否定はしない。自分は違うが、一族内に稀に魂鎮たましずめの力を持つ者が生まれるのは確かだからだ。女王二代に渡って仕え、存えている兄はまさにそうなのだろうと思う。


「主上は……そうね」

 野和は逡巡し、声を顰めた。

 信頼できる幼馴染相手でも、女王に関しては慎重に言葉を選ばなくてはならなかった。二品巫に上がる時に、女王の詳細を外部に漏らさない誓約を立てさせられた。破れば、死であがなうしかない厳しい掟である。特に人心を煽る容姿に関しては厳禁とされている。

 事実、伊邪夜を目の前にして、野和は誓約の重要さを嫌というほど思い知った。

 伊邪夜の光り輝くような超然の美貌、心を蕩かす美しい声。

 それだけでも恐ろしく魅力的なのに、予言を出せば百発百中である。

 詳細が知られれば、諸外国は喉から手が出るほど伊邪夜を欲しがるはずだ。

 戦を仕掛け、拉致強奪しても手に入れようとするだろう。

 女王を俗界に出せば必ず争いが起きる。人間たちの欲望に揉まれ、滅茶苦茶にされてしまう。

 神とはいえ、か弱い女人の身である。主上は私たち葦原が十重二十重とえはたえにお守りせねばならない、と固く心に決めたのだった。


「とてもお優しくて慈悲深い方よ」

 野和は注意しつつも、素直に伊邪夜の印象を述べた。

 慈悲深いと思うのは、彼女が怒って周囲の人間に死を賜らないからだ。

 神の怒りに触れて死ぬことを、奥宮の言葉で「隠される」という。

 代々葦原は神に隠されることを前提として、妻を数多あまた娶り、多くの子をもうけてきた。

 実際、野和には神和人を始めとして十数人の異母兄・異母姉がいたが、眞枝夜の代で六人が隠されている。特に晩年は荒れて、おびただしい血が流れたらしい。

 ところが、伊邪夜の代になってからはまだ一人も隠されていない。

 それが何よりありがたかった。神隠しは巫覡にとって名誉なことであるが、同僚や身内が死なずに済むならそれに越したことはないと思う。

「へえ、お優しい方なのか。いいな。俺なんかつまらないことでしょっちゅう上長にどやされるし殴られる」

 どこまでも呑気な声に野和はさらに頭を捻り、当たりさわりのないことを探した。

「あと、主上は日向ぼっこがお好きよ」

「日向ぼっこ?」

「天気のいい日は、内庭の縁側にお出ましになってずっと陽に当たってらっしゃるの。とても気持ちが良いみたい。今は暑いから時々心配になるけど」

「のんびりしてるな。いいことだ。野和の職場は平和だ」

 勇人は心からそう言って破顔した。

「あ、でも誰にも言わないでね」

「言わない。安心してろ」

 野和は安心した。二人は石階を登りきった。

 南の森に入ると陽射しは和らいで涼しくなった。ひんやりとした空気に野和は生き返る心地がした。

 砂利を敷きつめた歩道を二人はゆっくりと歩いた。

 王宮に着くまで、できるだけ長く話がしたかった。


 王宮に入り、朱塗りの内門の前まで来て、勇人は荷物を下ろした。名残惜し気に野和に振り返る。

「ごめんな。野和の房まで運んでやりたいが、俺は内宮ないぐうには入れないから」

 すまなそうに詫びる勇人に、野和は大きく手を振った。

「そんなの気にしなくていいってば。本当に助かったわ。ありがとう。じゃあね」

 にこやかに笑うと、野和は荷物を背負い、門の内側にひょこひょこと歩き出した。

「……大丈夫かな」

 勇人は遠ざかる野和の小さな背中を見つめた。

 彼女が住む世界を思い、少しばかり切ない気持ちになった。

 王宮では巫覡同士の結婚が推奨されている。巫覡の間に産まれた子は、無条件で巫覡になれるし出世もしやすくなる。子供が増えれば手当ても貰える。

 勇人は恋慕というほどではないが、子供の頃から漠然と結婚するなら野和がいいなと思っていた。美人とは言い難いが、いつも元気で明るくてこぼれるような愛嬌がある。小動物のようにちょこまか動くのもかわいいと思う。皇宮兵になりたいのは、彼女の近くにいたいからだった。

 だが、野和は国を統べる神和人の妹で葦原の姫である。もし自分が出世し、釣りあう身分になったとしても、その頃にはとっくに他人の妻になっているだろう。

 どう足掻いても野和とは結婚できない。そう思うと、口の中に悔しさとも焦燥ともつかない酸っぱい唾液がこみ上げてくるのだった。

  

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