第二話 黄金の樹 




 眞枝夜の崩御後、伊邪夜は喪に服し、二年の間は空位となった。

 女王が不在でもまつりごとに支障はなかった。実際に国を動かしているのは神和人を始めとした葦原の一族であるし、跡継ぎである伊邪夜も葦原の庇護下で順調に育っている。

 元来、女王は統治者というよりは信仰の対象だった。

 今や巨大な神の社となった王宮の、奥深くに住まう神聖不可侵の存在。人のかたちをした真善美しんぜんびとして民衆は崇拝した。

 女王の存在感が薄れないのは、時折下される予言に依るところが大きかった。

 御言霊みことと呼ばれる予言は、良きことにせよ、悪しきことにせよ必ず当たった。神葛は御言霊によって、地震、土砂災害、大雨洪水、日照りなどの天災を最小限の被害に抑えることができた。神の力を借りて、他の神々しぜんの祟りを回避したのである。ただ御言霊は天地の動向のみで、人間や動物に関することは何もわからなかった。


 神和人は、眞枝夜の存命時から伊邪夜の父であるともくされていた。

 神葛の女王は誰とも婚姻せず生涯独身を通すが、跡継ぎを産むためという名目で周囲に若く見目のよい男が侍る。神和人は眞枝夜の寵臣で、親密な関係にあったと噂された。

 神和人は噂を肯定も否定もしなかった。次期女王の父と思われていた方が、政治上都合のよいこともあるのだろう。


 だが、当の伊邪夜は知っていた。自分のからだに神和人の、人間の因子は何一つ入っていないことを。伊邪夜はこれまでの女王同様に純正の神であり、眞枝夜から受けついだ神力は年を経るごとに高まっていった。

 時には力を上手く扱えず、情緒不安定になり、説明のつかない破壊衝動に駆られることがあった。荒ぶる魂が全てを壊し、燃やし尽くし、人間も動物も関係なく命を刈ろうとした。怒り狂って雷雲らいうんを呼び、雨を降らせた。

 そのたびに神和人が飛んできて、何時間でも一晩中でもじっと伊邪夜の傍に侍った。

 彼は何も言わず、率先して人間の盾となり第一の犠牲になろうとした。神和人とは、神と人を繋ぎながら、有事の際は荒魂あらみたまを鎮めるためのにえでもあった。いつ死んでもおかしくなく、過去に気性の荒い女王に仕えた者は一年のうちに何人も代替わりした。神の為に命をなげうつのが仕事だった。

 伊邪夜は激情を制御できないながらも、どうしてか神和人を殺せなかった。打擲ちょうちゃくもできなかった。彼をどうにもできないからには、被害もさして拡大しなかった。神和人は静かに勇敢な男だった。諦念を湛えながらも勇気に澄んだ瞳を見ていると、伊邪夜の心は徐々に収まっていった。荒魂を鎮められるたびに、神和人への信頼を深めた。

 残虐な荒魂に反して、慈悲深い和魂にぎみたまになることもあった。

 和やかな時の伊邪夜は、人間に恩寵を与えた。

 彼女は人間には風の音、葉の擦れる音にしか聞こえない、かそけき木霊こだまの声を聞くことができた。

 王宮の森を散策していると、大抵木霊の声を聞いた。

 木の中にもおしゃべりなものがいて、本来同類である伊邪夜にあれこれと話しかけてくるのだった。


(いざや、いざや、ひがしにたくさんあめがふるよ)

(いざや、いざや、おおぎのかわのぬしがおこってしまうよ)

(いざや、いざや、ぬしはしもじもをぜんぶおしながしてしまうよ)


