第三話 欠けた人のカケラ



 冬の乾いた風が、カサカサと木々の葉を揺らしていく。

 追従するかのように、空気がふわりと動いた。

 祠の前で待機していた神和人は、霧の向こうから忽然と姿を現した主君に目を見開いた。

 伊邪夜の黒曜の瞳はどこか夢見心地にとろんとし、からだは酩酊したようにふらついていた。大霊樹から成年の証に大量の情報を注入され、肉体の処理が追いついていない。意識もどこか黄金の花びらに埋もれたままだった。

 が、神域に入れない神和人にわかるはずもない。

 中で何かあったのかと駆け寄った。

「おかえりなさいませ。随分と早いお戻りで」

「……そんなに早いか」

「半時と経ってないかと」

 意外な返事だった。神域で随分長い時を過ごしたように思ったが、大霊樹の周囲は時間の流れが違うようだ。

 伊邪夜は「そうか」と呟いた。蕩けるような笑みを浮かべて、神和人を見上げた。恍惚の瞳が男を捉え、桃色の唇が薄く誘うように開いた。からだからはなんともいえない甘い芳香が漂い、男の鼻孔をくすぐった。

 神和人は息を呑んだ。自分を食い入るように見つめる少女は、神域に入る前とは全く違う生き物に思えた。人を超越した美が一気に熟成し、何倍も凄みを増したような。花の蕾が一瞬にして開き、甘美な蜜をさらけ出し、飲めよすすれよとばかりに滴らせているような……。それも男を前にして、あまりに頼りなげに、裸同然に無防備に。

 心がざっと粟立った。伊邪夜の持つ人の殻、花より華々しい妖姿媚態に危うく呑まれそうになる。彼女の美の質は、僅かな時間でがらりと変わってしまった。乙女のからだに、鋭い棘のような女のさがが剥き出している。全身から無垢なる誘惑をほとばしらせている。残酷に開花してしまったからには、本人の意思とは無関係に人を狂わせる花だった。並みの男であったら、とうに理性を失っていただろう。


 だが、目の前の男を籠絡する前に伊邪夜の肉体は限界を迎えた。

 プツリと意識の糸が切れ、その場に呆気なく崩折くずおれた。神和人はすかさず腕を差し出しなんなく抱きとめた。気を失っている。凶行に近い絶佳ぜっかの嵐はやんだ。

 神和人は伊邪夜を抱き上げると、とりあえず屋根のあるところと祠に運んだ。中は干からびた供物があるばかりで空洞だった。人が四、五人入れる広さがあった。

 上着を脱いで冷たい石床に敷くと、その上に玉体を横たえた。

「……主上」

 小さく声を掛けるも、伊邪夜は新たな夢を彷徨っているのか、長い睫毛を僅かに揺らしただけだった。白い頬に差し込んだ陽の光が神々しく映えて、唇も目元も艶めいている。

 前女王の眞枝夜と全く同じ容姿なのに、神和人の目には伊邪夜こそがひどく眩しく映った。心の奥が微かにざわついた。大木の一葉を風が撫でてゆくような微々たる動きではあったけれども、確かに、淡い憧憬を感じた。

「伊邪夜様」

 もう一度声を掛けても、伊邪夜は目覚める素振りを見せない。

 その華奢な肩に手を伸ばしかけ、触れることを躊躇い、指先を微細に震わせてから固く握りしめた。大きく息を吐いた。まだ日は高い。夕刻ならまだしも、無理に起こして戻る必要はないと思った。


 祠に差し込む陽光が絶えた。

 空が灰色に曇ってきている。土の匂いが濃くなった。

 神和人は飽くことなく、眠る伊邪夜の顔を見つめ続けた。何度視線を外しても目が吸い寄せられた。否応なく惹きつけられた。そういう力があった。

 不意に。

「……神和人」

 伊邪夜の唇が動いた。切なく名を呼び、それから柔らかな目蓋がゆっくりと開かれる。暗黒の宇宙を思わせる深い瞳。静寂の中、瞳は星のような光を湛えて輝き始める。神和人はやはり固唾をのんで主君の覚醒を見つめた。そして悟った。同じかおやからだをしていても、眞枝夜と伊邪夜は全く違うものだった。内包する魂が、違った。


