落日の章

第一話 伊邪夜と神和人




 ――今は昔、太古から続く神名備かむなびの森に美しい娘が棲んでいた。

 娘は鶯のような美声を持ち、奔放に歌っては森へ入る者を惑わした。娘を得んと多くの男が森へ入り、彷徨った挙句に命を落とした。

 残された女たちは嘆き悲しんで、葦原あしはらの里長に助けを求めた。里長は自ら森へ入り、娘をしずめて里へ迎え入れた。神社かみやしろを建ててたてまつり、丁重にもてなした。娘は里に留まり、やがて自らに仕える里長の息子と契って女子を生んだ。

 女子は成長するに従って予知の力を示し、里に豊穣をもたらした。

 噂を聞きつけて人が集まり、里は郷になり、やがて国となった。森の娘が生んだ女子は、神葛の初代女王となって人々に崇められた。



 ***


 物心ついてからというもの、伊邪夜は神葛の女王である母に会うたび、極度の緊張と威圧に晒された。誰にも気づかれないまま、母から憎悪とも害心とも取れる暴威を振るわれた。気だけで圧迫され、生存を脅かされた。

 母に会うといっても、世間でいう親子水入らずの触れあいとは程遠かった。

 二人は同じ王宮内に暮らしながらも、生活を共にしたことはただの一度もなかった。寝食にしても祭事にしても一切の交流を持たなかった。伊邪夜は母から隔離されて育った。そうしなければならなかった。

 年に一度きりの謁見の際も一間いっけん近い距離を置き、女王の前には必ず御簾が降りていた。伊邪夜が見るのは、御簾の向こうの玉座に腰を下ろした女人らしき影のみだった。生まれてこの方、母の眞枝夜まきやの顔を知らず、直接に声をかけられたこともなかった。眞枝夜は努めて伊邪夜を拒み通し、冷酷に突き離した。ただ生存確認をかねて、儀礼的に娘に会っていた。


 伊邪夜でなくとも、女王が王宮の外へ出て、民衆の前に姿を現すことはなかった。

 代々の女王は、四方を森に囲まれた祁幸来きさら宮に生まれ育ち、どこへも出ることなく生涯を終えた。

 女王の言葉は、常に神和人みわとが代理となって伝えた。

 神和人とは神葛固有の役職で、女王の親族である葦原の一族から代々選出される。葦原は神官の家系で、神と人を繋ぎ、神の言葉を人民に伝える役目を負っていた。女王の周囲は常に葦原出身の者で固められ、他のうからが入る隙はなかった。神葛は、神に等しき女王を神官の一族が補佐して治める神権国家だった。

 現在の神和人は三十路近い青年で、名を一臣かずおみといった。

 内政に関する全権を担い、他国でいう宰相のような地位にあった。一臣は眞枝夜の即位に伴って、大伯母から神和人を受け継いだ。

 神和人は王宮内で、眞枝夜と次代の女王になる伊邪夜の間も取り持っていた。

 女王の声を聞き、伊邪夜の元へやってきて厳かに伝える。伊邪夜も母への言葉を述べ、神和人は女王の元へ戻って伊邪夜の言葉を伝える。

 まどろっこしい会話だが、眞枝夜は徹底した。伊邪夜もそういうものだと思っていた。母は神葛の女王で神に等しい存在。自分は神の子とはいえ母には劣る。拝顔もお声がけも恐れ多いことだと信じていた。


 だが九歳になった頃、伊邪夜は謁見途中で唐突に理解した。

 雷に打たれたような直感だった。

 決して自分の前に姿を現さない母の顔を、肢体を、見るまでもなく知っていた。聞いたことのない声も知っていた。毎日のように鏡で母を見た。自分の声は母の声だった。


(これは、わたしだ)


 母の前にひれ伏して、深くこうべを垂れながら伊邪夜は確信した。

 御簾の向こうには自分がいる。己と寸分も構成の違わぬものが鎮座している。酷似、生き写しなどという生易しいものではない。顔や手足の造形は勿論のこと、髪の本数、睫毛の長さ、爪の厚さ、毛穴の数まで何もかもが同じものが、この世に二つ存在している。

 自分がもう一人いると気づくと、伊邪夜は絶大な恐怖に襲われた。

 己は、確かに、ここにある。呼吸をし、心ノ臓は脈打っている。他には必要ない。なのに、自分を生んだ自分も生きて存在している。

 なぜそんな奇天烈極まりないことが起きているのかわからなかった。

 御簾の向こうで、眞枝夜も幼い自分を冷然と俯瞰ふかんしているに違いない。

 眞枝夜は伊邪夜にとって己の未来の姿に他ならず、眞枝夜にとっても伊邪夜は自分の未来そのものである。二人共に、お互いの未来を見ていた。現在と未来が、二つのからだと意識を行き来している。

 徐々に恐怖が去り冷静になってくると、伊邪夜の胸に沸々とくらい殺意がこみ上げてきた。

 務めを果たした眞枝夜が生きているのは、明らかに不自然だった。


(なぜ……母上は九年もながらえている。我を生んでおきながら、何ゆえ現世にしがみつく)


