第四話 擬態




 結局、伊邪夜は小照を処刑できなかった。

 時間をかけて注意深く問いただしたが、小照は自分を人間だと思い込んでいる。木霊の声が聞こえず、御言霊も発せない。同じ腹から生まれたのに、眞枝夜の神力を受け継いでないようにみえた。

 何よりも、小照の無邪気な瞳が伊邪夜の殺意を削いだ。

 いくら憎もうとしても、神和人に似た瞳を見ると怒りが萎んでしまう。煩悶の末に殺害を諦めた。殺せないなら、生かしておくほかない。同じ藤の精霊でありながら、現時点では只人のようなこの不思議な生き物をしばらく様子見することにした。

 伊邪夜は神和人を呼び、小照とその養父母を帰すよう命じた。

 突然馬に乗った兵士たちが現れ、拉致同然に王宮に連れてこられた彦摩呂と律は別室でどんなお咎めを受けるのかと震えていた。神和人は先に夫婦だけを呼び出し、多額の金子を与えた。小照が前女王の庶子と知って、夫婦の混乱は頂点に達した。金は口止め料だった。

 少しして小照が戻ってきた。養父母から先程まで会っていた女王が姉と知らされて驚いたものの、深く考えることはなかった。子供らしく、絹の着物を賜ったことを喜んでいた。こんな綺麗なべべは村で一番裕福な里長の子だって持っていない。特異な容姿のせいで、村の子たちにはいじめられることが多かったが、この国で最も尊い女王陛下から賜ったと言えば皆自分を見直すだろう。最も、養父母は王妹であることを決して口外してはならないという。言えば、葦原様のお怒りに触れてこの国では暮らせなくなると。強く言い含められ、小照はよくわからないながらも黙って頷いた。


 三人は謁見した大本殿を出、下官の案内で掃き清められた玉砂利の道を歩いた。

 祁幸来宮は、赤と白を基調にした宮殿である。白の漆喰で塗り固められた壁の合間に赤い円柱が整然と立ち並び、朱色の屋根瓦も艶々と照り輝いていた。地面には白い玉砂利と銀色の砂が敷き詰められていた。砂利が太陽の光を反射してきらきらと光っている。宝石の粒の上を歩いているようだった。

 壮麗な社殿を幾つか渡った後、豪奢な客間に通された。燃えるような赤天井に、星雲の如き銀砂ぎんしゃが渦を巻いている。唐草模様を刻んだ黒漆螺鈿卓くろうるしらでんしょく、玉虫色の薄絹の几帳、蔓の透かし彫りを施した欄間格子らんまごうしなど贅を凝らした調度品と装飾の数々に三人は圧倒された。

 女官が入ってきて、茶と菓子の待しを受けた。小照は懐紙に乗った花の形をした干菓子を口に入れた。とても甘く、ほろりとくずれ、舌の上でなめらかに溶けた。こんな美味しいものがこの世にあるとは知らなかった。

 部屋から、三方の細長い社殿に囲まれた舞台も見えた。祭事の際、女王に雅な神楽かぐらや神楽歌が奉納されるという。今は白の官服を着た男女が数人、笛やきんで楽を奏でていた。緑豊かな庭園は、ところどころに国花である藤が植えられ、根本には白や青色の羽根を持つ美しい鳥が寝そべっている。

 小照はうっとりと見惚れ、こんな美しい御殿に暮らせたらどんなに幸せかしれないと思った。



 歓待の後、下官に祁幸来宮の門前まで案内されると、輿か駕篭かごを使うか尋ねられた。

 都までの送迎を勤める男たちが一列に並んで立っている。

 彼らは宮中では下人とされるが、王宮で働く以上は官吏であり、下覡かふと呼ばれる神職である。神官は平民の中では最も身分が高い。彦摩呂は恐縮し、輿も駕篭も断った。三人は都まで歩いて戻ることにした。

 祁幸来宮は小高い丘の上にあり、整備された道を通って南の森を抜けると二百段あまりの緩やかな石階いしばしが続く。階段の脇には蛇行する山道もあって、馬や車でも登ることができる。石階を降りると、巨大な赤の楼門があり、それを越えると川があって大きな橋が三本渡っている。右の橋は貴人が、左の橋は貴人以外の身分の者と畜生が通る。しめ縄がかけられた中央の橋は神が渡るとされているが、建国以来一度も使われたことがない。女王が王宮の外に出ることはなく、また他の神霊に侵されたこともないからである。

 この三本の大橋が俗界との境とされていた。神の社である王宮も神域の内だった。橋を渡りきってしまうと、身上改所しんじょうあらためどころという検問所がある。検問を抜けると広々とした表参道が開け、祁幸来の都に入る。


 小照は森を出るとやおら走り出し、上機嫌に石階を一段飛ばしで降りていく。

 やっと眼下に都、俗界が見えてきて、彦摩呂は一気に力が抜けるのを感じた。

 半歩ほど後についてくる妻に振り返った。

「なぁ、お前。信じられるか? 俺はまだ夢でも見てるんじゃないかって」

 律の目もどこかぼうっとしていた。王宮内で見聞きしたことが現実とは思えなかった。拝顔は叶わなかったが、女王陛下に、僅かにでも生ける神に接したことが信じられなかった。半ばうわの空で夫に応えた。