 伊邪夜がゆっくりと身を起こした。

 正気に戻り、壮絶な色香もなりを潜めている。美しさに品位と節度があった。

「お目覚めですか。随分とお疲れのようで」

「ここは」

「入口の祠でございます。戻られてすぐに気を失われたのでお運びしました。お水を召し上がりますか」

 神和人は水の入った竹筒を差し出した。伊邪夜は受けとって水を口に含み、こくりと音をたてて嚥下えんげした。一口では足りず、喉を鳴らして全て飲んだ。

 外からパツパツと音がして、細かい雨が降り出した。

 濡れぬように二人は少し奥へと身をずらした。雨のせいで、気温が下がっていく。

 伊邪夜は厚い雲で覆われた空を見上げた。

「……長い夢を見た」

「夢、でございますか」

「神木の下で長いこと天の声を聞いていた。疲れ果てて目を閉じたら、目蓋の薄闇から其方が現れた。我を抱えて何処いずこへか運び去り、褥に横たえて何度も名を呼んだ。我をずっと見つめていた。目を開けたら本当に其方がいた」

「主上を案じる心が天に届いたのでしょう」

 神和人はかろうじてそれだけを言った。

 湿気のために、伊邪夜の甘い体臭が祠内に広がってゆく。

 凝縮された藤の香りだった。神和人は敷いておいた自分の上着を手に取ると、香りを封じるように伊邪夜の肩にかけた。

「寒くなって参りました。お風邪を召されてはいけませんので」

「風邪? 馬鹿を申すな」

 伊邪夜はつい唇を尖らせた。

 自分は神である。生来、人間のかかる病気とは全く無縁だった。いくら寒かろうが冷たい雨に打たれようが、風邪など引くわけがない。

 それは神和人も知っているはずだ。なのに、時折こうして人の子のような扱いをする。

「ですが、寒さはお感じになるでしょう」

 伊邪夜は神和人の少し垂れた目を見た。目じりの小さな皺に三十路の男のえんがあった。静かで理知的な瞳。滅多に感情を表さない顔。恬淡とした、そつのない動き、そつのない言葉。

 神和人は抑揚のない声で言った。

「おからだを冷やしてはなりません。成人されたからには、いずれ主上も良き人を選んで跡継ぎを、御子をお産み参らせる身。大事になさいますよう」

「……それは」

 伊邪夜は口を開きかけ、ハッとして噤んだ。

 神和人は、いや人間たちは知らないのだ。伊邪夜の生殖の秘密を。

 鳥の郭公かっこうは他の鳥の巣に卵を生みつけ、親鳥を騙して雛を育てさせるという。神葛は、その郭公の托卵に似た習性を持っている。

 生存のために美しくか弱い女の形を取り、力のある男を見つけて寄生する。必要とあらば肉体を与え、その実自己懐胎して子を生む。男は生まれた子を自分の子だと信じて育てる。

 人里に降りて以来、女王と葦原の関係はその繰り返しだった。

 葦原を血族としながらも、神と人の血が交わることはなかった。

 男の精は神葛の生殖には必要ない。だが、そのことを知られてはならない。知れては無用な不審と軋轢を生む。

 保身の本能が、かろうじて告白を阻止した。

「確かに。我も子を生まねばならぬ」

 それは伊邪夜自身の生存のためだった。他の何のためでもない。

「主上は神葛という国そのものです。女王の血筋が途絶えぬことが国の存続、ひいては民の平穏な暮らしに繋がります」

が血筋が続かねばならぬのは人のためか」

「はい、人民のためでございます」

「ならば聞く。人は一体何のためにこの世に生まれてくる」

「……」

 伊邪夜の問いに、沈黙が下りた。雨音だけが祠に響いた。

 神和人は宙の一点を見つめ、それから地に落とした。土は降り注ぐ雨粒を吸いきれず、ぬかるんでいる。即席の水溜りに波紋が広がってゆく。

 しばらくして躊躇いがちに口を開いた。

「それは……やはり鳥や獣と同じでございましょう。人も人を生むために生まれてきます。子を作るため。己の血統を絶やさぬためです」

「人の子が続いた先に何がある」

「わかりません。おそらく理由はありません。ですが、理由はなくとも命は続くためにあるのです。生まれた瞬間から、どの種も断絶を回避するために生きます。子を残す使命のために生まれて死にます」