 伊邪夜は大気を振るわせる精霊の声を吟味した。

 自分にはもっぱら関係のない、しかし人の世には役立つ声を選ぶと神和人に告げた。

「神和人、近いうちに東に大雨が降る。オオギという川はあるか」

「東部ですと、琉斌との国境の辺りに扇川がございます」

「それが氾濫して、下流域にある村々を押し流すだろう」

「わかりました。急ぎ土嚢どのうを積んで堤防を補強し、村民を避難させましょう」

 御言霊を受けて、神和人が下官を招集し対策を立てる。

 現地にかき集められた人夫が赴き、村民と共に川の堤防を補強した。

 雨が降り始めると民の避難を開始した。雨は三日三晩降り続き、扇川は氾濫して下流域の村を襲ったが死人は一人も出なかった。

 これも女王陛下の御言霊のおかげと民は感謝し、崇め称えた。



 伊邪夜は十四になった。

 新年を迎えると成人の儀が盛大に執り行われ、満を持して女王に即位した。民には酒と馳走が振る舞われ、罪人には恩赦が下った。

 神和人は代替わりせず、引き続いて一臣が務めた。他に適任者や希望者はおらず、伊邪夜自身も傍に置くことを望んだ。女王になった一番の役得は、神和人が正式に自分に仕えるようになったことだった。

 即位後、ひと月が経つと慣例として、王宮の北上にある奥祁幸来おくきさらの森へ出向くことになった。古くは神名備の森とも呼ばれ、神霊の住まう聖地とされている。国がおこってからは人が立ち入ることは禁じられ、女王の直轄領ちょっかつりょうとなっていた。森には神葛の本体があり、女王がもうでることで成人の儀が完成するとされていた。


 詣で日の前日に伊邪夜と神和人、供の者たちは全員みそぎをし、清酒と塩のみを口にした。

 夜が明けると輿に乗って出立し、半日ほどひたすら奥祁幸来の森を北上した。

 日が高く昇る頃、小高い丘に辿りつくとその前で輿を降りた。

 そこからは供を置いて神和人のみを伴い、さらに森の奥へ分け入ってゆく。

 人一人がやっと通れるほどの細い道が続いた。不思議なことに枯葉一つ落ちていない。掃き清められたような、なだらかな勾配を上がっていく。

 歩くほどに、伊邪夜は疲れるどころか、身が軽くなっていくように感じた。

 自らがゆるゆると大気に融けていく感覚があった。

 神和人は黙ってついてくる。彼の気は落ち着いていて乱れがない。森を騒がさない。こういう人間は、何の力がなくとも木霊に好かれる。


 道が途絶えると、石を積んだ大きなほこらが現れた。古いしめ縄が張られている。これもまた神の社であり、現世との境界の印でもあった。

 二人を関知したのか、合図のように霧が出てきた。視界が白く芒洋ぼうようとする。

 伊邪夜は奥にある聖体の意図を察した。

 霧が、はらから以外の侵入を拒んでいる。

「其方はここで待て」

 伊邪夜は、聖地の入口に神和人を置いてゆくことにした。

「お気をつけて」

 神和人はその場に留まった。祠には眞枝夜の代にも訪れていて、神事には慣れている。いくら身を清めても、人の侵入は主をけがすことになることも理解していた。

 だが、今の神和人は伊邪夜に置いていかれることが少し口惜しくもあった。

 主が霧の向こうへ行ってしまうと、近くの大木の幹に寄りかかった。無意識のうちに溜息がこぼれた。



 伊邪夜は一人で先を進んだ。霧中を抜けると、広大な樹海が開けた。

 樹海には一種類の樹しかなかった。藤だった。大小様々な下位種の藤が、地上を隙間なく覆いつくしている。冬という季節柄、葉は全て落ち、黒い枝を天に広げている。


(いざや、いざや、おかえり、いざや)

(いざや、いざや、ふたまたのき、かわいそうなこ)

(いざや、いざや、えだわかれ、ふかんぜん)