 おそらくは眞枝夜も玉座に泰然と座しながら、伊邪夜への殺意を懸命に抑えている。

 同じ部屋にいながら、極力距離を置き、御簾を降ろしたのは眞枝夜の防衛本能だろう。

 わかっていた。この世に自分は二人もいらない。残るのは常に一人のみ。

 例外はない。自分と自分が顔を突きあわせれば、必ず生存をかけて殺し合いになる。それが宿命だ。

 しかし、戦いになれば子供である伊邪夜に勝ち目はなかった。生きている以上、神力は以前眞枝夜にある。

 眞枝夜も自分が去るべき側であることはわきまえている。

 とっくの昔に、彼女は伊邪夜の一世代前の『過去』になっているはずだった。だから攻撃してこない。伊邪夜から仕掛けない限りは――。


「伊邪夜様、主上おかみにお言葉を」

 いつの間にか傍に来た神和人が、伊邪夜の耳もとにそっと囁いた。

 人間たちは、二人の間に荒れ狂う壮絶な闘争を知らない。いや、理解しようがない。人間は男と女という二つの性の間に生まれるのだ。何を言っても無駄だろう。神の本意は、はらから以外には伝わらない。

 伊邪夜は、神和人の促しを無視してさっと立ち上がった。

 知ってしまった以上、母には深い軽蔑の念しか涌いてこなかった。

 唾棄すべき己にかける言葉などない。

 風のようにひらりと身を翻して、玉座の間を飛び出した。

「伊邪夜様、どうされたのです。お待ちください」

 慌てて後を追ってくるのは、女官長の弥央みおうだろう。

 五十代半ばの葦原の女で、神和人の母親でもある。伊邪夜が生まれた時から傍に侍っている。伊邪夜は弥央に育てられたようなものだった。

 弥央は女王の御前にありながら、勝手に退出した伊邪夜を諌めるつもりでいる。面倒なことだと伊邪夜は思った。

 いっそ殺してしまおうか。いや、それはそれでまた面倒を呼ぶ。

 弥央はしばらく追ってきた。が、やがて諦めたのか足音は消えた。


 伊邪夜は一人で自室へ戻った。苛立ちは消えていなかった。

 心は嵐の真っただ中にあった。自己同一の基盤が大揺れに揺れて、不安定になっている。侍女たちも、伊邪夜の荒ぶる気を感じてか近寄ってこない。

 居間に入ると、卓の上に置かれた金の鳥かごが目に入った。

 鳥かごには、黒い頭に青い羽根を持つ四十雀しじゅうからが入っていた。以前、神和人がくれたものだった。

 伊邪夜は乱暴に鳥かごを掴むと庭に走り出た。激しい怒りがあった。

 池の前まで来ると、衝動のままに鳥かごを池の中に放り投げた。バシャンと水の跳ねる音がして、ピーピーと甲高い声がした。かごの中の四十雀がしきりに鳴き、水面上で必死に羽根をばたつかせている。逃げることができず溺れてゆく。伊邪夜は微動だにせず小鳥を見つめた。鳥かごはゆっくりと水中へ沈んでいった。鳴き声は消えた。

 伊邪夜は己の成した残虐を理解した。今は幼年のために、鳥くらいにしかたたることができない。非力ゆえに非力なものを殺した。人の世界では卑怯と呼ぶのだろう。だが、伊邪夜は動じなかった。後悔も憐憫もなかった。


「むごいことを。あんなに可愛がっていらしたのに」

 男の声がした。神和人だった。ひたひたと足音が近づいてくる。弥央に頼まれて来たのかもしれない。

 前を向いたまま、伊邪夜は冷ややかに言った。

「不服か」

「いいえ、神たるあなた様の成されることは絶対です。只人ただびとで臣下たる私は受け入れるのみ。ですがお沈めになったのは私が献上した鳥。失礼があったならば、どうか私めに罰をお与えください」

 伊邪夜は振り向いた。どうにも慇懃無礼な男である。

 神和人は中腰になり、上目遣いに伊邪夜の様子を伺っていた。

 いずれ主君となる伊邪夜を敬ってはいるが、恐れてはいなかった。元々豪胆な性格で、人ではない女王に仕えるうちに更に肝が座ったらしい。

「何をそのように荒ぶられるのです。折角の主上との語らいを無下になさるとは。主上も伊邪夜様のお振る舞いを嘆かれましょう」

 そんなわけはない、伊邪夜は心中で吐き捨てた。あれに、そんな殊勝さがあるものか。

「其方には関係ない」

「そういうわけにはまいりません。私は神と人を繋ぐが役目。あなた様の喜びは民草に天福をもたらしますが、怒りや悲しみは災厄を招きます。国が荒れる前に、あなた様の御心みこころしずめるのが務めゆえ」

「其方に我をさらせと申すか。傲岸な。命を失うぞ」

「元より神葛に身命を奉げました。お怒りに触れて死ぬならば本望でございます」

 神和人は余裕にも微笑んでみせた。本当に殺されても構わないと思っているようだった。

 伊邪夜はすうっと溜飲が下がるのを感じた。母は疎ましい限りだが、神和人の忠誠を信じないわけではなかった。

「では、申し渡す。心が荒ぶるのは母上の存在そのものゆえだ。もう母上とは金輪際会わぬ」

「何があってもですか」

「そうだ」

「……承知いたしました」

 神和人は一度だけ頷き、それ以上は何も言わず引き下がった。

 その日から、伊邪夜は眞枝夜と、即ちもう一人の己と断絶した。

 母の敵意と威圧を感じつつも、じっと耐えて代替わりを待ち続けた。


 三年後、女王・眞枝夜は崩御した。死因は病死とされた。

 国中が女王の死を悼み喪に服したが、伊邪夜の胸にははちきれんばかりの喜悦があふれた。

 眞枝夜は滅び、この世界に己は一人となった。自己同一の完全なる平穏が訪れたはずだった。


 ……そう信じていられた時が、伊邪夜の神としてのもっとも幸福なときだった。


 

  

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