 断定しながらも、神和人の声に熱はなかった。

 口端が軽く反り、自嘲気味に笑った。

 彼は独り身で子はない。人の使命をまだ果たしてないように見えた。

 妻帯を禁じられているわけではない。結婚がはばかられるというなら側女を置けばよかった。王宮には女官から婢まで手頃な女がいくらでもいるし、葦原の権力で思うがままだ。だが、浮いた噂一つない。


 伊邪夜は何か面白くない気分になった。

「人の命が続くためにあるなら、其方も率先して子を作ればよい。さいを持たぬのか」

「妻、ですか……。昔娶りましたがすぐに別れました」

「なぜ別れた」

 伊邪夜に、残酷なことを聞いている自覚はなかった。ただこの男のことが知りたかった。

 「それは、私が、人として……欠陥しているからでしょう」

 神和人は訥々とつとつと言った。醒めた横顔に一瞬悲しい影がよぎった。

「欠陥? 其方の何が欠落している」

 神和人は諦めたようにふうっと大きく息を吐いた。

「敢えていうなら、人を愛する心でしょうか。私は一度として他己を愛したことがないのです。女も男も好きではありません。元より、なんら望みもなく。こういう人間は、人の世界では相当な変わり種です」

「其方は変人なのか。そうは見えぬ」

「身内に恥をかかせぬため、普段はそう思われぬよう振る舞っています。ですが、本来はただ心ノ臓が動くから生きているだけの人間。受け身であるばかりで、誰の愛にも応えられません。子供の頃は可愛げがないくらいで済みましたが、長じては家族を含め多くの者を失望させました。妻も泣かせました。妻は子を欲しがりましたが私は拒みましたので」

「だから別れたのか」

「はい。この無気力無感動な気質が子に受け継がれても、また周囲の人間を不幸にしますし。子を作らぬなら生きる価値もないと考えましたが、自死する勇気も持てず。ところが、宮仕えにおいて神和人は長生きできないと聞きまして。理由があろうとなかろうと、主上がお怒りになれば死を賜ると。ならば人の役に立って死のうと思い志願して十余年……。思ってもみず存えております」


 伊邪夜は、なぜ眞枝夜が神和人を殺さなかったのかよくわかった。

 人間はその内に多種多様な欲望を抱えている。物欲、食欲、色欲、知識欲、出世欲、名誉欲、破戒欲などの欲求が生きる糧となっている。欲深の程度は人それぞれだが、神霊は清廉の傾向が強い、寡欲かよくの者を好んで傍に置きたがる。

 神和人は我欲が極めて薄い男だった。人界では変人であっても、きよあかき心を持ち、神の心を乱さなかった。乱さないどころか荒ぶる際は鎮めてしまう。

 彼はただ生まれたから生き、命尽きるまで生きるのみだった。自然だった。伊邪夜の樹の本性に近い。だから、彼の気は心地よく感じるのだろう。


「無気力というが、其方は日々職務を全うしている。我に仕え、政にも精を出している」

「子を生まないなら、生む人間の何倍も働くしかないと悟ったからです。働くことで人の扶育を手伝うのです。私の場合は人が生きやすい国を作る。国とは、政とは人のためにあります。今ある者と生まれてくる人を守るために、法や制度を整えます」

「我を崇めながらも、我のためではないのだな」

「恐れながら。ですが、私を生かす権利は人ならぬ主上にあります。人に尽くすことがご不快なら、すぐに命で購いますゆえ」

 そう言って、神和人は伊邪夜に向かって軽く会釈した。


 伊邪夜は、ふと自然の理を思った。

 花はなぜ美しいのか。鮮やかな色を持ち、魅力的な花弁を広げるのか。

 それは決して人のためではない。動物のためでもない。

 美しくあるのは、虫を惹きつけるためだ。美しい姿態と香りで虫をおびき寄せる。花に潜りこませて蜜を与え、代わりに花粉を運んでもらう。虫が媒介となって受粉し、種子ができる。子孫を残すための相利共生の関係だった。

 おそらく自分と葦原もそうだ。己が花なら、葦原は虫。

 肉体の性愛だけでなく、己を扶育してもらう代わりに御言霊を授け、人の世に報いる互助関係にあるのだ。

 神和人は奉仕のかわりに、伊邪夜に御言霊という天の恩寵を期待している。

 国や人民にとって利益があるからこそ忠義を尽くし、神の血脈を続かせようとする。人の使命である子を作らない代わりに、心身をおおやけに奉げている。私情は露ほどもないと感じた。