「ほんとに。天界、神の御園とは王宮みたいなところをいうんだね」

「何よりあの子だ。貴人のご落胤とは聞いていたが、まさか王女様なんてよ」

 律は階段を降りていく小照の背中を見つめ、ハアと息をついた。

「病気一つしない丈夫な子とは思っていたけど。これも神の血が成せるわざなのかねぇ……」

「前の女王様はなんで小照様を手放されたんだろうな。父君が卑賤の出だったのか」

「馬鹿、何言ってんだい。そりゃあんた父親は……」

 と言いかけて、律はぐっと言葉を呑みこんだ。

 周囲に官吏はおらず、誰も聞いていないとわかっていたが、それ以上は畏れ多くて声にならなかった。

  


 それから三ヶ月後、伊邪夜は様子見で再び小照を呼んだ。

 小照は呼ばれると馬に乗って祁幸来宮へ参った。参内は大変名誉なことだった。彦摩呂らも喜んだし、小照自身も王宮へ行って美しい姉に会えることが嬉しかった。

 二度目に会った時も、伊邪夜は小照を注意深く観察した。

 相変わらず神の意識は感じられなかったが、小照の顔はさらに神和人に似たものになっていた。鼻が高くなり、唇が薄くなっている。それに気づくと、伊邪夜は自分の弱点を暴かれ、目の前に突きつけられているような気がした。

 小照の無意識下で水藻のようにぬらぬらと蠢く不気味な力を感じた。その力は、当然自分の中にも流れている。神の力、神威。大霊樹が作りだし、天上天下唯我独尊であるはずの伊邪夜が対峙するもう一つの人型。客観なりし自己。それが小照という生き物だった。


 その二ヶ月後、三度目に会った時はさすがにぎょっとした。

 小照の丸かった顎は瓜実うりざねのようにすっきりとし、少女とも少年ともつかない中性的な容貌になっていた。

 痩せて頬や顎の肉が落ちたのではなかった。骨格から変えてきた。

 もはや疑うべくもない。小照は、自分の内にある人間の因子を組みかえて、神和人と同じ顔になろうとしていた。似ているのではなかった。故意に似せているのだ。

 植物や動物は攻撃や自衛などのため、からだの色や形などを周囲の物や動植物に似せることがある。これを擬態という。小照の本能〈悪の神威〉もまた、敵の攻撃を逃れるための擬態を試みていると思われた。敵とは、当然伊邪夜に他ならない。姉という名の天敵。枝分かれする前の正統なる自分。

 おそらく、小照に潜む〈悪の神威〉は、先日の邂逅で気づいたに違いない。

 どうやら敵は神和人、葦原の一臣という男に似た者を傷つけることができないようだと。ならば、それに似せて保身を図るべきだと。全ては伊邪夜の殺意を削ぎ、生き残るための賭けだった。


さかしらな……)


 伊邪夜は苦々しく思いつつも、同時に小照の生へのあくなき執着に感心もした。

 悪の存在であっても、生まれてしまったからには生きねばならない。擬態してまでも必死に生き延びようとしている。もしかしたら〈悪の神威〉は保身のために、小照の神の意識を封印したのかもしれなかった。無知蒙昧の只人になれば殺しはしないだろうと伊邪夜の和魂に期待して。

 そう思うと伊邪夜は、急に小照が哀れになった。

 小照の表面上の変化は、神葛の変態と呼ぶべきなのか。それとも急激な進化なのか。

 何百年と生きる樹に比べ、人の命はあまりにも短い。樹々ですら何千年何万年とかかる進化を一気に凝縮して、人の肉体の上に顕現させたのだろうか。

 大霊樹は人と交わって何を生んだのか。

 人として生きることで何の可能性を摸索しているのか。小照は神々の実験なのか。

 伊邪夜の複雑な思いも知らず、小照は呑気に手を叩き、村で流行っている歌を披露している。


 金銀珊瑚きんぎんさんごの首飾り

 月の雫と玉桂たまかつら

 虹で染めたる綾錦あやにしき

 いりゃせん、いりゃせん

 いりゃせん何も

 あなたとくらべりゃ

 小石と枯れ木と襤褸ぼろのきれ


 それから、ちょこんと首を傾げて

「あれ、たまかつらってなんだろう? 主上はご存知ですか」

 などと笑って尋ねてくるのだった。

  


 何度か小照を王宮に呼ぶうちに、噂が広まり、周囲の者も小照の出自に気づいてしまった。

 ある日、小照が帰された後で、弥央が謁見を願い出てきた。

 女官長の弥央は伊邪夜が十歳の時に病気と高齢を理由にして一度退官したが、その後快癒したとかで伊邪夜の即位と同時に宮廷に戻ってきた。

 引退した者を元の地位には戻せないので、現在は女官の教育係の名目で王宮に出入りしている。

 拝謁を許すと、弥央は真っ青な顔をして玉座の間に入ってきた。

 恭しく跪くと、重い口を開いた。

「主上、前々から噂は聞いておりましたが、小照様のお顔を拝見して確信致しました。小照様は息子の子供の頃に瓜二つ。髪と目の色は違いますが、男ものの衣服でも着せれば親の私でも見間違います。恐れながら、小照様は愚息の子かと……」