 木霊の囁きが耳朶みみたぶをくすぐった。

 笑うような、憐れむような、はらからの言葉に伊邪夜は耳を澄ませた。

 ふたまたのき、えだわかれ、とはどういう意味だろう。

 藤たちはそれ自体が意思を持つように、ざあああっと枝をしならせて道を作った。伊邪夜ははらからが開いた道しるべを歩んだ。

 目指す先にあるものはわかっていた。己の起源、根本である大樹だった。

 やがて眩い光を放つ黄金の巨樹が見えてきた。目を灼くような鮮鋭せんえいの光。この森の王である大霊樹おおたまきだった。伊邪夜の故郷。本体。藤の最上位種。森羅万象しんらばんしょうのうち、植物でありながら知性を得た高位な霊体の一つ。

 自らの生存のために美しく装い、何万年もかけて他種を駆逐し、進化と順応の果てに生き残った勝者だった。


 大霊樹はびっしりと隙間なく薄紫の花を湛え、はらはらと花弁を散らしていた。よくよく見れば、何千本という蔓の先に花が咲き、あっという間に散り、サヤとなって弾け、種子を落とし、またすぐに蕾をつけて咲き誇る。地上に落ちた種子はすぐに発芽し、するすると蔓と若葉を伸ばす。しかし、その生命力は瞬時に本体に吸い上げられてしぼみ、呆気なく枯れてしまう。大霊樹の上と下で、何百何千何万という生と死が絶え間なく繰り返されている。死んでは生まれ、生まれては死ぬ命の饗宴きょうえん。流れ星のような、花火のように一瞬の清冽な輝き。初々しい誕生、華やかな生、無残な死があでやかに乱立しては消えていく。それでいて巨大な幹は直立不動であり、土の下にはびっしりと根を張り、何ものにも揺らがない。


 伊邪夜は根源である大霊樹に近づいた。むせ返るような甘い匂いがする。

 光り輝く固い木肌に手を置いた。蔓が数本伸びて来て頬を優しく撫でていった。愛撫と共に、大霊樹の意識が流れこんできた。

 それは、黄金の花吹雪に似た自己のるつぼだった。伊邪夜の全ては枝であり、蔓は絡まり合ってしかと繋がり、人型としての誕生があって必ず死があった。命が延々と巡っていた。伊邪夜は膨大な己のうちに、自らの断片を知った。


 自分は大霊樹が人の世に送り出した『可能性』の一つに過ぎない。人の型を持っただけの枝の一つに過ぎない。

 女の肉体を持ったのは子供を生みやすい構造であるからで、本来は女でなく男でもなく、両性でありながら無性ともいえる。

 幼年体は成長に人の助けを必要とする。成年体になれば誰の力も借りずに種子を孕み、三年かけて養分を与える。生まれてくるのは同一の起源、同一の構成を持つ挿し木であり、新たな自分を生んで滅びるのは人の殻であり、魂は起源である大霊樹に還る。

 大霊樹が地上に君臨する限り、伊邪夜は永劫不滅えいごうふめつである。いずれ神の時代が終わり、大霊樹が失われたとしても永劫不滅である。既に藤はその強靭な種を地上にばらまき、四方八方に蔓延はびこらせてしまった。もはや、何ものもこの豪奢に美しく、したたかな種を絶滅させることはできない……。

 伊邪夜は黄金の花弁に埋もれながら問いかけた。

 全てを知る大霊樹であっても、一つだけどうしてもわからないことがあった。


(完全無欠の樹よ。なぜ我を人界に送り出した。我は何をするために生まれたのだ)


 いくら待てども、大霊樹からの応えはなかった。

 生きる意味は己で突き止めよとばかりに、絶対的な沈黙だけがあった。

 伊邪夜は目を開き、大霊樹の意識から離れた。

 薄紫の花びらが優しく降り注いでいる。浴びた花びらは伊邪夜のからだに融けていった。

 成年体となった祝福を受けながらも、伊邪夜の胸に不安がよぎった。

「ふたまたのき……」

 投げかけられた木霊の声を思い出し、細い肢体を危うげに震わせた。

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