 同時に、伊邪夜は少しだけ寂しい心地がした。

 寂しさの正体はよくわからなかった。

 神和人の心が清廉潔白であるほどに、ぽつんと取り残された孤独な気持ちは行き場がなかった。

 動揺を表すように、雨が激しさを増した。大粒の水滴が地を抉ってゆく。

 神和人がすくっと立ち上がり、外に手を差し出した。

「これでは戻れませんね。夜までに止むと良いのですが」

 雨が大きな手の平に溜まって、細く長い指からぽたぽたと滴った。

 伊邪夜は再び喉の渇きを覚えた。

 神和人の手に直に唇をつけて水を飲みたいと思った。

 一言命じれば、彼は即座に尽くすだろう。女王の命令は絶対である。

 雨を降らす天も、自然の賜物である伊邪夜の味方だった。誰にも邪魔されず二人きりにしてくれる。


(水が欲しい。水が……)


 沈黙の中、伊邪夜は乾く心で何度もそう思った。

 それなのに、どうしてか声にならなかった。






 ***





 王宮に戻ったその夜、伊邪夜は夢を見た。

 目を覚ますと、そこは寝所の豪奢な寝台ではなく、木の床にのべられた薄い布団の上だった。着ているものはゴワゴワしていて、日頃身に纏っている絹ではなかった。

 見たことのない家屋の一室にいた。

 家具も閨を隠す几帳きちょうと文机、大きな行李こうり二つくらいしかない。清潔だが、質素な造りだった。

 ここは一体どこなのか。なぜこんなところにいるのか。

 いぶかしみながら起き上がると妙にからだが軽い。心なしか手足も短くなったような気がする。何より驚いたのは、顔にかかった髪が黒髪ではなく、薄紫であることだった。部屋に差し込む光にかざしてみても色は間違いない。

 伊邪夜は部屋を見渡し、机上に小さな鏡を見つけた。

 立ち上がって机の前に行き、鏡を覗きこんだ。

 そこには麻の寝巻きを着た見知らぬ少女が映っていた。薄紫の髪に、赤味がかった紅紫べにむらさきの瞳をしている。

「あっ」

 声を上げた瞬間、視界がぐるんと渦を巻いた。

 伊邪夜は王宮の寝所にて覚醒し、不思議な体験を夢と知った。


 その翌日も同じ夢を見た。

 伊邪夜は再び、薄紫の髪の少女として意識を持った。

 これは誰なのだろうと思いつつも、伊邪夜でないからだは、伊邪夜の思うとおりに動いた。

 今度は行李に入っていた衣服をあらため、上着を羽織り、藁の草鞋を履いて外へ出てみた。

 部屋は藁葺わらぶき屋根の木造家屋の南側に位置し、竹で編んだ垣根がぐるりと取り囲んでいた。裏手に家畜小屋があるのか鶏や馬の鳴き声が聞こえてくる。

 木戸をくぐり抜けて、敷地の外に出ると、一面青々とした田圃たんぼや畑が広がっていた。

 土埃が舞う乾いた道を歩くと、家が数軒あり、遠くに山々や黒い森が見えた。畑には、早起きして土を耕す百姓の姿が見えた。のどかな村の風景だった。最も王宮から出たことのない伊邪夜には、別世界の不思議な光景にしか見えなかったが。