 弥央も十年前に眞枝夜が第二子を生んだことは知っていた。しかし、伊邪夜が目を離せない年頃だったのと、生まれた子が王命ですぐに王宮から出されてしまったので、それっきりになっていた。

「おそらくはそうであろうな」

 伊邪夜は素っ気なく答えた。神和人の母親である弥央が真っ先に気がつくのは予期できた。小照の化け物じみた本能が、わざと顔を似せているとは思いもよらないだろうが。

「実は私は然るべき処遇を求めて、何度か息子を問いただしました。しかし、あれはどうあっても小照様を自分の子とは認めないのです。なら父親は誰かと聞けば黙りこくるばかりで。業腹ですが、息子が認知しなければ小照様は貴人に列せられません。婢の子ならともかく、神の御子を百姓の家に捨て置くなどなんと罰当たりな……」

 弥央は目を潤ませ、袖で目もとを拭った。

 伊邪夜にとっては意外な話だった。

 神和人は玻里で暮らす小照の面倒を見ている。認知して、それなりに親子の交流があるものと思っていた。

 しかし、思い返せば、神和人は成人の儀で奥祁幸来へ行った時に伊邪夜に語った。

 自分は人を愛せない性分で、子供を欲しがった妻とも別れたと。自分の血を残したくないから子は作らないと……。だとしたら、小照は神和人が望まずに生まれた子なのかもしれない。

 弥央が語るにはこの十年間、一度として親子の対面はなく、伊邪夜に知られた後も小照の身分は平民のままだという。

 弥央からしてみれば小照は王女であり孫でもある。身分の低い百姓の娘として暮らしているのが不憫でならないらしい。なので、伊邪夜から勅令を発して小照を王族の扱いにしてもらえないかと直訴に来たのだった。

「昔から人の情に薄い子でしたが、政をよくするならと諦めていました。ですが、主上との間にもうけた娘すら認めないとは……本当に情けない。熊や狼のような野獣でさえ、子を愛しみ守るものを」

 弥央は切々と訴えかけてくる。

 と言われても、伊邪夜には人の親子の情はわからない。

 樹木は多くの種子を飛ばしこそすれ、種子そのものを愛しているわけではない。できるだけ風に乗って、もしくは動物のからだにくっついて遠くに運ばれ根を下ろして欲しいと願うだけだ。

「弥央、人の親子とは愛し合うものなのか」

「私は誰よりも子供たちを愛しております。程度と表現の差はあれど、慈しみ合うものと信じております」

「もし、子が死んでしまったらどうなる」

「子を失って悲しまぬ親はおりません。子にとっても親に先立つのは一番の不孝でございます」

 それなら……と伊邪夜は密かに思った。

 もし小照が死んだら、自分が殺してしまったら神和人もまた悲しむのだろうか。あの恬淡とした、感情を見せない男でも泣いたりするのか。

 あれが、自分のせいで悲しむ……かもしれない。

 伊邪夜は、胸の内に飼う小照への殺意がますます鈍るのを感じた。


 小照を王族にするなら、王宮に住まわせることになるのか。

 それは危険を呼び込むことになりはしないだろうか。

 いや、むしろ近くに置いて監視した方がよいのか。

 数日迷った末、伊邪夜は神和人を呼んで小照を王族に叙す旨を相談した。

 神和人はあっさりすぎるくらいあっさりと小照の叙品じょほんに反対した。

 これまで神葛の女王にきょうだいがあったことはなく、王室の制度にも前例がないという。前例がないことはできないと言いきった。

「それに叙品されますと、もし宮中で主上に敵対する勢力が生まれた場合、小照様が反体制派に担ぎ出される可能性があります。不安材料を主上自らが作ることはありません。小照様もしきたりに縛られた宮中よりも、市井で暮らされた方がお幸せかと存じます」

 伊邪夜は内心驚きつつ、一応にも尋ねた。

「……小照は其方の子と聞いたが。人は我が子が何より可愛いものだと」

「常人はそうでしょう。ですが、生憎と私は人の心を欠陥しておりますので。もししんの子であったとしても、主上の安全より優先されるものではございません」

 と、全く取りつくしまもない。いっそ開き直っている感もあった。

 神和人は私的な話でも、私情は一切挟んでこなかった。

 ただこれまでがそうであったように、伊邪夜と国のことを思っていた。

 この男は娘であっても愛せない性質たちなのだろうか……。

 伊邪夜は小照を哀れみつつも、胸の内にじわじわと喜びが広がるのを感じた。

 神和人は実子の小照の幸福よりも、自分への忠義を選んだ。

 その事実が、彼女の神としての矜持をいたく満足させた。



 ――伊邪夜は神和人の忠誠をおもんばかり、歯向かってこない限りは小照の生存を許すことにした。

 それが神葛の滅亡を招く遠因になるとは、露ほどにも思わなかった。


  

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