 村の外れまで行くと、大きな木の杭が地面に突き刺さっていた。

 上部の側面を平たく削って文字が刻んである。

 近づくと「玻里はり」と読めた。

 そこでまたもや視界がぐるんと渦を巻き、夢は終わった。


 王宮で覚醒したあと、伊邪夜は考えた。この夢はどうもおかしい。

 これまでは木霊の声を聞いて天地の動向を知ってきた。

 夢で特定の人間を感知したことは一度もなかった。

 人間や動物の詳細は、本来は植物、樹である伊邪夜の神力の範疇はんちゅうに入らない。

 しかし、あの少女はどうも違うようだ。

 何か自分に関わりがあるからこそ感知した。だからこそ、望まないまま意識に入ってゆけた……。


 とにかく少女の容姿と暮らしている場所はわかった。

 その正体を確かめようと決意した。

 伊邪夜は起きて早々、侍女に言いつけて国内くにうちの地図を持ってこさせた。地図を開き、王都・祁幸来の斜め下に「玻里」という二文字を見つけた。

 次に神和人を呼んだ。

 伊邪夜が人の世に干渉する時は、必ず神和人を通すのが習わしだった。

 外に屋敷を持ちながらも、王宮に部屋を賜って暮らしている神和人はすぐに伊邪夜の住居である藤尋殿とうじんでんに参った。


 平伏する彼を前にして、伊邪夜は挨拶も省略させて尋ねた。

「神和人、王宮の外で人を探せ」

「人探し……でございますか」

 神和人は眉を顰めて困惑した。伊邪夜が特定の人間に興味を示すことは滅多になかった。それも王宮の外に暮らす者など初めてだった。

「国内に玻里という場所があるだろう」

「はい。祁幸来から南西、一里半ほど離れたところにある村でございます」

「そこに薄紫の髪、紅紫の瞳をした女子おなごが暮らしておる。その者を連れて参れ」

 神和人はハッとして顔を上げた。

「主上、村に暮らすは百姓とその子らのみ。何ゆえそのような賎しき者を傍に召されるのです」

「ここ二日ばかり、その女子の夢を見た。これまでにはなかったことだ。実在するなら会ってみたい」

 神和人は俯き、沈黙した。無表情のままだが、両袖に通した腕が微かに震えた。伊邪夜は不審に思った。

「どうした。もしや女子を知っておるのか」

 またしばらく沈黙が続いた後、神和人は観念したように天井を仰いだ。

「……はい」

「誰なのだ。人とは思えぬ容姿だが、いかなる素性の者か」

「それは……」

 と、そこで神和人は一旦切り、大きく息を吸った。

「その御方は……おそらく小照おてる様。前女王の眞枝夜様の第二子。主上の四つ下となる妹御にあらせられます」

「……妹?」

 伊邪夜は驚愕し、それから茫然とした。自分に妹がいるなんて初耳だった。

 いや、そんなことは断じてあり得ないはずだった。

 神葛の系譜は一子相伝いっしそうでん。自らを懐胎し、生んで神力を継がせ、純血を保つ。

 複数の子を生むことなど、きょうだいなど存在するはずがない。

 眞枝夜が自分以外にも子を生んでいたなど、にわかには信じがたかった。

「そんな、たわけたことが……」

 あってなるものか。動揺するあまり、思わず声が大きくなった。

「其方はこのような重大なことをなぜ今まで黙っていた。我をあざむいたのか」

 神和人に嘘であると言って欲しかった。彼にまで裏切られていたとは思いたくなかった。しかし、嘘を言う男ではない。

 神和人は伊邪夜の目を真っ直ぐ見た。彼の瞳は深い懊悩に溢れていた。だが、神力には到底適わないという諦観も浮かんでいた。

「……眞枝夜様は小照様のことを秘匿するようお命じになりました。伊邪夜様には絶対に知られてはならぬと。小照様もご自分の出生のことはご存知でなく。今後も主上の地位を脅かすことはありません。何せ生まれてすぐに眞枝夜様がお捨てになった御方ゆえ」

「違う。母上は妹を……」

 生かすために隠したのだ、と伊邪夜は声にならぬ声で叫んだ。

 神葛の血を引く者がもう一人いるなど、到底看過できなかった。


(我がもう一人いるのか? 母上が死んで、完全に同一したのではないのか。二岐ふたまたの樹とは、我と小照のことであったのか)


 もし、小照がもう一人の自分であるなら、伊邪夜の取るべき道はただ一つだった。殺すしかない。子供であろうとも、即刻命を絶つしかない。そうしなければ自分が殺される。かつて眞枝夜に殺意を抱いたように、小照にも人としての死を与えなくてはならない。

 眞枝夜の意図も甚だ不明だった。

 自己が分裂するとわかっていながら、秘密裏に小照を生み、尚且つ命を惜しんで郊外の村に隠した。伊邪夜の目をくらまそうとした。

 理解しがたかった。なぜ、眞枝夜がそんな危険を冒したのかわからなかった。


(わからぬ。己のことがわからぬ……!)


 憤懣やるかたなく、玉座の肘をぎゅっと握りしめる。

 怒りと行き場のない殺意ばかりが増幅する。神和人の眞枝夜に対する忠誠も憎らしかった。

 発した声は氷のように冷たかった。

「もしや、小照は其方が世話をしているのか」

「はい」

「連れて参れ。即刻、小照をここへ連れて参れ。その者の処遇は我が決める」

「……御意」

 神和人は何を言っても無駄と悟ったのか、恭しく礼をして引き下がった。



 その日のうちに玻里に使いが飛び、翌日王宮に小照が連れてこられた。

 養父母であるという彦摩呂ひこまろりつという老夫婦も一緒だった。夫婦共に平民で、昔葦原の屋敷に奉公していた。

 三人は神和人の案内で玉座の間に入り、伊邪夜の前に平伏した。

 老夫婦は女王の突然の召し出しに戸惑いを隠せず、からだがぶるぶる震えていた。

 小照はそのままでは御前に出せないと判断されたのか、絹の着物に着替えさせられ、長い薄紫の髪を組み紐で結わえていた。

「ご苦労であった。小照以外は下がれ」

 命じると、老夫婦はぴょんと飛び上がって部屋を足早に出て行った。

 神和人もそれに続いた。彼は玉座の間にこそ導いたものの、小照をただの一度も見なかった。


「面を上げよ」

 拝顔の許しを下すと、小照は恐る恐る顔を上げた。

 そしてポカンと口を開け、呆けたように伊邪夜の顔を見つめた。

「其方が小照か」

「あ、はい。はい。はい。小照です。ございます」

 小照は興奮気味に返事をした。視線が熱を帯びて、伊邪夜は戸惑った。

「……どうして我を見つめる」

「そ、それは女王様があまりにお綺麗なので……。綺麗すぎて、目が痛いというか……。が、がんぷく? でございま、する」

 小照はぽうっと頬を赤らめた。両手を膝の上に置きもじもじしている。

 殺意ばかりを逞しくしていた伊邪夜は拍子抜けした。

 てっきり、小照も自分に殺意を向けてくるだろうと思っていた。

 勿論、殺す用意はあった。二人だけになり、引導を渡すつもりでいた。

 準備抜かりなく、懐に短刀を忍ばせていた。組み伏せて、小照の喉を貫きさえすればよかった。

 万が一逃げられたとしても、命じれば王宮の兵士が捕らえて処刑する。斬首すれば間違いなく死ぬ。


 しかし、小照は伊邪夜への敵意も害意も持っていなかった。

 隙だらけだった。

 それ以前に、自分が何者なのかも理解していないようだった。

 まだ幼いからだろうか。

 いや、伊邪夜は同じ歳で既に神の意識を持っていた。

 伊邪夜は仕方なく問うた。

「其方は森の声を聞くか」

「もりの、こえ?」

「はらからの花を知っているはずだ」

「はな? 村に咲く花のことでございますか」

 何を聞いても埒があかない。

 本当に何も知らないようである。

 それとも殺されないためにわざと馬鹿を、無知を装っているのか……。


 判断がつかないまま、伊邪夜は小照を上から下まで眺めた。

 髪と瞳の色は藤の因子の表れだろうが、突然変異の感は否めない。

 伊邪夜は間違いなく眞枝夜の正統である。

 自然の賜物であり、自然とは即ち善だった。

 対して小照は、自然でなく生まれてきたもの、即ち不自然である。

 不自然とは悪に他ならない。

 小照は不自然ゆえの悪の産物だった。人の形をした、不気味で得体の知れない生き物だった。

 これはいかなる過程で生まれたのかと改めて顔を見て、そこで伊邪夜はあることに気づいた。

 夢の中の鏡で見た通り、小照は自分と全く似ていない。

 顔立ちは悪くないが、端正とも言い難い。

 だが小照の紅紫の瞳の形、眉間の幅、目尻が少し垂れている様には見覚えがあった。そういう造形をした者が伊邪夜の近くにいた。

 ……神和人だった。似ている。性別が違えども、はっきりと面影がある。

 途端、伊邪夜の胸は衝撃に押し潰されそうになった。


(これは……もしや、神和人の子なのか。母上と神和人の、神と人の混血なのか。こんなことがあり得るのか)


 冷たい汗がすうと背中を伝っていく。伊邪夜の内に迷いが生じた。


(殺すべきだ。早く殺さなくては。だが……これは)


 殺意を押し流すように、どっと悲しみが襲ってきた。

 なぜ悲しいのかわからなかった。初めて知った感情ゆえに、伊邪夜は悲しみを理解できなかった。


 小照は、玉座で葛藤する伊邪夜をきょとんと見ている。

 彼女は何もわからなかった。端から、無知蒙昧であった。

 確かに藤の娘でありながら、神の意識が丸ごと欠落していた。

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